プロローグ
正直、命の価値などどうでもよかった。
俺なんて生きていても意味がない。そう信じていた。
少なくとも、彼女たちに出会わなかったら……。
◇
夜。
静かな街中に一つの影が駆けていく。気づかれないようひっそりと移動しているが、「彼」の右腹部からは赤黒い液体が滴ってくる。小さな影が行く先には灯が照らされ、彼はとっさに物陰に隠れた。その横を複数の足音が通り過ぎる。
やがて足音が完全に消えると、彼は殺していた呼吸を一気に吐き出した。同時に肩に強い痛みが走り、反射的に抑える。砂地を見ると、彼が辿ってきた道に同じような血の跡が淡々と残っていた。
このまま此処に居れば、いずれ嗅ぎつけられてしまう。場所を変えよう。
彼は痛む体を引きずりながら次に潜む場所を探す。
元々は王宮近くにある金持ちの家に盗みに入ったのが始まりだった。幼馴染に誘われて賊に入ったはいいが、何の技術もない自分は下っ端当然の扱いを受けていた。目上の命令を素直に受けることが生きていく上で欠かせない。数は少ないものの命を傷つけることだってあった。魔法が使えない自分はゴミ当然だったのだ。
『お前に仕事をやる。三日以内にこなしてみろ』
そう言い渡された仕事は、通常なら一週間でようやく完遂できるものだった。もちろん逆らうことなどできず、指示通りに忍び込んだところ、その屋敷の家主に見つかってしまい、現在追われてしまっている。捕まれば、有無を言わさず処刑台送りだ。
仕方のないことだ。盗みは罰せられるもの。それを承知で彼はこの仕事を引き受けた。
引き受けたのに、成功させなければいけないのに失敗してしまった。手負いのまま逃げ続けても遅くない時間に捕まるだろう。本当に安全な場所まで行かなければ。
彼はとにかく身を隠せる程度の空き家を探していると、通路の先に大きな土壁が聳えているのが見えた。王族が暮らす王宮だった。
(あそこなら……)
警備が薄くなっている今の時間帯の王宮なら忍び込んでも多少の時間は稼げるはず。
彼は周囲に気を配りながら出来うる限り気配を消し、ひっそりと入り口を探す。バザー近くに子供一人が入れる大きさの穴が開いていたので、そこを潜る。中は入ったことないが広々としており、歩くだけで迷いそうだ。
なるべく見つからないように人のいない部屋を探す。整えられた通路を進むと、近くに人の声がしたので、彼は慌てて傍にあった部屋に隠れた。話し声が収まると同時に嘆息を吐く。
「そこにいるのはどなたかしら?」
「!?」
部屋には誰もいないと思っていたので、いきなり声をかけられて驚いてしまった。無意識に懐の短刀の柄を握ったのは、いかなる時でも生き延びるように殺しの術を教え込まれたからだ。
(殺す、……のか?)
彼は罪を犯した。見つかれば口封じに相手を殺す。何度もそう訓練を積み重ねられ、時には本当に命を奪ってきた。
部屋には二つの影があった。月明かりのせいではっきりとは見えないが、大小の影。親子だろうか。声の質から大人の方は女であることが分かる。小さいのはその子供か。
「いらっしゃい」
殺さなければならない。そう、頭では解っているのに心は「嫌だ」という気持ちで一杯だった。関係のない人まで巻き込みたくない。
彼が動かずにいると、小さい影――子供が此方へ駆けてきた。
「ほら、行こう」
「寄るな! ……っ!」
出された手を振り払おうとして、ズキン、と痛みが生じた。耐えきれずに蹲る。何故そうしたのか子供はきょとんと見つめていたが、原因が分かると「お母様」と奥にいる女を呼んだ。
「この人、怪我しています」
「まあ」
女は静かに立ち上がると、子供同様に近づき、彼の近くで腰を下ろす。
「傷口を見せてください」
「どうする気だ?」
「治療するに決まっているでしょう?」
そういうと女は「さあ」と手を差し出す。抵抗しようとしたが、無駄な行動は騒ぎを起こしかねないと大人しく傷口を診せた。先程より出血の量が多い。治療すると言っていたが、この女に医術の心得があるとは思えない。どうやって治療を?
疑問がやまない彼の傷口に、女は黙って手を当てる。そこから仄かに白い光が醸し出し、傷の周りを覆った。暫しの間光は放ち続け、収まる頃には痛みが消えていた。
肩は痛むが、一番酷かった腹部からは何も感じられない。まさかと思って手を当てると、出血はなく、その場所に自身の血が付いているだけだった。
「今のは……魔法、か?」
「そうですよ」
驚きを隠せない彼に、女は微笑む。
「これで貴様も、元気になるな!」
隣で立つ子供は、まるで自分の事のように年頃らしい笑顔を見せた。
―――これが、初めての出会いになる。