15. 新たなる旅立ち
船体のきしむ音で、アレックスは目を覚ました。
海賊船〈ウラカンレオン号〉の船長室の舷窓から、眩い朝日が降り注いでいる。ベッドから上体を起こすと、傍らには裸の女が寝息を立てていた。一糸まとわぬその女の髪は、白い肌によく映える、美しい金色をしていた。
名はアナマリアと言ったか……。
トルトゥーガの港で買った娼婦だ。ひどく酒に酔っていて、細かいことは覚えていないが、酒場で意気投合し〈ウラカンレオン号〉に連れ込んだ。その後のことは良く覚えていない。
思い出そうとすれば、二日酔いの所為で頭がガンガンと痛む。所詮、どうでもいいことだ。どうせ、行きずりの女。胸と尻が大きく、女の色香をプンプン振りまき、男に体を売る様な下賤な女。細かいことなど憶えている価値もない。
アレックスは、アナマリアの髪を軽く二、三度撫でると、ベッドから出て服を着た。その間も、アナマリアは目を覚ますことなく、心地よさ気に枕に顔をうずめていた。
アレックスはアナマリアをベッドに残したまま、船長室を後にして〈ウラカンレオン号〉甲板へと上がった。
〈ウラカンレオン号〉はトルトゥーガ島を離れ、外洋を航行中だった。甲板上を吹き抜ける潮風と青空が、二日酔いの頭痛に心地よい。アレックスは、一つため息を吐くと、後部甲板の操舵席へと向かった。操舵席ではアレックスより一回りほど年上の禿頭男が、舵輪を握っていた。名をライナスと言う。この〈ウラカンレオン号〉の副長を務める男で、元は〈サファイア号〉の航海士だったこともあって、航海術にも長けている。
「やっとお目覚めか、船長? 昨夜は女とずいぶんお楽しみだったようで」
ライナスがやや下品な顔つきで、にやりとして言う。しかし、アレックスは素っ気ない顔で「そうなのか? 憶えていない」と答えた。
「おやおや、勿体ない。なかなかの体つきをした上玉の娘だったじゃないか」
「ああ、そうだな」
そう返しながら、舵取りを代わる。アレックスは操舵手を雇っていない。舵輪を握るのは自分と決めている。代役をライナスに任せることはあっても、他人の操船を信用出来なかったからだ。そもそも、アレックスは他人を信用などしていない。
「しかし、あの女、どうするつもりなんだ? まさか、このまま一緒に航海なんて言い出さないよな?」
舵を握るアレックスの隣に立ったライナスの疑問に、アレックスは「そうだな」と答えた。
「じゃあ、手ごろな港……ケイマン島辺りで降ろすのか?」
「いいや。海へ放り捨てろ」
とアレックスの素っ気ない答えに、ライナスは思わずきょとんとした。
「海へって、そりゃあの女を殺せってことか?」
「ああ、そうだ。たしか、アナマリアとか言ったか。元は、修道女だったらしい。良い体をしていたが、どうせ娼婦だ」
「いや、だがお前、あの女のこと随分気に入っていたじゃないか」
「酔っていたんだよ。俺は、娼婦と修道女は嫌いだ。それに……金髪の女はもっと嫌いだ」
吐き捨てるようにいうアレックスに、ライナスはやや呆れた顔をした。
「分かった。手下に殺すように命じておく。それにしても、勿体ないくらい、良い女だったのにな」
「だったら、お前たちにくれてやろうか? 煮るなり焼くなり好きにすればいい。飽きたら、殺して海に放り捨てても、後腐れはないだろう?」
冗談交じりのつもりだったが、ライナスには冗談に聞こえなかったのだろう。
「遅かれ早かれ、あの女はこの船に乗ったのが不運だったってことか」
と言うと、ライナスは後部甲板を降りて、甲板員をに三人捕まえると、娼婦アナマリアを殺して海捨てるよう命じた。その光景をぼんやりとみていたアレックスは、再び溜息を吐き出すと、マスト上に広がる真っ青な空を眺めて、あごの無精ひげをさすった。
あれから十年の歳月が過ぎた……。
あの日、旗揚げしてからの毎日は、目まぐるしい日々の連続で、あっという間の十年間だったように思う。だが、充足感もなければ、後悔もない。ただ無味乾燥した時間の流れに、身を任せて来ただけのことだった。それにもかかわらず、度重なるイギリス海軍との死闘を経て、今やアレックス・クロフォードとその海賊団の名を知らぬ者はいないと言われるほど知れ渡り、ついに賞金首にまでなってしまった。
その十年の間、アレックスの周りも、激しく揺れ動いた。
かつて、海賊の共和国であったニュープロビデンス島のナッソーは、今やイギリス海軍の前線基地となっている。海賊船が停泊していた港には軍艦が並べられ、日夜スペイン海軍との戦のため出撃を繰り返していた。だが、そのナッソーで海賊狩りを行い、一躍時の人となったバハマ総督ウッズ・ロジャーズは政治闘争に敗れ、総督の地位を追われロンドンへと逃げ帰った。
そんなロンドンでは、水面下で巻き起こっていた王位継承についてのある計画が、下院議長スペンサー・コンプトンによって阻止された。英国王室の血をわずかに引く自らの娘を次期女王に据え、女王の外戚としてイギリス議会解散させた上で、王制の復活を夢見た、伯爵アーネスト・コーウェンの王位簒奪計画である。
彼の娘サブリナ・コーウェンが暗殺されたことを知った、アーネストの妻でサブリナの母であった、フローラ・コーウェンが服毒自殺。それによって、アーネストの計画は議会の知るところとなり、ついにアーネストは逮捕された。その後、裁判での判決を待たずして、アーネストは獄中で病死した。アーネストは、娘サブリナがカリブで記憶を喪い、アイリスと名乗り、海賊と行動を共にしていたことを知ることはなかった。
一方、ロジャーズのナッソー上陸作戦に協力した、戦列艦〈リストレーション号〉の艦長だったフレデリック・ミラー大尉は、イギリス本国に帰国後、アーネストの計画に関与していたことが疑われ、海軍を自ら辞職した。その後、何年もの間裁判を繰り返したが、ついに無罪判決を勝ち取る数日前に、心労で死去した。
そんな、ウッズ・ロジャーズとフレデリック・ミラーに追われた海賊たちも、一人、また一人と死んで行った。
アレックスと共に沈没船の宝を探したジャック・ラカムは、ヴェインから海賊団の指揮権を奪った後、海賊行為を繰り返していたが、ついにはイギリス海軍に捕えられ処刑された。その際、船倉に隠れ怯えていたというのは、いかにもジャックらしいお粗末な最後である。
また、彼と行動を共にした、元グリーンウッド亭の女給だったアン・ボニーもイギリス海軍によって捕縛されたが、その後の彼女の行方を知る者はなく、獄中で病死したとも噂される。
ジャックに海賊団を奪われた後、無人島に置き去りにされたヴェインもイギリス海軍に捕縛され、処刑された。かつて、ナッソーに海賊の共和国を創設する夢を抱いた男の憐れな末路である。
さらに、パイレーツハンターとして海賊たちに恐れられた『カリブの死神』こと、サイモン・グレイナーもすでにこの世にはいない。ロジャーズの依頼で、アメリカとの交易に向かったサイモンの海賊船〈デスサイス号〉は、途上で嵐に遭い遭難。船員もろとも海の藻屑と消えた。死神としてはあっけない死にざまであった。
そうして、この十年の歳月で新たな海賊船団がいくつか生まれては消えていった。数百隻もの船舶を拿捕したという大海賊や、極悪非道の限りを尽くしてカリブ全土から恐れられた海賊もいたが、いずれも捕縛され処刑された。
おそらく、この海にはほとんどの海賊が残っていないだろう。かつて陸地を拠点としたカリブの海賊も、ナッソーを失って以降、徐々に散り散りとなり、船団同士の交流も薄れた。しかも、イギリスとスペインの戦争は苛烈さを増し、大西洋からこのカリブ海に至るまでを主戦場として拡大しつつある。海賊が大手を振って闊歩していた時代は、もう終わったのだ。
それでも、アレックスは海賊を止めなかった……。アレックス率いるクロフォード海賊団と〈ウラカンレオン号〉は、イギリスの船舶を見つけると容赦なく攻め立て、財宝や資材を根こそぎ奪った。いくつかの砦も破壊したし、いくつかの軍港を燃やしもした。獅子に交差したカトラスをあしらった海賊旗を見た者は骨の髄までしゃぶりつくされ殺される、などという伝説まで生まれてしまったことを、アレックスはとりわけ嬉しくも思わなければ、嫌だとも思わなかった。肩書や噂などどうでもいいことだ。
「アレックス、言いつけどおり女は殺して海に捨たぞ」
仕事を終えたライナスが、後部甲板に戻ってくる。あまり後味は良くないのか、彼は眉間にしわを寄せていた。
「ひどく暴れたが、首を切り裂いたら大人しくなった。憐れなもんだよ、商売に来たつもりが、まさか殺されることになるなんてな」
「ご苦労……」
一夜を共にした女、娼婦アナマリアの死の報を聞いても、アレックスは特に何も感じなかった。そんな無表情なアレックスに、ライナスはため息を吐きながら海図を差し出した。アナマリアを葬るついでに、アレックスの船長室から取って来たのだろう。
「それで? 次の標的はどうするんだ? 海賊狩り部隊の活動も活発になって来てるし、商船の護衛も厚くなってる。あまりこの海域をウロつくのは得策じゃないぞ」
「ああ、そうだな。いっそ、キングストンまで足を延ばすか?」
アレックスが言うと、ライナスは驚いて目を丸くした。
「まさか、ダニー・オルソンの言ったことを真に受けてるんじゃないだろうな? キングストン方面はイギリス海軍の本拠地だ。軍艦もたくさん居るし、警備も活発だ」
「だからこそ、お宝がごろごろ眠っているんじゃないか」
意に介さないような笑みで、アレックスは言ってのけた。
アレックスが、情報屋ダニー・オルソンと再会したのは、三か月ほど前の話である。ダニー・オルソンは、かつてナッソーの海賊たちに、商船の航行ルートやイギリス海軍の動きをリークしていたスパイであった。その情報は貴重であり、ナッソーの海賊たちはこぞって礼金を支払っては、ダニー・オルソンから情報を買っていたのだが、そんなダニーがロジャーズの放った二重スパイであることを知っている者は数少なかった。あの日、ロジャーズがナッソーに上陸した日、その手引きをしたのもダニーである。彼は、ナッソーの事実上の支配者であったヴェインを捕縛しつつ、ロジャーズをナッソーに迎え入れるため、ヴェインが島に逗留しているタイミングを見計らって、その情報をイギリス海軍に横流ししたのである。
だが、二重スパイなどという人間は、信用されるような人間ではない。ダニーがどのような思いで二重スパイをしていたのか。彼の思惑を知ることはできないが、ロジャーズをナッソーに導いた後、彼はナッソーから追放された。報酬の金ももらえないまま、半ば蹴り出されるような形で追い出されたのである。その後、彼はカリブの島々を転々としながら、海賊に情報を与えていたが、ロジャーズという後ろ盾と情報源を失った彼の情報には、だれも見向きしなかった。
そうして、アレックスがダニーの行方を見つけたのは、アメリカのノースカロライナにある小さな酒場だった。場末の酒場らしく陰気くさい店の、一番隅の薄暗い所で酒をちびちびと飲んでいたダニーを捕えたアレックスは、彼を拷問にかけた。
「あの裏切り者、爪をはがされたら泣いて謝り始めたな。あれは傑作だった」
ライナスが拷問の風景を思い出して笑った。
「ああ、そうだ。股間を潰してやった時なんて、ひぃひぃ言って、女みたいだった」
アレックスもつられて笑う。
海賊にとって、ダニーは憎い相手である。アレックスの指示でダニーを拷問した船員たちは、憎しみをダニーにぶつけた。ありとあらゆる手で、ダニーに苦しみを与え、男としての機能を潰したばかりか、全身を痛めつけた。何度か泡を吹いて気絶しても、叩き起こしては繰り返し責め苦を与え続けた。
そんなダニーが絶命間際になって苦し紛れに呟いたのが、ライナスの言う〈ダニー・オルソンの言ったこと〉だった。
『こんなことをしてタダで済むと思うなよ。キングストンでは、お前らクロフォード海賊団を捕えるために、艦隊が編成された。直にお前たちの船は海に沈められ、お前らも俺と同じように拷問を受けて処刑されるのだ。その時になって、泣きわめくがいい』
聞き取れる聞き取れないかのか細い声でそう呟いた後、ダニーは息絶えた。
すでにイギリス海軍とのパイプを失っていたダニーの言うことに、どれほどの信憑性があるかは不明だった。
「でも、もしもダニーの言うことが本当なら、奴らが準備を整える前にこちらから出向いて潰してやるのが、俺たちらしいやり方じゃないか?」
アレックスがそう言うと、ライナスはしばらく考え込むようなしぐさをして、
「それなら、医薬品や食糧の予備は必要になる。とりあえず、キングストンへ向かう間に、手ごろな船を襲って、こちらも準備を整えておく必要があるな」
と言った。
丁度そのタイミングを見計らったかのように、〈ウラカンレオン号〉の行く手に船団が見えた。双眼鏡を覗き込む観測員が知らせる。
「船影四。中央に大型船、周囲に小型船が三!!」
報告に併せて、アレックスも懐から単眼鏡を取り出す。中央の船は、武装の乏しい輸送船。喫水線の高さから、おそらくロンドンから来たばかりの商船だろう。その周囲を取り巻くのは、イギリス海軍から派遣された護衛のスクーナーである。スクーナーは小型で小回りの利く船であるが、ブリッグ・スループである〈ウラカンレオン号〉に比べるとその火力は劣る。
「いいカモだ」
そう呟いたアレックスは単眼鏡を片づけると、舵輪を握りしめた。
「よーし、野郎ども!! あの船団を襲撃する、観測員は見張りを厳に、砲兵は戦闘配置に着け、甲板員はスタンセイルを広げろ!!」
アレックスの指示に、メインマストでは警鐘が鳴り響き、船員たちはそれぞれの持ち場に走った。
直ちに〈ウラカンレオン号〉は標的である船団の方へと舵を切った。船団の護衛に付いているスクーナー三隻もこちらに気付いたのか、進行方向から九十度舵を切って回頭する。
「フルセイルだ!! 最大船速!!」
メインマストの帆が追い風を受けて大きく膨らんだ。みるみるうちに〈ウラカンレオン号〉は加速していく。
「砲兵、弾込め開始!!」
アレックスの傍らで、副長のライナスが声高に命じる。両舷の砲兵は大砲の筒に弾丸を込めた。
一方、船団護衛のスクーナーは、二隻が〈ウラカンレオン号〉の両舷に分かれ、一隻が真正面から向ってくるという艦列を組む。
「両舷から挟み撃ちか……こいつは好都合だ!!」
ニヤリ、とアレックスが口元を歪めた。
「両舷砲門開け!! 射撃用意!!」
ライナスの指揮に、両舷側の小窓が開き大砲の砲口が顔をのぞかせた。
船団護衛のスクーナーと〈ウラカンレオン号〉の距離が縮まる。アレックスの思惑通り、二隻が両舷から同時に攻撃をするため速度を合せた。そして、正面から向ってくるスクーナーは船体の腹を見せるかのように回頭する。
そして、ちょうど両舷の二隻が〈ウラカンレオン号〉の真横に来た瞬間を見計らって、「撃て!!」とアレックスが指示を飛ばした。
〈ウラカンレオン号〉の両舷の大砲が同時に火を噴いた。放たれた砲弾のいくつかは、スクーナーを飛び越して着弾し水柱を上げたが、残りのいくつかは見事に命中し、左右のスクーナーを一撃で沈めた。
だが敵はもう一隻いる。真正面で砲撃体勢を整えているスクーナーだ。
アレックスは舵にしがみつくようにすると、「このままラムアタックを仕掛ける!! 全員何かに掴まれ!!」と叫んだ。
かつて、英国宝石商協会の交易船だった〈ウラカンレオン号〉は、海賊船へと改修された際、船首下部に『衝角』という鉄板で覆われた張出が作られた。この張り出しは、体当たりによって相手船の船体に穴を開けて沈めるために取りつけられた武装である。
これらの改造に役だったのは〈ウラカンレオン号〉の前進であった〈サファイア号〉が運んでいた密輸品の財宝のおかげである。その密輸品は、アレックスがクロフォード海賊団を旗揚げするための、潤沢過ぎる資金となった。
「衝撃に備えろ!!」
ライナスが船縁の欄干に掴まりながら叫ぶ。全速力で真っ直ぐ突進してくる〈ウラカンレオン号〉に恐れをなしたのか、スクーナーからの砲撃はなかった。
数瞬の後、激しい衝突音と衝撃を伴って両船は激突した。だが、船体の大きさ、頑丈さで勝る〈ウラカンレオン号〉の衝角がスクーナーの船体を横から真っ二つに分断した。無論〈ウラカンレオン号〉はほぼ無傷であった。
「このまま、商船に横付けするぞ!!」
と指示を下す、アレックスは舵を切りつつ、商船の真横に〈ウラカンレオン号〉を横付けすると、帆をたたませた。すぐさま、陸戦の準備が整えられる。「ロープを掛けろ」という、アレックスの号令に従って、〈ウラカンレオン号〉の船員たちは、次々と鉤のついたロープを何本も相手船めがけて放り投げた。鉤が相手船の縁に引っかかったのを確認すると、全員で相手船を引き寄せる。
両船が近づくにつれて、商船側からの反撃が開始される。〈ウラカンレオン号〉の船員たちもマスケット銃を手に、応戦し幾人かを撃ち殺した。
やがて、両船の船体が触れるか触れないかの距離にまでに近づくと、アレックスたちはマスケット銃を持つ両手を、カトラスと拳銃に持ち替えて、相手船に乗り込むと、抵抗する者たちを斬り伏せて、一気に商船の甲板上を鎮圧した。
「よーし、生き残っている奴は全員縛れ!!」
アレックスの指示で、商船の船長と乗組員たちは両腕を縄で縛られると、甲板の中央に整列させられ跪かされた。アレックスは値踏みでもするかのように、商船の乗組員たちの顔を見る。
「アレックス・クロフォード……こんなところで出遭うなんて」
船長が項垂れて呟いた。それを見たアレックスはニヤリと笑うと、「運がなかったのか、天に見放されたのか。いずれにしても、神さまっていう下らない妄想の産物でも怨むことだな」と、皮肉を込めて言った。
「積荷はすべて、俺たちクロフォード海賊団が接収する。あとはお前たちの処分だが……」
「待ってくれ、アメリカとの交易品で食糧と少しばかりの医薬品しかない。あんたたちの望むような、金銀財宝ではないんだ」
船長かそう言うと、アレックスは冷たい顔をして、船長の顎をブーツのつま先で蹴り上げた。
「誰が発言を許した? すでにこの船は俺たちのものだ。俺の指示に従わないなら、今すぐ殺すぞ」
「ひぃっ! い、命だけは!! この船の船員のほとんどが本国に妻子がいる。積荷は全部くれてやるから、命だけは助けてくれ」
船長が命乞いをすると、捕えられた商船の船員たちも次々と「助けてくれ」「命だけは」「妻子が待ってるんだ」と口にした。アレックスはそのざわめきを収めるために、空に向けて一発だけ拳銃を撃った。空を裂く銃声に、船員たちのざわめきは一瞬で収まった。
アレックスは懐からナイフを取り出した。そして、船長に近寄ると、何のためらいもなく彼の右の耳をナイフで削ぎ落した。もちろん、筆舌し難い痛みと恐怖である。商船の船長は「ギャアア!!」と汚らしい悲鳴を上げた。
「お前の耳だ。これを食え」
と、アレックスは削ぎ落した耳を、船長の口元に運んだ。血をしたたらせながら、激痛に顔を歪めた船長は口を真一文字に閉じて「食べたくない」と意思表示を示した。自分の耳を食べるなど、正気の沙汰ではない。だが、アレックスは許さなかった。削ぎ落した耳を船長の口にねじ込んでやった。観念したのか、船長は自らの耳を食した。
「異常だ……」と誰かが呟いた。
「ただの余興だ。余興は常軌を逸しているほど面白い」
アレックスは呟きにそう答えながら、ナイフを懐に仕舞った。
「こ、これでいいか? これで、俺たちの命は助けてくれるんだな?」
船長が耳を飲み下して、苦しそうに言う。アレックスはやや見下ろすような視線で船長の顔を見た。元々頬の扱けた痩せぎすな男が、更にやつれて見えた。額に脂汗を浮かべながらも、船長としての威厳を保とうとしている。
「ライナス、皆殺しだ。こいつら全員射殺して、マストに吊り下げろ。イギリス海軍への見せしめにしてやる」
傍にいたライナスに指示を与えると、アレックスはくるりと踵を返した。
「約束が違う!」
船長がアレックスの背中に吠えた。しかし、返ってきたのは無情な答えだった。
「約束なんかした覚えはない。余興だと言っただろ? ただの余興だと……」
ライナスと数人の部下が、商船の乗組員を射殺する銃声を背中で聞きながら、アレックスはその場を立ち去った。
罪もない二十名以上の船員は次々と射殺され、その首に縄を巻きつけられると、メインマストの梁に吊るされた。それは、まるで海上の墓標のように見えた。いずれこの残虐な墓標は、いずれかのイギリス海軍の船によって発見されるだろう。そして、発見者たちはおぞましい光景に、あるものは吐き気を催し、またあるものは戦慄することだろう。
だが、アレックスはイギリス海軍に力を誇示したいわけではない。見せつけるべき力ならば、この十年間で、いくつもの船を襲って賞金首にまでなった。それだけの功績があれば、イギリス軍は否が応でも、アレックスを着け狙うこととなる。
そう、これはイギリス軍への見せしめなどではない。余興だ。自らが自由であるということを確かめるための余興に過ぎないのだ。ライナスへの建前上、そう口にしただけのことだった。
自由とはなんであるか。アレックスは十年前のあの日から、繰り返し問いかけた。自由とは束縛されぬこと。それは、文言通りの自由である。
では、何に束縛されぬことが、自由であるのか?
帝国の支配、金銭の支配、私用病の支配、社会的な支配。あらゆる事柄が思い浮かぶ。そもそも、自由と言う考えそのものが、理解しがたいものである。抽象的で象徴的。具体的な形あるものとして、それを具現する方法があるのであればまだしも、自由というものはあくまで概念の域を出るものではない。彼等の常識と言う物差しで測れば、自由と言う者に対する嫌悪感すら示しかねないのが、現実であった。それでも自由と言う概念の、その存在の意義と目的を明確な形として理解も出来ない上に、それら概念を人の体験として具現化する方法を見出すことも出来ないまま、ただ単に自由を求めた結果、彼らは死んだのだ。ロジャーズによる海賊狩りのプロパガンダとして利用され、愛した街の真ん中で、首をくくられた。それは、あまりに哀れで情けない末路であった。
アレックスは自由を求める意思を受け継いだ。だが、そのために必要であるのは、自らが何の束縛から解放されなければならないのか、という例示され得る明確な対象こそが必要だった。それは、イギリス海軍でもなければ、帝国の支配などと言う大それたものでもない。即ち、自らの常識の物差しという、下らない既成観念にとらわれたフィックスからの脱却である。それこそが、アレックスの求めるべき自由である。そう確信した彼にとって、余興とはそれ即ち、自由を求めることに他ならない。生来の当たり前と思う概念の向こう側へ向かうため、その一歩を踏み出したということに他ならないのだ。
だが、船員の多くはその観念を理解することはできないであろう。彼らとアレックスでは、目の前に見える自由の心象風景は、おそらく違う。彼等が一攫千金を求めるというのであれば、それもまた自由である以上、彼らにまでアレックスの自由を押し付ける道理とならないことは、良く分かっているつもりであった。そのため、アレックスはライナスに、イギリス軍への見せしめなどと言う、安直な考えを披露して見せたのである。無論、そのことをライナスが分かっていて従っているのか、それとも文面通りを受け取ったのかは、アレックスには分からない。彼がどのような物差しで、この海賊団の行くべき道を見つめているのか、アレックスには人の脳を覗き込むような特別で有益な技能は持ち合わせていないからである。いずれにしても、ライナスは忠実な副長である。他人を信用しないアレックスでも、彼の働きぶりにはある一定の尺度で表すことのできるレベルの信頼は寄せているつもりであった。それ故に、彼がどのような信念を持っていたとしても、金のために動いているだけの男だとしても、手駒として使えるのであれば、余興にも付き合せるし、彼を副長ともすることに異論はない。
商船の積荷を運び終えた〈ウラカンレオン号〉は商船から離れた。舵を失い、漂流するだけの墓標となった商船を眺めつつ、アレックスは舵を切った。目指すは羅針盤がここより北に示す、大商業都市キングストンの街である。




