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月の柩  作者: 桧崎マオ
第2章 月影のパラノイア
5/11

02

 どれくらいの時間が経ったのか。建物を包む空気が人の動き出す気配に騒めき始めことに気付いた流香は、封ざしていた瞼を拓き、膝に伏せていた顔をゆっくりと上げた。

 夜は、まだ明けてはいないのか───二度三度、瞬きをして眇めた琥珀の瞳に映る世界は未だ昏く、明け鳥の囀りなども聞こえない。開け放した出窓から覗く夜闇の色に染まった天空は夜明けには程遠くはあるものの、地上に圧し迫るほどであった、あの大きな柘榴色の月は地平の彼方へと遠離ったのか、その姿は流香の視界にはなく、代わりに清冽な白銀の光の帯がゆるゆる延びて部屋を徐々に明るく照らし出していく。ほんの数時間前まで、この世界を照らしていたのは血のように赤錆びた昏い月の光であったのに。

「……また、か」

 流香は忌々しげに溜息を吐いた。まるで双つ在るかのような、そんなあらぬ錯覚すら沸き起こるほどに───僅かな時間の間でその姿をころころと変化させる、ここの月については思う所が山ほどあったが、今は背を凭せかけた胡桃戸を通して伝わってくる外の廊下を行き来する人の気配に神経を研ぎ澄ませる。

 やがてそれらの中に、こちらに向かってくる小さな足音を流香の聴覚は敏く捉えた。部屋の主を気遣っているのだろう、努めて音を立てないように忍び足で歩を進めてくるのが解る、それが重厚な扉一枚隔てた向こうで、ひたと立ち止まった。

 流香は目を細めた。中の様子を伺うように背後の扉が、そろりと押し開けられると同時、流香は不意を突いて内側から扉を引く。体勢も低く、素早く身を翻すと、そこに在る人影の手首を捕らえ、その喉元目掛けて手刀を叩き込もうとしたところで───。

「きゃあっ!」

 少女らしい、驚いたような悲鳴。不意に手首を取られ、室内に引き込まれた声の主は雪崩れるように石畳の上に転倒する。

 年の頃は流香と変わらない。ドレープをふんだんに取り、身体の線が足許までふんわりと隠れるように緩やかにデザインされたモスグリーンのブリオーの上から清楚な白いレースのショールを肩に羽織った、その少女の顔を認識して流香は相手の喉元を捕らえる寸での所で慌てて手刀を留めた。琥珀の瞳を瞠り、驚きの声を上げる。

「朝霞っ!?」

 その少女の貌は数刻前に視た夢───学校帰りの晩夏の土手、夕暮れ刻の、あのねっとり纏わり付くような赤金色の蜜の光に染まった世界の只中で対峙していた流香の幼馴染み、来栖朝霞と瓜二つのものであったのだ。

「……え? あ……」

 名前を呼ばれた小柄な少女は不意のことに一瞬、戸惑う様子を見せた。流香の幼馴染みと顔貌はまったく同じながら、明らかに異なる色の、透明に近いアクアマリンの瞳を何度か瞬かせると、少女は気を取り直したようにすぐに表情をふわりと和らげて柔かい笑みを流香に向けた。

「まぁ、リューカ様。私のこともお忘れになったのですか?」

 驚きのあまりに流香の手の力が緩んだ隙、朝霞と同じ顔を持つ少女は石畳の床の上に転んだ身体をゆっくりと起こした。腰を折り、小さな薔薇石の額飾りを留めた頭を鄭重に下げて流香に貴婦人の礼を取る。背まで真っ直ぐに伸びた蜂蜜色の糸髪が、さらりと音をたてて頬に流れた。

「アガサです。大藩公様から御命令を頂戴しまして、今日からまた御身の回りのお世話をさせていただくことになりました。精一杯お仕えしますので、よろしくお願いいたします」

 アガサと名乗った少女の言っていることの意味が半分も理解できなかった流香は、考えながら訊き返す。

「……えーと、つまり、あんたは……ダイハンコウサマってのに言われて、リューカの身の回りの世話をしてた。そういうこと?」

「はい、貴女様にお仕えしておりました」

 淀みなく答えるアガサに流香は戸惑った。解った上で押し付けてきている哉生とは違う、純粋に、このアガサは流香のことを女主人であるリューカであると、微塵も疑っている様子はない。

 散々哉生に『リューカ』呼ばわりされてきた流香であったが、初めて『彼女』について思いを馳せる。一体自分はどれだけ『リューカ』と似ているというのか。

「昨夜は久方振りに大藩公様とご一緒でしたのに、悪い夢でも見られましたのね」

「いや、あのね。…ええと、アガサだっけ、あたしは───」

「後でうんと大藩公様に甘えられませ。それがリューカ様には一番のお薬でございますよ」

 否定の声を上げようと言い募る流香を他所に、屈託なく、くすくす笑いながらアガサは踵を返して廊下に留め置いていたワゴンを室内に引き入れ始めた。哉生とはまた違う意味で話が通じないアガサに流香は内心げんなりする。

 先程からアガサが度々口にしている『ダイハンコウサマ』とは、どうやら哉生のことのようだが、その上で彼女の言っていることを改めて咀嚼すると同時に昨夜の出来事を思い返して、流香は、うぇっと吐きそうになる口許を抑えた。

 勝手に人のベッドに入り込んできて、手にあんなことをするスケベ男に甘えろ、だとおお!? この子、なにキモイことさらっと言ってんのよ───!

「さぁ、朝ですわ。すぐにお手水を用意しますので、まずはお顔をお洗いになって下さい。悪い夢を洗い流してしまいましょう」

 苛々する流香の目の前でアガサは手にした水差しから大きな鉢に焼き湯を注ぐと、爽やかな香気を放つ白い花片を散らし、馴れた手つきで手水の準備を整えていく。

「お手水は気分がスッキリするように白花ハッカの香りにしますわね。それから、今日はどのようなお召し物にいたしましょうか?」

「……朝って…まだ月が……」

 流香は徐に窓辺に視線を走らせた。昨夜から開け放している出窓からの風景の果てには煌々と光を放ちながら昇る、白銀の月が見える。

 ……月が輝いているのに朝だと? いや、それよりも色々とおかしくないだろうか。ほんの数刻前までは部屋の入口から直線上にある出窓から赤い月が中天に見えていた。それが沈むならともかく、地平から昇るなんて───? 

 眉間に皺を寄せ、外の白銀の月を微動だにせず凝視めたまま、流香は内心で答えの出ない自問を繰り返している。両手の上で肌触りのよい、ふわふわのタオルを広げながらアガサは女主人の怪訝な横顔に向かって言葉を投げ掛けた。

「まぁ、『貴婦人ダァム』が顔を覗かせております。とっくに朝でございますよ」

「ダァ…ム?」

「おかしなリューカ様。あの銀の月のことではありませんか」

 くすくすと笑い混じり、事解りのしない子供を諭すようにアガサは外の白銀の月を指し示す。流香は弾かれたように出窓に駆け寄り、手をついた窓台から外へと身を乗り出した。

 ……『ここ』は……この、雙月境という処は流香が元来住んでいる日本ではない、異国の地であろうということは周囲を取り巻く雰囲気から感じ取ってはいたことだ。だが、こういう───銀の月が一方から昇り、反対側の地平線の彼方には、もうひとつの赤い月が沈もうとしているなどと、明らかに非常識な現象を目の当たりにすると、さすがに流香は絶句するしかなかった。

「……どういう、ことよ……!?」

 ようやく絞り出すようにして発した流香の呟きは喉奥に貼り付き、掠れていた。思わず身震いしたのは少し冷え込んだ『朝の』外気に当てられたせいだけでもない。自分自身の置かれている状態に冷静に思い至ったためである。

 ……この、雙月境って処は、一体何なの───!?

 有り得べかざる非常識な光景に流香は琥珀の眼を大きく瞠ったまま、二歩三歩と蹌踉けるように後退り、窓から離れた。誰にともなく向けた問い掛けの零れる唇が微かに戦慄く。

「……あいつ、どこにいるの?」

「あいつ?」

 穏やかに、だが呑気に訊き返す少女に対して流香は声を荒げてその方を向き直った。そこに立つのは流香の幼馴染み、来栖朝霞と同じ貌を持つアガサという別の存在だ。

「あの哉生とかいう、スカしててムカツク美形野郎よ!」

 明らかに動揺した様子で怒鳴りつけてくる女主人にアガサは戸惑ったように答えた。

「……あの…大藩公様でしたら、もうご公務に出られているお時間だと思いますわ」

「あんたがさっきから言ってる、そのダイハンコウって何なの? あの哉生って男のこと!?」

「リューカ様の夫君であらせられる哉生様は三日月の竜公シン・ドラクル───雙月境を統べる七竜公の称号を持った大藩公のおひとりではございませんか」

 ……三日月の竜公シン・ドラクル。七竜公……雙月境を統べる大藩公のひとり? 銀と赤の……双つの月。

 目の当たりにした双つの月の光景とアガサの言葉とを反芻しながら、流香は目眩に渦巻くこめかみの辺りを掌できつく押さえ込んだ。自分の置かれている立場について何とか整理をつけようとするが、考えれば考えるほど心臓の鼓動は耳許で聞こえるかというくらいに大きく脈打ち、混乱した頭は上手く回ってくれない。

 流香をリューカだと信じている上に、常識が通じないアガサと、これ以上、話をした所で埒が明かない。哉生───そう、哉生だ。あの余裕こいてて何かムカつく系の美形。自分をこの雙月境という非常識な場所に攫って来た男に会って、一体どういうことなのか問い糾さなくてはならない。そう考えるや否や、流香はアガサを突き飛ばすようにして駆け出すと、荒々しく胡桃戸を開けて部屋を出ていく。

「リューカ様っ!?」

 天空に向かって咆吼する三日月の形に象った竜の紋様。それらの織り成された旗章がいくつも居並ぶ廊下を時折擦れ違う人々とぶつかりながらも───そして、恐らくはリューカと同じ貌を持つ流香の姿を認めた彼らの驚愕と奇異に満ちた眼差しを一身に受けながら、それでも構うことなく流香はひたすらに駆けていく。

「リューカ様。お待ち下さいませ、リューカ様っ! いくらお妃様でも執務中の大藩公様にお会いになるだなんて、無茶でございます…っ!」

 遅ればせながら慌てて背後から追い縋ってくるアガサに向かって、流香は駆ける足を止めることなく肩越しに振り返ると怒鳴り返した。

「誰が妃だ! それから、あたしはリューカじゃない、黒岩流香だ!」

 流香の俊足に付いて行けなくなったアガサは息を切らせ、縺れるように足を止める。次第に遠離り、小さくなっていく女主人の後ろ姿を、激しい呼吸に取り憑かれた肩を小刻みに上下させながら凝視めていたアガサであったが、やがて、肺腑が空になるほどの息を大きくひとつ吐き出した。






**********






 ひゅうっと耳の奥が痛くなるような音をたてて、高処の速い空気の流れは短く切り込んだ栗色の髪を弄び、頬肌を掠めていく。冷えた外気に晒されたせいか身に着けているセーラー服の繊維が強張り、体感温度が一気に下がった。

 白銀の月。アガサが『貴婦人ダァム』と呼んでいたそれは煌々と中空に在りて遍く地上を照らし、そして、ついさっきまで反対の地平に傾いていた赤い月は今や、その姿を彼方へと潜めてしまっていた。

 哉生を問い糾そうと勢い込んで部屋を出た流香であったが、城であると言っていた、この建物の迷路のように入り組んだ構造に迷った挙げ句、辿り着いたのがここ───屋上であった。部屋を出るときに追ってきていたアガサのこともどこかで振り切ってしまったようで、流香は独り、鋸型狭間ツィンネの城壁の突先に立ち、目も眩むような高さから眼下に広がる風景を見下ろしている。

 地平の彼方までも遠くに広がる白灰色の砂礫の地の中に、灌漑によって作られたと思しき牧草地が散在する。不毛な灰色の砂礫と人工の濃緑、極端な二色で構築された平原を、その緑を掻き分けるように撓らせ、白灰色の砂礫を巻き上げながら、風が唸りを上げて通り抜ける。

「随分と物々しい所だね」

 今にも戦争が始まりそうな、と。独りごちる流香を、続いた物騒な言葉ごと冷たく乾いた空気は渦を巻いて呑み込み、身に着けた制服のスカートの裾とセーラーの襟が、ぱたぱたと音をたててはためく。

 直線的で無骨な外観の要塞様式アルカサーバ───哉生の城は、急な角度で切り立った岩丘の地の利を得て、建てられた文字通りの城塞であった。併設された双つの八角塔ミナレットとともに白を基調とした外壁で構築されたそれは白銀の月の光を受けて灰色の平原の只中、神秘的に浮かび上がる。

 白の城塞と天に向かって聳える双つの八角塔ミナレットが頂に建つ、険しい岩丘を中心として、何層もから成る石造りの外壁に囲まれた城郭都市が形成されている。今、流香のある高処から見下ろすと、区画整備の行き届いた理路整然とした町並みを臨むことができるが、背の高い壁に囲まれた路地は狭く、圧迫感があり、迷宮のように複雑に入り組んでいる。日常生活には不便な印象だが、城郭内に敵が攻め込んできた時の市街戦を想定した上でのものであることは明白で、戦の上では理に適った構造であった。

 この城を一望した時に真っ先に流香の頭に浮かんだのは、自身が幼い頃から武藝の鍛錬に明け暮れてきた十蘭寺であった。

 この城塞とは比べるべくもないほどに規模は小さく、質素な田舎の山寺ではあるが、だが、十蘭寺は要塞なのだと、師はかつて流香に語ったことがあった。今でこそ、ボウズ山という呑気な綽名の付いた処ではあるが(勝手に久生が名付けた説が濃厚だが)、遡ること戦国時代、多勢の軍と戦うために、その険しさ故に古来より数多の修行僧の犠牲を出してきた荒行の地を切り開いて建立したのが十蘭寺である。入り組んでいて足場の悪い急勾配の参道も、途中にいくつかある重厚な山門も、すべて敵の侵入を防ぐ意図があってのもので、この城は十蘭寺の要塞としての側面、そういった雰囲気に近いものを流香は感じていた。

「随分と驚いているようね」

 不意に背後から掛けられた低音の女の声は聞き覚えのあるものではあったが、流香は直ぐにはその方を振り返らない。気配が、まったく感じられなかったからだ。

「貴女の知りたがっていることを私なら答えてあげられると思うのだけど?」

 髪が煽られ、セーラー服の紺襟が音を立てて激しくはためく。女の、低く蠱惑的な声が織り成す言葉が風に乗って流れていく中で、狼を思わせるような琥珀の瞳を細め、じっと白灰色の地平を見据える流香。だが、後に続いた女の言葉に思わずその方を顧みることになる。

「……だって、貴女の通ってきた水の途は哉生殿に命じられて、私が法術で作り出したものだもの」

 驚きに瞠目した流香の眼差しの先、果たして、そこには水の途を通って哉生にここへ連れて来られた際に居合わせていた妖艶な女が佇んでいた。

 あの時は座っていたために解らなかったが、一八〇センチはあろうか。最初に目を引くのは毛皮のコートを纏うかのように、その長身を覆い尽くさんばかりに伸ばした漆黒の艶髪であった。すらりとした体躯に着付けた黒のシームレスドレスは頸元から踝まで、ぴったりと張り付くように肌の色を覆い隠し、女の豊満な肢体の輪郭をより肉感的に浮かび上がらせる。

 シャムロック───あの時、哉生にそう呼ばれていた女の、咽せるほどに匂い立つような成熟した色香は、だが、どこか禍々しく、その昏い翳りを孕んだ美しさは闇に咲く毒花を思わせる。獲物の喉笛を狙う黒豹のような目前の女は、黒縁の眼鏡の奥から覗く黄玉トパーズの瞳に警戒心も露わな流香に映して、艶然と微笑みかけた。

「……あんた、それ……」

 ふと、シャムロックが手にしている長物に気付いて思わず声を上げると、流香は立っていた鋸型狭間ツィンネの突先から身を翻して、ひらりと屋上のフロアに飛び降りる。

「そうそう、これをお返ししておくわね」

 言われてから改めて気付いたというような、わざとらしい丁で、シャムロックが流香に差し出して来たのは、彼女の身の丈はあろうかという錫杖であった。どういう経緯があるのかは知らない。だが流香の目の前に示されたそれは明らかに師である久生雨蘭のものに間違いなかった。

「貴女と哉生殿とが、こちらに戻ってきた時に一緒に流れてきたの。貴女のものにしては少し大きいようだけど?」

 錫杖は長さにして六尺超。長身であり、達人と呼ばれる領域の武道家である久生が扱うには容易いが、一六〇センチに満たない小柄な流香が持つにはかなり大きい。案の定、シャムロックから受け取った師の錫杖は、ずしりと重く感じられた。

 身に余る武器を使いこなすには相当な鍛錬が必要であったし、何より尊敬する師の武器という精神的なプレッシャーもかかる。いけるか、と。先ずは試しに一閃、流香は杖頭を振り下ろす。しゃらんと遊環が震えて、辺りに破魔の澄んだ音の飛沫を振り撒いた。

「シャムロックさん」

 振り下ろした錫杖を真っ直ぐに構えたまま、流香は妖花の如くに艶やかな女を横目に見遣り、改めて名前を呼んだ。

「なにかしら」

「あんた、さっき言ったよね。あたしの知りたがっていることを答えてあげられると思う、って。だったら答えて。『ここ』は……この『雙月境』という処は一体何なの?」

 血を啜ったかのように赤い、ルージュを引いた女の唇は口角を釣り上げて笑みを象る。無言のうち、流香の先の言葉を促すように。

「銀色と赤色の月が双つあって……アガサって子が銀の月を『ダァム』って呼んで、それを朝だと言ってはいたけど、太陽が昇らないなんて、どう考えたってまともな処じゃない」

 天を掻き混ぜるように、躯ごと流香は頭上で錫杖を何度か転回させる。ひゅんっ、ひゅんっと鋭く空を斬る音を響かせながら、流香は久生の錫杖の感覚を、持つ手に、そして身体にと馴染ませ、自身の技量との折衝点を探る。傍目には何気ない動作ながら、それは自身の伎倆との対話であり、また久生の癖の染み付いた武器との───ひいては師との対話にも等しい鍛錬のひとつでもあった。

「あたしの師匠は法術を使える人だけど、あたしはそっちの修行を全くしてないから、正直な所、よく解らない。でも、あんたがあの水の途を法術で造ったって言うなら───」

「質問だらけね。それも貴女の狭い価値観に囚われた、愚にも付かない質問だこと」

 呆れたように頭を振りながら、シャムロックは流香の冗長な質問を遮った。

 ひゅんっ! と一際鋭い音が空を斬る。しゃらん、と遊環が触れ合い、流香の振り下ろした錫杖の頭がシャムロックの豊かな胸元に刃のように突き付けられる。だがシャムロックには流香の操る杖の軌跡が読めているのか、微動だにすることなく、そこに佇んでいる。その美貌には余裕の笑みすら湛えて。

「……そもそも『まともな処じゃない』なんてね。貴女の在る場所が常に自分の常識が通じる処だと思い込みが強すぎるのではなくて? そういうのは妄想と言うのよ」

 正論には違いない、だが妙に癇に障る。尖り気味の顎先を挑発的に、つと反らしてスタイリッシュなフレームデザインの眼鏡の奥から睥睨するシャムロックの言い様に流香は喉奥で唸った。烈しい色を孕んだ狼の琥珀と、涼やかな黒豹の黄金色───対照的な、ふたりの眼差しが交錯する中、やがてシャムロックは胸先に突き付けられる錫杖の先を、まるで差し出された葡萄酒を断るような優雅な仕草、掌で払い退ける。

「鏡に自分の姿を映した処を想像しなさいな。貴女と同じ姿形でありながら、そこには『貴女ではない影』が映り込む」

 嫋やかな繊手でありながら、思わぬ力でシャムロックに押し返されて流香はバランスを崩して蹌踉めいた。圧し負けたことも手伝って、遠回しなシャムロックの物言いに苛立った流香は声を荒げる。

「そんな子供騙しな話はどうでもいいのよ、あたしは……!」

「答えが欲しいと言ったのは貴女ではなくて? 最期までお聞きなさいな、リューカ妃。まずは貴女が今立っている場所、今呼吸をしている場所。そこが『自分の住んでいる世界の何処かである』という妄想を捨てることね」

「……!」

 ひゅうと音をたてて高処の冷たい空気が流れる。屋上の石畳に落ちた細やかな塵芥が乾いた音を伴って渦を巻く只中で、流香はシャムロックという女を前に愕然とし、絶句する。

 なんなの、この女。その物の言い方って……まるっきり久生師範みたいじゃないの───!

「貴女の元いた処は『影の世界』───この雙月境が鏡に映り込んだかのような、言わば虚構の世界。貴女達『影の世界』の『ヒト』の感覚に目線を合わせて無理矢理に説明したら、平行世界パラレル・ワールドとでも言えばいいのかしらね?」

平行世界パラレル・ワールド?」

 シャムロックは泰然と腕組んだ。侮蔑的な話をするようなニュアンスもありありと、形良く描かれた柳眉をわざとらしく顰めて、大仰に溜息を吐いてみせる。

「虚構が真理と同列であるなんて、有り得ない話なのだけど」

 『影の世界』の『ヒト』。そう言えば哉生も、自分に向かってそのようなことを言っていなかったか。そしてこのシャムロックにも哉生にも共通して言えること、それは『影の世界』の『ヒト』と呼ぶ自分達に対する彼らの、どこか見下したような、狩人が獲物の生命を選別するにも似た感覚───支配者然とした態度であった。

「この雙月境は貴女が住んでいた『影の世界』とは別の……いいえ、虚構で構築された世界なんか比べものにならない、『真理の世界』なのよ」

「……それって……」

 水底に沈んだ石を手探りで拾い上げようとするかのように流香は訥々と言葉を紡ぐ。自らが口にしようとしていることの異様さと、そしてそれを言葉にして認めることで自身の常識が崩れてしまうことへの恐れとが内側で渦を巻いて、自然と、錫杖を構える腕が力なく垂れ下がっていく。

「……それって、なんなの。つまり───ここは、日本や外国どころか、あたしの住んでいる世界ですらないってこと……?」

 凝然とシャムロックを見つめたまま訊き返す流香の錫杖を握り締める掌は緊張に、じっとりと汗ばむ。速い風に流された薄雲が天空に座す貴婦人の御姿をうっすらと覆い、白銀の月光を翳らせた。

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