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月の柩  作者: 桧崎マオ
第3章 月世界の白昼夢
9/11

02

 ぽく、ぽく、ぽく、ぽく。

 規則正しい間隔を刻む敲音が、身体の芯を揺さ振るように低く、そして染み渡るように深く響き渡る。その音の底に沈むようにうっすらと、だが絶え間なく聞こえるテレビのノイズのような音は、降り頻る雨のものだと───今、自分を取り巻く世界について、牧静眞は、ぼんやりと考えている。重石が乗ったような瞼をどうにかこじ開け、徐々にではあるが、仄明るい灰色に包まれた世界の中に浮かび上がる、見慣れた高い格天井の格子木が織り成す幾何学模様と、古い仏像の設えられた大壇を身動ぎもせず眺めながら。

 ひんやりと湿った空気に包まれた空間には薄い白煙が揺蕩い、嗅ぎ慣れた、いつもの白檀の線香の匂いが鼻の奥を刺す。徐々に感覚を取り戻してきた肌は、自分を柔らかく包む、布団の温かさを感じ取り、ようやく静眞は自分が十蘭寺の本堂に寝かされているということに気付いた。眼球を僅かに巡らせれば、すぐに坊主頭の、墨色の空衣に包まれた逞しい背中が視界に入ってくる。この十蘭寺の住職にして、静眞の師である武道家、久生雨蘭だ。この規則正しい敲音は木魚を打つ音で、どうやら久生はお勤めの最中のようであった。

「気がついたか」

 ぽく…と、最後の余韻を残して敲音が不意に止む。意識を戻した静眞の気配に敏く気付いた久生は、振り返りもせずに撥を置きながら、背後で横臥する弟子に声を掛けた。

「……久生師範。その…お仕事中だっていうのは解るんですが……」

 一体、自分はどのくらい眠っていたのだろうか。声帯を使って音声を発することなど、本当に久し振りだ。力なく、掠れた声をどうにか喉奥から絞り出す静眞であったが、久生はお構いなしに続ける。

「自分が死んだみたいで嫌か」

「はあ」

「まあ、お前はあれで一度死んだようなものだよ」

 チーンとご丁寧なタイミングで鈴まで鳴らしてくれる、尊敬する筈の師の広い背中に向かって「このドS…」と静眞は内心で毒づく。だが次の瞬間、思い至った事柄に───十蘭寺の参道で姉弟子と自分を待ち構えていた、あの『余裕こいていて何かムカツク系の美形』のことを思い出した静眞は、はっとなって布団を撥ね除け、がばりと身を起こす。

「……黒岩さん───そうだっ、久生師範、黒岩さんは…っ!?」

 勢いだけで起き上がったものの、その途端に脇腹に走った息も止まるような激痛に呻いて、静眞は身を縮める。あの異国の風体をした男に刀で斬られたことを思い出した静眞であったが、そんな弟子を顧みることもなく、大壇に納められた仏像を真っ直ぐに見据えたまま久生は淡々と応えた。

「あの男に掠われたよ。私の、目の前でね」

「………」

 優面を顰めながら包帯の巻かれた脇腹の挫創を押さえ、どうにか堪えた痛みの下から、静眞は墨衣に包まれた師の広い背中を見遣った。口調はいつも通りに静かなものではあったが、その声音には明らかな怒りの色が隠っていた。正座した膝上で握り締めた拳が小刻みに震えている。十数年来の弟子である流香を、それも自身の目の前で掠われたことに怒りと悔しさと、そして師としての責任を感じているのであろう、久生の心情は察して余りある。掛ける言葉もなく神妙な面持ちで睫毛を淡く伏せた静眞であったが。

「……それも、私の髪がないとか抜かしてな……!」

「あんた、ツッコむところそこかよ!!」

 事此処に至っても『そこ』に拘る師匠の斜め上発言に全力で突っ込んだものの、勢い込んだ自身の声が脇腹の傷に響く。痛ッてエエエエエ! と声にならない悲鳴を大絶叫しながら息も絶え絶えに布団の上でもんどり打つ、失敬な物言いの弟子を余所に、立ち上がった久生の衣擦れの音が聞こえた。

「あまり騒ぐと傷が開くぞ」

 板の間を、ひたと歩を進めていく素足が遠離っていく気配。自分の生命を救ってくれたことへの感謝と、そして姉弟子を護れなかった自身への不甲斐なさに対する謝罪を、苦痛に喘ぎながらも静眞はどうにか師の逞しい背中に向けて投げ掛ける。

「……あの、久生師範、ありがとうございます。それから、黒岩さんのこと…すみません」

「礼なら百合子に言うんだな。あれが傷をふさいだからお前はこうして生きている。私の法術でできたのは血を一時的に止める所までだ」

 だが、久生の口から出た思わぬ名前に静眞は弾かれたように顔を上げた。百合子というのは、この久生雨蘭の、親娘ほど年齢の離れた妻のことである。歩を止め、肩越しに顧みる久生の、仏陀のような半眼の眼差しと、驚きに目を丸くした静眞の視線とが初めて出逢う。さあさあと細かい雨粒が世界に降り注ぐ音がふたりの間に横たわる中、奥さんが…? と言いかけた弟子に先んじて久生は続けた。

「あれからお前は二日あまり眠っていたんだ。勤め先には私から連絡をしておいた。一週間休みを貰っておいたから身体を快復させろ」

「……え……?」

「お前の勤め先の岡基堂おかもときどうの岡会長とは知己でな。季節外れのインフルエンザということで、お前の席は残しておくようサービス企画課に通達しておくと、そう言っていた」

 ぱちくりと音がしそうなほど、大きな眼を忙しく瞬かせながら、静眞は鸚鵡返しに間の抜けた質問を繰り返す。

「……久生師範…ウチの会長と知り合い…って、なんで……?」

「十蘭寺の檀家だとでも言えば納得するか?」

 掴み所のない師の言い分に、静眞は寝ていた布団の上にもう一度ばさりと仰向けに倒れ込んだ。柔らかい羽毛によって幾ばくか緩和されたものの、それでも身体に走った鈍痛に「痛ッ」と小さく呻いて形の良い眉を顰める。

 初めて出逢った時からそうだったが、この久生雨蘭という人物は本当に掴み所がない。静眞が久生の門弟と認められてから二年ほどだが、まだまだ師について殆ど知らないのだ。ただはっきりしていることは、久生に対しては恩義がある。生命を救われ、行くべき道を示して貰い、強くなるために弟子にまでして貰った。久生に出逢わなければ、静眞は今頃怪しげな邪神を崇める集団に手足をもがれて『イキガミサマ』とやらにされ、彼らのために『夢』を見続ける羽目に陥っていただろう。

 あの時の、師の言葉が、静眞にとってはすべてなのだ。

 (強くなりたいか?)

 ……助けて貰ったあの時も、雨、降ってたなぁ───。

 嫌なことを思い出した、と。年季の入った本堂の格天井を仰いだまま額に押し付けた掌で視界を覆う。未だに強烈なトラウマになっている、当時のおぞましい記憶を振り切るように静眞は大きく息を吐いた。

「……あの超余裕こいてるスカした美形野郎―――サイセイって名乗ってましたけど。あいつ、黒岩さんのことを知ってるみたいなんです。最初から黒岩さんしか眼中になかったし」

 瞼を覆っていた掌で、そのまま額にかかる前髪を掻き上げながら、断片的なものではあるが、うっすらと記憶の片隅に残っていることを、静眞は、ぽつりぽつりと言葉に変えて紡いでいく。

「俺も斬られて、記憶が曖昧なんですけどね。でもあいつは『妃として迎えに来た』って、確かにそう言ってました。でも、そのわりにはずっと黒岩さんのことを『リューカ』って違う名前で呼んでたんですよね。まるで、黒岩さんにその名前を押し付けるみたいに───」

 布団の上に倒れ込んだままの静眞の方に向き直ると久生は、削ぎ落としたような精悍な線を描く頬を思案げに一撫でし、ふむ、と相槌を打つ。

「彼は私のことも知っているようだったな。ただ、『アスタルテ・ドラクルの影』などと、おかしな呼び方をしてはいたがね」

「……あ」

「どうした?」

「その『影』って言葉、他にも聞きました。確か俺のことは『従者の影』って」

 もぞりと布団の上から頸だけを巡らせ、言い募る弟子を一瞥すると、それきりに久生は沈思する。聞こえるのは、流香が掠われてからこの方、ずっと降り続けている、この耳障りな雨の音だけだ。

「……あいつ…あの、哉生って男、何者なんだろ」

 それを破るように静眞はこの件の根幹を為す疑問を、ぽつりと口にした。それは本堂の天井に思わぬ高さを以て反響する。

「正しくは解らんが、ひとつだけ言えることがある。魔族と相対した時の感覚と同じだ」

「魔族、ですか」

 師匠の答えの唐突さに現実味がないのが半分、呆れたのが半分で、ドン退き気味に静眞は、はぁ、と呆けたような相槌を打つ。

「私は押し並べてそういう呼び方をしている。要は我々が住むこの世界とは別の、違う世界の住人だ。何度か『仕事』の上で相対することもあったが……まァ、もっとも先方はやたら気位の高い連中でな。この世界の住人である我々のことは、言わば彼らの箱庭の中で生かされているだけの、無知で壊れやすいゴミくらいにしか思ってないようだがね」

「……はァ」

 漫画や小説の中でしかお目にかかれないような、日常の斜め上から遙かに吹っ飛んだ説明を、さも当たり前というように淡々と語る師匠に、静眞は「まーた始まったよ」と内心で溜息を吐く。

 弟子でありながら不遜な態度であると重々承知はしているが、それでも静眞は必死で、時代錯誤も甚だしい、古風な精神論の罷り通るこの道場において、『まともな常識人』であろうとしていた。そうでもなければ、人望篤い古寺の僧侶という顔とは別に、法術を駆使し、『拝み屋』などと、これまた尋常な臭いのしない、もうひとつの顔を持つ久生の周辺は、あまりにも常識外れなことが多すぎて、社会人としての自分の感覚が狂いそうになるからだ。姉弟子のように「えっ、その方が面白いじゃん」と脳天気にケラケラと笑い飛ばすことなど、到底出来そうにもない。

 尤も静眞のその有り様も、師に言わせれば、普通のサラリーマンという自分の妄想に執着しているだけなのだそうだ。過ぎる妄想も、執着も…思考する一瞬の暇すらも、武道家にとっては命取りになる。故に、棄てよ、と。繰り出される鉄拳にボロボロにされた挙げ句に、胸座を掴まれながら、どれほど久生に説教されてきたことか───。

「ところで、その哉生とかいう男、流香に『妃として迎えに来た』と、確かにそう言ってたんだな?」

 念を押すように問うてきた久生に、静眞は、はい、と短く答える。久生は心得たように小さく頷いた。仏陀にも喩えられる穏やかな半眼の瞼の下、だが鋭い光を閃かせながら。

「それが本当であれば、彼奴が流香をすぐに殺したりということはないだろう。そうやってる間に、私も流香を助け出す手段を考えねばならん」

「それにしたって、妃とか何とか、黒岩さんには似合わない単語ですねえ」

 息を呑むほどという表現が本当に相応しいと思う。闇夜に浮かぶ月魂を思わせる、支配者然とした哉生という男の───文字通り、『余裕こいていて何かムカつく』ほどに美しい顔貌を思い返しながら静眞は、あんなに美形なのに、わざわざ、あんなじゃじゃ馬なんて物好きが過ぎるだろと、姉弟子に対してあまりに失礼なことを考える。その静眞の内心に同意するかのように、久生は複雑な面持ちで深い溜息を吐いた。

「まあ、お前も解っているだろうが、流香アレは妃になれとか言われて大人しくしてるようなタマじゃない。色気もないし、今頃向こうも相当手を焼いてるだろうなあ」

「あ、それなんですけどね」

 案じているのは果たして愛弟子の身なのか、それとも流香を掠った異世界の魔族とやらのことなのか。押さえた眉間に深い皺を寄せて微妙な物言いをする久生であったが、続いた静眞の言葉に興味深い一瞥を投げ掛ける。

「……俺、ずっと『夢』を視てました」

 静眞の視ていた『夢』は、いつものようにそれだけでは意味を為さず、断片的かつ抽象的なものであった。沈む赤い月と、昇る白銀の月───雙つの月に、どこまでも続く、果てのない砂漠の中に聳え立つ異国の雰囲気が漂う石造りの城塞の風景。その城壁の突端に、杖を手に佇む流香の姿が在った。最後に十蘭寺の参道で掠われた時と同じ、学校のセーラー服を着て、遠くを睨む様はいつもとまったく変わらない。そして視ている静眞には、流香の手にある、彼女の身の丈よりも大きい錫杖が、師である久生のものであることはすぐに理解ができた。

 そして、目覚める直前の静眞の意識に滑り込んできた光景は、天空高く昇った白銀の月の下、久生の錫杖で幾人もの男達を薙ぎ倒す流香の姿であった。御影流古流拳術は基本は拳の術であるが武器を使っての術も刀剣や槍、杖と多岐に渡る。流香は六尺を超える錫杖を器用に操りながら、異国の風体をした兵士達を向こうに朗と啖呵を切って見せる───。

 (どうした、もう終わりか! だったら、さっさと門を開けろ───!)

「……多分、今の黒岩さんと意識が繋がったのかなって…そう、思います」

 遍く世界に冷たく降りしきる雨の音だけが十蘭寺の本堂を包み込む。少し言い難そうな調子、訥々と言い募る静眞に師が黙して答えないということは、その見解は間違っていないという暗黙の答えでもあった。

 遠い世界、たとえそれが次元や時間を超えた処に在るものであっても、あらゆる万象と意識を繋げ、ここにはない事象を夢という形で捉えることができる『夢視ゆめみ』の能力───それゆえに邪神を崇める集団に『御神体』と狙われ、酷い目に遭った過去も手伝って、常識ある普通のサラリーマンを自称する彼にとっては厄介な代物ではあったが、それでも、こんな時くらいは役に立つもんだなと静眞は内心で自嘲する。

「そうか、咄嗟ではあったが、あの錫杖は今は流香の手元にあるんだな」

 静眞の語る『夢』に得心したように頷く久生。だがその一方で、静眞は酷い目眩のような───眠気に意識を攫われそうになっていた。何やら心算のあるような師の言い様に静眞は不意に襲ってきた睡魔に抗い、込み上げてくる欠伸を噛み殺しながら呼び掛ける。

「……ひさお、しはん……?」

「いずれ向こうの世界に行く時に、私と流香を繋ぐ『えにし』となる」

「……GPS、みたいなもん、ですか?」

「相変わらず悪い癖だな。お前はそうやって小賢しく自分の理解出来るものに物事を置き換えすぎる。妄想で物を言っているうちは、お前に色々と学ばせるのは、まだまだ先の話のようだな」

 師の説教を受ける最中も、また、欠伸が込み上げてくる。『夢』を視る時の、あの感覚だと静眞は既に自覚していた。恐らく静眞には、まだ『視なければならない事象もの』があるのだろう。それを汲み取った久生は苦笑を含んだ声音で、手短に問いを投げ掛ける。

「流香は相変わらずか?」

「いつも以上にキレてましたよ」

 揶揄めいた口調で、そう答えたものの、ゆっくりと、まるで底のない泥濘の中に引き摺り込まれていくように徐々に意識が混濁し始める。本堂の古びた格天井の組木がぼやけて霞み、視界が暗くなり、次第に瞼を開けていられなくなる。

「……すみません、まだ、視なきゃいけないみたいです。すごく、眠い……」

 静眞が深い眠りの世界に落ちる───言い換えれば、再び異世界に在る姉弟子の意識に繋がろうとする間際に、静眞には視えたものがあった。不透明の膜に覆われた、流香の精神の奥深い処にある朧気な人の影……。

 ……誰、だ…あれは───?

 どこかで視たことがあるような気がする。静眞自身、妙な既視感に捕らわれながら不透明の膜に覆われた向こう側に在る、人影を透かし視ようと意識を集中させようとしたが。

「視た夢をあとで教えてくれ」

 だが、間際に耳に滑り込んできた久生の言葉に遮られて、結局それ以上を探ることはできなかったのである。

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