前編
習作です。
あの日、三郷は何気なく立ち寄った教室で運命の出会いを果たした。
『空と街の境界』
そう題された写真は、高台に建つこの学校の屋上からから街を見下ろすように撮られているようだった。夕焼け空。夕日に赤く染まった街。そしてそれらを分けるように横たわる海。水平線がキラキラと太陽の光を反射している。他の人間からしたらなんてことない写真だろう。実際三郷にとっても、何気なく切り取られたその風景は日常でよく見慣れた校舎の屋上からの風景だった。
しかしそれを見た瞬間、三郷は泣きたくなった。胸を締め付けるような感覚。自分でもなんだかよく分からない感情。それに伴い溢れ出そうとする涙を必死で押さえつた。それは三郷がまだ少年だった頃。高校の文化祭での出来事。
*****
あの写真との出会いから数年を経て、三郷は教育実習のため自らの母校である高校を訪れていた。今日はその最終日で明後日には大学のある京都に戻るつもりでいた。
活動日報はすでに指導教諭に提出し、それの返却を待つばかりである。お世話になった先生方への挨拶もあらかた終わり、今日の実習生だけの内輪のお疲れ様会にもまだ間があった。暇を持て余した三郷は学校内の散策に繰り出すことにした。
放課後の校内は閑散としていて、部活中の生徒や居残っている生徒の微かな気配がどこからか響いてくる。
自分が高校生の頃と変わらない学び舎の風景。そこかしこに莫迦なことばかりやっていた高校生の自分や友人たちの幻影を見て三郷は懐かしげに眼を細めた。
しかしところどころある些細な変化に懐かしさとは別にわずかな胸の痛みを覚える。ここにはもう自分の居場所はないんだな。そんな当たり前なことを今更ながら実感して妙にセンチメンタルな気分に陥った。
そんな気分を抱えつつ、ある教室の前に来た時、三郷はふと立ち止まった。文化祭の日、あの写真に出会った教室。幾多の時を超えあの時の感覚がまざまざと甦る。
『空と街の境界』
そう名付けられた写真は今どうなったのだろうか?普通に考えたら写真の撮影者であるあの少女が持ち帰っているであろう。
いつも眩い笑顔で三郷の名前を呼んだ少女の顔が頭をよぎり胸にわずかな痛みが走った。三郷は痛みをごまかすように首を振った。
…もしかしたら、卒業生の作品ということで何かしらの形で残っているかもしれない。もう一度見たい。写真部の部室であればあるいは…。三郷は気ままな散策の目的地を写真部の部室に定めた。
*****
文化祭であの写真を見て数日後。三郷はふと思い立ち放課後の屋上に足を向けた。昼休み、あるいは授業をさぼって、日中屋上に出ることはあっても、放課後に態々《わざわざ》居残ってまで屋上に行くことはなかった。
途中友人たちの誘いを断りつつたどり着いたその場所は…特に何もなかった。階下から聞こえる運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音以外は、昼休みや授業中と何ら変わることなく屋上はそこにあった。
いったい自分は何を期待していたのだろう?所詮学校の屋上は屋上ということだ。あの写真が特別なだけだったのだ。三郷はつまらなさそうに一つ鼻を鳴らすと転落防止用の柵に肘をつき携帯を取り出した。今ならまだ友人たちに合流できるかもしれない。
簡単に友人たちの所在を確かめるメールをしたためてふと顔を上げる。きらきらと光を反射する海が目に入った。三郷が思わず猫のように目を細めてその景色に見入っていると、ふと自分の側面からシャッター音が聞こえた。
三郷がぎょっとしてそちらを見ると、いつの間にいたのか一人の女生徒が一眼レフのデジカメを抱えてそこに立っていた。学年ごとに色の違うスリッパの色から上級生であると推測できた。
「ごめんね。あまりにも優しい表情をしてたから思わず撮っちゃった。」
まったく悪びれない笑顔でそうのたまう女生徒に、三郷は呆れた調子で切り返した。
「いや、思はずって…肖像権とかその辺どうなってるんですか?…てか誰?」
「まぁまぁ。結構良く撮れてるから見てみてよ。」
そう言って差し出されたカメラの確認画面には、無防備な表情をした自分が写っていて、三郷は羞恥に頬を染めた。
「こんな写真消してください。」
「え~、いい顔してるじゃん。ここの景色好きなの?」
三郷と同じように柵にもたれつつ女生徒はそう切り出した。
「…好きとか嫌いとか考えたことないです。」
ただあの写真が気になっただけだ。
「そう?あの表情は絶対好きだと思ったんだけどな。私は大好き。日によって変わる海の表情とか街の喧騒とか一日として同じ日がないの。」
そうだろうか?三郷には日々同じ景色にしか見えない。ただそう言って振り返った彼女の笑顔が印象的でもっと見たいなと三郷はそう思った。気づいたときには言うつもりもなかった言葉が口をついて出ていた。
「俺は三郷 千昭。先輩は明日もここに来ますか?」
女生徒はほんの瞬きの間、驚いた表情を浮かべるもすぐに笑顔で応えた。
「雨の日以外は大体毎日一度はここに来るよ。」
「また、来てもいいですか?」
「もちろん。私に断ることでもないでしょ?私は日下 美晴。よろしくね。」
日下 美晴。それはあの写真の撮影者と同じ名前。三郷は彼女の笑顔に目を細めつつ、この出会いに感謝した。
次話投稿は朝7時。予約投稿済みです。