3.原点
草原に現れてから、体感で、もう、二時間ばかりも進んだろうか。屋外での行軍に慣れた趣味人でなし、山岳部やサバゲー部のような活動経験もなし、都会育ちの足では、当然休み休みだ。
柔らかな土と草だけを敷き詰めた、けれども大小の石がランダムに潜伏している道行きは、足裏に強く新鮮だった。
気持ちいいのだ。
生きているだけで、気持ちいい。
体感だろうと実測だろうと、二時間もひたすら気分良く歩いて休めば、頭も良く働く。
掴んだ成果は、キスケ・アマイモンというキャラクターネームしか思い出せない現状と、それでも、今のように、「自分が何者ではない」という、何に基づいているのかは知らない比較で、元の素性を少しずつ削り出していけるという方法論。
ゲーム。そう、はっきりと、ゲームと認識してここに挑んだ。そこまでは覚えている。
しかし、二時間。二時間だ。
二時間散歩しながら思い出せたことは、そこから、あの緑髪の少女、物ノ名ハコ(漢字は分からん、しかしハ子だと字面的に落ち着かないので、暫定でカタカナ認識だ)に、何やら呪文めいた最終認証とやらを済まされて、最後に歓喜の魔人、そう呼ばれたところまでが、記憶の全部だった。
(短すぎだろう、俺の人生……)
いっそ笑えてきた。唇の端がつり上がってめくれ上がる。上げ上げだ。
街は大分近づいていた。建物の輪郭こそ見えないが、その輝きに、遠さ故のぼんやりとした放射状の丸みではなく、ギザギザとした輪郭の気配が見て取れているのだ。月は、既に落ち始めている。地球で言うなら真夜中の2時頃位か、そのあたりに差し掛かっているようだ。満月なので、分かりやすい。
小型以上の生き物の気配は、ない。どうせゲームなら、遭遇してから考えればいいと、当初の危機感とは方針を変更して、身の安全については半ば放棄している。そして、どうせゲームではないのだから、何がどうなろうと、俺に出来る以上のことは出来やしないと、もう半分で、笑って投げ捨ててもいる。
一人分の空間が空くよう、草を尻と手でなぎ倒すように腰を下ろして、また、休憩を入れた。
見晴らしのいい景色の中で、見通しの悪い自問自答を繰り返し、自意識だけに埋没していった凝り固まりから、丈の深い草原という、緑の壁で視界を遮ることで、頭を解き放ってやる。
風は今も甘やかだった。加えて、手で味わう、自重で押しつぶした草から漏れる汁や、草の隙間から触れた土のざらついた湿り気も、また、旨い。
「さぁーて……」
落ち着いたところで、一区切り。キスケ・アマイモンという自分に関して掴めた情報を、整理する。
(年齢は不詳。しかし社会人経験のある覚えはなし。特別目立った活躍をした覚えもなし。本当に、あの時の名乗りの通り、ってことか──)
自称、どこにでもいる、ただのガキ。名乗った通りの印象だ。そのまますぎるだろ。
こうなると、散歩しながらあれこれ思い出しておいた、ゲームに関する各種のプレイング知識も、それが自前の知識かどうかさえ疑わしい。
疑いは晴れない。確かさが欲しい。早く人に会いたい。話をしたい。
何しろ、どれだけ試しても窓は出ないし、世界の声とやらが聞こえることもない。体を動かしても、言葉を音にしても、現実離れなんて起きやしない。
否定を重ねてばかりいては、本来、気が滅入る。
なのに、生きているだけで、喜びが衝き上げて来る。呼吸をするだけで、扱い方の分からない力が湧いているのが、自覚出来る。
この矛盾。
気持ちが良くて、気持ち悪い。
いやあ。ほんと。ほんとに。
「チュートリアルがねえのってキツくね?」
へらりと軽薄になるよう笑みを浮かべることで、声に出す泣き言を冗談めかした。
いや、いやいやいや。違う、違うぞ。事実、苦しげに言うのは間違っているのだ。
この状態も、記憶と同じで、どうせ俺が選んだ選択肢のうちの、どれかの影響なんだろう。
だったら……。
「だったら笑うしか、ねえよなあ」
なあ、俺よ。
どうせ退屈してたんだろう?
ゲームなんて始めようとしてたってことは、現実に飽きていたんだろう?
現実と違って、初めから望み通りになっているはずの、今なんだろう?
だったらここでいいじゃないか。
楽しく始めようぜ。
顔中の皮膚がギチギチと内側から歪む感触がした。
多少の記憶違いは、もう、どうでもいい。
多少じゃない今の想定外も、どうでもいい。
ああ、そうだ。もう一つ思い出したぞ。
と、唇を大きく開き、歯をむき出しにした。
俺はこうやって笑いたかった奴なんだよ。