40.紅藍
「いつまでも、逃げている訳にも、いかんでしょう」
天幕の中、子供のようにもたれかかってくるカグナに、ベイジは告げた。
到着から更に二日過ぎた夜のことだ。
「逃げている、というより、近づいてきてくれないんだ」
「追わないことを、逃げる、というのですよ、カグナ様。
本当に向き合いたいのであれば、諦めずに、自ら足を運ばねばなりません」
すねた口調でカグナは言うが、ベイジは一向に取り合おうとしない。
「寄る辺のなくなった彼が、力を求めるようになっているのは、道理ですよ。
同類の集まる連合に惹かれるのも道理です」
これは、キスケがノーコと共に、魔法の訓練に明け暮れていることを指す。
矮族の王種…‥炎の魔法を操る眷族を成すことから、炎王と称されるようになった……が陣取る、炎の巨大な立方体を中心として、今、各国の重要戦力が包囲網を形成しつつあった。とはいえ、数が必要になるのは、雑魚の討ち漏らしを避けるためであり、遠方からの戦力は、盟約に従っただけの、個人単位での参集となっている。
地元であるため、連携を図るべく、各勢力との折衝に当たるカグナやベイジは忙しいが、逆に、各陣営では、さほどすることもない。
また、同朋である帝国内の勢力ならばまだしも、ノーコの例に漏れず、敵対国からの参集もあり、ホストとして気を使うばかりの時間を過ごしているのが、カグナ達の実情であった。今も、やっと赤の王を迎えての晩餐が終わり、明日の出撃に備え、最後の英気を養っている時間での、やりとりだ。
「道理道理というが、道理ばかりを気にしていて、やりたいことも出来ていないのが現状なんじゃないか」
カグナは、背を預けている、分厚い脂肪の丸みに体を半ばまで埋まらせる。
ふわっふわだ。
重みを感じさせない感触が、布越しに、彼女を包み込んだ。
「ニレェーも、やっと起きたかと思えば、状況の確認だけして眠ってしまうし」
「一番疲れる役回りですからな。クヌゥー他、ハースにいる限りの樹人も連れてきてはいますが、下準備で手が離せません」
「友達甲斐がない!」
「……食べる気も失せるほど、悩んでおられたのですな」
ベイジは会話の途中を飛ばし、感じたままを口にした。眼下を優しい目つきで眺める。
カグナが影を練り込むのに必要なだけの糧食をと、確保してきた分は、兵達に既に振る舞ってあった。
食べることもまた、戦いの準備であると、普段から真面目に励んでいるカグナにしては、類を見ない。
そもそも珍しいというなら、こうして愚痴愚痴つぶやきつつ、何も行動しないでいる状態こそ、珍しい。
「あれは、その、ノーコ殿が、そういうことなら振る舞っておいた方がよいと」
「如才ないお方だ」
あちこちの陣営に顔を出してはつないでいるノーコの神出鬼没を思うと、ベイジも、おかしみを感じてしまう。
伊達に、この二百年間、連合の右腕として名を馳せている訳ではないようだ。人徳もまた、学べる力である。
カグナが新たな知遇を得て、成長を見せているのは、頼もしい。しかし、私事となると、こうも二の足を踏むとは思ってもみなかった。
(青の王国に入隊してから、昼も夜もなく地位を昇りつめたのとは、訳が違いますか)
感覚が、子どものままなのだ。
甘やかしているだけで済むのなら、妹のことが思い起こされ、微笑ましいのだが、戦いが終わればノーコもこの地を去るだろう。その時には、キスケも自らの去就について、決断をするはずだ。
もう、あまり時間はない。
「夜明けまでには、会っておきなさい。ここしばらくは、また眠れておらんのでしょう。少しでも体を休ませねば、いくら赤の王がおられるとはいえ、王種狩りで不覚を取りかねません」
「……」
無言で立ち上がったカグナは、そのまま小走りに天幕を出た。
昼間に見せている、落ち着き払った態度はどこへやら、だ。
ベイジは腕組みをして寝転がる。
「世話のかかるお方だ」
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「あら、ここにいらしたのですね、影の君」
クスクスと、粘度の高い含み笑いがキスケの鼓膜に絡んできた。
やってきたのは、彼が予測していたのとは異なり、見たことのない、金髪の美女である。薙刀を携えており、月影にもまばゆい金色と、対照的に溶け込むような黒とで塗り分けられた、金属製の軽鎧を着こんでいた。
「妙な魔法使いやがるな。俺の影を消して回ってんのはあんただろ」
「フフ……」
半ば伏せられた目が、妖しく翠にきらめく。
「その腕前で顔合わせにご列席なさらなかったということは、《波濤》の直臣でいらっしゃる?」
「そういうあなたはどなた様、っと」
魔力を浅く籠めた人差し指を差し向け、キスケは軽快に警告を投げ刺した。
美女は、宮廷の舞踏会場ででもあるかのように、悠然とした足運びを取る。
近づくにつれ、影の目では捉えるまで近づくことの出来なかった、その女の輪郭が露わになっていく。
短く刈り込まれた髪。毛先に手が加わっているため、優美さが、活動的な印象に滑らかに融和している。
鮮やかなルージュ。濃く、刻印するかの如く、女性の存在感を、この上なく引き立てており。
細い頬からは、独特な冷気があった。
「クレナイ=ローレル。赤の王が王子、《虚火》にございます。
《波濤》とは、以前に少々……殺し合いをいたしました仲ですわ」