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ウラカンレオン号の航海記録  作者: 阿蘭素実史
9/19

9. グリーンウッド亭

 聴衆の群れをかき分けて、一人の女がつかつかと歩み出た。エプロン姿が似合わないほど浅黒く陽に焼けた肌をした、ずいぶんと恰幅のいい中年の女だ。しかし、目つきはカリブの密林に棲む、ジャガーのように鋭い。

「セルマさん!」

 と女の名を真っ先に口にしたのは、レベッカだった。アレックスはその言葉に弾かれるように、男に向けていた剣を降ろした。

「アレックス、こんな聴衆の前で殺しをしたら、言い逃れは出来ない。この街での殺しは、共和国行政官も、ヴェインも黙っちゃはいないだろうよ。そうなれば、迷惑がかかるのは、エリオットだ」

 ナッソーで最も大きな酒場『グリーンウッド亭』を営む女……セルマ・バークレイはつかつかとアレックスに歩み寄りながら、静かに言った。

「そんなことは分かってる。だけど、これはセルマさんの口を挟むことじゃない。俺たちの海賊団をバカにするやつも、俺たちの仲間に危害を加えようとするやつも、決して許しておけない」

「だとしてもだ。ご覧よ、レベッカだけじゃなく、街のみんなも怯えちまってるじゃないか。あんたと違って、一般人は殺しなんてものに慣れちゃいないんだ」

 そう言われて、アレックスは周囲を見回した。喧嘩をお祭り騒ぎのように観覧していたはずの聴衆たちから、声と言う声が消え去っている。そして、当のレベッカさえも、青い顔をしているではないか。

「そうだな。やりすぎた」

 アレックスはため息交じりに、剣についた血のりを払い落とすと鞘に納めた。

「それから、あんたたちもだ!!」

 セルマが一際語気を強めた。言い放った相手は、アレックスではなくヴェイン海賊団の船員を名乗る三人の男たちだ。もっとも、三人のうち二人はすでに意識を失っている。

「コソドロだかチンピラだかの真似をして、ヴェインの顔に泥を塗るつもりかい!? このことがヴェインに知れたら不味いのは、あんたたちの方だ! せいぜい首を洗って、お沙汰を待つことだね!」

 最後に残された男は、青い顔をしながら「ひぃ!」と悲鳴を上げた。レベッカをいやらしい目つきで羽交い絞めにしていた時の威勢はどこへやら。

「分かったら、とっとと、そこでおねんねしてる仲間を連れて、ずらかりな!」

 セルマの言葉は稲妻のごとく男の脳天を貫く。だが「仲間を連れて」と言われたにもかかわらず、男は独りで逃げ出した。悲鳴を上げながら聴衆を突き飛ばし、我も忘れて逃げていく男に、聴衆たちは一気に活気を取り戻し「おとといきやがれ、チンピラ野郎!!」「くたばれ、偽海賊!!」「消えちまえ、ナッソーの面汚し!」と口々にヤジを飛ばす。

 やがて、男の姿が見えなくなると、聴衆の中でも腕っ節のいい男が数人集まり、昏倒した二人の男を担いで「オットー先生の所にぶち込んでくる」と連れて行ってしまった。

 聴衆は少しずつ解散し、瞬くうちに露店通りは騒ぎの前と同じ姿に戻った。

「まったく、海賊って言うのは血の気が多くていけないね」

 腰に手を当てて、やれやれと言った具合に頭を振りながら、ぼやくセルマ。アレックスはもう一度ため息をつき、落ち着きを取り戻したかのような顔をすると、レベッカに近づいた。

「レベッカ、怪我はない?」

「え、ああ、うん。大丈夫、何ともないわ。それよりアレックスは?」

「俺も大丈夫だ。もう、あんな無茶しないでくれよ。喧嘩ごとなんてうんざりだ」

 そう言ってアレックスは笑って見せたが、レベッカの表情は硬かった。

「そうね、反省してるわ。助けてくれてありがとう……」

 と言う口調も、いつもの歯切れの良さはない。しかし、アレックスはそれ以上レベッカには何も言わなかった。

 アレックスは踵を返しセルマの方を向いた。

「危ない所を助けてくれて、礼を言うよ、セルマさん」

「何、いいってことさね。この街を良い街に、自由の国にしようとした『アイツ』の遺言みたいなものだからね。このことはエリオットには黙っておくよ。二人とも、このおばさんに感謝しな」

 アッハッハと高らかに声を挙げて笑うセルマ。アレックスは再び「ありがとう」と感謝を述べた。

「あの、セルマさんはこんなところで何をしてたんですか?」

 と、レベッカが尋ねる。偶然、この騒ぎの場に居合わせたセルマの営む『グリーンウッド亭』はここからずいぶん遠くにある。

「買い出しだよ。この先に馴染の露天商が何人か居てね。あたしの昔の仲間だから、安く売ってくれるんだ」

 と答えるセルマの逞しい両腕には、麻籠に詰め込まれた野菜、魚介や肉の塊があった。

「留守はアニーに任せてる」

「アニー?」

 聞きなれない名に、アレックスとレベッカは揃って小首をかしげた。

「ああ、あんたたちは知らなかったね。あんたたちの船が航海に出ていた間にね、ウチの店子として雇った娘だよ。要領はいいし、器量もいい。そうだ、あんたたち、暴れて腹が減ってるだろう。飯を食いがてら、アニー見物にウチの店に来ないかい?」

「いや、そもそも俺たちグリーンウッド亭に、というかセルマさん、あんたに用事があるんだ」

「あたしにかい? 用って何だい?」

 セルマは鋭い目を大きく見開いてみせた。

「レイたちと待ち合わせているから、それはグリーンウッド亭に着いてからにしよう」

 アレックスはそういうと、レベッカとセルマを促してグリーンウッド亭のある方角へと踵を返した。


『女将』と常連から呼ばれる、セルマ・バークレイが営む『グリーンウッド亭』は、港にほど近い場所の高台にある。バラック小屋ではなく、古びた洋館らしきものを改造した建屋は、この街に点在する酒場の中で最も大きい。

 そして大きさだけでなく、ラム酒とともにセルマ自身が腕を振るう料理の数々も、とりわけ船の上で燻製肉や保存食ばかりを口にしている海賊たちに人気を博しており、名実とナッソー随一の酒場として知られていた。

 だが、その一方で酒場は海賊たち……即ち荒くれどものたまり場である。

 アレックスたちがグリーンウッド亭に到着すると、すでにオットー・マキャナリー診療所を後にしたアイリスとレイは、薄暗い店内でラム酒の強いにおいに顔をしかめながらも、たむろする海賊たちの注目を集めて、どこか居心地悪そうに隅の席にちょこんと腰かけていた。

 とりわけレイは、アレックスとレベッカの姿をみとめると「早くこっちへ来い」とばかりに手招きした。

「アレックスさんお怪我などされていませんか?」

 アレックスたちが座席までやって来ると、アイリスが開口一番、心配そうに言った。アレックスは「大丈夫」と笑ってみせる。すると彼女は心底安堵したかのように胸に手を当てて、ホッと息を吐き出した。

 そんなアイリスの傍らで、レイが仏頂面に加え、口をへの字に曲げる。

「遅い」

「悪い悪い。あいつらを片づけるのに手こずったんだ。それで、そっちの首尾は? オットー先生は何て言ってたんだ?」

 アレックスが尋ねると、レイはそのままの表情で首を左右に振った。

「オットー先生でも分からないか……。当てにしてたわけじゃないけど、これ以上は俺たちじゃ、どうしようもないな」

「そうね。だったら、早くその子を預けて、船に帰りましょ。疲れたわ」

 と、レベッカは溜息を吐き出しながら、レイの隣に腰を下ろした。

「そうだな」

 アイリスの隣、レベッカの向かいの席に座ったアレックスは、懐から手紙を取り出した。エリオットから預かった手紙だ。無論、アイリスを預ける旨が書き記されている。

 ところが、アレックスが差し出した手紙を、セルマは受け取らなかった。正確には、受け取ることが出来なかった。腹を空かせた海賊たちが、アレックスたちと共に出先から帰ってきた女将に気付き、皆口々に料理の注文を始めたからだ。

「悪いけど、要件は後にしておくれ。どうせ、あんたたちも腹へってるだろう? 今日はあたしの奢りにしておくから、何か食べながら待ってておくれ」

 と言うや否やセルマは、麻の買い物籠を持ったまま、店の奥にある厨房へと姿を消した。

「別に、お腹なんて空いてないわよ……」

 セルマの背中に向かって、レベッカが愚痴をこぼす。

 そんな彼女をアレックスが、「仕方ないさ、グリーンウッドはいつも繁盛してるんだから」となだめたが、レベッカは視線を合わせたり口答えしたりしなかった。いつもなら、すぐに眉間にしわを寄せるはずなのに。

 二人の間に流れる妙な空気に、レイとアイリスが揃ってきょとんとしていると、先ほどセルマが消えた厨房の方から、水の入った木製カップをトレイに乗せた、二十歳そこそこの若い女が颯爽と現れた。

 女は軽やかな足取りで、こちらに向かってくる。その姿に多くの海賊たちがウットリとした視線を向けていた。それだけ、その女が美しかったのだ。

 可憐さの中に凛々しさを備えた顔立ちに、燃えるような赤毛が華を添え、豊満な胸元や白く透き通った肌、すらりと伸びるしなやかな手足が、女の色気を感じさせる。

 こんな辺境の島には似つかわしくないほどの美女だ。

 美女はアレックスたちの席までやって来ると、カップを一人ずつの前に配る。そして、緩やかなウェーブのかかった前髪をがやや乱れたのを気にして、細く白い指先で直すと、アレックスたちに微笑みかけた。

 その仕草一つ一つに、海賊たちはまるで純情な少年のように、「おお」とため息を漏らす。

 図らずも、アレックスとレイもその美しさに見とれてしまった。

「いらっしゃい、ブラックストーン海賊団の若き海賊さんたち」

 ハープの音色のような声で、美女が言った。

「よくご存知で」

 明らかに棘のある声音でレベッカが返す。何かつまらなさそうな顔つきだ。すると、美女は悪戯っぽい笑みを浮かべて「ええ、さっき女将さんから聞いたもの」と、レベッカの棘をするりとかわした。

「あ、そう。そういうあんたが、セルマさんが雇ったっていう、アニーさん?」

「ええ、そうよ。でも、アニーと言うのは愛称よ。わたしの名はアン・ボニーというの」

 美女はそう名乗ると、再び微笑みを浮かべた。その表情は、街角にいる娼婦のような擦れた笑顔ではなく、どこかアイリスのそれに似て品の良さが窺い知れる。

ますます場末の酒場にいるような女ではない、と思ったのかレベッカはアンの頭からつま先までを、品定めでもするかのように見回した。

「見たところ、どこかの誰かさんみたく、いいところのお嬢様みたいだけど、こんな海賊と娼婦くらいしかいないような島に来て、こんな場所で働きたいなんて、あんたも物好きね」

「人生は冒険……それがわたしのモットーなの」

 と、アンはレベッカに応えた。お嬢様を思わせる雰囲気からは想像もできないような、行動的な言葉にレベッカは少しばかり驚く。

「退屈しのぎに、この島に来たって言うのか?」

 レベッカに代わり問いかけたのはアレックスだった。アンは、にっこりとほほ笑み「ええ、そうよ」と言ってのける。どうやら、清楚な見た目とは違いかなり行動的な性格、有体に言えばおてんば娘のようだ。

「わたしの人生は、わたしのもの。退屈に欠伸をしながら生きるなんて、まっぴらごめんだわ」

「でも、それじゃあ、あんたの親父さんは納得しないだろう」

「そうね。でも、わたしの父はアイルランドで築いた弁護士の地位も名誉も捨てて、わたしとわたしの母を連れて、新大陸のサウスカロライナでサトウキビ農園を開いたのよ。それこそ、冒険じゃなくって?」

「要するに家出なんだね」

「まあ、そうとも言うわね」

「まったく、何か冒険よ。お嬢様って言うのは、お気楽でいいわよね、ホント」

 身の上を語るアンに、再びレベッカの棘のある言葉が飛んだ。その言葉の矛先が自分にだけでなく、四人の客の内で最も海賊とは無縁に見える大人しい少女に向けられたものだということを、知る由もないアンは、

「褒め言葉と受け取っておくわ。……それより、そろそろ注文いいかしら? お代は、女将が持つって言ってるから、何でも好きなものを頼んで」

 と、レベッカの言葉を軽くいなすと、周囲を見回した。

 店内には、厨房のある奥からセルマの料理の香が漂っている。今か今かと、飯を待つ海賊たち。時刻は正午前であるが、アレックスたちはその匂いにつられてしまった。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 店にメニュー票などのような気の利いたものはない。勝手知ったる我が家のごとく、アレックスたちは次々と料理を注文していく。腹は空いていないと言っていたレベッカですら。

「アイリスは、何食べる? アイリスの好きな食べ物は?」

 メニューのことを知らないアイリスを気遣ってなのか、アレックスが問いかけた。

「大抵のものは頼めば、女将さんが作ってくれるわ。ローストポーク、フィッシュ&チップス、サンデーロースト、ラズベリーのトライフル……でも、あなたみたいな可愛い娘さんに、ラム酒と鹿肉の燻製はお勧めしないけれど」

 と、冗談交じりに言うアンに、アイリスはおずおずと答える。

「あの、でしたら、その……キドニーパイはありますか?」

 アンはアイリスの注文にクスクスと苦笑いし、アレックスとレベッカはそろって目を丸くする。キドニーパイとは、イギリスの郷土料理として知られる、豚の腎臓をキノコなどと一緒にパイ生地で包んで焼いたものだ。しかしポピュラーな料理であるにもかかわらず、イギリス人の多くはあまり好まない。その理由はただ一つ、非常に臭いのだ。クセのある味と言う以前に、口の中に腎臓の臭みが蔓延する。それは、可憐な見かけのアイリスにとても不釣り合いな料理だった。

「あら、見かけによらず通好みなのね。ええ、もちろんあるわよ。じゃあ、あなたはキドニーパイで決まりね」

 笑顔のアンに、やや恥ずかしそうに頷くアイリス。

「女将に伝えて来るから、ちょっと待っててもらえるかしら?」

 アンは注文を脳内で反芻させながら、まるで舞台女優がステージで舞うかのように、クルリと踵を返した。またしても、その仕草に海賊どもからため息が漏れ聞こえてくる。

 ちょうどその時だった。

「アレックス!! アレックス・クロフォード!!」

 と、アレックスの名を叫ぶ声がグリーンウッド亭に響き渡り、店のドアが蹴破られた。店内はウットリムードから一転して、騒然となる。

 そのざわめきを割るように、数人の海賊がなだれ込むように店内に飛び込んできた。

「何だ、トマス・ハージェスのところの海賊ばかりじゃねえか……おい、アレックス・クロフォードは居るか!?」

 明らかにガラの悪そうな声音の男たちが、店内の客を物色するように、アレックスを探す。

「俺なら、ここにいる」

 アレックスは腰にそっと手を添えながら、すっと立ち上がった。

 ようやくアレックスを見つけた男たちは、一触即発と言った雰囲気を振りまきながら、アレックスを鋭く睨み付けた。

 男たちが、あのチンピラ風情の海賊と同じ、ヴェイン海賊団の船員であることは、尋ねるまでもなかった。

 いつでも剣を抜く用意は出来ている。問題は、レベッカたちを守りながら戦えるかどうかだ。ちらりと目をやれば、レイはいつも通りの仏頂面だったが、レベッカとアイリスはやや怯えた顔をしている。

 正直なところ、これ以上騒ぎを起こしたくはない。まして、エリオットの昔馴染みであるセルマの店で暴れたとなれば、エリオットも黙ってはいないだろう。

 アレックスがそんなことを考えていると、ヴェイン海賊団の船員たちの背後から、別の声が聞こえてくる。

「よう、ずいぶん俺の女と親しく話してるみたいじゃないか」

 ヴェイン海賊団の船員たちが素早く道を開けると、カッカッと小気味良い音でブーツの踵を鳴らしながら、悠然と一人の若い男が現れた。

「ジャック……」

 アレックスは、男の名をつぶやいた。

「久しぶりだな、アレックス」

 ジャックと言う名の男は、やや顎をしゃくり、ニヤリと口元を歪めた。

 背は高く、二十代半ばといった細面で精悍な顔つきをしたハンサムな男だ。しかし、ジャックの出で立ちは少しばかり変わっていた。金髪の映える頭には真っ赤なバンダナを巻き、更紗模様のズボンに、なめし皮の黒いブーツ。そして何より印象深いのは、キャラコ(白木綿)のシャツだ。一言で言えば、ずいぶん派手な格好をしている。

「何の用だ? ここは、海賊たちの憩いの場だ。争いごとを持ちこむのは、ヴェインが承知しないぞ」

「争いごとを生んだのは、そっちだろ? 私闘じゃなけりゃ、ヴェインも咎めないだろうよ」

 静かに睨み合うアレックスとジャック。いつ互いの剣が引き抜かれるかと、店内の海賊たち、レベッカたちは固唾をのんだ。

「ちょっと、ジャック!! 誰があなたの女ですって!?」

 と、唐突に緊迫した空気を引き裂きアンの声がとどろいた。アンは仁王立ちでジャックの前に立ちはだかると、アレックスよりも鋭い目つきでジャックのことを睨み付ける。

「おっと、アニー。あの熱い夜のことを忘れたとは言わせないぜ」

「冗談。どの夜が暑い夜だったっていうのかしら?」

「いいね、そのツンとしたところがたまらない。思い出せないなら教えてやるよ。子どもたちにはまだ早いが、大人の恋愛ってやつを……」

 そう言うと、ジャックはアンの素早く腰に手を回し、彼女の細い体を引き寄せた。そして、口づけを迫ろうと顔を近づける。アンに思いを寄せる海賊たちから、俄かに悲鳴にも似たどよめきが巻き起こった。

 ところが、アンは拒絶の意思をはっきり示すかのように、ジャックの顔を片手で押さえつける。

「白昼堂々破廉恥な人ね。思い出したわ、あなたがヴェインに叱られて、やけ酒飲んで酔っ払った挙句、ゲーゲー吐きながら、女みたいに泣いてすがった夜のこと」

「いや、あれは……」

「それとも、イギリス海軍にしつこく追い回されて、這う這うの体で帰ってきて泣いてた夜のことかしら。ああ、そういえば、ボネット海賊団と騒ぎを起こして、せっかく集めたお宝を全部取られちゃって、メソメソ泣いてたこともあったわね」

「ま、待ってくれアニー」

「あの夜は傑作だったわ。酔っ払ったあなたが、ご自慢のキャラコのシャツを脱いで、そこのテーブルの上で裸踊りを……」

「た、頼む、もうそれ以上は勘弁してくれ。その話は不味い」

 急にジャックの旗色が悪くなる。すると、店内から笑い声が漏れ聞こえてきた。張りつめた空気は一変して、店内は穏やかな雰囲気に包まれた。

「もっと恥ずかしいあなたの話を、彼らに聞かせてあげましょうか? それが嫌なら、もめごとなんか起こさないで、ジャック!」

「分かったよ、アン。なんだか、セルマみたいだな」

 観念したのか、罰の悪そうな顔をしたジャックはそうぼやくと、アニーから離れた。

「アレックスさん。あの方、お知り合いなのですか?」

 不意に、アレックスの背後でアイリスが尋ねる。アレックスはこくりと頷いた。

「あいつの名は、ジャック・ラカム。うだつの上がらない海賊さ」

「ヒドイじゃいか、アレックス。こう見えても、ヴェイン海賊団の旗艦〈レンジャー号〉の操舵手だ。海賊仲間からは、『キャラコ・ジャック』って呼ばれてる。よろしく可愛いお嬢さん。あと五年もしたら、是非俺に口説かせてくれよ」

 気を取り直したジャック・ラカムは、キャラコのシャツの襟もとをただすと、持ち前の軽い性格を感じさせる口調で名乗ると、アイリスに握手を求めた。

「ずいぶん明るい方なのですね」

 と、アイリスは楽しそうに微笑み、ジャックの手を握った。

「気を付けなよ、アイリス。こいつは年中、頭が女のことでいっぱいだ。それで、ジャック。俺に何の用なんだ?」

 改めてアレックスが問いかけると、ジャックはゴホンと咳払いを一つした。

「ウチの船員がずいぶんと世話になったみたいじゃないか。一人は重傷、一人は気を失い、一人は失禁しながら俺たちに助けを求めてきた」

「それは、そっちにも非がある」

「ああ、そうだ。コソドロだかチンピラみたいな馬鹿な真似して、お前たちから金を巻き上げようとしたのは、あいつらだ。ヴェインが知れば、きっとあいつらは両足を撃ち抜かれて、海に叩きこまれてあの世行だろうな」

「だったら、何の用があるんだよ?」

「悪いのはお互い様だ。だが、お互い様だからこそ、落とし前は付けてもらわなきゃいけない。お前らだけ、無傷と言うわけにはいかないだろう。そうしなきゃ、ヴェイン海賊団の体裁にかかわるからな」

 ジャックの言い分にも一理ある、とアレックスは頷いた。

 海賊の多くが海軍のような確立された立場を持つ訳ではない。船団の名が持つ「力」「威厳」「畏怖」それらこそが、組織内や外部の上下関係を決める。その上で、体裁と言うものは大事なのだ。もしも、ヴェイン海賊団の船員が、ブラックストーン海賊団の船員……即ち、アレックスたちに負けたと言うことが知れ渡れば、少なからずヴェイン海賊団の名に傷がつく。この街で最も大きな海賊団の名に傷が付けば、同時に海賊全体の威厳も損なわれるのだ。

「じゃあ、ここでもう一戦交えるか? 顔見知りだからって、容赦はしないぞ」

 アレックスは警戒するようにジャックを睨み付けると、再び腰に帯びた剣に手を添える。しかし、ジャックは慌てて頭と両手を振った。

「待て待て、何もお前と果たし合いがしたいわけじゃない。第一こんなところで剣を抜けば、セルマのばあさんに殺される」

「だったら何だよ、さっさと用向きを言え、ジャック」

「俺は争い事は好まない。お前とレベッカの手を借りたいんだ」

「手を借りたいだって?」

 訝るアレックスにジャックは笑って、

「ああ。なに、大したことじゃない。ちょっとしたお使いさ。夜にはナッソーに戻れるはずだ」

 と言った。

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