18. カリブの獅子
広い海のことである。人と人の出会いと別れはどれほどの確率であろうか。まして、再会などという場面に出くわすことなど、天文学的な数値の確率であるとしか言いようがない。海での出会いと別れは、一期一会が当たり前であって、もしもそれが偶然ではなかったとしたら、それは何かしらの運命であると言っても過言ではないのだ。
それでも十年の歳月を経て再会を果たした。それが運命であるのか、偶然であるのかは、おそらく本人たちにも分かりはしないことだろう。
ただ、現実的なものの見方をしても、アレックス・クロフォードの存在が、広くカリブに知れ渡っていたことが、一つの要因だといえる。その要因を加えたとしてもなお、やはり海の上での再会などということは、まさに偶然であるとしか言いようがないのだ。
即ち、この再会が偶然でなかったとしたら、すべては神の悪戯か、悪魔の罠か。運命というものは、各も不思議に両者を引き合わせたのである。
ところが、親友ミラーの過去のことをブライアンはよく知らない。もともと寡黙な性格であったミラーが、自分のことを語りたがらないというのもあったが、ブライアンは家柄で他人を判断するほど、度量の狭い男ではなかったからである。イギリスには、立憲君主制の近代国家の礎が出来上がったといっても、それほど古い話ではなく、やはり王政時代の家柄の風習が残っていた。かく言うブライアンも、ウェールズ地方の小貴族セシル家の家柄であり、彼が軍役に就き、将校になれたのも、家柄のおかげだといえる。だが、そうしたお家制度のことを、若かりし頃から芳しく思わなかった彼は、ミラーと同い年の二十四歳になってなお、家柄を気にすることのない、ざっくばらんな性格に育った。人付き合いの苦手なミラーと、対極に位置するような陽気なブライアンが、共に親友と認め合う仲になれたのも、ブライアンのこうした性格によるものであったのかもしれない。だから、レイモンド・ミラーがフレデリック・ミラーの息子である、ということ以外、特別知る必要もなかったため、ミラーがアレックス・クロフォードと対峙した時、彼らが知己であることを、少なからず驚いていた。
「久しぶりだな。まさか、生きていたとは……」
アレックスが静かに言った。だが、ミラーはピクリとも表情を変えることはなかった。少なからず、再会を喜んではいないようだった。
「〈オールド・レンジャー号〉の船室から甲板に出る途中で〈リストレーション号〉の砲撃があった。運よく、僕には弾が当たらなかった」
淡々としたミラーの口調は、かつてのそれと同じだった。だが、すでにあのころの子供ではない。成長の証を見たアレックスは、少しばかり笑って言った。
「変わったな、お前。背もずいぶん伸びたようだが、そんなに口数の多いやつだったか?」
「十年もたてば人は変わる。僕だって、相手に言葉を伝えられる程度には成長した。おかげで、こうして海軍少尉にもなれた。だけど、君は変わらないな、アレックス」
「変わらない? そんなことはないさ、俺も人並みに成長した。この世の酸いも甘いも知り尽くしたよ」
「そこから得るものはなかったのかい? 別れは君を何一つ成長させないまま、あの頃と同じ、無謀で無策で子供のような性格のままじゃないか」
「言ってくれるな……。だが、俺だってこうして海賊団の船長になった。それが一番の成長の証だと思わないか?」
「子供が玩具を手に入れただけのことだろう? 僕には君が、あの頃と同じ最低の人間にしか見えないよ」
ミラーはまるで鼻で笑うかのように言ってのけた。だが、アレックスはあえて平静を保とうとしているのか、あえて言い返したりはしなかった。
「お前が生きていたということは、レベッカは? あいつも生きているのか? ずっと探していたんだ」
アレックスが話題を変えると、ミラーは心なしか表情を曇らせた。
「レベッカは死んだよ」
と言うミラーの瞳の奥には、怒りにも似た色が見えた。
「レベッカがどうやって助かったのかは僕も知らない。僕が彼女を見つけた時、彼女はアメリカの場末の娼婦宿で、娼婦になってた。たくさんの男と肉体関係を結んで、何度も中絶を繰り返した挙句、梅毒にかかって、すでに死にかけてたよ」
淡々と語るミラー。だが、その声は震えていた。
アレックス同様に、ミラーもかつての仲間であるレベッカ・ブラックストーンの消息を捜索し続けていた。彼女が〈オールド・レンジャー号〉とともに死亡したと信じたくなかったからでもある。軍隊に入隊して間もなく、ミラーはアメリカはニューヨークの外れにあった、萎びた娼婦宿で娼婦となったレベッカを発見した。
すでに梅毒にかかり、身も心もボロボロになったレベッカはうつろな目をしていた。
「ベッドに横たわりながら、意識も朦朧としているのに、彼女は僕のことを客と勘違いして、誘うんだ。彼女が息絶えたのは、それから三日後だった。最後まで君の名を呼んでいたよ、アレックス」
「哀れだな……」
「ああ、哀れな女だよ。レベッカは、君のことが好きだったんだ。だけど、君の本性は知らなかった。実に哀れだよ」
あてつけるようにミラーが言い放った。しかし、それにもアレックスは何も言い返すことはなかった。
「ミラー……確かロジャーズとナッソーを急襲した海軍の司令官がそんな名だったな。レイ、お前はこの十年間どうしていたんだ?」
「僕は漂流しているところを、運よく父……フレデリック・ミラーに助けてもらった。彼は優しい人で、身寄りのない僕を引き取ってくれたんだ」
十年前。イギリス海軍戦列艦〈リストレーション号〉の砲撃により撃沈したジャック・ラカムの〈オールド・レンジャー号〉から、辛くも脱出したレイモンドはあわや大海を漂流しかけたが、奇しくも敵である〈リストレーション号〉により救助された。敵であっても、武器を持たぬ漂流者は救助する。これは、船乗りの不文律である。
〈リストレーション号〉の艦長であり、ロジャーズ艦隊の司令官でもあったフレデリック・ミラーは、救助した少年……レイモンドに非凡な才能を見出した。レイモンドはもともと、若輩ながら海賊船で船医を任されるほどの神童である。このままこの少年を海賊にしておくのは惜しい、と考えたフレデリックは、レイモンドが海賊であるということを周囲に隠し彼を匿うことにしたのである。
ミラー家には嫡子となるべき子がいなかった。フレデリックの妻はもともと虚弱な体質であり、子供ができなかった。そのため、フレデリックはレイモンドを養子に迎えることにした。彼が、王位簒奪計画の首謀者であったアーネスト・コーウェンとの繋がりを疑われ、ロンドンへ強制送還が決まったのはそのすぐ後のことだった。レイモンドは、帰国するフレデリックに従って、ロンドンの地を踏んだ。
フレデリックの妻は優しい人だった。レイモンドが海賊であることを知ってもなお、本当の息子のように可愛がってくれたことは、仲間たちと離れ離れになってしまった寂しさを埋めるには十分だった。
ところがフレデリックの妻は、レイモンドが養子に入ってから間もなく、病でこの世を去った。また、フレデリックも、コーウェンの王位簒奪計画の一翼をになったとして裁判にかけられ、心労で体を壊し、帰らぬ人となってしまった。
たった一人残されたレイモンドは、ミラー家の財産を相続することとなったのだが、すでにレイモンドはミラー家の人間として、家の名誉と父母の名誉を守るべく、イギリス海軍に入隊したのである。
「そのとき、医術は捨てた。もともと、海賊医者のオットー・マキャナリーが僕に教えたものだ。海軍軍人として、そんなまがい物の医術に頼ることはできない」
「お前、オットー先生が死んだことを知っているのか?」
「もちろん知っている。ナッソーで射殺されたんだろ」
士官学校を卒業後、海軍軍人となったレイモンドは、それまでに蓄えた私財を擲って、かつての仲間たちの消息を探った。そしてエリオットをはじめとする大半がイギリス海軍によって捕えられて処刑され、レベッカは梅毒で死んだ。その時、レイモンドは確信した。
「僕たちがやってきたことは、すべて間違いだった。自由だと口にしても、エリオット・ブラックストーンの行ったことは、正義を振りかざす悪だ」
「その贖罪のために、その真っ赤な軍服を着ているというのか?」
「そうだ。それがひいては、我がミラー家の失地回復にもつながる。だから、僕は海軍軍人になれたことを誇りに思うよ」
過去と決別し、レイ・ゴードンの名を捨てた彼に、アレックスは苦笑いにも似た侮蔑の目を向けた。
「残念だ。ブラックストーン海賊団で、最も理知的な男だと思っていたのに。変わってしまったな」
「もう、あれから十年だ。人は誰だって、成長して変わっていかなきゃならない」
「そうだな。十年という月日は、思うよりも長いものだ。積もる話もあるが、今や俺とお前は敵同士。そろそろおしゃべりは終わりにしよう」
そう言うと、アレックスはカトラスを斜に構えた。
かつて欧州に騎士と呼ばれる人たちが存在していた時代には、決闘と呼ばれる命を懸けた剣闘試合があったという。だが、すでに騎士の呼び名はただの爵位となってしまい、職業軍人が国家の兵となり、それ以外の武装勢力は反乱者と位置づけられるこの時代において、決闘は形骸化した剣術芸に過ぎないものとなっていた。
だが〈ウラカンレオン号〉の甲板で繰り広げられる、アレックスとレイの決闘は『余興』ではなく、真に命を懸けたものであった。剣と剣がぶつかり合い、視線と切っ先の両方から激しく火花が飛び散る。一瞬の油断は刃の餌食となり、板張りの甲板を自分の血で汚すだけだ。
十年前。外科の知識を習得していたレイは、海賊というよりも、海賊船付の船医であり、一度も戦闘に参加したことはなかった。そもそも、外科知識の習得のため、剣術など微塵も教わったことがなかった。しかし、そんなレイの剣さばきは、かつてスコットランドから一獲千金を夢見て身一つで海賊になったアレックスの剣さばきに、見事について行く。
「まさか、お前に剣の心得があったとはな!」
驚くアレックスに、レイは顔を動かさなかった。海軍の訓練として剣術を学びはしたが、そのほとんどは海軍仕込みではなく、フレデリックの教育の賜物であった。まだ健在であったころの、養父フレデリックが自ら剣術の手ほどきをしたのである。
「知恵だけでは、生き残れない……父の教えだ!!」
アレックスの大ぶりな上段からの斬りを避けると、かかとを軸に反撃に転じる。だが、レイの剣は寸でのところでアレックスに受け止められてしまった。
「なるほどそれは真理だ。だが、踏み込みが甘い!!」
と一言、アレックスの長い脚がレイの腹に直撃する。吹き飛ばされた形になったレイは体を強く甲板に打ち付けられた。
「所詮はイギリス海軍仕込みの剣技。命のやり取りの中で、本当に生き残るための剣とは違う」
教え説くように言いながら、アレックスはゆっくりとレイに近づいた。そして、全身の痛みに顔をゆがめつつ横たわるレイの腹を踏みつけて、高らかに笑った。
「面白い余興だったよ、レイ。かつての仲間と一戦交えられるなんて、思ってもいなかった。みんな死んでしまったと思っていたからな」
「だから、君は復讐しているのか? 仲間たちを、そしてアイリスを奪ったイギリスに」
「そうさ。支配という偶像を崇拝するあまり、自由を見失ったイギリスは、俺から何もかも奪った。仲間も、アイリスも。記憶のないアイリスを……何も知らない彼女を殺したのは、パーシバル・チェスターなんかじゃない。イギリス人の身勝手な争いで、罪もない彼女は殺されたんだ!!」
アレックスは〈インスパイア号〉のメインマストに高々と掲げられた、ユニオンジャックの旗を忌々しげに睨み付けた。その顔を見上げながら、レイは確信にも似た笑みを浮かべた。
「アレックス、やはり君は愚かな人間だ。昔から何一つ変わってはいない。真実も知らずに、自己完結し、その挙句に傲慢に振る舞い周囲を巻き込む。要するに、ただの子供だ」
「何だと? もう一度言ってみろ!! このもやし野郎」
怒りを露わにしたアレックスは、レイの腹を強く何度も踏みつけた。肋骨が何本か折れ、痛みが駆け巡るが、レイは苦悶の表情をぐっと堪えた。
「いいだろう、教えてあげるよ。昔のよしみだ。君は、本当にアイリスが記憶喪失だったとでも思っているのか?」
「どういうことだ?」
「あの日、ジャックの船でお宝探しをした日。〈オールドレンジャー号〉の船室で砲撃の音を聞きながら、彼女は確かに言った。『わたしは次期イギリスの女王になる身分です。ここで死ぬわけにはいきません。何としてもわたしを助けなさい』とね。彼女は記憶喪失なんかじゃなかった。最初から、記憶がないことを装っていたのか、それとも僕たちといる間に記憶を取り戻したのかは分からない。ただ、彼女は間違いなく、自分の命を守るために、僕たちを利用していたに過ぎなかったんだ」
「そんなバカな!? でたらめを言うな、レイ!!」
「事実、彼女はイギリス本国でパーシバルたちオーガスタス派に命を狙われていた。議会政治を守るため、自分たちの主であるオーガスタス様を守るためには、どうしてもアイリスの存在は邪魔だったんだ。だから、彼女は母親のフローラ・コーウェンの手引きで、侍女カーラ・キャンベルと二人でロンドンを脱出した。ところが、その道中で嵐に会い遭難。侍女のカーラ・キャンベルは死亡し、自らも漂流者となってしまった。そこを偶然、海賊である君が助けた。誰が味方で誰が敵か、はっきりしないほど複雑な政治闘争の現場から遠く離れ、イギリス海軍と敵対する海賊であれば、自分の命を守ってくれる、と彼女は考えたんだろうね。実に、狡猾な女の子だよ」
「黙れ、黙れ、黙れ!! お前のたわごとなど聞きたくない!! アイリスは何も知らなかった、記憶がなかったんだ! そのよく回るようになった愚かな口を切り取ってやる!!」
「もう一つ、いいことを教えてあげるよ、アレックス。彼女は……アイリスは同性愛者だった。つまり、女性しか興味を持てない女の子だったんだ。相手はもちろん、侍女のカーラ・キャンベルだ。彼女は、最初から男の君なんか、眼中になかったんだよ」
「聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない!!」
「目を伏せるな、アレックス!! 君はこのまま愚かな男でいるつもりか!? その愚かさが、仲間たちを追い詰めたんじゃないのか? エリオット・ブラックストーンもローランド・モランも、ジャックも、レベッカも君の周りのみんなが死んでしまったのは、君の所為だ!!」
とどめとばかりに発せられた言葉に、アレックスは狂ったかのような奇声を発した。
「ぎゃああ!! 死ね、死ね、死ねぇぇぇ!!」
アレックスはカトラスを振り上げると、レイの体をメッタ刺しにした。周囲に血が飛び散り、赤い軍服を黒く染めていく。それは誰もがめを伏せたくなるほどの、あまりにむごい殺し方であった。
「アレックス……君の自由は、本当の自由なんかじゃない……ただのエゴだ」
それがレイの発した最後の言葉であった。だが、その言葉はアレックスの耳にはまるで届いていなかった。すでに絶命しているにもかかわらず、アレックスはレイの遺体に何度も何度もカトラスを突き刺した。どのくらいそうしていたかわからない。アレックスの顔が返り血に染まるころ、ようやく腕が疲れたのか、剣から手を放した。
その時である。一発の銃声が〈ウラカンレオン号〉の甲板に響いた。残響がカリブの風に消えるまで、甲板の空気が凍りついた。アレックスは一体何が起きたのかわからなかった。ただ右の脇腹のあたりに熱を持った痛みを感じた。そっと、右手で脇腹を抑えると、返り血とは違うぬめりが掌にまとわりつく。目線を腹に落とすと、コートの下の白いシャツに、赤い染みが広がる。その時になって、ようやく背後から撃たれたのだということを認識した。
アレックスはとっさに振り向いた。その視線の先にいたのは、拳銃を構えた、副長のライナスの姿だった。他人を信用しないアレックスにとって、唯一片腕と認めていた男に撃たれた。それがどういうことなのかをすぐには理解できなかった。
だが、ライナスは口角をひきつらせながら、不気味に「ウヒ、ウヒヒヒッ」と笑う。
「わ、悪いなアレックス。か、かか、カネだよ。トルトゥーガの酒場でイギリスのスパイから、あんたを殺せば一生遊んで暮らせる金と恩赦を与えてくれるっていうからさぁ。あんたにゃ、散々振り回されっぱなしだったんだ。そ、そそろそろ楽になりたいんだよ。だ、だだだから、死んでくれよ」
「ライナス、てめぇぇぇ!!」
ライナスの裏切りに、アレックスは青筋を立てると素早く懐から拳銃を取り出した。単発銃に込められた、たった一発弾丸はアレックスが引き金を引くと同時に、ライナスの額を貫いた。ライナスは即死だった。そのまま、あおむけに倒れるとピクリとも動くことはなかった。
アレックスの腹からはだくだくと滝のように血が流れ出している。どうやら、急所を撃ち抜かれたのであろう。すでに顔は真っ青となり、ついには立っていることもままならなくなると、その場に膝をつき、レイの遺体に折り重なるように倒れた。
「畜生、なんだよこれ……畜生っ! 俺は自由になりたいんだ。自由がほしいんだ。アイリス、嘘だ。嘘だと言ってくれよ。誰か、誰か、助けてくれ。たす……」
それ以上言葉は続かなかった。アレックスは目を見開いたまま、息絶えた。沈黙が、甲板を支配する。この十年間、カリブ海を暴れまわった、事実上最後の大物海賊の死にざまとしては、あまりに無様で、あまりにあっけないものだった。
「やった、やったぞ」
海軍の中から、誰かが呟くように言った。その声に反応するかのように、「やった! クロフォードを倒したぞ!!」「俺たちの勝ちだ!!」と海軍側から歓声が上がる。すぐさま、死亡した艦長の代役となる副長が立ち上がると、残された海賊たちに向かって言い放った。
「今すぐ武装を捨てるなら、貴様たちには恩赦が下される。もしも、抵抗するというのであれば、貴様たちは地の果てまでイギリス海軍に追われ続けることとなるだろう。生きたいか、死にたいか、選択肢は二つだ!!」
もともと、結束の強い一団ではない。アレックス・クロフォードという存在が力でまとめ上げていただけの烏合の衆であった。そのためか、アレックスと副長ライナスを失ったクロフォード海賊団の海賊たちは、いとも簡単に降伏を受け入れた。
すぐさま、臨検が執り行われる。その一方で任務達成に沸き立つ、イギリス海軍兵。だが、一人だけ浮かない顔をした男がいた。ブライアン・セシルである。彼は、親友の亡骸の前に立ちつくし、その死に顔をじっと見つめていた。
親友レイモンド・ミラーの死に顔は、実に晴れやかであった。過去のすべてを、ようやく生産することができたかのような穏やかな顔だ。人生で唯一ブライアンが無二の友と認めたこの男は、命と引き換えに、かつての仲間を倒すため、死を覚悟して作戦に挑んだというのだろうか。親友である自分には、何も告げないまま。それが、ブライアンにとって心残りでもあった。
かたや、ミラーの亡骸のそばには、海賊団の首魁であるアレックス・クロフォードの遺骸が横たわっている。こちらは、口を捻じ曲げた苦悶の顔をしていた。見開かれたまま絶命したその目こそ、今は閉じられているが、この十年間、カリブ海を悪行で荒らしまわった、史上最も残酷な海賊の末路としては、あまりに情けなく、あっけない幕切れだった。
しかし、それはすべて予定調和である。そもそも、海軍はスペインとの戦争のため、カリブ海での海賊退治に戦力を割く余裕はなく、〈インスパイア号〉単艦で海賊狩りの作戦を命じた。クロフォード海賊団が〈ウラカンレオン号〉一隻のみで構成されることを念頭に置いたためである。しかし、作戦遂行のため各方面の部隊から招集された兵が精鋭だからと言って、十年もの間、その尻尾すら捕えることすらできなかったアレックスを倒すための作戦を〈インスパイア号〉の独力で行うのは、ほぼ不可能に近いものがあった。海軍の予算と体面、そして現実問題とのジレンマの中、作戦本部は一計を案じた。
つまり、すべては予定調和なのである。〈ウラカンレオン号〉が数少なくなった海賊の寄港地、トルトゥーガ島に停泊していることを察知した作戦本部は、トルトゥーガ島にスパイを放った。スパイはクロフォード海賊団の幾人かと接触を図り、そこで目を付けた〈ウラカンレオン号〉副長のライナスに、こう持ちかけたのだ。
「もしも、この後の人生を安寧に過ごしたいと思うなら、アレックス・クロフォードを暗殺しろ。海軍はお前に一生を遊んで暮らせるだけの額の報酬とロンドンに邸宅、そして、この十年間の海賊行為に対する恩赦を与える」
もともと、ライナスは英国宝石商教会の交易船〈サファイア号〉の航海士であった。しかし、アレックスが〈サファイア号〉を強奪した際に、彼の脅しに屈してクロフォード海賊団の副長となった過去がある。また、彼自身に浪費癖があることも、事前の調査で分かっていた。案の定、法外な報酬と恩赦という甘い汁に、ライナスは飛びついた。
キングストンを出撃した〈インスパイア号〉は商船をおとりに、〈ウラカンレオン号〉に接近。相手がどのような作戦を用いてこちらを攻めてきたとしても、〈インスパイア号〉は予定通りに敗北する。そしてアレックスがお決まりの『余興』に興じている瞬間こそ、彼が最も油断する瞬間であり、ライナスがアレックスを射殺するチャンスでもあった。しかし、ライナスは動かなかった。ライナスにも迷いがあったのだろう。十年間、行動を共にした相棒であるアレックスを殺すことを躊躇ってしまったのかもしれない。
そこで、ミラーは自ら『余興』の演者となることを選んだ。どこまで、彼の脳内にプランがあったのかは、すでに知る由もないが、ミラーの捨身の戦いにより、アレックスは内面の弱さを仲間たちの前で晒してしまったのだ。その結果、アレックスの姿が崩れていくことに、とうとうライナスは迷いを吹っ切った。ライナスの裏切りにより、アレックスを打倒したこの作戦は、最初から予定調和だったのだ。少なくとも、誤算があったとすれば、それはミラーが自らの命を散らしたことである。
遺体は簀巻きにして海に流すのがならわしである。洋上では遺体は傷みやすいためだ。アレックスの遺骸は白い布に包まれ、まるでゴミでも廃棄するかのように海に投げ入れられた。すぐさま波にもまれて消えてしまう。一方、ミラーの遺体は、ユニオンジャックの旗に包まれた。戦死者……とりわけ職務を全うし殉職した仲間に対する、海軍伝統の礼である。ミラーの遺体は、アレックスとは異なり、波間を漂い静かに姿を消した。ブライアンは、船縁で名残惜しむかのように、その光景を見つめ続けていた。
遺体の処理が終わると、次は捕縛した海賊たちの処刑である。無論、彼らにも恩赦を与えるつもりなどなかったイギリス海軍は〈ウラカンレオン号〉の舳に海賊たちを五人ずつ並ばせると、まとめて銃殺刑に処した。海賊たちは抵抗しなかった。ただ、悲痛に「殺さないでくれ」と連呼したが、彼らが十年の間に行ってきた、残虐で非道な海賊行為の数々を思えば、そのような叫びなど聞く耳を持つつようすらなかった。きっと、同じように罪もない人々が「殺さないでくれ」と叫んだにもかかわらず、海賊たちはむごたらしい方法で彼らを殺害したのだから。
「願わくは、この世ならざる場所で、すべての人間に幸福を……」
ブライアンは呟くと、踵を返した。銃声を背中で聞きながら、彼は一人〈ウラカンレオン号〉の船長室を目指した。〈ウラカンレオン号〉の船長室は後部甲板、操舵席の下にある階段を下った先にあった。室内は、ひどく質素だった。想像していた海賊船の船長室は、奪い取った金銀財宝できらびやかに飾り付けられているものとばかり思っていたブライアンは、すこし拍子抜けした。アレックスは派手を好まない性格だった。その所為か、簡素なデスクと少しばかり大き目のベッド、そして航海図を入れておくための木箱、羅針盤があるだけで、めぼしい戦利品となるものは見当たらない。だが、そんな船長室で、ふと彼の目に止まるものがあった。
それは、デスクの上に置かれた一冊の本であった。すでに表装の一部がほころんでいるところを見ると、ずいぶんと年季が入っているらしい。ページをめくると、そこにはブルーのインクでびっしりと航海記録が書かれていた。ところどころ、ページが濡れて、インクがにじんでいるところもあったが、確かにそれは〈先代ウラカンレオン号〉からこの〈ウラカンレオン号〉に至るまでの十年間の知られざる全記憶であった。
「ウラカンレオン号の航海記録、か……」
本の表紙にタイトルは書き記されていなかったが、彼は誰に言うでもなく、小さくそう呟くと、その本を手に取って懐に仕舞い込んだ。




