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月の柩  作者: 桧崎マオ
第1章 月の惛い部分
2/11

02

流血を含む、残虐な描写がございます。苦手な方はご注意下さい。

「静眞ぁー、早くしないと置いてくよー!」

「待って下さいよ、黒岩さん!」

 山頂へと続く急勾配の石段の上と下で交わされる、いつもの遣り取りが山深い周辺に木霊する。黒岩流香と牧静眞のふたりが駆け上がる、この階段は鬱蒼と生い茂る木々の間を急な角度に切り開き、足場も自然石を組んだだけのもので、長年の風雨に曝されて変色し、磨り減ったそれは段差の高低も揃ってはおらず、階段と言うには造りの荒いものであった。

 数にして二十段ほど、遅れて後ろから聞こえてくる、ヒィヒィ、という情けない呼吸音に流香は段飛ばしに駆け上がる足を止め、野菜が満載された背負い籠越しにその方を振り返った。遅れて駆け上がってくる弟弟子を待って階に立ち、その方を見下ろす流香の傍らには苔生した道標が傾いて立っている。染みが張り付き、風化しかかった石塊の表面に、細く、金釘のようなものの先で彫り書れているのは『此ノ先、ジュウラン寺』という年季の入った案内文だ。

 いつからそんな名前で呼ばれるようになったのかは定かではない。正式な名称ではない『ボウズ山』と綽名される、この山の頂に建つ古い仏教寺院・十蘭寺の住職を務めているのは彼らの師匠の久生雨蘭であり、その本堂は御影流古流拳術の道場でもあった。

「早く行かないと雨降りそうよ」

 息を切らせてようやく追いついてきた静眞に、流香は頭上を見上げて涼しい顔でそう告げる。頬肌に触れる空気は湿り気を帯びていて、霜月の初めにあっては生温い。周囲を取り巻く木々の隙間から覗く空には墨色の重い雲が垂れ込めてきており、夕暮れ刻というには些か暗いほどである。

「……っていうか、久生師範…何で、もっと……近い所に畑、作らなかったんだ……」

「久生師範だって子供の頃から、やってた鍛錬だって言ってたじゃない」

 ボウズ山の頂にある十蘭寺から麓まで急勾配の石段を駆け降りて、寺院が所有する畑で野菜の手入れをし、収穫したものをめいめいの背負い籠に入れてから、また元来た道を駆け戻っていく。門下生ふたりの鍛錬前の準備運動なのだが、まだ整わない呼吸の下、野菜の入った背負い籠───流香の籠の中身に比べたら半分程度しか入っていないそれを背肩で上下させながらぼやく静眞に、流香はハイハイといつもの調子で受け流す。

「ぶつぶつ言ってないで少し歩くから呼吸整えて。落ち着いたらまた走るからね?」

「……はい」

 年下ながらも姉弟子らしく指示する流香に静眞は小さく応じる。踵を返し、石段を上がり始めた流香の紺色のスカートの裾が翻るのを視界の端に捉えながら、両膝に手をついて息をついていた静眞は、重い足を引き摺るようにしてその後に続いた。野菜が満載された重い籠を背負った上で、これだけ足場の悪い急傾斜の石段を息一つ乱さず、汗もかかずに、跳躍するように駆け上がる───しかも動きやすいジャージ姿の自分とは違い、学校帰りのセーラー服姿でそれをこなす流香の後ろ姿に、信じられないというように頭を振りながら、静眞は驚嘆の眼差しと溜息を送った。

 高校生の流香より七歳年上の社会人である牧静眞は、少し眦の下がった、愛嬌のある大きな眼が印象的な青年である。一見してとても武術を習っているような厳つさや尖った雰囲気もなく、小顔に、すらりと手足の伸びたスタイルの良い長身の体躯に、女である流香よりも女性らしく繊細な造りの優面に浮かべる微笑は人懐っこく、笑顔の素敵な営業マンといった風情だ。

「今日はお野菜いっぱい採れたね。奥さん、何作ってくれるかなあ」

 静眞の体力を気遣って、ゆっくり石段を上がる流香は声を弾ませた。こうして収穫してきた野菜は、久生の妻・百合子が料理をして鍛錬の後に弟子達に振る舞うのが恒例になっている。細身ながら育ち盛りでいくらでも食べる流香も、独身の一人暮らしで仕事のために普段の自炊もままならない静眞も、師の妻が出してくれる美味しい手料理が楽しみで鍛錬に励んでいる部分があることは否定しない。

「……この秋は、じゃがいもの出来が、いまいちみたいですね」

「もう収穫期なのに、あの大きさならもう限界かな。春じゃがは出来が良かったのにね」

 静眞の背負った籠の底では、小芋程度にしか育たなかったじゃがいもたちが背負い主の動きに従ってゴロゴロと転がり、自己主張をしている。

「揚げじゃがの鶏そぼろ味噌とかいいなー。俺ね、春じゃがの時に捨てちゃうような小芋で奥さんが作ってくれた奴食べてから、すっげえ好きなんですよねー」

「奥さんの料理の話になったら、あんた元気だよね。もう走ってもいいんだ?」

 背後を振り返ってきた流香が、有名な文学書に登場する猫のようにニヤリと笑いかけてきたのに顔色を変えて慌ててみせる静眞。

「ちょっ、黒岩さん、もうちょっと待って下さいよ!」

 ケラケラと屈託なく笑う流香に合わせて、背負い籠から覗く水菜の葉先が微風にそよぐように震える。

 この年長の弟弟子はいつからかっても面白い。十年以上、久生雨蘭に師事してきた中で、過酷な鍛錬に根を上げて入門から一日と保たずして道場を逃げ出す者を数多く見てきた流香である。だが、この牧静眞は鍛錬のきつさに愚痴と弱音を吐きながらも、忙しい仕事の合間を縫って二年も続いているのだから、女顔のヘタレと言われながらも実はなかなかどうしてしぶとい性格の持ち主だった。

「オッケーオッケー。じゃあ、もうすぐ中門に着くから、そこ抜けたら後は上まで走るよ」

 他愛もない会話を交わす、ふたりはもうじきボウズ山の中腹にある『中門なかもん』という名前で呼ばれる小さな山門に辿り着こうとしていた。

 山鳥が耳障りな、まるで絞め殺される寸前の断末魔を思わせるかのような、嗄れた鳴き声をたてながら忙しく頭上を羽ばたいて行く中で───中門のある踊り場への階を昇りきった二人は、ふと軽口を噤み、その足を止めた。門扉の前に佇む人影を認めて。

「……ぁ……」

 小さく、呻きとも溜息ともつかない声を漏らしたのは静眞であった。それは山門の前に在る男の、遠い異国の民族衣装を思わせるような───織り込んだ銀糸が複雑な幾何学模様を描く緋色の長衣に、掌ほどの大きさの橄欖石のブローチで肩先を留めた白いマント姿といった特異な風体のせいばかりでもない。最初に目を惹く左の腰元に佩いた刀剣、そして、何よりも男が纏う尋常ならざる『気』のためだ。それは腰まで届く黒髪が縁取る白皙の横顔───さながら漆黒の闇夜に浮かぶ月魂の如き美貌とも相俟って、見る者の胸裡を不安と畏れとに騒めかせた。

「……何ですかね、あのすんげえ美形は。しかも余裕こいてて何かムカツク系の」

「あんた、この状況でよくそんな馬鹿言えるわね」

 潜めて交わす、ふたりの冗句も声音が上擦る。

「危機の時こそ馬鹿になれってのが、ウチの社訓ですから」

「そんな元気があれば何でもできるみたいな会社、あたし絶対イヤ」

 山門の両脇に植えられたカエデ科の古木から褐葉が、はらりと一片、また一片と落ちかかる中、佇む男はふたりに初めて視線を向けた。だが、淡く伏せた睫毛の憂愁の翳りに沈んでいた黒水晶モリオンの眼差しは何の迷いなく真っ直ぐに流香の姿を捕らえ───流香は、ゾクリと悪寒が電流のように身体を駆け上がるのを覚えていた。

 ……あれは…生命を狩る者の眼だ……!

「あのーう、この先は十蘭寺ですけど、何か御用でしょうか」

 仕事で培った営業スマイルを浮かべながら明るく声をかける静眞であったが、男からの反応はない。もとよりそんなもの、期待してもいなかったのだが。

 静眞もまた、この、異国の風体をした美貌の男の不吉な威圧感に背筋を冷たい汗が伝うのを感じている。男が何者かは判らないながらも、静眞にははっきりと確信していることがある。ひとつは目前の男が自分など足許にも及ばないほど遙かに強いということ、そしてもうひとつは何故か『最初から流香しか眼中にない』ということ。

 理由は解らない。だが、この男の目的が黒岩さんだとしたら───。

「黒岩さん、お客様がいらっしゃっているって久生師範に取り次いで貰えませんか?」

 危機の時こそ馬鹿になれ。職場の壁に掲げられた毛筆書きの社訓を反芻しながら、にこやかな口調、静眞は胸裡に渦巻くものを気取られないように傍らの姉弟子を顧みた。

「……し、静眞……?」

「いいから、早く早く。お客様待たせたら失礼じゃないですかぁ」

 案の定、事解りしていない流香の背を半ば無理矢理、促すようにして押しながら。静眞は自身の長身を利用して頭ふたつぶんほど小さい流香を男から隠すように、じりじりと男を回り込んで横歩きに移動する。男の射るように鋭い視線がそれを追ってくるのに、静眞は「えへっ」と人懐っこく笑って見せた。睥睨する男の黒い瞳は冷たくて深くて、何の感情も窺うことはできない。まるで狩りをする者が獲物を選別しているかのような、それと同じ眼だ。

 ……だったら、今の俺にできることは、黒岩さんを逃がすこと……!

「んじゃあ、黒岩さん、あとよろしく───!!」

 開扉されている山門の向こうに静眞は姉弟子の背を思い切り突き飛ばした。次の瞬間にはスニーカーを履いた足が、じゃりっ、と音をたてて石畳を踏み込み、静眞は構えた手刀で男の心の臓に狙いを定め、飛び込む。

 突き飛ばされて蹌踉けながらも門扉の手前で後背を振り返った流香が見た───無謀過ぎる弟弟子の行動に、怒号にも似た叫びがあたりに木霊した。

「静眞、ダメだっ!」

 その瞬間、ざわりと風が……否、山全体の空気が騒いだ。

 はらりはらりと虚空を舞い落ちていた楓の褐葉が真っ二つに割れる。居合を思わせる、瞬速で抜かれた男の刀剣が、ひゅんっと音をたてて空を裂き、舞い落ちる楓の葉を、そして、その先に在る静眞を斬り付けたのである。

 ……斬ら、れた―――?

 痛みはない、何かが触れた程度にしか静眞は感じなかった。だが、左の腹は肉が裂け、そこから赤い液体が止め処もなく溢れてくるのだ。一刀両断された背負い籠から収穫したばかりの小さなじゃがいも達がコロコロと石畳に転がり落ちる傍らで、静眞はその場に音もなく頽れていく。

 斬撃の余波か、山門の脇に植えられた楓の古木の一枝が切り落とされ、バサバサと葉擦れの音をたてながら崩れて落ちる。だが男は変わらず、闇夜に浮かぶ月魂が下界の事など与り知らぬというように静かに佇むだけで、左腰に佩いた刀剣に手に掛けた形跡すらも見えない。

「しずまぁぁ―――ッ!」

 どくどくと脈打つように流れ落ちる血液が冷たい石畳に溜まりを作っている中に頽れて行きながら静眞は流香の悲鳴を聞いている。いつも勝ち気で、散々からかってくる年下の姉弟子しか知らない静眞が初めて聞く流香の慟哭だった。

 駆け寄った流香が血に塗れた手を掴んで静眞に必死に喚びかける。

「静眞、しっかりしなさい! あたしを見て!! 意識手放しちゃダメ! 静眞っ!」

 『はやくにげろ』と。意識を今生に留めようと身体を揺すり、頬を打ってくる流香に静眞はそう言ったつもりなのに、迫り上がってきた生温かいもののせいで咽せて、声にならない。

「案ずるな、殺してはいない」

 血の泥濘に沈む静眞の傍らに跪く流香の背後から玲瓏たる声が降ってくる。流香はその方を見遣った。初めて聞く、その美貌に違うことのない月夜の冴えた気のように凛と通る声の主の───静眞を…弟弟子を斬った男の、その一言に流香の頭の中でブチリと、感情の箍が弾け飛ぶ音が聞こえた。

「───ふざけるな!」

 怒りが腹の底からの咆吼となって沸き上がる。背負い籠を捨て、先程の斬撃の余波を受けて切り落とされた楓の一枝を素早く拾い上げると、流香は激情のままに男に打ち掛かった。

 ざん! ざん! ざんっ! 前に踏み込み、男を打ち付ける度に楓の褐葉は擦れる音をたてて、枝葉が徐々に削げ落ちていく。初めこそ腕を翳し、打ち付けられてくる枝葉を子供の癇癪を躱すように払っていた男であったが、間合いを取るために一旦退いた流香の目的に聡く気付いて、眼を眇めた。

 ───『刀剣』を作っていたか。

 手鞘で楓の一枝を扱き、残っていた余分な枝葉をすべて削ぎ落とす。自然のものを即席に利用したため歪ではあるが、今や木刀がわりとなった楓の枝を水平に翳すように構え、刃陰から自身を睨み据えてくる少女の、闘気に溢れた琥珀色の双眸に、男は冷たくて深い、水底のような黒水晶の眼差しを初めて感情の小波に揺らめかせた。

 誇り高き御影流の門弟たれ。道場を穢す者を生かして帰すな───! 流香の怒気が周囲の空気を震わせる。

「御影流の道場でこんなことして生きて帰れると思うな!」

 二度ふたたび、踏み込んだ流香の渾身の一閃は撓る動作で抜いた男の刀身が受け止めた。流香の柔らかい楓の木刀を粉砕もせず、刀棟で止められている。それだけで男に加減されているということは一目瞭然だ。

「……ッ!」

 眉間に皺を寄せ、険しい表情で流香は低く呻いた。

 端麗な線を描く頬の、筋肉ひとつ動かすでなく流香の一撃を静かに受け止める、この男───そもそも本気で、あの居合いのような動きで斬り付けられていたら、今頃流香の胴体は真っ二つになっていた。

 あたしの勝てる相手じゃない───。

 戦意を失うことはないながらも、だが目の前に歴然と示される力の差に流香は、悔しさのあまり奥歯をぎりりと噛み締めた。これまで様々な相手と対峙してきた流香であったが、この男は今まで拳を交えてきたどんな人間とも違う。

 そう、この男は、『人間』とは違う……!

「……あんた、何者よ……!?」

 肩で吐くほどの荒い呼吸の下、楓の刀剣を交える手を緩めないまま、流香は琥珀色の眼を険しく細めて誰何した。一呼吸の間を置いて、異国の風体をした男の形の良い薄い唇が答えを紡ぐ。

「私は哉生さいせい。三日月の竜公シン・ドラクルの名を持つ者」

 哉生と名乗った男が斬撃を受け止めていた刀剣を、するりと下ろすと、不意に力の拮抗を失った流香の身体は傾いだ。抜き身の刀剣を手にしたまま哉生は、蹌踉けた流香の華奢な身体に空いた左の腕を絡ませ、捕らえると、ふわりと泳がせるようにして自らの胸裡に引き寄せる。

「リューカ、我が妃よ。お前を迎えに来た」

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