04
「……帰してよ」
長い───息が詰まりそうなほどに長い、沈黙の果てに流香は呻くように、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。だが、それも強く吹き付ける風の中では翻弄されるだけの塵芥のように、何の力も無く掻き消されてしまう。
今、自分の在る所が自分の住んでいる世界ではないなどと───否、流香自身、薄々と勘付いていたことだ。流香をこの雙月境へと引き摺り込んだ、哉生という男の纏う尋常ならざる『気』。歴戦の武勇を誇る武道家である師、久生雨蘭をも凌駕する、ある種の畏れすら感じるほどの桁外れの強さは同じ人間のものではないということに。
一時に様々なことが流香の頭を過ぎる。それは十七歳の少女の常識では受け容れられない、理解し難い事柄ばかりで、流香は瞬きを忘れてしまったかのように凝然と琥珀の瞳を見開いたまま立ち尽くす。自分の住んでいる世界が、この雙月境の虚像であり、偽物の世界に過ぎないなどと俄には信じ難い話ではあったが、それでもここが何処であろうと、どのような場所であろうと流香の望むことは唯一つだ。二度、同じ言葉を繰り返して、叫ぶ。
「あたしがいた所に! 帰してよ!!」
ごぉっ、と獣の咆吼のように唸る風が一迅、流香のセーラー服の襟やスカートの裾を、ぱたぱたと音をたてて弄んでいく。その風とシャムロックの答えはまるで同じであった。流香を翻弄し、心の水面に漣を立て、掻き乱す。
「無理な相談ね」
豊かな胸の前で腕を組んだまま、シャムロックは尖り気味の顎を、つと反らし、『影の世界』の愚かな少女をチタンフレームの眼鏡の奥より睥睨する。
「存在をひとつ、定められた世界の理から引き剥がして別の世界の理に組み込むことがどれだけ難しいことか───貴女を此処に喚んだ法術は、この雙月境を照らす双つの月、『貴婦人』と『死神』の軌道を入れ替えるにも等しいことだと言えば、貴女でも理解できるかしら?」
「………」
無言のうち、流香はシャムロックを見返した。『死神』とは昨夜窓から見た、あの赤錆びた血のような柘榴色の月のことだろうか。それと、今天空に在る白銀の月、『貴婦人』との軌道を入れ替えるにも等しい術と言われても、法術を学んでいない流香には今一つ理解ができないが、このシャムロックが自分を元いた世界に戻すのはほぼ不可能だと言いたいのだろう。
「正直、術を織り成した私も成功すると思わなかったけど……貴女を雙月境に連れていく、哉生殿の想いが余程に強かったのね」
「……あいつ、一体何のために」
語る言葉は少なく、感情は読めない。夜闇に浮かぶ月魂のように支配者然とした三日月の竜公と呼ばれる男の怜悧な白皙の横顔が流香の脳裏を過ぎる。流香が通ってきた水の途はシャムロックが法術で造り出したものだが、それを命じたのは哉生だとこの女は言っていた。ぎりっと軋む音を立てながら、流香は呻くように口にした言葉ごと奥歯を噛み締めた。
「哉生にはリューカって妃がいるんでしょう? あたしと同じ貌をした女の子が! どうしてあたしがこんな所に連れて来られなくちゃいけないのよ! 何のために!!」
「月は影に、影は月に───月は沈み、影が月となるために」
風に流された雲は天空にある白銀の月の上を疾く通り過ぎ、それは、まるで貴婦人が曰くありげに貌を覆うヴェールを閃かせるが如くに、地上に映える影と光を目まぐるしく入れ替える。雷光のように明滅する『貴婦人』の銀光と薄雲の翳りの下で、シャムロックは毛皮を纏うように体躯を覆う豊かな黒髪を気怠げに掻き上げた。
「成功するかどうかも解らない法術を使う危険を冒してまで、何故、哉生殿が『影の世界』から貴女を連れて来たのか……未熟な貴女には到底解らないことね。狂おしいほどに人を愛するということが、どんなことか未だ知らない貴女には」
まったく返答になっていないシャムロックの言い様に倦んだ流香は、溜息混じり、短く切り込んだ栗色の髪を揺らして頭を振った。事情は知らないが得手勝手な理由で流香を雙月境に引き摺り込んだ哉生や、それを手助けしたシャムロックへの不信、剰え、住んでいた世界に戻れないかもしれないという不安に揺らぐ流香にとってシャムロックの雲を掴むような戯れ言は苛立ちの種でしかない。
……しゃらん……。
還る手立てが解らないのであれば、これ以上話すことはない。踵を返した流香の動きに合わせて手にした錫杖の遊環が澄んだ音を辺りに振り撒く。
「それにまだ理解出来てないのね。リューカ妃を貴女と同じ貌をした女の子、なんて」
白く長い指先に艶やかな黒髪を手巻いては梳るように解く、戯れを繰り返しながらシャムロックは遠離って行く流香の後ろ姿を横目に、謳うように続けた。
「貴女達は単に同じ貌を持っているというのではないわ。『影の世界』はこの雙月境の虚像。リューカ妃は『月』と呼ばれる本体、貴女はその『影』───言わば、コインの裏と表」
「でも、あたしはリューカじゃない」
風に乗って流れてくるシャムロックの言葉を半ば遮って流香は答えた。振り返ることなく、自身の進むべき未来を見定めようとするかのように、銀の月の光が照らす、この砂礫に囲まれた世界の遙か遠くを凝視めながら。
「黒岩流香だ、って?」
流香の続く言葉の先を奪っての女の揶揄めいた呟き、それと同時に空気が、ゆらりと揺らめく。それに気付いた時には既に遅く───瞬きの間に距離を詰め、すぐ後背にと迫った女の甘い声音と吐息が流香の耳朶を擽った。流香は驚きに瞠目する。間合いを詰めるシャムロックの動きが全く見切れなかったのだ。
「流香」
これまで『リューカ妃』と呼んでいたシャムロックの呼び方が変わる。ひたりと肌に張り付いたシームレスドレスの黒い生地に、蛇のようにうねる黒髪の絡みつく、ふたつの腕が肩越しに延びて、流香の小柄な身体を抱き竦めた。嫋やかな繊手は幼い線を描く流香の頬を背後から絡め取るようにして包み込んでくる。女の纏う甘い香の匂いが鼻腔を刺激し、媚薬のように甘いそれに流香は目眩すら覚えた。
「……お前は、この世界の『月』になるんだ。流香」
二度、流香の名を呼んだシャムロックの声が変わる。成熟した女の艶やかなそれではない。まるで別人のように低い、若い男の声だ。シャムロックの発する男の声は耳朶を食むように囁きかける。
「お前は僕が護る。何があっても、どんなことになっても。この魂のすべてをかけて僕はお前を護る」
「……!」
薄雲のヴェールが風に流れ、『貴婦人』がその顔を覗かせる。地上に煌々と降り注ぐ銀色の月光の帯の中で流香は、はっと息を呑み、その身を強ばらせた。
この声を、自分は知っているのだ。抱き締める、この腕も───。
空を仰ぐように周りの大人達を見上げ、それが世界のすべてであった遠い昔に。そして昨夜、眠る流香を掻き抱いていた哉生の腕の中でも、これに似た懐かしい感覚があった。
だが肝心の、その『名前』が出てこないのだ。記憶と意識の奥深い処に朧気に『誰か』の影は見えるのに、流香の名前を呼んでいるのに───だが、うっすらと見えない膜のようなものが流香の記憶と意識を覆い、じりじりとしたノイズ音に邪魔されて、向こう側にいる『誰か』を窺い知ることはできない。思い出そうと、自身の意識を覆う見えない膜を破ろうとするも、それを阻むように流香を不意の頭痛が襲う。
「……ぐ、ぅ…っ!」
鈍く、重い、破鐘の鳴るような、その痛みに流香は低く呻いた。痛みのあまりに手にしていた師の錫杖すらも投げ出し、頭を抱えて身を捩らせる。石畳に落ちた衝撃で錫杖の遊環が震え、しゃらりと破魔の音色を辺りに響かせた。
「……痛い…! 何なの、これ…痛い、痛い、痛い───!!」
日頃の鍛錬で痛みには慣れている筈であるのに、これまでに経験したことのない、頭の内側から響いてくるかのような痛みに暴れ、喚き散らす流香と、それを受け止め、ただ静かに抱き竦めるシャムロックと───清冽たる『貴婦人』の銀光の下、ひとつに重なった影法師が石畳の上に、転がる錫杖の上にと滑り落ち、濃く映し出される。
「精神を落ち着けて、流香。その痛みは所詮『夢』だ」
雙月境も『影の世界』も。僕らが五感で感じている世界など、所詮『夢』なのだと。まるで内側に直接語りかけてくるかのように響く、懐かしい男のその声が紡ぐ言葉を、流香は聞いている。大きく見開いた、その琥珀の双眸に天空の『貴婦人』を映しながら。
……それ……久生師範が、昔から、そんな風に言ってた───。
(私たちが五感で感じている世界など、所詮は『夢』……お前が今感じているその痛みは『夢の痛み』だ。だからお前は、まだ終わりではない。出来る筈だ)
まだ御影流に入門して間もない幼かった頃の自分に、そして最近では弟弟子の静眞にも、それは鍛錬で受ける痛みに堪えかねて弱音を吐く弟子に、師の久生雨蘭が必ず掛ける言葉であった。かつては久生も、痛みに挫けそうになった時に師にそう教わったのだと───。
「大丈夫だ、僕がいる。ずっとお前を見ている。時が至れば……お前は必ず僕の名前を思い出す。僕の名前を、呼ぶ」
対峙し、言葉を交わしているうちからずっと感じていたことだ。女の声でも、そして今の男の声でも、まるで久生と話しているように錯覚する、このシャムロックという毒花の如き妖婦は何者なのかと、その腕の中に囚われながら流香は、ぼんやりと考えている。
「……大好きな、僕の流香」
あれほど流香を苛んでいた頭痛は何時の間にか止み、やがて切なげな響きを孕んだ呟きをひとつ残して、ゆるゆると、シャムロックは流香の身体を離す。
流香の背を見つめたまま二歩三歩と後ろに退がっていく、シャムロックであってシャムロックではない存在は自身の肩を掻き抱く。背を向けたままの流香は知る由もない。愛しい存在を手放す、内なる痛みを堪えるかのように眼鏡の下の妖艶な美貌を歪めて、溢れる感情の漣に黄金色の瞳を揺らめかせて微笑するシャムロックの姿を。
「流香リューカ妃。忘れるな。月は影に、影は月に。月は沈み、影が月になるのよ」
謳うように発せられたシャムロックの言葉、だが男の声に女の声が入り混じり、続く言葉の『僕』と『私』の一人称も口調も混沌とし始めたそれに、思わず流香は其方を振り返った。
「僕私は見守っているよ───貴女お前が、この世界の『月』となる様を」
流香の目前でシャムロックは、その姿の輪郭を揺らめかせた。氷が水になるが如く、瞬時に水の塊にと変容したシャムロックは、その固体としての姿を保てなくなったかのように静かに溶け失せていく。女の気配は徐々に薄くなり、やがて水の一滴も残さずにその存在が消え失せた時───ひとり、屋上に残された流香は凝然と立ち尽くす。
「……月は影に、影は月に……月は沈み、影が月となる」
(お前はいずれ『リューカ』となる)
シャムロックの残した言葉を反芻する流香、その脳裏に不意に過ぎった昨夜の哉生の言葉とが被さり合う。それは一体どういう意味なのか。吹き抜ける一迅の風は獣の遠吠えのように鳴き、短く切り込んだ流香の髪を弄ぶばかりで、その問いに答えてはくれない。
訳の解らないことばかりだ。だが、唯一つだけ、流香の中ではっきりとしていることがあった。
「どいつもこいつも勝手なことばっか言ってんじゃないわよ」
流香は身を屈め、石畳に取り落とした師の錫杖を拾い上げる。怒りの色も露わに吐き捨てた言葉は、怪しげな法術を操るシャムロックと、そしてこの雙月境に引き摺り込んだ哉生───流香に『リューカ』という存在を押し付けるすべての者に向けたものに他ならない。
「あたしは、黒岩流香だ……!」
立ち上がり様に軽々と肩に錫杖を担ぎ、面を上げた流香の、その琥珀の瞳には常の彼女らしい決然とした光が戻ってきていた。しゃらりと遊環の揺れる音を伴って流香は再び歩き始める。自身の意思を以て、『此処』を出ていくために。
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いくつかの石造りの階段を下り、天空に向かって咆吼する三日月型に象られた竜の旗章が掲げられた長い廊下を通り抜ける。建物の複雑な構造に何度か迷いながら、それでも感じ取った人の気配を頼りに歩を進めていく流香であったが、ランセオレ様式の柱に支えられた回廊アーチを潜った瞬間、そこに溢れる白銀の光の洪水に思わず眼前に手を翳した。
徐々に、光に慣れてきた流香の視界に飛び込んでくる風景───青鈍色の不思議な色合いの石が一面に敷き詰められた広大な空間に、降り注ぐ真昼の『貴婦人』の月光が照り返し、さながら月夜の海を模したかのようだ。『豊穣の海』と名付けられている、その中庭を、揺らめくように大勢の人々が行き交う。
その有り様は様々だ。シンプルな布帽子を被り、床にまで届くコットドレスの裾を引き摺りながら女達は井戸端で水仕事をしたり、或いは、洗濯物や野菜の入った籠を手にお喋りに興じている。女達に何やら猥雑な言葉を投げ掛けながら、めいめいの武器を持った鎖帷子姿の若い兵士達が気怠そうな動作で、その脇を通り抜け、それを見咎めた彼らの上官と思しき兵士が怒声を張り上げている……。映画やテレビの中でしかお目にかかれないような、遠い異国の香りが漂う光景を瞬きもせずに暫し眺めていた流香であったが、やがて中庭に一歩を踏み出す。
行き交う人々の日常のざわめきは、やがて非日常の響めきに変化した。回廊のアーチに、彼らの君主である三日月の竜公・哉生の妃である女性の姿を認めたからだ。永らく公の場から姿を消していた『リューカ妃』の突然の出座に、中庭は騒然とし、その場にいた下女や兵士たち、そして白いトーガを身に纏った騎士に至る全てが流香に向かって頭を垂れ、礼を取り、潮のように引いた人々の群れが三日月竜の妃のために道を空ける。
「……リューカ様……戻っていらしてたの? いつ?」
「病にお倒れになったとのことだったが……」
風に乗って彼らの囁きが聞こえてくる。流香はそれらを全て無視し、彼らの間をゆっくりと通り抜けて行く。
「いや、噂では、兄であるウラヌスと内通し、夫である我が君を弑そうとしたと───」
だが、そのひそめきだけは看過しなかった。流香は足を止めると肩に掛けていた錫杖を持ち直し、割らんばかりの勢いで石畳に杖先を叩き付け、声の主である下級兵士姿の男を一睨する。ひそめきに満ちていた中庭は水を打ったように静まり返り、流香の向ける琥珀の瞳の、強い光に気圧された男は自身の失言に面を伏せ、視線を俯けた。
他人の下らない妄言に何をムキになっているのか、流香は静かに頭を振った。そもそもリューカではない、黒岩流香である自分には、すべて関係のない話だ。流香は男から静かに目を逸らすと、再び歩を進めていく。
「リューカ様!」
そんな流香に追い縋る少女の声があった。流香が肩越しに振り返った先には、『豊穣の海』に三日月竜の妃が下りてきたと騒ぎを聞きつけて、女主人を追ってきた侍女のアガサの、息急ききった姿があった。
「リューカ様、お探ししましたわ」
流香の幼馴染みである来栖朝霞と同じ顔貌をした少女は、モスグリーンのブリオーの裾を摘み、肩で息を吐きながら駆け寄ってくる。部屋を飛び出してからも流香のことを探し回っていたのだろう、小さな薔薇石の飾りが載った額には、うっすらと汗が滲んでいた。先程聞かされたシャムロックの言葉の通りであるのなら、このアガサと幼馴染みの朝霞はコインの裏と表───アガサは『月』と呼ばれる本体で来栖朝霞はその『影』と、そういうことなのだろう。
『影の世界』の『ヒト』。哉生が言っていたことの意味が少しずつ解ってきた。だが、そうなのだとしたら、自分の『月』であるリューカは一体どこにいるのだろう───そこまで考えて、すぐに流香は小さく溜息を吐いた。自分には関係のないことだと、さっき決めたばかりではないか……。
「お部屋にお戻り下さいませ、リューカ様。今日は特に風が冷とうございます。お身体に障りますし、大藩公様がご心配されます」
「何度も言わせないで。あたしはリューカじゃない、黒岩流香」
「リューカ様!」
追い縋る声を無視して流香は歩調も速く、アガサを振り切る。人々の群れの織り成す道を抜けても、それでもなおリューカの侍女である少女は女主人を見失うまいと忠実に後に付き従ってくる。
「……きゃ、っ……!」
やがて聞こえてくる小さな悲鳴、背後でアガサの蹴躓く気配に流香は、ふと足を止めた。俄に踵を返し、つかつかと元来た途を戻ると、石畳の上に蹲るアガサの眼前に手を差し伸べる。幼馴染みと同じ姿ながら、だが朝霞のそれとは色の異なるアガサの、困惑の色に揺れるアクアマリンの瞳を真っ直ぐに見つめて、流香は噛み含めるように言葉を宣べる。
「アガサ、聞いて。あたしにはあんたと同じ顔をした『来栖朝霞』って幼馴染みがいる。あんた、あたしに朝霞って呼ばれ続けたら?───アガサなのに朝霞っていう他人の名前を押し付けられ続けたら、一体どんな気持ちになる?」
それは流香がこの雙月境に来てからずっと感じてきたことに他ならない。誰もが流香をリューカと呼び、その存在を押し付ける。黒岩流香だと名乗り続けないと自身の存在が揺らぎそうになるほどに───。
ごぉっと唸りを上げて吹き付ける風が、中庭の空気を掻き混ぜるように渦を巻く。『豊穣の海』の名の如く、その水面を模した石畳の上に膝をついたまま、アガサは見上げる眼差しに流香の姿を映して、その言葉にじっと耳を傾けている。
やがてアガサは目前に差し伸べられた手を取った。立ち上がり様、その主に向かって確かめるように問い掛けながら。
「……そこまで仰るのでしたら、本当に貴女様はリューカ様ではないのですね?」
「別人だよ」
「実の所、おかしいと思っておりましたの。大藩公様はああは仰っていましたが、私の知っているリューカ様と貴女様は雰囲気が全く違いましたから」
「ああは仰ってた、って……哉生のヤツ、あんたに何って言ってたの?」
自身が口にした、この雙月境に引き摺り込んだ男の名に盛大に眉を顰めて、流香は再び踵を返して歩き始める。僅かに遅れる形で付き従うアガサに今度は歩調を合わせながら流香は、背後から流れてくる、その事訳を聞いている。
三日月竜の妃、リューカは一月ほど前より公の場に姿を見せていないこと。夫である三日月の竜公、哉生は『公妃は病を得て、その癒療のために保養地に行く』と公式に発表をしていること。そして侍女のアガサはリューカに付き添いたいと哉生に申し出たが断られ、その任を解かれていたこと。その後は城下にある下級兵士の宿舎の下働として働いていた所を、城からの使者によって再び呼び戻され、リューカの帰還に伴い、以前と同じように仕えるようにと哉生直々に命じられたこと───。
「それって、いつの話?」
流香がこの雙月境に引き込まれたのは昨日、『貴婦人』が天高く輝いている刻限であった。何気なく問うた流香に、アガサは小走りに傍らに追いつき、真摯な眼差しを向けながら答える。
「本当に急な、昨日の夕方の話ですわ。その時に大藩公様はこうも仰ったのです。リューカ様は生命に関わるほどの病で臥せっていたので記憶を無くしていると。妙なことを口走るかもしれないが、気にしてはならないと」
「あいつ、なにをテキトーなことを……!」
舌打ち混じり、憮然と呟く流香の動きに合わせて、肩に担いだ錫杖の遊環が、しゃらんと鳴った。アガサはその隣で淡く目を伏せて言い募る。
「ですから、雰囲気が違うのは病で記憶を無くしているからだと。先程はそう言い聞かせて貴女をリューカ様だと思い込もうとしておりました。申し訳ございません」
「気にしなくていいよ。あんたの立場じゃ仕方ないし……それに、あんたがあたしをリューカじゃなくて、黒岩流香だって解ってくれたなら、それでいい」
歩みを止めて流香は破顔し、所在なげに面を上げたアガサもそれに応えて花が綻ぶように咲う。いつも幼馴染みの朝霞と他愛もない話をしている時とまるで変わらない。この雙月境に来て初めて一息つけたように思う。これまで心にのし掛かっていた不安の重石が少しだけ軽くなるのを感じながら、流香は琥珀の眼差しを淡く伏せた睫毛の翳りに沈めた。
「……ねえ、アガサ。あたし、此処を出ようと思うんだ」
ふたりの間合いが落ち着くのを図った頃合い、風に流れる栗色の髪を掻き上げながら流香はアガサに、そう切り出した。
「自分がいた世界に戻る方法を探さなきゃいけないのもあるけど……何て言うか、此処に居たくないんだよね。気持ち悪いっていうのか、居ない方がいいっていうのか、そんな嫌な感じがしてさ」
「自分がいた世界に戻る方法、ですか?」
小首を傾げ、流香の言を咀嚼するように繰り返すアガサ。唇を引き結び、流れる風の行方を見定めるように遠い一点を見定めたまま頷いて応える流香の毅然とした横顔を透かし視るように見つめながら、徐に口を開く。
「……貴女はどういった方なのですか? 確かに貴女とリューカ様は魂の形は違う別人ですし、雰囲気も正反対です。でも、元来は同じ性質をお持ちのように私には感じられますわ」
「哉生もシャムロックも、あたしを『影の世界』の『ヒト』って言ってた。あたしは『リューカの影』なんだって」
「流香様」
思わぬ強い調子で遮るように初めて名前を呼ばれたかと思うと、矢庭にアガサは流香の手を引き、顔を寄せた。これまでの穏やかな調子を一転、眉根を寄せた険しい表情で、しっと言うように指を唇に押し当てる。
「あまり、そのことは口になさらない方が良いですわ。『影の世界』には無闇に関わってはならないと神殿は定めております。表裏一体の鏡面世界ですから、それぞれの世界のバランスが崩れてしまう可能性があるのです」
それに、とアガサは更に声を潜め、何やら探るように瞼を淡く伏せる。
「ここには法術師のシャムロックがおりますの?」
「いるも何も。成功するかどうかも解らない危ない術使わせて、あたしを雙月境に引き摺り込んだのは哉生の命令だってシャムロック本人から聞いたけど」
口にするだけで苛つく事実を事解りしていないままに、あっさり口にする流香に対して、アガサは驚きのあまりに、なんということを! と小さく叫んで嘆息する。信じられないというように蜂蜜色の頭を振りながら。
「七竜公のおひとりともあろう御方が、邪道の法術師に禁忌である『影の世界』の『ヒト』を喚ばせるなどと……! 貴女の仰る通りなら、大藩公様は大変な罪を犯されたことになりますわ」
血相を変え、溜息とともに言葉を吐き出すアガサの雰囲気に尋常ならざるものを感じながらも、その理由が解らない流香は別の問いを投げ掛ける。
「あんたシャムロックを知ってるの?」
「知っていると言いますか、シャムロックは天賦の才を持った強大な法術師ですが、神殿の法に従わず、禁忌を犯し、外法の術を使うこともしばしばで、神殿から追われる身となっている者です」
シャムロックについて語るアガサの物言いは、柔和な彼女らしからぬ侮蔑と嫌悪も露骨なもので流香は眉を顰めた。自分を見る、そんな流香の様子に、はっと気付いたアガサは誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。少しお喋りが過ぎた、そう言いたげな態度だ。
アガサの言っていることの意味は流香にはよく解らない。だが先程から度々、彼女が口に上らせている言葉───『神殿』やら『禁忌』といったものから察するに、何らかの事情が彼女の背景にあるのだろう。そして、アガサにとってそれは、流香にはこれ以上話したくないことであろうことも。
やはり、一分の一秒でも早く此処を出て行かなくてはならない。『影の世界』の『ヒト』であることを言わない方が良いなどと、釘を刺されるような状況であれば尚更だ。ふたりの間に漂う気まずい雰囲気に、流香は素知らぬふりを通した。
「じゃあ、あたしは行くから。短い間だったけど、ありがとうね。アガサ」
この雙月境の来栖朝霞。『月』と呼ばれる本体である少女のモスグリーンのブリオーに包まれた肩を、ぽんと叩いて感謝の辞を宣べると、流香は再び踵を返す。歩を向けた先は、この中庭、『豊穣の海』の出入口のひとつである門扉だ。
『影の世界』の『ヒト』、禁忌の存在、三日月竜の妃・リューカの影───黒岩流香という名の、彼女に関わることは神殿の法に逆らうことになる。異世界の不思議なドレスを身に纏った少女の小さな背が遠離って行くのを見送りながら、暫し躊躇っていたアガサであったが、やがて意を決したように小さく頷くとその後を足早に追う。
「流香様、さっきから出て行くと仰ってますが、どこに行くのか決めておられますの?」
「……えっ…あっ? ぉあぁっ!?」
足音も高く、追いついてきたアガサに行く手を阻まれる形、不意に前に回り込まれて流香は面食らったように声を上げる。思わず急停止した流香の顔を覗き込んで、アガサは構わず続けた。
「此処を出てからの道筋がお解りになりますか? 城下は路地が入り組み、城郭の外は不毛の砂礫に囲まれております。十分な準備や知識がなければ生命に係わりますし……そもそも『影の世界』から禁忌を犯してまで喚んだ貴女がいなくなりましたら大藩公様が黙ってはおりませんでしょう?」
いちいち尤もなアガサの指摘に流香は、天を仰いで、ぽりぽりと頬を掻いた。これは、まるで流香と朝霞の、いつもの幼馴染み同士の会話とまったく変わりがない。
例えば、どこかに旅行する時も、計画性のない流香を朝霞がスマホやガイドブックを片手に引っ張って行く───今もそうだ。此処を出て行くと言いながら流香はアガサに指摘されるまで、後の行き先についてまったく考えていなかったのである。
「……あの…ごめん。どっか、アテあるかな」
「考えていらっしゃらないのに、出て行くとは無謀が過ぎますわ」
情けない流香の言い種にアガサは呆れたように額を抑えて、はぁっと大仰な溜息を吐いた。何とも居たたまれない心持ちになりながらも、流香はふと思いついたように苦し紛れ、聞き囓りの言葉を口にする。
「じゃ、じゃあ! アスタルテ・ドラクルって処は?」
「ウラヌス様の処でございますか? 確かに一案ではございますが……」
流香の思わぬ提案にアガサはアクアマリンの目を瞠った。アガサの口にした『ウラヌス』という名前に引っかかるものを感じながらも、流香のそれは続く思案気な意見によって思考の外に押し流されてしまう。
「ただ、如何なものでしょうか。ウラヌス様はリューカ様の兄上であらせられる方ですが、妹姫の影である貴女を受け容れて下さいますか。リューカ様を巡ってのこともございますし、そもそも三日月の竜公と甕星の竜公は先祖代々より戦を繰り返していて───」
「んあああああ、めんどくさいなあ! あたしそういうのホンット苦手なのよ!!」
癇気を起こしたように声を上げて、流香はアガサを遮った。その気短と無謀を咎めるでもなく、アガサは真っ直ぐに流香と視線を合わせて、静かに諭した。
「物事には時運というものがございます。今は行き先が解らないとしても、時が至れば自ずと行くべき道は示されるものです。焦らずに時機を待っては如何でしょうか」
「……アガサ」
「ほんの少しですけど、お手伝いいたしますわ。私は此処を離れるわけには参りませんので、お供まではできませんけど……」
両手を胸の前で組み、躊躇いがちにではあるが控えめに、そう告げてくるアガサの思わぬ申し出に流香は驚き、次いで苦笑に表情を緩める。彼女にだってここでの立場があるだろうに……顔貌だけでなく面倒見の良い所まで本当に朝霞みたいだと、そう思いながら。
「うん、ありがとう。でもね、あたしはそんなに待ってはいられないんだ」
月は影に、影は月に。彼らが繰り返し口にしている、あの言葉を今一度、流香は胸裡で反芻する。流香に『リューカ』たれという哉生と、流香にこの世界の『月』になるのだというシャムロックと───それぞれの得手勝手な言い分で自分をこの雙月境に引き摺り込んだ彼らに対する流香の怒りと不信は決して小さいものではない。だが、それよりももっと、本能的な部分で流香が哉生とシャムロックに対して感じているのは、ある種の薄気味の悪さのようなものだ。
狂気めいた『何か』。それが何という名前を持つものかは、流香には解らない。哉生とシャムロックの言動の端々から感じ取れる、流香に向けられる粘つくようなそれを『気持ちが悪いもの』という表現でしか、今は説明ができないのだが。
(未熟な貴女には到底解らないことね。狂おしいほどに人を愛するということが、どんなことか未だ知らない貴女には───)
「……すぐに出て行かなきゃ、駄目だ」
頭を振り、脳裏を過ぎったシャムロックの言葉と、抱き締められたあの感覚とを追い払うと、流香は自身に言い聞かせながら軽やかにアガサの脇を通り抜けて行く。ここでの生活がある彼女を巻き込む訳にもいかない。肩に担いだ錫杖の揺れる音に慌てて付き従う忠実な侍女に一瞥もくれず、影の世界の少女は独白するように応えた。
「だからあんたはすぐにここから離れて、あたしとは無関係を通して」
「流香様!」
「後のことは後で考える。あんたには解らないかもしれないし、あたしのやろうとしてることなんて馬鹿げてるかもしれないけど、とにかく、あたしは哉生もシャムロックもキモいから関わりたくない。今すぐ此処を出て行きたいの」
流香が真っ直ぐに見据えた視線の先には鉄製の門扉がある。人数は少ないながらも衛兵が固めているということは、外を繋ぐ扉のひとつであることには間違いがないだろう。
「……取り敢えず、あいつらからぶっ飛ばすかぁ」
左と右に首を傾け、凝った頸椎を解すようにコキコキと鳴らしながら、まるでお菓子を片付けるような調子で流香があまりにさらりと言ってのけたせいもある。それを傍らで受けたアガサは一瞬、歩調を鈍らせ、暫く考え込んでいたが、意味を理解すると真っ青な顔で流香に追い縋る。
「おっ、お待ち下さいませ! ……あの、ぶっ飛ばすって、流香様っ!」
慌てて止めてくるアガサの声も無視して、流香はつかつかと門脇に立つ衛兵に近付いた。甲冑とまではいかないながらも、それなりに防御力のある鎖帷子を着込み、刀剣を腰元に携えた若い下級兵士は、突然に姿を見せ、しかも身分の低い自分に声を掛けてきた三日月竜の妃に身体を強ばらせて直立で応じる。
「こっ、これはお妃様っ! 小兵に何か御用でありますかっ!?」
「門を開けて」
「…え…っ? 大藩公閣下からはそのような御命令は受けておりませんが」
リューカ妃の急な申し出、しかも予想外の内容に文字通りに面食らったような兵士の虚を突いて、流香はその喉笛を捉えた。
「哉生の命令なんて関係ないわよ。あたしは此処を出て行く、だから開けな」
頸肌に三指を食い込ませ、気道を塞ぐように絞め上げると兵士は苦痛に唸り、その身を捩らせた。三日月竜の妃の思わぬ行動に周囲にいた門兵達が遠巻きに互いの視線を見交わし、どうするかと逡巡する中で───不意に降ってきた男の低い声が、鋭く打ち据えるかのように場の空気を震わせた。
「開ける必要はないぜ」
口調は鷹揚ながらも、それは大軍を指揮する者特有の、人を動かし、魂を震わせ、精神を高揚させる力を持った声であった。捕らえた兵士の気道を塞ぐ指の力は緩めることなく、だが、流香は肩越しに鋭い視線を投げ掛け、周囲を窺う。何時の間にか、この穏やかな海を模した中庭を囲う低い城壁の通路に沿って黒い戦装束に身を包んだ兵士達が配せられ、流香達をぐるりと取り囲んでいたのである。
ジャキィッ! と撃鉄を起こす剣呑な音が広い中庭に一斉に響き、取り囲んだマスケット銃が流香達を威嚇した。彼らの姿を認めた傍らのアガサが、唸りとも悲鳴ともつかない低い声を喉奥でくぐもらせる。
「……『黒い悪魔』……銃騎兵……!」
斜に仰いだ流香の琥珀の瞳は、先程の声の主の姿を捉えていた。マスケット銃を肩に担ぎ、長身の逞しい体躯を真黒の戦装束に包んだ魔王の如き佇まいのその男は、低い城壁の突端に軍靴を履いた片足を乗せ、口許を不敵な嗤いに歪めて傲然と流香を見下ろしていたのである。