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月の柩  作者: 桧崎マオ
第3章 月世界の白昼夢
8/11

01

 窓硝子を叩き付ける風鳴りの下に潜むように、微かに聴覚を刺激する喧噪と人々の蠢く───いくさの動く気配を、駆け抜けてきた数多の戦場の中で培われた勘が拾い上げ、三日月の竜公シン・ドラクルの称号を戴く男は微かに身動いだ。

 重厚な執務机を挟んで対峙する主君の反応と、そして彼と同じものを感じ取っていた三日月竜の近衛騎士団長・降柳は報告の声をふと途切れさせた。それから、ほどなくして執務室のドアの向こうから、此方に急いて駆けてくる足音と激しいノックの音が聞こえてくる。

「何用か」

 降柳の鋭い問い掛けにドアが開き、彼女とはデザインも色も違う、薄青のトーガを纏った騎士が姿を見せる。騎士の位と所属はトーガの形と色で決まっているが、薄青は下級騎士を顕す。下位の騎士の行動としてはあるまじきものではあるが、余程慌てているのであろう、男は騎士団長と主君である三日月の竜公への挨拶も漫ろに、ここへ駆けてきた理由を急き込んで告げた。

「一大事ございます! 軍将閣下と配下の銃騎兵が『豊饒の海』にてリューカ妃を……!」

 血相を変えた下級騎士の一報に、降柳は貌を覆うドミノマスクの下の気色をありありと変えた。哉生への報告も中途に踵を返し、ばさりと音をたてて純白のトーガを翻す。先程、兄は別れ際にこう言っていなかったか。病気快復のリューカ妃に見舞いの挨拶に行く、と。

 ……一体どういうおつもりか、法水の兄上───!

 胸裡に俄に重く垂れ込める不安という名の暗雲を押し隠し、執務室を辞去しようと足早にドアに向かいながら、降柳は後背の君主に静かに告げた。

「軍将を止めて参ります」

「いや、降柳の叔母上」

 それを留めるように掛けられる哉生の声。降柳にとっては甥でもある君主は、正妃であるリューカのことであるというのに動じた様子もなく執務机の前に鎮座している。怪訝に思う降柳に対して哉生は雙月境の月とも例えられる冷ややかな、その白皙の美貌に珍しくも感情の色を刷いて、苦笑混じり、こう命じたのである。

「止めるのは伯父上ではなく───我がリューカを」






**********






 獣の咆吼のような音をたてて舞い上がる風を一身に受けて、男の纏う黒い戦装束の裾は音をたててはためき、無造作に、ひとつに括った漆黒の髪房は嬲られて棚引く。無精髭に覆われた尖り気味の顎を反らし、その口許には不敵な薄ら笑いすら湛えて、城壁の高い位置から好戦的な光彩を宿した紫闇の瞳で流香を見下ろしてくる傲然たるその様は、戦場という地獄を統べる魔王さながらであった。

「あいつ、だれ?」

 頸元を絞め上げていた兵士を投げ出すように解放すると、流香は琥珀の目を細めた。哉生のものとも、そして師のものとも、また質が違う。だが、歴戦の武人が纏う特有の『気』を感じ取った流香の、誰に訊くともなく漏らしたその問い掛けを遮るように剣呑な声が『豊饒の海』に響いた。

「三日月竜の軍将いくさのきみ、法水!」

 それは糾弾する者の声であった。烈しい怒りを滲ませ、法水と呼んだ男を毅然と見上げる声の主───侍女のアガサの険しい横顔を、思わず流香は驚いたように見遣る。

 城壁に立つ法水は風に解れた硬質の黒髪を気怠い仕草で掻き上げた。アガサの存在にまるで初めて気付いたというように片眉だけを大仰に吊り上げ、小馬鹿にした態で応じながら。

「なんだ、どっかで見たツラだと思ったら、お前さん、甕星竜の神殿の補佐官じゃねえか。娼館に払い下げた筈だったんだがな」

「私のことは結構です! ……甕星竜の巫女姫は……アシュリー様は何処におわすか!」

「さてね、どこだろうかねェ」

 法水は、にぃっと口角を吊り上げた。尖った犬歯を剥き出し、下卑ていて悪魔めいた───敵兵はもとより、非戦闘員の女子供まで数多虐殺してきた、悪名高き『狂公ザナシュ』の忌み名に相応しい、その嗤い。天空にある昼の月、『貴婦人』の銀光を一身に浴びて、逆光の生み出す翳りの深淵に沈み込んだ、それはあまりに狂気めいていて、アガサは本能的な恐怖と、そして腹の奥底から込み上げてくる怒りに身を総毛立たせた。

「……貴方は───」

 その脳裏にまざまざと甦るのは半年ほど前、この男と配下の銃騎兵の一群が甕星竜の神殿を襲撃した夜の記憶だ。

 七神竜を祀る神殿には不可侵の法があるのに、それが何故こんなことに───!?

 あの時。燃え盛る赤黒い炎と焦臭い煙が濛々と立ち込める中、銃騎兵に荒々しく引き立てられながら、つい数刻までの平穏と、これまで信じていた世界の全てが崩壊してく様を目の当たりにしたアガサの頭の中を占めていたのは混乱、ただそれだけであった。

 そして『狂公』と悪名を馳せる男の肩にまるで戦利品のように担がれ、連れ掠われて行く、アガサの主人であった清らかなる甕星竜の巫女姫の哀しげな顔と、それが遠離っていく姿をただ見ていることしかできなかった無力な自分───あの時のように、掌に爪が深く食い込むほどに握り締めた拳が戦慄いた。

「貴方は、自分が如何ほどに罪業深いことをしたか自覚がないのですか! 不可侵の法を犯して七神竜の神殿を穢し、その一角である甕星竜の巫女姫を───!」

「そうさ、お前さんの貞操とやらと引き替えにな」

 アガサの糾弾を遮り、侮辱的な言葉を投げつけながら、せせら笑う法水。刹那、アガサを中心にして、その周囲の空気が陽炎のように、ゆらりと揺らめいた。真っ直ぐに伸びた蜂蜜色の髪房が背肩で踊り、身に纏うブリオーの裾を巻き上げながら、空気の揺らめきはアガサを中心とした渦となり、やがては小さな竜巻となる。渦を巻く空気が摩擦を起こして静電気が蒼い火花を散らした。

「引き裂けッ!」

 鋭く、その声音が紡いだ詞には事象を動かす『力』が隠っていた。法水に向けて刀印を切ったアガサの命令に応えるように風は、ごぉっと唸りを上げ、舞い上げられた砂塵に流香は思わず手を翳した。

 ……これって、久生師範の法術と同じ……!?

 アガサの詞を受けて風は意思を持ち、幾重もの鞭となって法水に向かって襲いかかる。だが魔王の如き男は眉ひとつ動かすでなく、胸元に仕込んだ薬莢を指間で抜き取ると担いでいたマスケット銃に素早く装填し、疾く構えた片手で引き金を引く。

 ばんっ! 爆ぜる音がして、アガサの足許の床石が砕ける。風の鞭は法水に傷ひとつつけることなく霧散し、アガサは愕然とその方に視線を向けた。法水の片手に構えたマスケット銃の口からは白い煙が細く棚引き、硝煙の臭いが辺りに漂った。

「俺は法術なんてものはハナから信用していない。それに神と名の付くものもだ」

 銃の狙点を、ぴたりと、今度は薔薇石の飾りの載ったアガサの額に定め、法水は傲然と言い放つ。

「不可侵の法だと? お前らが勝手に作った黴臭い法律なんぞ俺は知らん。甕星竜の神殿補佐官、アガサ・クリスティア。神殿なんてものはな、お前らみたいな奴らがお前らの都合の良い所に勝手に建てただけのモンだろうが」

「……!」

 蛮勇にして悪逆非道。まだ甕星竜の神殿にいた頃から三日月竜の軍将・法水の非道な行いは風の噂で耳にする所であったし、また、捕虜としてここに連れて来られるまでの道中でも、彼とその配下の銃騎兵が完膚無きまでに破壊した都市の痕跡や、その蛮行を幾度となく目にする機会のあったアガサであったが、意外なほど静かに、そして理路整然と語る当の『狂公』を前にして絶句し、反論もできないまま睨め付けることしかできない。

「大体今日はお前さんに用があるわけじゃない」

 そんな甕星竜の神殿補佐官を余所に、法水はその傍らに佇む少女へと視線を移した。

「久し振りだな、リューカ妃。せっかく療養先から戻ったってのに、亭主の伯父であり後見人だった俺に挨拶なしとは随分とつれないじゃねえか」

「………」

 大軍を動かす者特有のカリスマを持った声が、広場の空気を、囂々と吹き付ける風すらも圧して響くのを流香は聞いている。法水という名前らしい、この男、リューカとも面識があるようだが、それよりも聞き捨てならないのは彼が自身のことを『亭主の伯父で後見人』と言っていたくだりだ。果たして、哉生の命令を受けて自分を止めに来たものか───。

「それに少し見ない間に随分と痩せたようだな。ん? 胸なんぞぺったんこじゃねえか」

 軍将の品のない冗談に呼応して、周囲の黒衣の兵士達がゲラゲラと下卑た嗤いをたてる。下らない冗句と兵士の嘲笑に晒される、リューカの影の少女をアガサが心配そうに見遣れば、大丈夫と言うように頷いて肩越しに目配せを寄越す。

「……で? 療養先から戻ったってのに今度は勝手に外に出るつもりか。三日月竜の公妃が哉生の許可も取らず、しかも番兵を伸すとか、お前さん、まさかとは思うが実家の甕星竜の軍勢を引き入れるつもりなんじゃあ───」

「さっきからガタガタうるさいわね、あんた」

 不意に法水を遮ったのは、強い風にはためく紺色の大きな襟と、膝までの脚が顕わになった奇妙なドレスを纏ったリューカ妃の顔貌をした少女の、朗と響き渡る声であった。少年のようにぞんざいな動作、手にした錫杖を肩口に載せ、口の端を、にぃと吊り上げて不敵に笑ってみせる。

「哉生の許可なんて、あたしは関係ない。大体あんたさっき、そこのアガサに言ったばかりじゃない。お前らが勝手に作った法律なんか知らないってさ。それと同じことよ」

 『豊饒の海』を一望できる城壁の上で、腕を組んだまま法水は紫闇の瞳を細めた。眼下から、軍将である自分に対して物怖じもせず、不敵に睨め上げてくるこの小娘の顔貌、瞳と髪の色、声質、そして凛とした有り様は確かにリューカ妃と同じ……否、リューカ妃そのものに違いはない。だが、内側から滲み出てくるものはまったく違う。

 ……哉生の奴、何を考えてやがる───三日月の竜公の伯父である軍将は一向に計れぬ甥の心算に考えを巡らせながら、それでも今まで抱いてきた疑問を確信へと変える。一体どこから探し出してきたものか、この小娘は『見た目だけは』よく出来たリューカ妃の偽物であった。

「お前さん、自分の立場が理解できてねえみたいだな。リューカ妃は三日月の竜公の妃であり、そして現在戦争中である甕星の竜公ウラヌスの妹姫でもある」

 影武者、という単語が頭を過ぎりもしたが、だがそれはすぐに打ち消す。それにしては感情が露骨で、リューカとしての所作も出来ておらず、あまりに出来が悪すぎると感じたからだ。無精髭に覆われた尖り気味の顎を引き、探るような態で言葉を投げ掛ける法水に流香は苛々と訊き返した。

「……だから?」

「敵国の姫君なのさ、お前さんは。我らが主君の妃であると同時に、囚われの身も同然───」

 周囲を圧して響き渡る低い声が、張る弓の弦の切れるかのように、ふつりと途切れる。矢庭に流香が傍らに伸していた門番の兵士が腰元に下げていた得物を取り上げ、法水に向けて投げつけたがために。それは、ひゅんと鋭い音を立てて風を斬り、法水の背後の煉瓦造りの壁面に見事に突き刺さる。

「あたし、そういう面倒な話とかしたくないわけよ。あんたらの事情なんてどうでもいいから、さっさとそこを開けて」

「………」

 壁に突き立った刀身は、その衝動を受けて、音たてて細かく震えている。狼狽もせず、ただ頸を左に傾げ、投げつけられた刃を躱した法水であったが、無精髭に覆われた歴戦の軍将の右頬には、つぅっと赤い線が走る。

「軍将!」

 配下の銃騎兵達の響めき、そして傍らに控えていた副官の十沙じゅうざの上げた声を余所に、徐に法水は拳で頬に滲む血を拭いながら不貞不貞しい調子で問い掛ける。

「……鄭重にお断りしますって言ったら?」

「決まってるじゃない、あんたを倒して出て行くまでよ」

 肩に担いでいた錫杖を流香が一振りすると、空を斬る鋭い音とともに遊環が触れ合って、しゃらりと音をたてた。

 城壁の上から思案気に見下ろす三日月竜の軍将と、切っ先に見立てた杖頭を真っ直ぐに向けてくる、異界の少女の意志の光に満ちた琥珀の瞳とが絡み合い、轟と唸りながら吹き荒ぶ風の中で暫し互いを凝視する。

「……お前さん、まさか……」

 紫闇の眼を眇め、思考を巡らせていたその脳裏に過ぎる、ある答え───だが、それが確信となって口を衝きかけた処で法水は言いさした。代わりに込み上げてくる嗤いにくつくつと喉奥を鳴らし、やがてそれは豪放な哄笑となって周囲の空気を震わせる。

 影武者どころじゃねぇ。この小娘、『影』か───!

「こいつは面白れェ。哉生の奴、神殿の不可侵の法とやらを破っただけでは飽き足らず、『禁忌』まで犯しやがったか!」

 敵将の妹姫を掠奪し、和平を引っ繰り返し、その女のために戦も辞さない。その上にその女の影を───『影の世界』の『ヒト』を引き摺り込むなどと、雙月境の秩序を護る七神竜の神殿が、この世界が崩壊する可能性があるとして『禁忌』と定めた法を犯して平然としている甥に、法水は込み上げてくる笑いが止まらなかった。

 そんな法水の様に反応する者があった。流香の傍らに立つ侍女のアガサである。アクアマリンの瞳を瞠り、「なんですって」と呻くように声を漏らす。

「……それでは、我が甕星竜の神殿を襲撃したのは三日月の竜公の御命令だと…そう仰るのですか! 三日月竜の軍将!」

「そうさ、哉生の命令だ。あいつはバケモンだ! 『狂公』と忌み名される、この俺以上のな!」

 ふたりの間で交わされる会話の意味は流香には半分も解らない。だが、そのためにアガサはショックを隠しきれない様子で頭を振りながら、何故、何のためにとだけ繰り返し、呆然と立ち尽くしている。流香にとってはそれで十分だ。この世界の来栖朝霞に───言い換えれば、流香の幼馴染みの『月』であるという少女にこんな顔をさせたのであれば、それは到底赦せることではない。『豊饒の海』と言う名の、この広場に満ちる轟音のような、不愉快なまでの男の哄笑を遮るために、流香は手にしていた錫杖を翻し、音も高くその先を広場の石畳を叩き付けた。

 法水はふと嗤いを収めた。頬を拭った際に手の甲に張り付いた自身の血をべろりと舐め上げながら、その口許を悪魔めいた笑みに歪める。

「お前さんの『本当の名前』を聞いとこうか、お嬢ちゃん。墓ァ建てるのに名無しじゃあ浮かばれんだろうが?」

 リューカという愛妃がありながら、哉生が何故、その『影』を喚び寄せたのか───そもそも本物のリューカ妃は今一体何処にいるのか。こうなるとリューカ妃が公の場から姿を消した、病気療養という哉生の事訳すらも怪しいものだ。得られた答えと、そして新たな疑問が次々と泉のように湧いてくるが、だがそれ以上に今の法水の興味は目の前にある『影の世界』の少女に向けられていた。

 リューカ妃は音もなく深処を流れる水のように静かで、夫である哉生に淑やかに寄り添う芯の強い女だった。だが、この小娘はまるで違う。燃え盛る焔そのものだ。人を灼き、都市を燃やし、何もかもを灰燼に帰し、そして終には自身すらも灼き尽くしてしまうほどの烈しい焔。強く吹き付ける風の中、全てに抗うかのように在る、この小娘からは戦を好む自分と同じ匂いがする、そう法水は感じ取っていた。

 はてさて、哉生がこの癇馬のような小娘を御せるものか───。

「……流香……黒岩、流香」

 低く、狼の唸るように答える、流香の脳裏には師である久生雨蘭との間でかつて交わされた言葉がまざまざと甦っている。

 (流香、御影流は師の名前と共に名乗りを上げるんだ)

 五歳の時に父親に連れられて初めて十蘭寺の門をくぐってから、それまでずっと久生の下で鍛錬を続けていた流香であったが、小学校に上がって間もないある時、短く切り込んだ栗色の髪をわしゃわしゃと撫でながら、師はこう告げたのである。

 (お前は今日から私の正式な門人だ。だから、御影流と師である、この私の名を共に名乗ることを許そう───)

「御影流古流拳術掌門、久生雨蘭大師範が門人、黒岩流香! 死ぬまでの短い間、しっかり憶えておけ!」

 それは、まるで子供が面白い玩具を見付けた時の感覚に似ていた。不思議と浮つくほどの愉快な高揚感に囚われながら、法水は胸元に仕込んでいた薬莢を手にしたマスケット銃に装填すると、リューカ妃の『影』の少女の名乗りへの返礼とばかり、その銃口を向け、號と、『豊饒の海』を取り巻く配下の銃騎兵に令を下す。

「構えぃッ!」

 軍将の命令に忠実にマスケット銃の引き金に指を掛ける者、だが同時に躊躇する空気も流れる。威嚇の命令ではない、ましてや標的は敵でもない───それらの声なき声を代弁するように銃騎兵の司令官に異を唱える者があった。法水と同じ黒の戦装束に身を包んだ副官の十沙が片眼鏡の下の神経質で顔色の悪い相を更に蒼白にし、慌てて止めに入る。

「軍将! 相手はリューカ妃……我らが主君、三日月の竜公の妃ですぞ!」

「やかましい! たかが小娘一匹、殺したって構うか! ウラヌスの所にテメエの妹の死体として、熨斗付けて送りつけてやりゃいいだけのことよ!」

「……しかし……!」

「放てェッ!」

 なおも言い募る十沙の諫言を遮って放たれた、法水の号令一下、『豊饒の海』を取り囲む銃騎兵の数多のマスケット銃が火を噴いた。

 この強風で弾道はいくつか逸れる筈だ、と。考えるよりも先に戦いの場の空気を読んだ身体は、錫杖を構えたまま態勢を低く、しなやかな獣の跳ぶ寸前のように構えた。だが、その流香の前に素早く立ち塞がる影があった。

「弾けッ!」

 驚きに瞠られた流香の琥珀の双眸に映るのは、事象を動かす法術の詞を叱咤し、横凪ぎに刀印を切る侍女のアガサの姿であった。吹き付ける風は竜巻のように渦を巻く壁となって、ふたりの周囲を阻んだ。銃騎兵の放った銃弾は全て弾き飛ばされ、力を失って青鈍色の石畳に、ぱらぱらと音をたてて転がり落ちる。

「……私のここでのお役目はこの方にお仕えすることと、三日月竜の大藩公様より直接のお言葉を頂いております」

 アガサは広げた両手の後背に流香を庇うように隠すと、城壁の上に立つ法水に真っ直ぐに視線を向け、静かに宣べた。

「よって、この方に害成す者は何人たりとも私が赦しません!」

 思いがけず入った邪魔に法水は失笑する。半年ほど前、哉生の命令を受けた法水と、その配下の銃騎兵が甕星竜の神殿を急襲した際もそうだった。神殿を護衛する兵士達が全滅し、火を放たれた神殿を棄て、日頃の高尚なご高説も信仰とやらも投げ出して、我先にと神官や巫女達が這々の体で逃げ出して行く中で、この神殿補佐官の少女だけは気丈にも最後まで甕星竜の巫女姫を護ろうと『黒い悪魔』と怖れられる敵兵の前に立ち塞がったのである。

 (お願いです、私はどうなっても構いません! アガサを…アガサを助けて───!)

 脳裏に過ぎった、その時の光景に、法水はふと眉を顰めた。その役目ゆえに自由を持たず、その生まれながらの巫女としての能力ゆえに感情があるのかないのかも解らない、甕星竜の巫女姫・アシュリー。人形のような彼女が魂切れんほどの叫びを上げ、人間らしい表情を法水に見せたのは、結局、目前で大勢の兵士達に嬲り殺されそうになった神殿補佐官の小娘の命乞いをした、あの時だけではなかったか。

「……面白くねえな」

 舌打ち混じり、思わず零れた憮然とした呟きは、戦の興に水を差された『狂公』が気を悪くしているくらいのものとしか、周囲の部下達には映らなかったであろう。

 城壁に立つ法水の眼下では、黒衣の銃騎兵の一群がふたりの少女を取り囲む環を、じりじりと狭めていた。流香を庇うようにして後退るアガサであったが、不意にその華奢な肩を背後から掴まれる。静かに、その身体を押し退けながら前に進み出る流香に、アガサは声を上げる。

「る、流香様っ!?」

「アガサ、下がってて」

 手にした錫杖を構え直すと、遊環が震え、しゃらりと澄んだ音の飛沫が辺りに振り撒かれる。アガサを一顧だにせず、ただ迫り来る目前の敵達を見据えて、流香は好戦的な呟きを零した。

「……すぐにカタをつける」


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