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月の柩  作者: 桧崎マオ
第1章 月の惛い部分
3/11

03

流血を含む、残虐な描写がございます。苦手な方はご注意下さい。

 大禍時おおまがときの天空に低く垂れ込める、今にも雨粒を落としてきそうな鉛色の雲の下、初めてまみえた男の意味不明な言葉の羅列に暫し呆然としていた流香であったが、やがて徐々に、その生意気盛りな唇は、にぃっと不敵な冷笑の形に象られていく。哉生はそんな流香の様子に怪訝の眼差しを向けた。

「お生憎様、あたしは『リューカ』なんて名前じゃない。よく読み違えられるけどね」

 ハッ! と小馬鹿にしたように鼻先で笑うと、琥珀の瞳には挑発の気色も露わに、流香は自分よりも頭ふたつ半ほど高い位置にある男の顔を見上げた。馴れ馴れしくも自身の腰元に回されたその手を、ぴしゃりと鋭い音をたてて叩き落としながら。

「迎えに来ただって? 大体『キサキ』って何? 一体誰と間違って───…ッ!?」

「お前はリューカだ」

 遮る、強い言葉とともに頸筋を哉生の掌が捕らえたがために、流香は最後まで憎まれ口を叩くことができなかった。端麗な外見に似つかわしくないほどに刀剣を操ることに慣れた無骨な掌は愛撫というには些か手荒い、頸の肌理を擦るようにして撫で上げたかと思うと流香の頤を上向きに固定する。

「魂の形は違えど、お前はリューカそのものだ。『影の世界』の『ヒト』などと、こうして目の当たりにするまでは半信半疑であったが……」

 ……やっと、見つけることができた───。

 下界を見下ろす月魂の如く支配者然とした男は愛おしげに囁きかける。喉元を掴まれた痛みもさることながら、生命を狩る者の眼と、まるで狩人が獲物の命を選別しているかのような、冷ややかな哉生の眼差しが感情に揺らぐ様を前にして流香は眉を顰めた。癒えることのない哀しみと悔恨、深い情愛と執着───黒水晶の瞳には狂気と紙一重の色をした感情の燠火が宿っている。

「あたしはリューカじゃない。黒岩流香だ」

 噛み含めるような語調で憮然と言いながら、流香は顎元を捕らえる左手首をするりと捕ると身を反転させ、かち上げた右肘で哉生の肘関節を固定する。身動ぎひとつすれば即座に相手の肘と肩の関節を砕く、御影流の体術のひとつであった。

 同じ言語を喋っている筈なのに、流香には哉生という、この異国の風体をした男の言うことが理解できない。否、何よりも哉生の言い様は流香を『リューカ』という人物だと思い込んでいるのではなく、流香に『リューカ』であれと命令しているかのようだ。

「あんたの言ってることはよく解んないけど、変な押し付けしないで。そういうのってすっごいムカつくんだよね」

「……」

 斜に睨み上げる流香の、狼の如く炯々とした琥珀の眼差しと、闇の深淵のように静やかな哉生の黒水晶(モリオンの瞳は間近に交錯しながらも、だが、ふたりの遣り取りはどこまでも交わることのない不毛なものであった。

「戻るぞ、リューカ」

「───あんた、人の話全ッ然聞く気ないでしょ!」

 文字通り怒髪天、頭から湯気を立ち昇らさんばかりの勢いで喚き散らす流香が哉生の関節を砕きにかかる、が。

「見事な腕前だ」

 固定した肘を、あっさり払い除けられたかと思うと背後を取られ、腰元に回された腕が流香を引き寄せた。瞬きする間もない一瞬のことに流香は瞠目し、息を呑んだ。吐息が掛かるほどに近い位置で聞こえる男の苦笑混じりの囁きに、背筋を冷たいものが伝う。

「急拵えの刀剣も、その斬撃も、体術も……だが少々お転婆が過ぎる」

 言うが早いか、ふわりと身体を包んだ浮遊感に流香は、わっと声を上げる。哉生の左肩に荷物のように担ぎ上げられた流香は手足をばたつかせ、無駄なく筋肉のついた逞しい上背を激しく打ち付けた。

「何すんのよ、バカっ! 降ろせっ! 離せええええ───っっ!」

 暴れる流香の頬肌を、ぽつりと打つものがあった。墨汁を流したような重い色をした曇天から、とうとう降り出した水の粒に、ふと天空を仰ぎ見る哉生。「頃合いだ」と低く呟く声が、ぱらぱらと音をたてる雨の中に紛れる。

雙月境そうげつきょうへの路が開く」

「……そうげつ、きょう……?」

 不思議な響きを以て耳に滑り込んできた言葉に、哉生の背肩を撲つ流香の手が緩む。

 雙月境───。二度、反復した流香であったが、踵を返した哉生の動きに、はっと我に返って訊き返す。

「ちょっとまさか。あんた、あたしをそこに連れて行こうとか言うんじゃないわよね!?」

「連れて行くのではない、『戻る』のだ。本来お前の在るべき世界に」

「ハァ!? 何を勝手なこと言ってるわけ!? …っていうか、あんたマジで人の話聞きなさいよ!」

 再び左肩の上で暴れ始めた流香の抗議など意に介さず、右手に携えたままであった抜き身の刀剣を鞘に収めようとした哉生であったが、ふと、その動きが鈍る。足許からの、不意に引かれるような感覚のために。

「……なに、キモいこと……いって、んだよ……」

 セクハラかよ、と。呻くような声に哉生は形の良い眉を不快の形に顰め、足許のそれを睥睨する。先刻、殺さない程度に斬り捨てた目障りな邪魔者───牧静眞の血に塗れた手が追い縋るように哉生の純白のマントの裾を掴み、血で汚していた。

 哉生の左肩を押し返すようにして藻掻き、身を捩らせながら流香が絶叫する。

「静眞っ、それ以上動いちゃ駄目っ!」

 姉弟子を助けるために静眞は全身の力を振り絞って、ここまで這いずってきたのであろう。古びた石畳の上には彼の流した血の軌跡が長い尾を引いていた。大量の出血で青白くなった貌を苦痛と執念の形相に歪めて静眞は哉生に取り縋る。

「……くろ…いわさんを、離せ…はなせ……」

 苦悶の下に呑み込まれそうな声音で、ただ「離せ」とだけ譫言のように繰り返す。もはや静眞を衝き動かしているものは精神力だけであった。無意識の生み出すものであろう、有り得ないほどの力でマントを掴み、痛みで感覚の失われている下肢で立ち上がろうとすらする静眞に哉生は淡く瞼を伏せた。

「……従者の『影』までがリューカに付き従うか」

 哉生の手が肩先を飾る橄欖石のブローチを緩めると、静眞の掴むマントは、さらりと衣擦れの音をたてて雨に濡れた石畳の上に滑り落ちた。

 柄を握り直すと、哉生は静かに刀剣を振り上げた。そこに侮蔑はない、むしろ微かな感嘆混じりの独白とともに。

「良いだろう。主への忠義に殉じる、貴様の望みを叶えてやろう」

「静眞! あたしのことはいいから手を離して! 静眞っ!!」

 交錯する、哉生と流香のそれぞれの声と言葉。だが、意識が殆どない静眞の手は純白のマントを握ったまま緩まない。湿った生温かい空気に、錆びたような血の臭いが入り混じって嗅覚を、むんと刺激する。降り出した雨は徐々にその勢いを増していた。

 ダメだ、間に合わない───…ッ!

 身を捩らせ、延ばした手の遙かに及ばない処で、静眞の頸筋目掛けて振り下ろされる───雨の粒をも斬るような刃の軌跡を、流香には、ただ凝視めることしかできない。

「静眞っ!」

 流香の悲痛な叫びを傍らに聞きながら───だが何を察知したのか、哉生は瞬時に後退ったかと思うと、横薙ぎに刀剣を一閃した。ガチィン! と硬い金属同士のぶつかり合う音が響き、哉生の刃を阻むように投げつけられたそれを間髪で弾く。

 銀色の弧を描きながら弾き飛ばされた、それは錫杖であった。中門と呼ばれる山門の年季の入った柱にドスリと鈍い音をたてて杖先が突き刺さった反動で揺れた遊環が、しゃらしゃら、澄んだ音色を辺りに振りまいた。

 よく邪魔が入る。哉生はその方を一瞥した。

「殺し合いの最中は冷静であれと。常にそう教えてきただろう、ふたりとも」

 良く聞き知った、通りの良い、落ち着いたバリトンの声音が御影流の門人ふたりに喚起する。さくさくと、雨に湿った石畳と草履の裏とが擦れ合って立てる音を伴って、やがて開扉された山門の下に姿を顕した空衣うつお姿の男の名を、流香は呼んだ。

「久生師範っ!」





*********





 流香と静眞の師にして、御影流古流拳術の一門を束ねる久生雨蘭ひさおうらんは山門を抜けると、歩調を変えることもなく三人に向かってゆっくりと歩みを進めていく。些か時代がかったデザインの、異国の風体をした見知らぬ男の放つ圧倒的な『気』に気付いていないわけでもなく───ましてや、抜き身の刀剣を片手に流香を肩に担いだ、その男の足許には自身の血に塗れて意識を半ば失っている静眞という、まさに拐かしの現場とも言うべき、この切迫した状況すらも無視の体で。

「静眞、少し我慢しろ」

 穏やかではあるが内に秘められた強さを感じさせる声音で、そう言葉を紡ぎながら久生は静眞の傍らに膝をついた。静眞の胸元の中心に掌を置くと、暫し意識を集中させ「フン!」と気合いを入れる。うぁっと蟇蛙が潰されるように呻き声を上げ、白目を剥いて刮目したかと思うと、静眞は瘧を起こしたように一瞬身体を仰け反らせ、そのまま力なく崩れた。それまで意識を失っても離すことのなかった哉生の純白のマントが、掌から、するりと零れ落ちる。

 あれで血は止まった。ひとまず流香は安堵の息を吐く。手荒くはあるがあれが師である久生の気功癒術のひとつであった。

「……さて、次は君が捕まえているその子だ。離しては貰えないか?」

 一八〇センチ超はある長身の静眞を哉生の落とした純白のマントに包んで軽々と抱え上げると、久生は山門へと踵を返し、雨の当たらない軒下に弟子を横たえさせる。それから門の柱に突き立った錫杖を手に掛け、それを、すらりと引き抜く。しゃらん、と遊環の触れ合う破魔の澄音と杖を濡らす雨水が飛沫となって辺りに弾けた。

「彼女は私の弟子だ。用向きは師であるこの私を倒してからにして貰えないだろうか」

 僧侶らしく諭すような口調と、造りの薄い口許が象る微笑は穏やかながらも、その織りなす言の葉には激しさがあり、黒の空衣が包む肩越し、哉生に向けられた仏陀の如き半眼の下に宿る眼差しは容赦がない。身を翻し、錫杖を一振り。しゃらん、と音たてて久生は『敵』に向け、六尺はあろうかという長杖を構える。

 久生雨蘭の特筆すべきは僧職ゆえのその外貌であった。光沢が現れるほどにきれいに剃り上げた形の良いスキンヘッドに、その前面に座る些か扁平な細面には仏陀に例えられるほどの静かな微笑が常に湛えられており、人を惹き付ける不思議な雰囲気に、久生の飄々とした立ち居振る舞いも相俟って、老若男女問わず十蘭寺の檀家や門徒からの支持は篤い。

 だが、この久生雨蘭のいう男は僧侶でありながら、達人と呼ばれる領域の武道家としての一面も併せ持つ。弟子である流香や静眞、そして久生と一度でも敵として相対したことのある人間であれば知っている。涼やかに眦の切れた、穏やかな半眼の一重瞼の下で光る彼の目は、すべての事象を見透かすかのように澄んでいて静やかでありながら、射抜くような鋭さを秘めており、実の所、少しも笑ってはいないのだということを───。

 錫杖を構える久生に対し、だが、哉生は抜き身のままであった刀剣を不意に鞘に収めた。訝しむ久生を前に、哉生は苦笑混じりに呟く。

「……髪がないのだな」

「何だと?」

 訊き返す久生の声には極低温の響きがあり、その眉がぴくりと動いた。薄い笑みに象られた哉生の唇が再び朗々と告げる。

「甕星の竜公アスタルテ・ドラクルの影は、髪がないのだな」

「ばッ、馬鹿っ! あんた、何てこというのよ───!」

 ありありと焦った調子、哉生の言葉を遮るように絶叫したのは、その左肩に担がれた流香であった。物問うような眼差しを向けてくる哉生に、流香は引き攣った表情で一喝する。

「ちょっと、あんた! 今すぐ謝れ! 久生師範に謝れっ!」

 捩った身体を仰け反らしながら流香は足を哉生の胸元を蹴るように、足をばたつかせた。一方、山門の軒下で意識を失っている筈の静眞ですら、ぴくりと指先を痙攣させている。喉奥から漏れた低い呻きには誰も気付くことはなかったが「それは、やめて…」という言葉のなり損ないであった。

「……髪がない、だと?」

 地の底から湧き上がってくるかのような声音に流香は全身が総毛立つのを覚える。錫杖を構える師は面にいつもと変わらぬ微笑を湛えながら、だが背後で立ち上る闘気は炎のごとく揺らめき、さながらその姿は十蘭寺の奥の堂にある不動明王を思わせた。

 久生雨蘭の前で『禿』という言葉やそれを連想させる言葉は最大級の禁句であった。僧侶ゆえ、剃髪は当然のことなのだが、何故かその手合いの言葉を彼の前で吐いた者は悉く半殺し、或いは死んだ方がマシな目に遭わされているのを幼い頃から散々見てきた流香なのである。そもそもこの十蘭寺の建つ山の通称、『ボウズ山』という呼び名は彼が広めたという噂さえあるのだ。何故なら、この山の正式名称は『破罫山はげやま』というのだから―――!

「結構。流香を離せばよしとする所だったが、話が変わった……貴様を、殺してからだ!」

 山寺の主に呼応するかのように、周囲の空気が一瞬にして氷のように張り詰めた。恐怖のあまり青醒めた表情で流香は「ひっ」と喉奥で悲鳴を貼り付かせた。

 ……久生師範がブチ切れた───!

「いいから謝ってよ! あんた殺されたいわけ!?」

 抗議をするように流香の拳が、ばんっ! と哉生の逞しい背を叩き付けた。

「じゃなきゃ、あたしを降ろせ! あんたの巻き添えで師匠に殺されるなんて真っ平よ!」

「断る」

 語調も強く哉生は即答する。左肩に担いだ流香を、ふわりと横抱きに抱え直しながら。

「ウラヌスの『影』ごときに殺される私ではない。それに、お前もだ。二度と───」

 …しゃらぁん! 続く哉生の言葉は、振り下ろされる錫杖の遊環がたてる透明だが剣呑な音に掻き消された。するりと身を躱した哉生のすぐ脇では、久生の錫杖の一撃が石畳を粉砕する。

 速い……!

 流香には師の斬撃が視えなかった。身を翻し、続けざまに杖先を斬り上げる二撃、杖頭を振り下ろす三撃と、絶え間なく繰り出される久生の鬼神の如き瞬速の攻撃を、だが、この哉生という男はすべて見切っていた。四撃目の突きに、流香を抱えたまま哉生は優雅に跳躍したかと思うと、そのまま錫杖の柄の上に静かに飛び乗る。久生は眉を顰め、小さく唸った。

「……む……」

 ……こいつ、バケモノ!? 

 師である久生と同等か、それ以上。この哉生という美貌の男の実力を改めて目の当たりにして流香は思わず身震いする。自分を抱える男を凝然と見上げる流香に、哉生は小さく囁きかけた。

「しっかり掴まっていろ」

 久生が錫杖を手放すと同時、揺らぐ足場を物ともせずに哉生は身を翻し、柄から飛び降りると流香が元来た下に降る石段に向かって駆け出した。石造りの階の際で、哉生の固い靴裏が思い切り踏み込み、流香の体を抱きかかえたまま大きく跳躍する。

「……え…あ、ちょっと、ちょっと! ちょっとぉぉ───!!」

 跳ぶ風に流れて流香の悲鳴が尾を引いて響く。弧を描いて大きく跳んだ哉生が着地する寸前、折からの雨で石段に出来た水溜まりが一瞬、ぼう、と不思議な光を放ったかと思うと、その一帯が大きな水面へと変化した。ばしゃん! と有り得ない、深い水音がして哉生と流香の姿が水鏡の中へと呑み込まれるように沈んでいく。

「しまった、この雨───法術か……!」

 忌々しげな舌打ちをひとつ、駆け出しざまに、しゃらんと音たてて、石畳に落ちた錫杖をひったくるようにして拾い上げると、久生はふたりを追って何某かの呪文を唱えながら刀印を切り、石段を跳躍した。既に哉生と流香の姿は頭の一部を僅かに残して見えなくなっている。「破!」と気合いをかけ、着地と同時、久生はまるで石段に吸い込まれていくように収縮していく水鏡目掛けて錫杖を突き刺した。

 ばんっ! と砕け散る音、そして水鏡を割った錫杖は流香の後を追うように、しゃらりと遊環の澄んだ音だけを残して沈んでいく。

「流香っ!」

 久生は膝をつき、僅かに残った水の溜まりの中に自身の手を差し入れようとするが、何某かの力に阻まれて叶わない。身体全体に強い電流を流されたような衝撃を受けて、久生は「くっ!」と小さく呻いて、退いた。

 やがて久生の目前で錫杖は杖頭まで沈み、同時に、水鏡も砂時計の砂が下に零れ落ちてしまうように跡形もなく消失してしまっていた。

「流香っ! 流香ァ───っ!」

 既に何処かへと消失してしまった弟子を呼ぶ、師の慟哭が降りしきる雨の中に虚しく木霊する。今やそこに在るのは年季に擦り切れた自然石の階だけ。雨に濡れたその表面を、久生雨蘭は破壊せんばかりの勢いで拳で叩き付けた。

 ……どれくらいの時間が経ったか。降り頻る雨が空衣を冷たく濡らす中、やがて久生は徐に立ち上がった。山門のある後背を振り返る。さしあたっては救える者から救わなければならない。頬を伝い落ちる雨粒を手の甲で拭いながら久生は石段を踏みしめて昇り、深傷を負っている、もうひとりの弟子、牧静眞の元へと急いだ。






**********




 

 逆様に落ちていく。ごぉっと唸る音をたて、緩やかだが大きく渦を描いて下に降りていく流れに引き摺り込まれて、ふたりは深く底の見えない水の中に、ただ落ちていく。

 さっきまで十蘭寺の石段の参道にいた筈の自分が何故、と。この状況について思考を巡らせながらも、だが流香は急なことに息が続かずに、ごほりと咽せ込んだ。吐き出された呼気が泡となって水流の中に溶けていく。確かなのは流香の身体を抱き締める男の腕だけだ。呼吸が保たなくなりそうなのも手伝って、無意識のうちに流香は哉生の逞しい体躯にしがみついていた。

 苦しい呼吸の中、ふと流香が顔を上げると間近には哉生の白皙の美貌がある。漆黒の長い髪に黒水晶モリオンの瞳を持つ、犀利にして精悍な……月魂のような男。見たこともないような異国の服を纏い、居合いにも似た瞬速の妙技でもって刀剣を操る───流香の師であり、達人とも呼ばれる武道家・久生雨蘭と同等か、それ以上の実力者である彼は一体何者なのか。

 不思議そうに凝視めてくる琥珀色の眼差しと、しがみついてくる腕の力に気付いたのか、心配ないと言うように柔らかい微笑を水の中に揺らめかせながら、哉生は流香を掻き抱く腕に一層力を込めた。

 ……なんちゅう美形よ、こいつ。

 『余裕こいてて何かムカツク系の美形』と。初見でそう評していた静眞の言葉に妙な納得をしながら、流香は初めて見る哉生の穏やかな表情に何故か呆れにも似た心持ちで眉根を寄せた。しかしそれは師匠の久生や弟弟子の静眞を始め、学校の友人達からも心配されるほどに年頃の少女らしい情緒や恋愛経験とは無縁の日々を送っている流香が、初めて異性に見惚れて、心動かされた瞬間でもあったのだが───。

 抱き合うようにして落ちていくふたりは、やがて渦を巻く水流の中心に、ぽっかりと口を空けている楕円の光の穴に向かって吸い寄せられていく。光の穴を抜けた瞬間、流香の方向感覚が狂い、上下が逆転するような感覚が襲ってきた。

「ぶはぁっ!」

 続いて、深い処から浮かび上がる瞬間のような感覚が身体を包んだかと思うと、ざばぁん! と激しい水音と飛沫を伴って、流香は呼吸もままならない水中から唐突に空気のある場所へと投げ出された。ガランガランと金属質の物体が引っ繰り返り、床とぶつかりあう派手な音を立てる傍ら、哉生は胸元に抱いた少女を、この空間に放出された衝撃から護るように包んで受け身を取る。

 環境の急激な変化に伴って、不意に肺腑に入り込んできた酸素に戸惑い、暫しの間、激しく咳き込む流香。その栗色のショートヘアを諫めるように撫でながら、哉生は流香の下敷きになった状態から上半身だけを起こした。

「シャムロック、大儀」

 労いの言葉とともに哉生が視線を向けた先では、繊細な細工を施した眼鏡をかけた妖艶な美女が胡座をかいて、しどけなく座している。返礼代わりに哉生に向かって頭を下げた、その女の傍らには楕円の巨大な銀盤が水を零して転がっており、それこそが、つい今し方、哉生と流香が通ってきた途の出口であることを示していた。

「ちょ、ちょっとっ! 何触ってんのよっ!」

 咽せながら面を上げた流香であったが、驚いたような声を上げ、髪を撫でる手を、ぴしゃりと叩いた。だが継いで、哉生の上に乗っているという状況に気付くと、その逞しい胸元を思い切り突き飛ばし、文字通り飛び退るようにして退く。

「抱きついてきたのは、お前だ」

「ハァ!? 誰が誰になんだとおおおおお!?」

 涼しい調子で言い放ちながら立ち上がる哉生に、流香は顔を真っ赤にして絶叫する。

 ……しかし、徐々に落ち着きを取り戻してきた流香の視界に入ってくるのは───出窓より煌々と射し込む白銀の月の光が浮かび上がらせる、見知らぬ部屋の光景であった。

 鍛錬の最中であった十蘭寺の参道から水に沈んで、次はこの部屋である。天井から垂れる帳に絨毯、シルク生地の壁紙と青鈍色を基調とした装飾に、繊細な造りの調度品の数々が趣向良く配置された部屋の真ん中で、流香は驚きのあまりに目を瞬かせ、言うべき言葉を喪って呆然と立ち尽くしていた。

「改めて、お帰りなさい。三日月のシン・ドラクル公……そして、リューカ妃」

 不意に掛けられる声に流香は、その方を見遣った。哉生にシャムロックと呼ばれた、均整の取れた肉感的な身体を覆い尽くさんばかりに長く伸ばした黒髪の印象的な妖艶な女は眼鏡の奥で黄金色の瞳を細め、艶然と流香に微笑みかける。

 目まぐるしく変化する自身の周囲に思い至り、流香は身体にどっとのしかかってくる疲れを感じていた。呼ばれた名前について、もはや反論する気力も起こらなかったのである。

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