01
「ねえ、流香。あんた本当に好きな人とかいないの?」
赤に金、灰色混じりの紫。西に傾いた太陽の放つ蜜のようにねっとりとした光が、あたりの風景をいくつもの光彩が入り混じった複雑な色合いに染め上げる中、投げ掛けられた問いはカナカナ蝉の甲高い鳴き声に被さって黒岩流香の耳に滑り込んでくる。
「武術ばっかりもいいけど、たまにはそういうのにも眼を向けたら?」
「まぁた、その話? あんた、自分に彼氏いるからってあたしにまで押し付けないでよ」
学生鞄を持ったままの手を頭の後ろに回し、うんざりと言った表情で視線を明後日の方向に彷徨わせると流香は、自転車を押しながら隣を連れ立って歩く幼馴染みの来栖朝霞に面倒臭そうに応じる。学校帰りの土手道、足許のアスファルトからは昼間に溜め込んだ熱気が立ち昇り、靴裏のゴムを灼く臭いが微かに鼻腔を突いた。
「男とかつまんないわよ。チャラチャラヘラヘラしてるし、大体みんなあたしより弱いし。久生師範くらい強くなきゃ興味ないわよ」
「こないだの法事の時に十蘭寺の久生さんがうちにお勤めに来たから、話しをする機会があったけど……久生さん、あんたのそういうところ心配してたわよ」
朝霞の思わぬ返答に流香は、ぶっと吹き出した。思わず傍らの幼馴染みを見遣る。
「朝霞っ! あんた、久生師範とそんなこと話したの!?」
「あんたにとっては鬼みたいな先生かもしんないけど、うちは十蘭寺の檀家だし、住職と何話そうが自由でしょ。久生さん、爆笑してたわよ? まったく朝霞ちゃんの言う通りだよねって」
理屈は尤もではあるが───それよりも、朝霞の話は流香にとっては初めて聞かされるものであった。流香の家とは隣り合わせになる朝霞の家の法事は、もう何ヶ月も前の話であったし、そもそも久生とは、それ以降も鍛錬で何度も顔を合わせているにも拘わらず、師からはそんな話も特になく、幼馴染みの話題すら口には上らなかったのである。
我が師ながら相変わらず食えない人だわ、と。手にした学生鞄を肩に引っ掛けながら憮然と独りごちる流香の傍らで、不意に、きぃっと錆びた軋音が上がる。押していた自転車のブレーキを握り締め、歩みを止めた朝霞は数歩先を行く男勝りの幼馴染みのセーラー服の背に小さく言葉を投げ掛けた。
「……流香、私、あんたのそういうところが心配」
「朝霞?」
短く切り込んだ栗色の髪を揺らして流香は朝霞の方を振り返った。快活なお転婆娘の流香と、物静かで芯の強い優等生気質の朝霞と───ごく幼い、物心ついた時分から一緒に過ごしてきた対照的なふたりの少女は、この世界を浸す赤金の光の蜜の中で対峙する。カナカナ蝉の、生命の限りに鳴く声が妙に甲高く響いて聞こえた。
「私は、あんたのやっている武術のことはよく解らないから押し付けるつもりもないけど。でも、いつか、あんたがそれで自分の大切なものを壊してしまうんじゃないかって……そんな気がして……」
凪の刻は終わり、ふわりと風が流れる。止まっていた晩夏の熱気の残滓に満ちた空気が動き始め、真っ直ぐに流香を見つめて言い募る朝霞の背まで伸びた黒髪を絡め取るように遊んだ。
「久生さんが、あんたのことは私と同じように心配してたから。だから───」
茹だるような残暑の中にも秋の気配が漂い始め、土手に伸びる背の高い草の群れが、かさかさと音をたてて擦れ合う。目の前に立つ幼馴染みの唇が何某かの言葉を紡いでいるのに、それを拾おうとどんなに耳を澄ませても、徐々に大きくなっていく風の音と乾いた草の音とに掻き消されて、流香には届かない。
……朝霞、ごめん。風の音で、よく聞こえないよ。朝霞……!
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深く、音のない眠りの海の底から浮かび上がってくるかのように流香の意識は、ゆっくりと身真に戻ってくる。だが完全に覚醒した状態ではなく、ゆらりゆらりと夢現の水面を漂う流香を心地よい温かさと、焚きしめた香の良い匂いが包み込んだ。
師である久生雨蘭の法衣を妻の百合子が香を焚いて手入れをしていた時の光景を、ぼんやりと思い出す。だが今、流香を包むのは久生が好んで使っているという『落葉』の、しっとりとした重厚な香りとはまた違う。冷ややかさの中にも一抹の温もりを感じる、まるで真闇に差し込む一筋の、冴え冴えとした月光を思わせるような凛とした香りであった。
「まだ、夜も遅い。眠るといい」
耳許で低く囁かれる澄んだ声に流香は、うんと小さく頷いて応える。微睡む、封ざした瞼の薄い皮膚を透した向こうでは仄明るい光が細く揺らめいた。
短く切り込んだ髪を優しく梳かれ、耳朶を撫でられる。昔……まだ空を仰ぐように周りの大人達を見上げ、それが世界の全てのように感じていた子供の頃に、これによく似た感覚があった。父や母、そして歳の離れた姉でもない『誰か』に、こんな風に髪を撫でられて、安心するような温かさに包まれ眠った、遠い日の記憶が流香の裡に甦る。
……あれは『誰』だったんだろう───。
触れてくる指先の優しさと包み込む温かさをねだって、むずがる子猫のように流香がそれに身を擦り寄せると、背に回された腕に掻き抱かれ、手繰り寄せられる。香の薫りが一際強くなった。
「アサカとは誰だ」
「……あたしの幼馴染み。隣の家に住んでて、小さい時からずっと仲が良い……」
問われるままに耳許で囁きかける声に答えた流香だったが───不意に何かに気付いたように「んっ?」と唸ると、瞼の下に封ざしていた琥珀の双眸を文字通り、かっと刮目する。
最初に視界に入ってきたのは滑らかな大理石のような肌理であった。それが、はだけた夜着の隙間から覗く、男の逞しい胸元であることを寝惚けた頭が理解するのに、そう時間はかからなかった。引き攣った硬い表情で流香がおそるおそる視線を上げると、そこには夜闇を思わせるような黒髪に縁取られた、月魂の如き白皙の美貌がある。弟弟子の静眞が『余裕こいてて何かムカツク系の美形』と評した、その貌が───。
「……あんた、なんでこんな処にいるの?」
哉生と言う名前の、その男の腕の中から眉を顰めて不機嫌に問い掛ける流香の質問は、あまりに間が抜けていた。寝台の傍らに置かれた燭の炎が作り出す陰影は、憂愁の翳りとなって男の彫りの深い貌に滑り落ち、少し寝乱れた長い黒髪の房が頬にかかる様はひどく艶めいていて、その悠然とした佇まいそのものが文字通りに『余裕こいてて何かムカツク』と、却って流香を憮然とさせる。
流香の栗色のショートヘアを絡め取る哉生の無骨だが温かい指先が滑り、耳朶を弄ぶように一撫でする。未だ幼さの残る流香の頬の線を包み込むと、ふわりと吐息が掛かるほど近くにある形の良い唇は、こう言葉を紡いだのである。
「お前は私の妃だ。夫が妻の寝所で共寝をすることの何がおかしい」
ブチリ、と流香の頭の中で切れる音が聞こえる。この男のせいで感情の箍が外れるのはこれで一体何度目か───考えるよりも先、流香の右の拳は強烈な突きを繰り出していた。眠りの静寂に沈む、この建物全体の空気を震わせるほどの絶叫とともに。
「でてけぇぇぇ───っっ!」
……無論、それは哉生の下腹部を打つよりも先に手首をあっさりと掴まれ、止められていたのだが。
「そのアサカという者と何があった。随分と魘されていたようだが」
もう慣れたことと、滑らかな光沢を放つシルク地のシーツに横臥したまま哉生は捉えた拳を引き寄せると、烈しい感情の色に染まった流香の顔を覗き込んだ。空気の流れを受けて燭の炎が揺らめき、その波打つ影が哉生の冷たい月魂のような美貌を照り返す。微かに騒めいた彼の心の顕れであるかのように。
「……その者は、男ではないのだろうな?」
「なに訳分かんないこと言ってるのよ!」
言い様、流香は手首を捉える手を逆に捻り上げ、身を起こす勢いを利用して哉生を投げ飛ばす。豪奢な天蓋付きのベッドから放り出された哉生は、ひらりと身を翻すと石畳の床に着地した。
「大体、何を当然みたいな態度で人の隣で勝手に寝てるわけ!? あたしはあんたみたいなスカした亭主持った覚えはないわよ!」
金糸の縁取りが施されたレースのカーテンを苛々と掻き分け、ベッドから這い出してくる流香の喚き声を涼しい様子で受け流しながら、哉生は僅かに乱れた夜着の胸元を整えている。
「悪い夢から醒めたのであれば、それでいい」
「今のこの状況がとっくに悪夢みたいなもんなんですけどっ!」
一面識もない、初対面の流香を『妃』だの『妻』呼ばわりする、この男に十蘭寺の参道から渦を巻く水の途に引き摺り込まれて、この部屋に連れて来られた。目まぐるしく変化する周囲に身も心も草臥れ果てていた流香が最初に欲したものは、単純に睡眠であった。
そう、これが悪い夢であれば───次に目が醒めた時には、そこは学校の教室で、ひたすら授業中に居眠りしていた自分を揺り起こす朝霞の呆れたような顔が覗き込んでいるのだと、または出産を控えて実家に戻ってきている姉の柳子の肩先に凭れて微睡んでいる自宅の居間だと、或いは鍛錬を前に久生と静眞を待ちくたびれて、うたた寝している十蘭寺の縁側だと───目の前が見慣れた日常の光景に戻ることを望んで、哉生を振り払い、逃げるようにベッドに潜り込んだ。
……だが、どんなに目を閉じて、逃げるように眠ったところで結局は何も変わらない。それどころか『ここ』へと自分を拐かしてきた自称・夫の男が隣に寝ているなどと、事態がどんどん酷くなっているようにすら思える。庶民である自分には不釣り合いなほどに豪奢な、まるで童話に登場するお姫様が寝むような天蓋付きベッドの縁に腰を下ろすと、流香は内側からぴりぴりと疼く額に掌を押し当てる。
「……『ここ』はどこなのよ」
それは何度も繰り返してきた問いであった。自分では答えの出ない、そして誰も答えてくれることのない不毛な問い掛け。
「ここが『雙月境』って処なのは解る。言葉は通じてるけど、あんたの着てる服とか、この部屋とか……雰囲気で日本じゃないっていうのは、なんとなく───」
萎むように流香は口を噤んだ。上手く言葉にならない。確かに哉生の纏う長衣は遠い国の民族衣装のようなデザインのものであったし、そして今流香が身を置く、複雑な紋様を織り成すシルク生地の壁面と隙間無く嵌め込まれた石畳の床に囲まれたこの部屋も、世界史の教科書やテレビの教養番組でしかお目にかかれないような、時代がかった異国の風情が漂う。
だからと言って、この雙月境という処が日本から離れた遠い異国の地だと言うのも何か違うような気がする。そもそも、あんな訳の分からない水の途を通ってくるような場所など、どう考えてもまともな処ではない───もやもやと形にならないものが頭の中に浮かんでは消えてを繰り返し、考え倦ねた挙げ句に流香は溜息とともにひとつの願望を吐き出した。
「帰りたいんだけど」
『帰して下さい』などとは言わない。自分をここに攫って来たというのもあるが、何よりも御影流の道場に土足で乗り込んできた挙げ句に弟弟子に深傷を負わせた、そんな男にお願いをする謂われはない。ふて腐れたように吐き捨てるのは流香の意地の顕れであった。
「どこに帰るというのだ? ここがお前の在るべき処であり、還る場所だ。リューカ」
徐に口を開いた哉生に、流香は額に押し当てる掌の下からうんざりというような視線で睨め上げる。この台詞を吐き出すのも一体何度目だろうか。
「……その、あんたがずっと言ってる『リューカ』って誰なの」
「お前のことだ」
「あああ、イライラするっ。あたしが言ってるのは、そんなことじゃなくて……!」
哉生の淀みない即答に、流香は床を蹴りつけるようにしてベッドから腰を上げた。
「あんた、おかしいよ! あんたは解ってるでしょ、あたしが『本当のリューカ』じゃないってことを。あたしをリューカっていう別の人間に無理矢理嵌め込んで、押し付けてるようにしか思えない……!」
一気に捲し立てた流香に対して、距離を置いて対峙する哉生の白皙の美貌は些かの感情にも揺るがない。ただ、天空に浮かぶ月魂が下界を見下ろすかの如くに静やかに、黒水晶の双眸に流香の姿を映すだけだ。同じ言語を喋っている筈なのにまったく話にならない───否、彼にとっては流香の叫びなど、つまらない小動物が月に向かって吠えたてているくらいの、そんな取るにも足らないことなのだろう。獲物を狩るように何の躊躇いもなく静眞を斬り捨てた支配者然としたこの男にとっては。
そんな哉生の様は流香を言い様のない感覚に陥れた。怒りと苛立ち、焦燥、そして不安。流香自身、闘志を喪っているわけではない。だが真っ直ぐに自分を捕らえる黒水晶の双眸の威圧感に堪えかねて、負け惜しみのような舌打ちとともに視線を石畳の床に逸らすことしか流香にはできない。
燭の炎が揺らめき、その昏い赤金色の光がそれぞれの表情を浮かべたふたりの横顔を一撫でした。
「……月は影に、影は月に───」
哉生の独白、夜の闇に沈んでしまうような密やかなそれに流香がはっとなった時には遅く、対峙のための距離を詰められていた。絡め取った流香の右の手を、完璧な造形の線を描く自らの白皙の頬に重ねさせながら哉生は宣べる。
「お前はいずれ『リューカ』となる。三日月の竜公たる私が命じる。私の妃として、側を片時も離れることは罷り成らぬ」
また、解らない言葉だ。恐らくは哉生というこの男のことを指す二つ名か何かであろう『シン・ドラクル』───そう言えばと流香はあることに思い当たる。十蘭寺の参道で哉生は師の久生に向かって何やら似たような言葉を言っていなかったか、確か『アスタルテ・ドラクル』とか。
……いや、それよりも。この男は一体何をしているのか。流香の掌に哉生は硬質の唇を埋め、微かな音をたてて接吻をひとつ。そのまま滑るように手首を甘噛みされて流香は頭の中が真っ白になってしまう。
こっ、こいつ、なにしてんのよ、あたしの手ええええ───っ!
「えっらそうにっ! あたしになに命令してんのよ!」
武道に身を置く者が武器である手を相手の好きにさせるなどと恥以外の何物でもない。振り払う勢いで流香の手が哉生の頬を撲ち、ぴしゃりと鋭い音たてる。
捕らえる力が緩んだその隙を突いて取り返した利き手を、もう一方の手で護るように擦りながら哉生を正面から睨み据える流香であったが、その顔が心なしか朱く染まっているのは果たして部屋を仄明るく照らす燭のせいだけか。
「あたしは『リューカ』になんかならないし、あんたの妃とか真っ平よ! 大体あたしは柳子姉さんと久生師範の言うことしか聞いたことないからね。あんたの命令なんか知ったことじゃないし!」
「………」
打たれた頬を気にした風も無く、暫し凝然と自身の『妃』たる少女を見つめていた哉生であったが、やがて、その端麗な口許を微苦笑の形にふっと綻ばせた。
「今夜は私も自室で寝むことにしよう」
人に馴れない仔猫に威嚇されているようだと感じながら、哉生は静かに踵を返す。
「城内は好きに見て回るといい。だが、妃というものは奥の宮でおとなしく夫を待っているものだ。私の妃にしては、お前はお転婆が過ぎる」
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」
だんっ! と荒い音をたてて流香は石畳を踏み鳴らした。
この哉生という男は決して口数が多いわけではない。端麗な貌には感情が殆ど浮かばず、いつもほぼ無表情で何を考えているのかも読み取れない。だが、たまに口を開けば言いたいことだけを言って手前勝手な理屈を押し付け、直情経口の流香ばかりが感情を爆発させて喚き散らすばかりだ。しかも哉生はそれをまったく聞いていないときている。
大体、さっきの『アレ』はなによ!? あたしの手に……あっ、あんなことぉぉ───っ!
苛々と気恥ずかしさが頂点に達した衝動、思わず引っ掴んだ手元の枕を部屋を出て行こうとする哉生に向かって流香は力一杯投げつける。
「あんたって本っ当に! 人の話聞いてないよね!! 今夜どころか、ずっと来んな。っていうか、死ね、今すぐ死んでしまえええっ!」
だが、哉生は背後を顧みることもなく、軽く首を傾げただけでそれを見事に躱してみせる。柔らかい羽根枕は重厚な胡桃木の扉の表面にぶつかったかと思うと、ぽたんと軽い音をたてて床に転がり落ちた。
所在なげに転がる羽根枕の脇を通り抜け、哉生は廊下に繋がる扉をくぐる。流香自身は気付くべくもない。部屋を出て行き様の肩越しに哉生が流香へと向けた黒水晶の一瞥───感情があまり顕れないこの男にしては珍しい、小さな子供を見るように柔らかい色合いのものであったことに。
「今度は良い夢を、我が妃よ」
「うるさい! 次に入って来たら殺してやる!」
子供じみた、限りなく不可能に近いことを叫びながら流香は、またひとつ羽根枕を投げつけるが、今度は哉生の姿が向こう側へと消えた後の扉にぶつかって床に転がる。
閉じた扉を見つめたまま、暫しぜいぜいと肩で息を吐いていた流香であったが、気を取り直してくるりとベッドの方を向くと、シルクのシーツを引っ掴んだ。ばさりと空に翻したそれで身体をくるみながら、歩を進めた扉の前に品無く胡座をかいて、どっかりと座り込む。さながら廊下と部屋を繋ぐ入口を護る寝ずの番の兵士のように。
「なんかもー、アタマおかしくなりそうだわ」
短く切り込んだ栗色の髪をがしがしと掻き回しながら、流香は、はぁっと大仰な溜息をひとつ吐く。
色んなことが一遍に起こって頭がおかしくなりそうだった。その上、あの『余裕こいてて何かムカツク系の美形』はやりにくいことこの上ない。認めるのも癪だが、実際、自分は、あの哉生という男に良いようにあしらわれているだけだ。流香のこの様を見たら、久生や静眞などは腹を抱えて笑い出すだろうが、当の流香にとっては冗談ごとではない。
「……あいつ、城内とか言ってたけど、ここはどこかのお城ってことなのかな」
ふと、哉生の言葉を思い返して、流香は頭を掻き回す手を止める。
背後の重厚な胡桃戸に身を凭せかけて、上げた視線の先には開け放した出窓。天鵞絨を思わせる夜闇の帳に覆われた虚空の低処には地上の世界を圧するかのように大きく、そして赤錆びた、柘榴色の月が浮かんでいる。まるで翻弄される流香を嗤うかのように。
やはり、ここの月はおかしいと流香は感じている。流香が眠る前までは確かに煌々と目映いばかりの銀色の光を放っていたのに、今は見る者全てが不吉な気持ちに囚われる、血のように昏い光だ。『月』とは短い時間で、こんなにも極端に変化するものだっただろうか。それこそが今在る『ここ』という場所が普通ではない、流香の常識を超えた所だという答えのひとつのように感じている。
「……雙月境、か」
ゆらりと燭の炎が大きく揺らめいたかと思うと、その寿命を尽きさせ、不意に部屋を照らす灯が消え失せた。後に訪れるのは赤く昏い月の光と漆黒の夜闇の鬩ぎ合い───その只中で流香は身伏せた狼のように身動ぎもせず、大きな赤い月を映した琥珀色の瞳を眇めた。
とにかく今は身体も精神も疲れ果てている。夜が明けるまでに少しでも体力を回復させて、それから家に帰る方法を自分で探そう。あの哉生という男に帰りたいなどと言うこと自体がそもそもの間違いだ。徐に抱え込んだ膝の上に流香は顔を埋め、そして静かに目を封じた。
「朝霞や静眞みたいに考えるのは苦手だよ……」
溜息混じりの流香の憮然とした独白は、ひやりとした夜気の中に溶け込んでいった。




