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ウラカンレオン号の航海記録  作者: 阿蘭素実史
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3. 漂流者

 大西洋、とりわけ大小の島々に囲まれたカリブ海は、局所的なスコールやハリケーンを除き、一年を通して穏やかな海域である。そんな水平線まで広がる青い海を、一隻の船がゆったりと航行していた。白亜の帆を広げた二本のマストを備えるブリッグ・スループであること以外、何の変哲もない商船型の船である。

 その船の観測員アレックス・クロフォードは見張り台の上で、亜麻色のくせ毛を潮風になびかせながら、大きな欠伸を繰り返していた。

 ともすれば、甲板の船員から咎められてしまうくらいはしたない欠伸だったが、彼の居る見張り台はマストの頂上付近にあり、甲板からは死角になっている。

 もちろん見張りは非常に重要な仕事である。船の運航において生じる、様々なトラブルを防ぐためには二十四時間体制で船の周囲を見張っていなければならない。しかし、近隣に岩礁や船舶のない場所を航海している際には、これほど退屈な仕事もない。

 とりわけ、働きたい盛りの十六歳のアレックスにとって、水平線に浮かぶ雲と、船の周囲を旋回するカモメの群ればかりで変化に乏しい景色を一日中眺めていれば、欠伸の一つや二つ漏れ出してしまう。

「こら、新米! もっと真面目に働け。さもなければ、海に叩き落とすぞ!!」

 唐突に足元から声がして、アレックスは心臓が飛び出しそうになった。樽を半分に切ったような見張り台の底に開けられた昇降口に目を投じると、アレックスと歳の変わらない少女がひょこっと顔をのぞかせる。

 少女は悪戯が成功した子どものように、口元をニヤニヤとさせていた。

「なんだ、レベッカか。おどかすなよな」

 ホッと胸を撫で下ろしつつも、アレックスは少女を睨み付けた。レベッカと呼ばれた少女は悪びれる様子もなく、するりと身軽に見張り台に上がってくると、ポニーテイルに結んだ長い黒髪を風にたなびかせる。

「大欠伸してるあんたが悪いのよ。観測員の仕事はとても大事よ。あんたがサボったおかげで、船員皆が海に沈むことだってあり得るんだから」

「そんなこと、分かってるよ。そう言うお前は何しに来たんだよ、まさかお前も退屈してるんじゃないよな?」

「おお、ご明察。ちょっと退屈で死にそうなの、あたしの暇つぶしに付き合ってよ」

 白い歯を見せながら笑うレベッカに、アレックスは再び溜息を吐いた。

「いやだよ。そんなに退屈なら、レイモンドの所へ行けばいいだろ」

「レイはリアクション薄いし、会話続かないんだもん。あんたの方がイジリ甲斐あるし」

「そんなこと言われちゃ、なおさら嫌だよ。仕事に戻れよ」

「あら、あたしの言うことが聞けないっての? これは航海長命令よ!」

 アレックスの鼻頭に指先をつきつけたレベッカは、陽に焼けた浅黒い顔に白い歯がのかせた。

 強権を発動されては、ぐうの音も出ない。船乗りにとって、上下関係は絶対だ。一介の観測員にして新米船乗りのアレックスには、この船の航海長という重責を担うレベッカに盾突くことは出来なかった。

「そもそも、情報屋のダニー・オルソンが悪いのよ」

 と、レベッカは何の前置きも脈絡もなく話し始める。半ば愚痴のようだ。

「ナッソーの港を出港してずっと、船影一つ見えやしない。きっと、ダニーのやつにガセネタを掴まされたんだわ」

「ガセネタって、航海長がそんなこと言っちゃダメなんじゃないのか?」

「私だけじゃなくて、皆思ってるわよ。だって、もう二週間が過ぎたのよ! 羅針盤だって何処を指したらいいのか分からなくなってるわ」

「まだガセと決まったわけじゃない。この間だって、結局一週間も待ちぼうけくらわされたじゃないか。きっと、もうじき船が見えてくるさ」

「あら、アレックスは楽観的なのね。でも、このまま手ぶらでナッソーに帰ったら、いい恥さらしよ。あのヴェインのイカレ野郎にまで、指差されて笑われるかもしれないわ。まあ、その時はダニーから今回の航海にかかった諸経費をそっくり頂いて、ついでにアバラの五、六本を折って半殺しにしてやるけどね」

 カラリと笑って、物騒なことを事もなげに言ってのけるレベッカにうすら寒いものを感じてしまう。

 しかし、彼女がそれくらい腹に据えかねているというのも無理はない。船の航海には、食料や衣料、薬、船員への報酬などたくさんのコストがかかる。彼女の言うように、もしも寄港地へ手ぶらで帰ることになれば、恥をかくだけではなく大損してしまうのだ。下手をすれば、この船の屋台骨さえも揺らぐ。この船の台所事情を預かるレベッカが気に病むのは当然のことで、誰かがその責任を負わなければならないのは、当然のことと言えた。

 しかし、それでも女の子の口から半殺しなどというセリフが飛び出すのは「平穏じゃない」と思う。

「まあ、レベッカに女らしさを期待するのは無理か……」

「何ですって? あんた、殺されたいの?」

 アレックスの小さな呟きを耳ざとく聞いたレベッカが、ギロリと睨み付けてくる。アレックスは、わざとらしく明後日の方向を向いて「いや、なんでもない」と取り繕った。

 ふと、その視線の先、穏やかな海の小さな波間に不可解なものが浮かんでいることに気付いたのは、ちょうどその時だった。

「あれは、何だ?」

 と言う、アレックスの胸倉に掴みかかろうとしていたレベッカも手を止め同じ方を向いた。

 船の前方に浮かぶそれは、ゆっくりとこちらに近づいている。海洋生物の類でないことはすぐにわかった。なぜなら、波に逆らって泳いでいるのではなく、潮流に乗って流されているからだ。

 アレックスはとっさに首から下げた双眼鏡を手に取った。

「人だ! 漂流者だ!!」 

 そう叫んだ後のアレックスの行動は、ほぼ無意識だった。双眼鏡をレベッカに投げ渡し、見張り台の淵に足をかけたかと思うと、海面めがけて一気に飛び出した。

 海面からマスト頂上にある見張り台までの高さは尋常ではない。わずかでも着地点を間違えれば、真下の甲板に墜落してしまう。板張りの甲板はとても堅く、おそらくただでは済まされないだろう。

 しかし、宙を舞うアレックスの体は放たれた砲丸のようにしなやかな弧を描き、小さな水柱を上げながら見事に着水した。

 早くしなければ、直に漂流者は船の下敷きになってしまうだろう。幸い、泳ぎは得意である。アレックスは、船の作り出す波に逆らって水を掻き、ひたすらに漂流者の元へと急いだ。

 漂流者を救うのは船乗りの義務だ。例え相手が敵であっても、海に投げ出されたらただの人間である。そして義務を放棄した瞬間、船乗りもまた、ただの人間になってしまう。

 そんな船乗りの矜持に突き動かされたアレックスが、漂流者の元にたどり着くのに、それほど時間はかからなかった。漂流者は船の残骸と思われる、一部焼け焦げた板切れに掴まり、意識を失っていた。

 傍に寄ったアレックスは予期せず驚きの声を漏らしてしまう。

「お、女の子?」

 漂流者は、アレックスと同年代らしき少女だった。透き通るような白い肌、レインコートのフードからのぞくブロンドの髪、淡いピンク色をした絹のドレス、どれをとってもこの少女がそれ相応の家柄の娘であることをうかがわせる。

『まるで人形のようだ』

 眠る少女の可憐で美しい顔に、アレックスは思わず見とれてしまった。

「カーラ……、たすけて」

 ふいに少女の色を失った唇から、うわごとが聞こえてきた。アレックスはハッと我に返り、少女の肩を強くつかんで振るわせた。しかし意識を取り戻す気配はない。それどころか、掌に伝わる体温が著しく低い。おそらく長い時間海水に浸っていたのだろう。このままでは遅かれ早かれ、体温を失い死んでしまう。

 アレックスは少女の手を板切れからはがすと、彼女の体を背負うようにして、船へと引き返した。船上では、カンカンと甲高い警鐘の音が鳴り響いていた、見張り台のレベッカが鳴らしてくれているのだろう。甲板は、警鐘の音を聞きつけた船員たちで騒然としている。

「アレーックス!! こいつに掴まれーっ!!」

 船のそばまでたどり着くと、船員の誰かが木製の浮き輪を投げてくれた。浮き輪にはロープが結わえられている。アレックスは手を伸ばし、浮き輪にしがみついた。

「よーし、引き揚げろっ!!」

 という合図が甲板に響き渡ると、逞しい腕の船員たちが総出でロープを引き、瞬くうちに二人を甲板に引き揚げた。


 ツンとした薬の匂いに、長い眠りから目覚めた少女は、眩いばかりのオレンジ色の光に視界を奪われた。それは窓辺から差し込む夕日の光だった。

 ゆっくりと揺れる天井のランプ。時折、ギィ、ギィと木のきしむ音が聞こえてくる。どうやら、ここは船の上、船室の中のようだ。そして堅いベッドの上に寝かされているということは、意識がはっきりしてくると同時に、すぐに理解できた。

 しかし、何故自分がこのようなところで寝かされているのかが、全く分からない。

 少女はが枕の上で頭をわずかにめぐらせると、先ほど夕陽が差し込んだ舷窓のわずかに開けられた水密窓から、穏やかな潮風が香りと共に吹き込み、少女の鼻頭をくすぐった。

 反対側に向くと、部屋の片隅に置かれた机に向かって少年が難しい顔をして、何やら熱心に書き物をしている。少女よりも少しばかり年下とみられる少年の髪は、かなり薄いブロンド、ほぼ銀髪と言っていいだろう。そんな珍しい色の髪をした少年のことをぼんやりと見つめていると、その視線に気付いたのか少年は手を止め、こちらを向いた。

「目、覚めた?」

 無愛想とも受け取れるほど、銀髪の少年の口調は、ひどく抑揚のない淡白なものだった。

「あの、あなたは……」

 声がかすれて上手く出せない。少女は喉の奥がひどく乾燥していることに気付いた。銀髪の少年もそれに気づいたのか、机の端に置かれていた水差しからコップに水をくみ、少女に差し出した。

「衰弱してるだけ。滋養を付けて、水分を摂れば、直に治る」

「ありがとうございます」

 かすれた声でお礼を述べると、少女はベッドから上体を起こし、ぬるい水を喉の奥に流し込んだ。体中のあちこちが痛い。全身に疲れの様な倦怠感がある。それでも、水を飲んで多少落ち着いた。

「あなたはどちらさま?」

 再び少女が問いかけると、銀髪の少年は「レイモンド・ゴードン」と短く名乗り、首から提げた聴診器を少女に見せた。どうやら『この船の船医だ』と言いたいのだろう。こんな十三、四歳の少年が船医だというのはにわかに信じがたいものがある。

 しかし「あなた、お医者さまなの?」と少女が尋ねると、レイはこくんと頷いた。

 改めて周囲を見回してみると、船室には先ほど少年が書き物をしていたレターテーブル以外に、リネンを収めていると思われる大きなタンスや、包帯と薬の小瓶が並べられた棚がある。そのどれもに、船が揺れても中身が飛び出さないよう、鍵や固定具が取り付けられてはいるが、陸の病院と変わらぬ雰囲気を漂わせており、ひと目でここが医務室だということが分かる。

「わたし、どうしてこんなところに……」

「漂流してた」

 レイの言葉に、少女は思わず小首をかしげた。

「覚えてないの? アレックスが君を見つけて助けたんだよ。それより教えて、君の名前」

「わたしですか? わたしの名は……」

 と、言いかけて少女はとっさに答えに詰まった。

 自分の名前。忘れるはずもないそれが、頭のどこを探しても見当たらない。それどころか、自分が漂流していたということも、自分が何処の誰なのかすら、一切合切思い出せないことに気付かされると、急激に頭から血の気が引いていく。焦って思い出そうとすれば、言い知れぬ不安感と恐怖感が襲い掛かってくるようで、少女は顔を青くした。

「もしかして、思い出せないの? 」

「はい。頭に靄がかかったみたいに。何も思い出せないんです」

「そんなことって……まさか」

「本当なんです、ごめんなさい」

 か細い声で詫びると、少女は伏し目がちにうつむいた。

 船室に沈黙が訪れる。ちょうどそのタイミングを見計らったかのように、船室のドアが乱暴に大きな音でノックされた。

「レイモンド。俺だ、エリオットだ。入るぞ」

 ドア越しに野太い大人の男の声がする。ちらりとドアの方に目をやったレイが「どうぞ」と言うと、(たてがみ)のような尖った髭を生やした、巨漢が部屋にのそりと入ってきた。男は、つばの大きな船乗りの帽子に、くすんだグレーのコートを着込んでおり、一目瞭然で「船長」だとわかるような風体だった。

「お嬢ちゃんの様子を見に来たんだが、どうやら目を覚ましたみたいだな」

 男の地鳴りのような声音に、少女は少しばかり身をすくめた。男はそんな少女の態度に、からからと笑いながら、手近な場所にあった丸椅子に腰かけると、

「俺はこの船の船長を務める、エリオット・ブラックストーンだ。とりあえず、目立った怪我もないみたいだし、無事で何よりだったな。気分はどうだ?」

 と、自己紹介を兼ねて少女に尋ねた。

 恐ろしい声音の割に、言葉の裏に自分のことを気遣ってくれているような、どこか温かみを感じた少女は、居住まいを正して小さく会釈する。

「はい、おかげさまで。助けて頂き、本当にありがとうございます」

「ほほう、随分礼儀正しいお嬢ちゃんだな。だが、礼はお前さんを助けたアレックスの野郎に言うんだ。きっと、あいつも喜ぶだろうよ」

 エリオットはそう言うと、急に真面目な顔をした。

「さて、目を覚ましたばかりで悪いとは思うが、どうしてお前さんが漂流していたのか、教えてもらえるか?」

「それは……」

 少女は再び答えにつまってしまう。覚えていないのだ。いや、正確には思い出せないのだ。

「俺達は慈善事業で船を動かしているわけじゃないが、お前さんを近隣の港まで送ってやることくらいはできる。それでも、事情を聞かせてもらわなければ、多くの船員たちが納得しないだろう。話しづらいことや話したくないこともあるだろうが、包み隠さず聞かせてもらえんだろうか」

 少女に何か話したくない事情があると汲んだのか、エリオットの口調は優しかった。しかし思い出せないことを上手く伝えるための言葉が見当たらない少女は、どう答えていいものか迷い、困り果ててしまう。

 すると傍らで黙っていたレイが、エリオットの肩をちょんちょんと叩いた。そして、彼が耳元で何やら小声でささやくと、エリオットは猛禽のような鋭い目を大きく見開いた。

「記憶喪失だと!? そんなことあり得るのか?」

 素っ頓狂な驚きの声を漏らし、少女の顔を見つめるエリオットに「医学的には証明されてる」と単調な口ぶりでレイが告げた。

「人間は恐怖で強いショックを受けると、自分の身を守るため、記憶の一部を消すことがある」

「医学のことは、俺にはよく分からん。だが、その喪った記憶って言うのは戻るのか?」

「わからない。確証はないけれど、時がたてば元に戻ったという事例もある。そもそも、一時的に頭が混乱しているだけかもしれない。いずれにしても、僕の手には負えない」

「そうか、そいつは困ったな」

 エリオットが渋い顔をしながら、顎鬚をわしわしとさする。

 一方、二人の会話を聞いていた少女は、記憶がないことで、命の恩人とは言え見ず知らずの人たちに迷惑をかけなければいけなくなってしまったことに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「ごめんなさい、ご迷惑おかけして」

「なに、困った時はお互い様だ。船乗りだけに、乗りかかった船だな。もしも、明日になっても記憶が戻らないようなら、ナッソーへ引き返して医者に診てもらうのがいいだろう。それまでゆっくり休むといい。何か用入りのものがあれば、俺の娘……レベッカに持って来させる。遠慮なく言え。レベッカは多少気の強い娘だが、年も近そうだし、きっと気が合うだろう」

 そう言ってエリオットは「話がある」とレイを促して医務室を後にした。

 医務室に残された少女は、二人の足音が聞こえなくなってから、そっと丸い舷窓からわずかに見える海に目を向けた。

 穏やかな潮騒を奏で、黄金色に輝く夕暮れの海が広がっている。

 しかし、そんな美しいカリブ海の景色とは反対に、少女の心は不安に押しつぶされそうだった。記憶がない、そのことがどれほど心細く、恐ろしく、そして情けないことかということを、独りきりになってまざまざと感じた。

 人知れず少女の頬を一筋の涙が零れ落ちる。少女は嗚咽をもらす前に、薄いシーツを抱きしめるようにしてうずくまり、体を小さく震わせた。

ご意見・ご感想などございましたら、お寄せください。

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