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ウラカンレオン号の航海記録  作者: 阿蘭素実史
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2. 嵐の海

「時化てきやがったな……」

 貨物船〈シーガル号〉の舵を握る船長が、髯の生えた顎をさすりながら、ぼやくように言った。

 つい先ほどまで穏やかな偏西風が吹いていた海はいつまにやら、どんよりとした黒い雲に覆われていた。波が高くなり、マストで羽を休めていたカモメたちも何処かへ飛び去ってしまい、甲板を吹き抜けるカリブ海の熱い風に湿り気を感じる。

 比較的穏やかなカリブの海が、これほどまで急激に様子を変えるのは、珍しいことだった。

「船長」

 と前部甲板から舵のある後部甲板へのラッタルを駆け上りながら声をかけて来たのは〈シーガル号〉の航海長だった。

「本当に彼女たちを、この船に載せて良かったんでしょうか?」

 ぶしつけにそう言うと、やや不安げな顔をしながら、その視線を足元に落とした。その先にあるのは、この船の船倉だ。

〈シーガル号〉はイギリス東インド会社の貿易船である。船倉には沢山の交易品を詰め込んでいる。砂糖、紅茶、綿花。それらインドで仕入れた交易品をイギリス経由でカリブの島々や新大陸に降ろし、代わりに銀などの資源を持ち帰るのが〈シーガル号〉の仕事だ。

 だが、その日〈シーガル号〉の船倉には交易品のほかに特別な『積荷』が載せられていた。それは、交易品の類ではなくではなく、貿易船が普段乗せることのない『乗客』だった。『乗客』は二人連れの年若い娘たちだった。ちょうどイギリスの港を出港する直前、彼女たちは〈シーガル号〉に現れた。すでに積荷の積み込みは終わっていたし、貨客船ではない手前、彼女たちの乗船を一度は断った。しかし「船倉の隅でいいから乗せて下さい」と名のある人物からの紹介状と、十分な金貨を見せられて、船長は渋々乗船を許可することにした。だが、怪しいことはこの上ない。報酬の金貨があるのなら、それを使って貨客船にでも乗ればいい。その方がずっと安上がりで、快適な海の旅が約束されている。そうしないのには、何か事情があるからだ。しかし、彼女たちはその事情すら話したがらなかった。

「何だ、まだそんなこと言ってるのかお前は。今さらあの娘たちを海に捨てるわけにもいかないだろう」

「しかし、彼女たちには何か嫌な予感がするんです。なんだかワケありみたいですし、いくら事情を尋ねても『教えられない』の一転張りです。あの紹介状だって本物かどうかマユツバではありませんか」

「さては、総督府の目を気にしているのか? あんな腑抜けた連中。例えご禁制の品を陸揚げしても分りゃしないさ」

「いえ、総督府だけじゃありません。この突然の嵐……」

 にわかに荒れ始めた海をぐるりと見渡す航海長。

「この嵐をあの娘たちが運んだ、とでも言うのか? バカバカしい。根拠のないことを言って、船員たちを不安がらせるな」

 船長は強い語気で、不安を吐露する航海長を黙らせた。

 もともと心配性なところのある航海長だ。だが彼が気にするのも仕方がないと言うことは、船長にも分かっていた。正直に言えば『乗客』の彼女たちが嵐を呼んでいるなどと思わないまでも、船長も内心では彼女たちのことをのことを、どこか胡散臭く思っていた。しかし、船長の立場にある者が、根拠のないことで不安を口にすれば、船員たちは士気を失うことになる。

「こんな嵐なんぞ海賊に比べれば、何ともないさ」

 船長は航海長に向かってガハハと笑ってみせた。

 まもなく海は大荒れになった。灰色の空から雷鳴がとどろき、横殴りの風が吹き荒び、雨が弾丸のように打ち付ける。水しぶきが甲板を洗い流し、風雨がセイルを無造作に煽り、船首が高波をえぐるたびに、船体は前後左右に大きく揺さぶられ、今にも転覆しそうだ。

「しっかり掴まってねえと、海へ投げ出されるぞ!!」

「馬鹿野郎! ロープを離すな!! てめえの腕が千切れてもだ!」

「左から大波が来るぞー!!」

 怒号を浴びせかける水夫たちは皆、船を守るために甲板を右往左往していた。船長は暴れる舵を逞しい腕で切りつつ、船の傾きを右へ左へと立て直しながら、

「野郎ども、ポートロイヤルはもうすぐだ! 気を緩めるな!!」

 とそんな水夫たちに声をかけた。すると、すぐさま「おう!」と威勢の良い返事が返ってくる。

 この分なら、こんな嵐を越えることなど造作ない。船長が丁度そう確信した時だった。右舷の観測員が双眼鏡を覗き込んだまま声を挙げた。

「船長!! 右舷から接近する船がありますっ!!」

「何っ!?」

 船長は舵輪を片腕で握ると、懐から取り出した単眼鏡を覗き込んだ。

 まるで嵐に翻弄されるかのように、接近する船のマストが波の合間に見え隠れする。その船は普通の帆船ではなかった。ましてや貿易船でも外国の商船でもない。

 黒鋼の装甲に覆われた船体。両舷に開けられた二十もの砲口。大きな帆の張られた三本のマストの頂にはためく黒い旗には、禍々しい髑髏と交差する死神の(サイス)があしらわれている。

「チッ、こんな時になんてこった! 海賊船だ、海賊船が来るぞーっ!!」

 船長の発した言葉に、甲板中がどよめきに包まれた。

「海賊船が回頭!!」再び観測員が声を挙げる。

 真っ直ぐこちらに向かって接近していた黒い海賊船がくるりと転舵し、船首を〈シーガル号〉と同じ方へ向けるやいなや、船の腹に設けられた穴から大砲をのぞかせた。

 たちまち砲門が煙に包まれ、雷鳴のような砲撃の音が鳴り響く。

「撃って来たぞー! 伏せろーっ!!」

 船長が叫んだ瞬間、黒い海賊船の放った砲弾が〈シーガル号〉の目前で着水し、腹に響くような破裂音と共に大きな水柱を上げた。

 船に損害はない。しかし、甲板の水夫たちは完全に怯えきっていた。嵐で行く手が遮られているばかりか、恐ろしい海賊船のお出ましである。水夫たちが怯えてしまうのも無理はなかった。

「か、海賊! 『カリブの死神』だ。ああ、俺たちはおしまいだ!」

 と声を震わせて叫んだのは、とりわけ青い顔をした航海長だ。

「馬鹿野郎、なにガタガタ震えているんだ! あれはただの威嚇砲撃だ、ワザと外してやがる。奴らは俺たちが停船するのを待ってるんだ!」

 航海長の体たらくにチッと舌打ちしながらも、船長は声を荒げた。

「どうした、お前たち! さっきまでの威勢は何処に行った!? ビビってるやつは、屍を晒すだけだ! 死にたい奴は、今すぐ嵐の海に飛び込め! 海賊の大砲の弾ではじけ飛ぶより楽に死ねるぞ! 死にたくない奴は戦え! 忘れたのか、この船はカリブで最も足の速い〈シーガル号〉だ、海賊なんぞに追いつけるものか!!」

 その言葉に発奮したのか、あちこちから「アイアイサー!」と威勢が戻ってくる。

「よーし! 嵐を利用して、全速力でこの海域を離脱するぞ。取り舵、いっぱーい!!」

 船長が大きく舵を切ると〈シーガル号〉は向きを左にそらした。黒い海賊船も左へと舵を切り〈シーガル号〉を追いかけながら、断続に砲撃を加えてくる。

 正確な射撃ではないが、暴風雨に煽られた砲弾がいつこちらの甲板に穴をあけるともしれない。そもそも、足の速い〈シーガル号〉とは言え、この嵐の中で黒い海賊船を巻くことができる確証は何処にもない。

 それでも海賊船と遭遇した〈シーガル号〉が生き残る道は他になかった。


 雷鳴だと思った。しかし、ドン! ドン! という低い破裂音は、稲妻の発する鼓膜を刺激するような炸裂音とは違う。

 少女は椅子から腰を上げて、丸い舷窓越しに外の様子を覗き込んだが、見えるのは重たい雨雲が覆う灰色の空と、生き物のようにうねる高波ばかり。

 そのうえ、船長に通された部屋は「客室」とは名ばかりの船倉の隅にある小さな仮眠室で、低い破裂音がするたび部屋は、ギシギシと音を立てて揺れる。その度に壁掛けのランプがグラグラとし、今にも落ちそうになっていた。

 少女は得体の知れない不安に怖くなり、傍らの椅子に腰かける侍女のカーラの手をそっと握った。

「大丈夫ですか? お嬢様」 

 カーラは優しく声をかけてくれる。十五歳の少女より五つも年嵩だけあって、カーラは落ち着いた様子だった。いや、本当は彼女も不安を感じているが、(あるじ)を不安がらせまいと、平静を装っているだけかもしれない。それでも、少女はカーラの手のぬくもりに、心なしか安心感を得られるような気がした。

『ここまで来られたのもカーラのおかげ……』

 と少女は思う。

 誰にも気づかれることなく旅支度を素早く済ませられたのも、無事に追っ手から逃れることが出来たのも、イギリスの港で〈シーガル号〉の船長に「ポートロイヤルまで載せて欲しい」と直談判してくれたのもカーラだ。カーラが居なければ、逃亡の手段も、船に乗る交渉も出来なかった。

「こんなことになるなんて」

 少女は目深にかぶったレインコートのフード越しに、カーラの顔を見上げた。小柄な少女は背の高い侍女を見上げなければならない。少女の青い瞳がチラリとのぞく。その瞳は憂いに満ちていた。

「ご心中ご察しいたします。されど、ポートロイヤルにもうじき到着するはずです。ポートロイヤルに着けば、必ずチェスター卿がお嬢様のお力になって下さるはずです。ですから、何卒もうしばらくご辛抱くださいませ、お嬢様」

 侍女の優しい言葉に、少女は頭を振った。

「ありがとうカーラ。でも、そうじゃないの。わたしのために、侍女の貴女に裏切り者の汚名を着せてしまったことが、とても悔やまれる。本当にごめんなさい」

「何をおっしゃいます。わたしはフローラ様から頂いた使命を全うしているだけです。ですから、お嬢様はなにも気に病むことはありません。それよりも、気を強くお持ちください。この先、どんな困難が待ち受けていたとしても、耐え忍ばなければならないのですから」

 カーラが反対の手をそっと少女の手に重ねた。

「分かっているわ、カーラ。貴女がいてくれて、本当に良かった……」

 少女は姉のように慕ってきた侍女の優しさに、心から安堵を覚えた。

 しかしそれもつかの間、再び船の外で、ドン! ドン! と言う低い破裂音が聞こえ、船がグラグラと揺れる。音が響くたび、肩を竦ませては小さく縮こまる少女の細い体をもカーラが抱き寄せた。

 ひときわ大きな破裂音がして、船が今までで一番大きく揺れた。左右だけでなく、上下にも激しい振動が伝わり、二人が椅子から転げ落ちるのと同時に、壁にかけられたランプが床に落ちる。割れたランプからは油が辺り一面に飛び散り、瞬くうちに炎が燃え広がった。

「火事になっちゃう!」

 少女は驚いて叫んだ。だが、あたりを見回しても消火できるような、水も大きな布もない。ハンモックと椅子だけしかない、質素で小さな部屋に煙とガスが充満するのには、それほど時間はかからなかった。

「ケホ、ケホ! お嬢様っ、逃げましょう!」

 激しくせき込みながらカーラが少女の小さな体を助け起こす。

「ここにいたら焼け死んでしまいます。甲板に上がって、水夫たちに火事を知らせましょう」

「うん」と少女が頷くのを確認して、カーラは勢いよく船室の扉を開けた。

 二人は煙と共に船倉へ飛び出した。そこは薄暗い船倉だった。ポートロイヤルの港に届けるため満載された積荷と積荷の隙間に、わずかな通路がある。だが、そこは半ば迷路のようになっており、右も左もわからなかった。

 二人は、一度火に包まれた仮眠室を振り返ると、意を決して積荷の迷路を、甲板目指して駆け抜けた。〈シーガル号〉はそれほど大きな帆船ではない。すぐに、甲板へ上がるための階段を見つけた。

 しかし、甲板に上がった少女の青い瞳に映し込まれたのは、十五年の人生で一度も見たことがないような、凄絶な光景だった。

 二本のマストのうち一本は根本から折り取られ、副帆は炎を上げて今まさに焼け落ちようとしていた。強い雨の打ち付ける甲板は白煙に包まれており、火薬のにおいが漂っている。あちこちに焼け焦げた跡や穴も開いていた。右往左往する水夫たちの多くが煤にその顔を汚し、あるものは血を流してその場に倒れ込んでいるにも関わらず、誰一人として持ち場を離れようとしない。それがまるで海の男のプライドであるかのようだ。

 これは、一体どうしたというのだろう? 事態が呑み込めない少女は、階段の出入り口で立ち尽くしながら、周囲を見回した。すると〈シーガル号〉のやや後方を一隻の黒い船が追いかけているのが見える。

「あれは……!」

 少女は息をのんだ。黒い船のマストに掲げられているのは『海賊旗(ジョリー・ロジャー)』である。ようやく、船室で聞いた低い破裂音の正体が、海賊による砲撃の音だと悟った少女は、新たな恐怖に襲われた。

 同じように甲板の光景に息を飲む侍女の手をぎゅっと強く握り、「カーラ」と彼女の名を呼ぶ。

 侍女のカーラは少女の声にハッと我に返り周囲をきょろきょろと見回した。そんな二人のことを、後部甲板の船長も気付いたのか、やたらと険しい顔で怒鳴ってきた。

「何やってるんだ、あんたら!! 危ねえから船室に戻れっ!!」

 塩水を被ったのか、それとも打ち付ける雨の所為なのか、船長は髪も髭もロングコートもびしょ濡れにしていた。

「ランプが! 船室のランプが落ちてしまい火事に!」

 嵐に乱される長い髪を押さえながら、カーラが力いっぱい叫んだ。

「何だと!? あんたたち、この嵐の中でランプの火を消していなかったのか? まあいい、あんたたちを、責めてもしょうがない。どうせ積荷を奴らにくれてやるくらいなら、燃えてなくなった方がマシだしな。それより、こっちへ来い。そこにいるよりは安全だ!」

 船長に促され、少女とカーラは操舵席へと向かった。

 操舵席の船長は逞しい腕で舵を切って巧みに嵐の高波と砲弾の両方を避けていく。ただ、それでも黒い海賊船からの休みない攻撃を前に、すでに〈シーガル号〉は瀕死の重傷状態であった。

「大丈夫なのですか? わたしたちは何としてもポートロイヤルにたどり着かなくてはいけません」

 と言うカーラは心配そうだった。

「要らぬ心配だと言いたいところだが、まあ見ての通りだ。あんたらの事情は知らんが、この船がポートロイヤルにたどり着けるかどうかは、神のみぞ知るってやつだ」

「そんな、無責任な!! この船は、高速船ではないのですか?」

「そりゃ、フリゲートよりは足は速いが、この嵐の中じゃ、ぬかるみを駆けているようなものだ。しかも追いかけてくる相手は、あのサイモン・グレイナーだ」

「サイモン・グレイナー?」 

 聞きなれない名に思わず問い返したのはは少女だった。

「海賊だ。『カリブの死神』と呼ばれる恐ろしい海賊だ」

 船長の声音は低く重たかった。

「狙った船は絶対に逃さない。こちらが航行不能のズタボロになるまで砲撃で執拗に攻め上げて、金と女と船員の命を奪っていく。その様は、死神が生者の命を鎌で刈り取っていくかのようだと言われている」

 少女は黒い海賊船のマストに掲げられた海賊旗の図柄を思い起こした。不気味な髑髏と交差する死神の鎌。今まさに、この船は死神に弄ばれ、刈り取られようとしているのだ。恐怖の正体に触れ、少女は小さく身震いした。

「しかし妙だ……」

 と船長が眉をひそめる。

「死神サイモンの海賊船は、イギリスの船を襲わないと聞いていた。よもや、あのユニオンジャックが目に入らないわけでもないだろうに」

 船長の視線の先にあるのは、一本だけ残されたマストに掲げられたイギリス国旗だ。

「奴らはヘンリー・モーガンの再来を気取って、イギリスの私掠船(しりゃくせん)気取りだ。そんな奴がイギリス船籍のこの船を襲うなんぞ気でも触れたかね? 急な嵐といい、サイモン・グレイナーといい、まったく、今日はツイてないな」

 傍らでカーラが深刻な顔をしながら、船長のボヤキを聞いていることに、少女は気付いた。

「まさか……伯爵が?」

「船長!! 死神の海賊船が接近してきます!! 奴ら、こっちに体当たりする気です!!」

 傍らの少女にしか届かないほど小さなカーラの呟きは、観測員の怒声がかき消した。

 黒い海賊船が、雷雲を背に高波を押しのけて、全速力でこちらに向かってくる。海賊船の舷外に設けられた鉄の装甲は、標的船に体当たりし、損害を与えるためにスパイクが無数に並んでいた。

「海賊どもが乗り込んで来るぞー!! 全員陸戦準備! 海賊どもを一人残らず海へ叩き落せーっ!!」

 船長の掛け声で、水夫たちは「うおおっ!!」と唸り声をあげると、それぞれマスケット銃を手に構えた。

「娘さんたち、何かにしっかり捕まってろよ! 振り落とされても知らんぞ!!」

 船長はそういうと、舵を黒い海賊船に向かって切った。舵がギリギリと音を立てる。こちらからも体当たりをするつもりだ、と少女は悟り、カーラの腰のあたりにしがみついた。

 数瞬の後、二つの船は急接近し、船首からこすれるように激しくぶつかり合った。

 ついに死神の鎌がカモメの首筋を捉えた。黒い海賊船のスパイクが〈シーガル号〉の船体を削り取っていく。無数の破片が辺り一面に飛散する。それと同時に、黒い海賊船よりも船体の小さな〈シーガル号〉は競り負け、大きく反対側に傾斜した。その反動は凄まじいものがあり、甲板の水夫たちが、雨に濡れた甲板を滑り落ちて、荒れ狂う海に投げ出されていく。

 少女の細い腕ではその反動に耐えられなかった。悲鳴を上げる暇もなく、しがみついていたカーラの腰から腕が解け、水夫たちと同じように、甲板を滑り落ちる。

「お嬢様!! サブリナお嬢様ーっ!!」

 少女の名を呼び、とっさ手を伸ばすカーラ。舵にしがみついた船長の太い腕がカーラのことを捕まえていなければ、彼女も海へと投げ出されていただろう。

 その代り、カーラの伸ばした手は少女に届かなかった。

 少女の小さな体は、嵐の海に投げ出された。背中を海面に強く叩きつけられ、全身を走る痛みに、少女は泳げないことを今更思い出した。それでも両手両足をジタバタさせて、まとわりつく海水をかき分け何とか海面に浮かび上がった少女の目に飛び込んできたのは、ごうごうとうねる波間を漂う〈シーガル号〉の板切れだった。

 少女は文字通り藁をも縋る気持ちで、板切れにしがみついた。

「カーラっ、カーラっ!!」

 肩で息をしながら、侍女の名を呼び船を探す。しかし、激しい潮流に流されてしまったのか、それとも波が高すぎて見えないのか、見渡す限りに〈シーガル号〉の姿はない。

 不安や恐怖よりもさらに恐ろしい孤独感に捉われた少女は、波間にただ一人きりだった。

「怖いよう。何処、何処にいるのカーラ? お母さま、わたしを助けて、神さま、わたしを助けて」

 少女は呟くようにそういうと、目の前が暗くなるのを感じ、静かに意識を失った……。


 十七世紀末から十八世紀初頭にかけて、カリブ海は海賊たちの楽園であった。

 アメリカと呼ばれる新大陸発見から、ヨーロッパの大国は新大陸とその周辺の島々の進出と、植民地での覇権を巡って、長い戦争に明け暮れていた。とりわけ鉱物資源や作物が豊富に採れるカリブの島々は、経済的にも重要な領土として度々戦場となった。

 そんな戦争の中、国家のために敵国の商船や軍船を襲撃した船乗りたちがいた。彼らは、国家から敵国の船を襲撃する「私掠行為」の免許を与えられた勇敢なる海の男たちだった。

 しかし、私服を肥やすことを目的とする大国の政治家たちは、彼らの活躍を好ましく思わなかった。彼らが、私掠行為に及べば及ぶほど、カリブの経済に打撃を与えるからである。そこで、各国は海軍力の強化と整備を進め、ついに私掠船の船乗りたちを戦場から追い出した。

 そうして、放逐された私掠船の船乗りたちは「海賊」となった。

 ある者は名声を上げるため、ある者は富を得るため。またある者は血なまぐさい戦いを好んで、カリブの海に集まり、海賊団を形成し、国籍に関係なく商船や軍船を想いのままに襲撃した。

 彼らの行いは掠奪行為に過ぎない。決して褒められるものではなかった。しかし、無法者と化した海賊たちを突き動かしていたのは、「権力の柵から自由を勝ち取る」、というたった一つの信念だったに違いない。それは、かつて国に裏切られ見放された彼らに残された、新たな生きる道だった。

 この物語は、そんなカリブ海の海賊の中でも、伝説として語り継がれる「カリブの獅子」と呼ばれた、とある海賊船の冒険を記した航海記録である……。

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