疑惑
机に置かれた四つの深皿。その中には細長い米を炊いたものと少しの野菜、そして砂魚の塩焼きが盛り付けられていた。これじゃ昨日と一緒ではないかとディマがカマルに目で訴えれば、これを見ても同じことが言えるかなと一緒に置かれていたやかんを手に取った。
「ちょっとこっちに皿を寄せろ」
最初は嫌そうにしていたがその後に大人しく深皿をカマルの方へ押し出す。たいへん素直でよろしい。満足そうに頷けば塩焼きの上からやかんに入っていた出し汁をかけだした。
「そら、いい匂いだろ。冷めないうちに食べな」
温かい出し汁を入れたことによって砂魚からも味が染み出して朝の胃に刺激を与える。ディマが興味津々な様子でスプーンを手に取るのを眺めつつ、他の深皿にも出し汁をかけていった。
黙々とスプーンを動かすだけの四人の間には確かに気まずい空気が漂っていた。何故ならばレイリーの目が真っ赤に腫れ上がっていたからだ。何があったんだとサフィアがちらちらと目配せしてくるのをカマルが受け流す。
自分を捜しに来たレイリーが告げた衝撃の事実。しかしカマルは事の重大さを理解していなかった。体温とはなんだ、それは必要なものなのかと聞けば聞くほどレイリーは泣き崩れ、カマルは彼女を慰めるのに必死だった。もとより多感な時期の女の子をなだめるテクニックなどは持ち合わせているはずがない。井戸に腰掛ける二人の間には確かな距離があった。
「どうしてそんな状態なのに平気な顔をしていられるんだ」
冷たい水で濡れたタオルを顔に押し付けながらレイリーは聞いた。涙と嗚咽が止まらないのは優しさか。
「平気かと聞かれてもな。俺はこうしてここにいて……」
そこまで答えて言葉に詰まる。魔法も使えない、交友関係もあまりない、家も財産も持っていない。そんな自分がどうして生きていると証明できるのだろう。
「それに」
途切れてしまいそうな会話を何とか繋げようとレイリーがその尻尾を掴む。
「かねてより思っていたのだが貴様は死に急いでいるように見える」
今にも魔法を使うのではないかと思うほど激怒した商人の前に物怖じせず立ち塞がったり、牢に入れられても抵抗しなかったり、凶暴な虎に腕を喰われようが劇薬を飲ませたりしていた。出会ってからまだ時間が経っていないというのに何度も肝の冷える行動をとってみせる。レイリーはカマルの行動心理を不思議に思っていた。
「生きることは辛いか?」
カマルの傍に寄る。
「命あっての物種だと思わないか?」
逃げる指を追いかける。
「俺は」
掴む前に届かないところまで腕を移動させられた。赤銅色の瞳が拒絶の色を映す。
「今、生きているんだろうか」
悲しくて重い質問にレイリーは答えることが出来なかった。
「レイリーちゃんどうしちゃったの。元気ないみたいだけど」
こそこそとサフィアはカマルに耳打ちする。気まずい雰囲気をどうにか打破したいのだろうが、あいにくカマルもどうすればいいのか分かっていない。
「さっき変なこと聞かれてさ」
先ほどの出来事を説明しようとしたとき、レイリーがスプーンを盆の上に置いた。金属がぶつかって鳴り響き、誰も喋ることが出来ないほどに空気が凍る。
下を向いたまま立ち上がる。そしてそのまま暗い声で言った。
「サフィアと言ったか。貴様、表に出ろ」
いつもの明るくて元気な王女様とは思えない程の威圧感で、サフィアに「NO」と言わせない迫力があった。返事も待たずに本当に出て行ってしまうレイリーを見つつカマルはサフィアを小突いた。嫌がる大人の男を半ば追い出すように見送ると、目の前の子供と目が合う。
「お前はあんな大人になるなよ」
サフィアと一緒にいたらどんな風に成長してしまうかわかる気がする。しかしディマは聞こえないふりをした。年上からのありがたいアドバイスは一蹴されてしまったようだ。
「お前なあ」
もう既に軌道修正が利かないところまで来てしまったようだ。生意気な子供の相手などしている暇があるならこれからの行動について考えた方がよっぽど有意義だ。カマルは食べ終わった深皿を横に押し除けて地図を机の上に広げた。すると、興味があるのかディマも乗り出すようにして大きな黒い瞳で作業を眺め始めた。
食堂の外、ちょうど裏口のあたりに連れて来られたサフィアはフードを被って表情の読めないレイリーに対して何を聞かれるのか検討がついていた。きっとカマルのことだろう。
「レイリーのお嬢さん。一体どうしたのかな?」
何も知らない風を装ってわざとらしく道化を演じて見せた。
「貴様、カマルと一緒に魔法研究機関コーカソイドに入っていたことがあると昨日教えてくれたな」
やっぱり考えた通りだ。この少女、カマルの違和感について気付いたか。
「ああ、そうだよ」
あまり首を突っ込んでもらうととても面倒だ。あくまで軽く答えると人の良さそうなスマイルもつけてやる。そこまで言ったところで襟首を掴まれて壁に押さえ付けられた。少女の柔らかい身体が密着してこりゃ素晴らしいシチュエーションだなと頭の片隅で考える。
レイリーは燃えるように怒りを湛えた瞳でサフィアを射る。それがあまりにもまっすぐ過ぎて思わず涙が出そうになってしまった。
「さすがは箱入りの王女様」
「なにっ!?」
自分の身分を名乗った覚えはないが、目の前の大男に見抜かれてしまっている。咄嗟に腰に下げた剣の柄に手を伸ばすが、大きな手で妨げられてしまった。
「あんまり騒がない方がいいんじゃないの」
自分と明らかに違う白い肌。力で押さえつけられているわけでもないのにぶつけられているプレッシャーに圧されて指の一本も動かせない。テルの時のように召喚獣で直接身体を押さえつけられているのではない。獲物を捕らえようとする捕食者の剥き出しの欲望にレイリーはゾッとした。不穏な空気に通行人が足を止めてふたりを見るが、サフィアが愛想を振りまくと納得したように散り散りに去っていった。
「ね。ここで流血沙汰になると色々とお互い厄介じゃない。少し落ち着いてみよう、な?」
低い声で諭されてしまい手綱を取られてしまったレイリーは大人しく腕を下ろすことしか出来なかった。
「それでいい」
言うことを素直に聞いたレイリーにサフィアは満足そうに息をついて手を離した。せめてもの抵抗でひとつ舌打ちをするレイリー。サフィアはレイリーの王女らしかぬ行動に苦笑いをする。
「カマルに近付く理由はなんだ」
偶然の再会。それは本当に偶然なのか? レイリーは疑念の網に絡まったままもがいていた。何をどう考えてもこの男は怪しい。一緒にいたディマは被害者か加害者か。実は一緒にいたカマルも同じようにベドウィンに仇をなす敵なのではないのかという、的外れで根拠のない予想まで思い浮かぶ始末だ。
「理由? 久し振りに友人に出会ったんだ。手を取って喜ぶのは至極当然のことだと思うが」
「嘘だ!」
この法螺吹き野郎、と口の中で悪態をつくとさらに何を信用していいのか分からなくなる。
「嘘をつくな。お前はどうせカマルを利用しようとしているだけだ。私とカマルは早々にこの街を出ていくぞ。もう二度と奴に近付かないでくれ! 目障りだ!」
レイリーの怒りを受け止めながらサフィアは彼女を落ち着かせようと肩に手を触れる。
「触るな!」
その手も振り払われれば、サフィアの眉間にもシワが寄った。
「俺があいつに何をしたって言うのさ。いきなりそんなことを言われても困るーー」
パキィィィイイン。
終わらない口論かと思われたがそんなことはなく、ふたりの意識は空へと向かった。
「な、んだ?」
ピリピリと肌に染みるような風が街に吹き込んだ。飛ばされてきた砂が目や口に入って、レイリーは思わず咳き込む。一番おかしいのは街全体を包み込むように張られていた結界が見当たらない。普段は魔法陣が組まれているはずなのに、それもどこにもないのだ。
嫌な予感がする。
「くっ……サフィア、話はあとだ。私は街の状況を確認する。貴様はどこか安全なところまで避難していろ」
返事も待たずに走り出せば鍛えられた足腰とそこらじゅうに置いてある商品の木箱を活用して屋根の上に跳び乗る。そのまま街の入り口の方向へ駆けて行ってしまった。
「ありゃあ何言っても俺への疑いを解いてはくれないね」
残されたサフィアはカマルとディマを迎えに再び食堂へと戻っていった。
「なんだと、もう一度言ってみろ!」
自分たちが砂魚から逃げてきた時に通った街の入り口には人がごった返しており、レイリーがその群衆を軽々と飛び越え、見張りの門番に詰め寄っていたところだった。
「ですからこのような例は生まれて初めてで……」
「だから、何が起こっているのだ!」
しどろもどろ答える門番に苛立ちが伝わっているのか掴んで揺さぶる度に説明があやふやになっていく。まだ朝が早いから良いものの、これでは混乱が伝播するのも時間の問題だ。それだけこの結界は人々にとってなくてはならないものなのである。
「状況はどうなっているんだ」
結界を張っていた魔法石の台座へと近付くと見事に魔法石が粉々に砕けていた。内側から破裂するように破片があたりに散らばっている。
揺れる地面。
「も、もしかして」
レイリーは自分達が街へ入ってきた時のことを思い出した。
「……!」
街を守るものがなくなったいま、きっと奴等からは皿の上のメインディッシュに見えていることだろう。レイリーは暑い砂の上だというのに寒そうに腕をかかえて冷や汗をかいていた。