1.名前
2016/12/12:一部修正。
2018/03/27:差し替え。
2020/03/09:旧版に差し戻し。
/*【OTT→OVT】*/
文字が閃いた瞬間、俺はここにいた。
初めに言葉ありき。だが、有名なこの文句の続きに従い、聖書になぞらえた理解をすれば、原初の聖人を自認してしまうことになる。
それよりは、今、ここがどこで、自分が何者であるかを確かめる方が、ずっと良い。
けれども、心を落ち着けて記憶を探るよりも疾い風が──
そんな煩雑さを、頭の中から、浚っていった。
息が深い。吸い込むほどに、芯から命が芽吹くような力を、駆け巡る総身の血中に感じる。
(なんて甘い風なんだ)
痺れるほどの快感を、肺から心ゆくままに染み渡らせる。そこでようやく、酸素が脳にも目にも行き届いたのか、ここがどこであるかを、俺の体は知覚したらしい。
今は、夜。
夏の日のせせらぎほども心地よい冷たさを孕んだ風は、見渡す限りを吹き抜けて、万物の眠りたる星の輝きと、絶え間ざる大地の営みの双方を、その内に掠め取って育ててきた濃密さ、そのままに、俺の中まで届けてくれていたようだ。かつて噛み締めたことのない自然の密度を、その濃さによって押し広げられた感性が、つぶさに拾い上げてくる。
感性から理性への正常なリレーが起きた証たる、閃くような直観と共に、俺は、草原の、なだらかな丘の中腹にいる自分を、ようやく見出すことが出来たのだった。
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俺が立ち尽くしている茂みは、草の丈が深く、刃のように、微小な鋸状の縁を持っていて、それでガサガサと擦れ鳴く声が僅かに粗い。虫や草の、毒によるかぶれが気になって、星月夜のまばゆい明かりの中、纏っている衣服を改めると、スニーカーにジーンズに半袖のTシャツと、どうにも夏の薄い装いで、途端に心もとなくなってくる。
同時に記憶も改めていたが、空気の強い清浄さによって落ち着いた心理状態とは裏腹に、とんと出てくるものがない。いや、ある。
まだ、自覚出来ていない混乱が、多分に残っているようだ。思考がとっ捕まえる先が、とっ散らかっている感触がしている。
浮かぶのは、女の声。何かを問われている自分。女の姿は見えない。どこで、いつ、問われたか。そもそも何を。
空気の美味さに任せて、ありったけ繰り返している深呼吸が、目覚めた直後に夢のディティールを思い出していくのと同じ要領で、情報の切れ端を再構成し始めた。
女。そう、あれは確かに女だった。声から年齢を悟らせない、力ある声色をしていた。鍛えられた喉や声の個性か、それとも自分の中にある確信に従っている時にだけ出る、揺るぎなく、伸びやかな声。
記憶のよすがを求めるべく、無意識に見上げればそこには銀色の静寂が照らしている。
月、か。それも、満月だ。
それなのに、星が多い。途轍もなく多い。というより、もはや空が白い。確かに夜なのだが、星と星の間隔が狭すぎて、夜空が黒く感じられない。
ここは白銀の夜を持つ世界らしい。
世界。そう、世界だ。
一つ一つの感慨は無為なようでいて、関連性を持ってつながった道のりを、俺の頭の中は、どうやら正しく遡れているようで、また次の記憶が閃いた。
世界という単語を、女から聞いたような気がする。世界の歴史がどうとか、そんなことを言っていた気がする。
わざわざ世界という言葉を扱うからには、ここは元の世界ではないのだろう。あの声の女が、俺を別の世界に飛ばしたと、こういう筋書きだろう。見慣れたはずの丸い銀盤上に、餅つく兎の姿も見い出せなければ、デネブもベガも、アルタイルも、目立つはずの星々は、軒並み所在の見当が付きやしないのだから。
それに──
この風だ。
吸うだけで、俺の中には無かったはずの量の力が湧いてくる。
こんなもの、地球の風であってたまるか。
こんな、生きるだけで、ただ息をするだけで満たされる──
そんな場所が地球であって、たまるものかよ。
怒りで顔を歪ませながら、怒りに任せて、丘から下る、一歩を踏み出す。
その一歩の遥か先、草原の海の水平線の奥底からは、緩いけれども、確かに茫洋と立ち上る、人の灯す輝きが、見えていた。
俺の名はキスケ。喜びを助ける者。
この物語は、俺が、たった1人の笑わない女神を笑わせるまでの、ほんの短い、旅の記録になるだろう。