~3・笑って~
結局、どんなにお手伝いをしても母の心は動かなかった。
それどころか、やり方が気に入らないと言っては茶碗を投げつけられた。
その破片で手を切り、血を流しながら片付けている私に、母は面白くなさそうにそっぽを向いた。
(もう、ダメだよ)
そんな言葉が心に繰り返された。
誰か助けて……
どうしてお父さんは帰ってこないの?
その答えは
ワタシガ ワルイコ ダカラ
お母さんはどうして笑わないの?
どうして優しくなくなったの?
お母さんは私が嫌いなの?
どうしてあんなになってしまったの?
その答えは
ワタシガ ワルイコ ダカラ
何を考えても、最後に行きつくところはそこだった。
「私が悪い子だから、お父さんは出て行ったんだ」
「私が悪い子だから、お母さんは優しくしてくれないんだ」
「私が悪い子だから、お母さんは私が嫌いなんだ」
涙が流れた。
泣いて、泣いて――
涙が枯れたころ、私の心に別の考えが浮かんだ。
小さかった頃、私が病気をした時、母はお粥を作ってくれた。
喉が痛くて食べることができなかった私に、うどんを煮込んでくれた。
冷たいものが食べたいというわがままに、ゼリーやプリンを作ってくれた。
それでも、喉が痛いと泣いた私に優しく膝枕をしてくれた。
何時間でも、私が目を覚ますまで母はそこで足を崩すことなく、私を撫でてくれていた。
目が覚めると、父と母の優しい笑顔があった。
「そうだ。
ご飯を食べなかったら、お母さんはきっと以前のように心配してくれる。
私の元気がなくなったら、お母さんはお粥を作ってくれる」
その日から私はご飯を食べなくなった。
どうしてもお腹が空いた時だけ、ほんの少しパンをかじった。
学校の給食もほとんど食べずに残した。
先生にとがめられないように、友達に配ったりもした。
これでお母さんが笑ってくれるのだと思うと、どんなにお腹が空いても気にならなかったのだ。
ある朝、体がだるいことに気が付いた。
まるで布団に体が張り付いているように、だるくて動けない。
そんな感覚に襲われたのだ。
それでも、学校だけは休んではいけない。
学校を休むことだけはどうしてもしてはならないと自分に言い聞かせた。
どうしてなのかは分からない。ただ、学校だけは行かねばならない場所だったのだ。
無理やり体を布団から起こし、だるい体で何とか布団をしまった。
お腹は空いているが、食べる気にはならなかった。
ここまで我慢したのに、今食べてはせっかくの作戦が水の泡になると思い込んでいた。
(もう少し……もう少しでお母さんが気付いてくれる)
私は細くなった腕を見て、心を躍らせた。
重く体にのしかかってくるランドセルを背負い、ふらつく体を踏ん張りながら学校へと足を向けた。
きっと、大人から見た私は、とうに見るに堪えなかった状態だったのだろう。
登校班で集まったときに、低学年の親がそこにいた。
そして、私を見ると心配そうに声を掛けてきた。
それでも私は小さく笑顔を向け、か細い声で「大丈夫です」と答えたと思う。
そして、心の中では小躍りしたいほど喜んでいたのだ。
他人が見て心配するほどなのだ、母が見たらきっと心臓が飛び出すほど心配して、お粥を作ってくれるだろう。
(今夜は、お母さんが帰ってくるまで待っていよう)
なんだか嬉しくて、夜が待ち遠しかった。
学校に着くと、私を見るなり先生が駆け寄ってきた。
すぐさま保健室へ連れて行かれ、事情を聞かれたが、私は頑固にも口を開くことはなかった。
「お母さんに連絡しましょう。すぐにお迎えに来てもらうようにするからね」
先生のその言葉が霧の中で聞こえてくるようだったが、私は強く頭を振った。
母には、自然に分かって欲しかったのだ。
以前のように、母に気が付いてほしかったのだ。
「大丈夫です」
小さな声でそう言った。
「大丈夫なはずないでしょ!
ここのところ、痩せてきてるし、先生はずっと心配してたのよ」
その言葉を母の口からききたいのだ。
「先生。お母さんは忙しいの。
私は大丈夫だから、お母さんに連絡しないで」
やっと、それだけ言うと、椅子の背もたれに深く背をあずけた。
「……分かりました。でもね……」
じっと私を見て何かを考えていたようだったが、今日は様子を見ることにしましょうという答えを導き出した。
そして、ポケットから一つの飴を取り出すと、私の手に握らせた。
「疲れてるのかもしれないね。
疲れてる時は甘いものがいいのよ。
これを食べてね。そしたら、もっと食べたくなるかもしれない。
もっと食べたくなったら、ちゃんとご飯を食べるのよ」
先生は、私がご飯を食べていないことを見抜いていたようだった。
(先生も分かるんだね。だったら、どんなに忙しいお母さんでも分かるはずだよね)
私は飴をスカートのポケットにしまった。
その日は先生に送ってもらって、学校を早退した。
家に着くと体中の力が抜けて、やっと保っていた神経の糸がプツリと切れたように感じた。
布団が恋しくて、押し入れにしまった布団を、最後の力を振り絞るように引っ張り出すと潜り込んだ。
後は、母が帰宅するのをひたすら待つだけだった。
手には先生からもらった飴が美味しそうに光り輝いていた。
(食べようかな)
そんな考えがちらつく。
何度となく、包み紙を破ろうと手に力を入れるが、どうしても封を切ることができなかった。
そんなことをしているとき、先生から言われた言葉が蘇ってきた。
「疲れてる時は甘いものがいいのよ」
そうか。
お母さんも疲れてる。
これをあげたら、きっと喜ぶよ。
私は薄れる意識の中で、お母さんの優しい笑顔を思い出していた。
次に目が覚めたときには、外は暗くなっていた。
カーテンの敷かれていない窓はまっ黒く、全てを飲み込んでしまうように見えた。
そのままでは、窓から悪魔がやってくるのではないかと不安になった私は、体を起こしてカーテンを閉めようと考えた。
ところが、どうしても体が動かないのだ。
朝は何とか動かすことができたのに、今は全く動かすことができない。
喉は空からに乾き、喉の奥がくっついているように感じる。
体中が熱く、頭の奥の方に靄がかかっているようだった。
そのまま、意識が遠くへと吸い込まれていった。
どのくらいの時間が過ぎたのか、部屋の扉が開く気配で目が覚めた。
うっすらと目を開けたように思う。
隣の部屋の光の中で真っ黒は人の姿が見えた。
(ああ、お母さん。帰ってきたんだ)
そう思い、起きようとするが、どうすることもできない。
(きっと、気が付いてくれる)
しかし、『寝てるのね』という小さな声が聞こえたと思うと、扉は静かに閉められてしまった。
(お母さん、入ってきてよ)
心の中で母を呼んだが、その声は聞こえるはずもなかった。
またしても、意識が遠のき暗闇に吸い込まれるように落ちて行った。
落ちた意識は渦を巻き、深く深く沈みだした。
そして、私は意識を手放した。
翌朝、うっすらと明るくなりだした私の部屋の扉が開いた。
母は疲れ切った体で、私の布団を直しにそばにきた。
やっと座り込むと
「どうして、こんな酷い布団の敷き方をするのかしらね」
と呟きながら布団に手をかけた。
が、次の瞬間母の手が止まった――
~4・飴~
今、祭壇に飾られているのは私の写真だ。
まだ父も母も仲が良かった頃、母が笑わなくなる日が来るなどと、知る由もなかった頃の小さな私だ。
父が家を出てからは、写真など撮った記憶がないのだから、こうして祀られる写真は幼い私しかないのかもしれない。
その写真の横に、母にあげたかった飴が置かれている。
そして母は、祭壇の私に向かって呟いていた。
「ごめんね……。ごめんね……」
私は後悔なんてしていない。
私はここにいるよ。
お母さん、だから
笑って――。
いかがでしたでしょうか?
明日は、別の作品をアップします^^




