04
纏った白いトーガの裾と、腰まで伸びた美しい亜麻色の髪を強風に煽られながら───対峙する、降柳という名の女騎士は微動だにしない。手刀を右前に構え、隙を窺って円を描くように歩を運ぶ流香を前にしても、構えを取るどころか刀の柄に手も掛けず、この轟々と渦巻く風の中、ただ静かに佇んでいる。
流香の目を一番に惹くのは降柳の顔相、上半分を覆う白金のドミノマスクだ。天空の『貴婦人』の銀光を受けて、無機質のそれは殊更にひやりと冷たい光を照り返し、表情や気色は言うに及ばず、眼球や顔面の筋肉の僅かな動きすらも覆い隠して、次の一手の為の気配を読むことができない。そんな降柳の様に既視感のようなものを覚えるのは、師である久生雨蘭との打ち合った時のことを思い出すからかもしれない。流香の記憶にある限り、稽古の中で久生の表情が揺らいだことも、まともに構えを取って貰ったことも、本当に数えるほどしかなかったからだ。
こんな強そうなオバサンが、動いてくれるわけもないか───!
琥珀の瞳を眇めると、流香は強烈な横蹴りを浴びせかける。牽制も何もあったものではない。動かないならこちらから仕掛けるまでと、ただ、蹴りを躱して退がる降柳を追って流香の気性そのまま、鎌で刈り上げるように、或いは斧を振り落とすように、膝目掛けての鋭い脚払いを立て続けに仕掛けていく。
心絶対に怯えぬこと、相手の拳速を見ぬこと、一瞬でも受けに廻らぬこと───流香が師から教わった戦い方だ。秘門とも言われる御影流を束ねる大師範、久生雨蘭は、この跳ねっ返りで、気短な性質のままに突っ走る弟子の性格を敢えて改めさせず、それを長所とし、攻撃は最大の防御という言葉そのままに流香の武闘のスタイルとした。
もう一方の弟子、牧静眞には、久生はまた違った戦いの方法を与えている。それは久生が弟子それぞれの性格や身体能力に応じた技術を与えるやり方をしているからに他ならないが、二十路この年齢になるまで武藝に触れてもいない初心者の静眞に、五歳の時から御影流の技術と精神論を叩き込まれ、文字通り身体と心に染み付かせている流香と同じ戦い方を与えた所で、到底無理な話である。
脚払いを後退しながら躱していた降柳であったが、執拗に繰り出されるそれを不意に差し込んだ刀の鞘で阻むと、そのまま流香の脛を内から掬い上げる。
だが、脚を払われながら流香は口の端を、にぃと吊り上げた。そっちが動くのを待っていたと───体勢を崩されながらも、一段と低い位置から鞘を捉える。絡み付かせた腕をくねらせながら、さながら刀に巻き付いた二匹の蛇が這い上がるように素早く降柳の裡に入り込むと、右はその手首を捻り、脇から差し入れた左の手刀で頸部を狙う。
「……!」
寸での所で手刀を躱しながら、降柳は手首を拗り上げる流香の手を逆巻きに払った。勢い、流香の腕が捻られ、その躯は宙を舞うが、流れに逆らうことなく自ら地を蹴り、身を躍らせながら、執拗に降柳の刀に十字の掌を絡みつかせる。悪童めいた笑みを閃かせながら未だに刀を捕らえ、僅かな隙間があればどこからでも入り込み、仕掛けてくる流香に、降柳は「結構」と小さく呟いて踏み込んだ。捕らえる刀の鞘先で流香の鳩尾目掛けて突き上げる。
「…っ…!」
間髪、身を退いたものの、それでも躱し切れたわけではない。胃の腑の辺りに鈍い衝撃が走り、じわりとしたものが迫り上がる。
「それが、貴女本来の武具のようですね」
言い様、降柳はすらりと刀を引き抜く。流香の手の中に残ったのは鞘だけ───いや、驚く暇もない。瞬きする間もない。なんという発条の如き体躯か。予備動作も見せずに、仮面の女騎士の叩き込んできた強烈な斬撃が数発、流香の身体を見舞った。
……斬られた……?…いや───!
吹き飛ばされた流香の身体は弧を描いて宙を舞い、やがて強か石畳に叩き付けられる。悲鳴混じりの声が自分の名前を呼ぶのを流香は聴いていた。侍女のアガサのものだ。
「流香様!」
「棟打だ。殺しちゃいねえ」
身を乗り出しかけたアガサを制するように低く呟くと法水は、抜き身の刀を手に佇む降柳と視線を見交わした。不貞不貞しい線を描く眉を片方だけ吊り上げ、下手な口笛とともに「やりやがるなァ」と感嘆の声を漏らす。
「棟打でも、お前に刀を抜かせたんだ、大したタマだぜ」
「……」
降柳は小さく頷いた。常に物事を斜に構え、辛辣な物言いの兄にしては珍しい最大級の讃辞である。流香とともに投げ出された鞘を拾い、自身の刀を収めると青鈍色の石畳に倒れ臥す流香へと歩を向ける。我が妃を止めよ、という哉生の命令を執行するためだ。
彼女は何者なのか。一体、どういった経緯でこのような処にいるものか───つい先刻、そのようなことは自分には関係のないことだと法水に言い放っておきながら、降柳の胸裡には、明らかに甥の妃ではない、このリューカ妃と同じ貌をした少女に対する純粋な興味が湧いてくる。
彼女が武藝の修練を相当に積んできた者であることは隙の無い動きから解る。どこからでも、どんな状況からでも関節を狙って仕掛けてくる体術の技倆もさることながら、驚嘆すべきは大勢の銃騎兵を始め、法水や降柳と対峙しても怯まない、一歩も退かないその精神の強さだ。
彼女の今の技倆では、降柳に遠く及ばないと解っていながら、棟打でも手加減はしなかったのは、彼女の動きを確実に止めること、そして、何よりも拙いながらもひとりの武人である彼女に対する降柳なりの敬意の顕れでもあった。
「……呼吸が、深い」
不意に降柳は足を止めた。微かに伝わってくる呼吸を感じ取ったためだ。距離を保ったまま、石畳に倒れ込む流香に鋭い声を投げ掛けた。
「倒れて休めば体力も回復しましょう。そうやって貴女が私への反撃の機会を窺っているのも承知して───」
降柳が言い終わらぬうち、俄に流香が跳ね起きる。その勢いで踏み込み、放たれた流香の突きが僅かに降柳の鼻先を掠めた。舌打ち混じり、流香は継いで着地した勢いのままに身を捻り、左右の回し蹴りを立て続けに降柳に見舞う。鋭い音をたてて流香の脚は空を斬るが、寸での所を躱しながら降柳は驚嘆する。
私の棟打を受けて、まだこれだけ動けるか───!
「……あんた、哉生の命令であたしを止めに来たって言ってたよね」
だが、着地した途端に流香は顔を顰めた。先程叩き込まれた…流香が判っているだけでも抜き付けで三打、実際はもっと打ち込まれている筈だ。肋骨は取られていないながらも、肝臓にまともに打ち込まれた強烈な棟打の痛みが、じわりと脇腹に浸みる。流香の脳裏に師のいつもの言葉が過ぎった。
(大丈夫だ、流香。その痛みは『夢』だ───)
「バっカじゃないの、あいつ! 勝手な理由でこんな訳分かんない所に連れて来て、あたしじゃない名前を押し付けて、妃になれとか───こんなとこ、一秒だっていたくないに決まってるでしょ! 誰が居たいもんか!!」
「………」
「哉生に伝えとけ! あんたの言うことなんか絶対に聞くもんかってね!」
痛む脇腹を押さえながら、この場にはいない三日月の竜公に対して毒突く流香の、深い呼気と共に吐き出される声音は烈しいものではあったが、疲労と苦痛の色も濃く、ダメージは相当なものであることは誰の目にも明らかであった。それでも降柳は柄に手を掛け、地を蹴る。
もはやリューカを止めよという哉生からの命令など頭にはない。むしろ、この少女の心は誰を以てしても止めることができないということを降柳は悟っていた。痛みにも恐怖にも屈することなく、あの琥珀の瞳は闘志の光がまったく衰えず、どこまでも貪欲に…最期まで相手を倒すことに執着しているからだ。
「よろしい、弟子には貴女のことは諦めろと伝えておきましょう……!」
斬るために抜き打つ、刃の閃き───勝敗は一瞬で決まる。刃が流香の左脇を捉える、感触はあったものの手応えは浅いものであった。訝る降柳の視界から流香の姿が消失する。
「……!?」
降柳の刀の軌道は見切れてはいないながらも勘は当たった。左脇を斬られながらも降柳の背後に回り込む流香。それを察知し、身を翻しかけた降柳の刀を持つその手が、ぱんっ! と、一際高い音をたてて弾かれた。流香の脚が蹴り上げた所為だ。
「上だ、降柳っ!!」
刀を握る手に、弾かれる音に気を取られ過ぎた……!
兄、法水の叱咤が耳に届いた時には頭上にあった流香の踵が、まさに降柳目掛けて振り下ろされようとしていた。狙いは脳天に撲ち落とすことではない、踵を鎖骨に掛けて地べたに引き摺り落とす───瞬時に、その動作を読んだ降柳が僅かに身を反らしたところで、槌のように振り下ろされた流香の蹴打は、ドミノマスクの表面に爪先を僅かに掠めて落ちていく。
……カラ…───ン……!
剥落した白金のドミノマスクが乾いた音を立てて、青鈍色の石畳の上を滑ってゆく。
「……っは……!」
仕留め損なった……! 流香は短く気を吐いた。深傷ではないものの斬られた左脇が脈打ち、そこだけ熱を持ったように痛い。
まだ、やれる。まだ、いける…! この痛みは『夢』だ───!
白いセーラー服の左脇を自身の血で赤く染めながら、それでも流香は動きを止めることなく、すぐに体勢を落とし、低い位置から相手の裡に潜り込んだ。降柳の顎下に掌底を打ち込むためだ。だが、間隙を縫い、蛇の昇るがごとくに這い上がる掌打の動きが仕留める寸前の所で、ぴたりと止まる。仮面の下より顕れた降柳の素顔───天空高くより降り注ぐ『貴婦人』の銀光に晒されたそれを、驚きに瞠られた琥珀の瞳に映して。
「……りゅうこ…ねえさん……?」
流香は息を呑んだ。女性らしく、やや丸味を帯びた面輪の中に絶妙な黄金比で以て配置された目鼻。鋭角を描く柳眉とその下より睥睨する三白眼の印象的な端麗な容貌───剥落した仮面の、その下より顕れた降柳の素顔は流香の姉・柳子そのものあった。
「何故、拳を止められたか」
姉と同じ貌をした異世界の女騎士は、流香の知る姉のように、いささか感情表現の乏しい顔相で、だが決定的に、武藝を嗜んではいない姉のものとは違う、冷ややかな言葉を流香に投げ掛けた。
「戦場で気を抜かれるは命取りとなりましょうぞ」
ううん。違う、これは───。
師と姉の言うことしか聞かないと日頃から公言している流香である。慕っている、歳の離れた姉の唐突な出現に混乱しながらも、流香はすぐに気を取り直した。これは姉の柳子ではない。目前に在る人物は同じ顔貌をしているだけの……別人だ。
流香の姉・小椋柳子は出産を間近に控えた身重だ。そもそも髪の色と目の色が違う。柳子と同じ貌の主の左の眼は血のような柘榴の赤、そして右の目はこれまで彼女の貌を覆い隠していた仮面の如き白銀であったからだ。さながらこの世界を照らす双つの月のように。
───ひょっとして、この人…柳子姉さんの『月』……?
「……雙月眼……!」
驚きのあまりに呆然とする流香とは別に、今ひとり、驚愕の声を上げる者があった。事の成り行きを見守っていた侍女のアガサである。
「雙月眼の者が何故、このようなところに!?」
「ヤベエな」
舌打ち混じり、傍らの三日月竜の軍将が忌々しげに漏らした言葉をアガサは聞き逃さなかった。元は甕星竜の神殿で巫女姫を補佐する任に在った少女は眦を吊り上げて詰問する。
「雙月眼を持つ者は、この雙月境を為す七竜の意思と神力を通わせる巫師、言わば七竜の化身とも言うべき存在───神殿に入るのが古よりのしきたり! それが何故世俗にいるのか! 降柳様の実兄たる貴方は知っていることであろう、三日月竜の軍将……!」
「キーキー甲高い声で小難しいこと言ってんじゃねえ」
法水は胸元から引き抜いた薬莢をマスケット銃に装填する。撃鉄を起こす音も高く、尚も声を上げかけたアガサを遮るかのように。
「神殿の女ってのはどうも鬱陶しくてかなわん。テメエも、それからあの巫女姫もな」
「……な…っ!」
「潮時だ」
仕えていた甕星竜の巫女姫を侮辱されたことへの怒りに頬を紅潮させたアガサであったが、それを無視の態、法水は地を蹴り、疾く駆け出す。向かう先に在るのは───降柳と、対峙する流香だ。
「しまった、流香様───!」
アガサの叫びに我に返った流香であったが、既に遅い。口の端を吊り上げ、悪鬼のごとくニタリと笑みを浮かべる法水が目前まで迫り来たかと思うと、流香の腹部に鈍く、重い痛みが走った。法水のマスケット銃の銃床が強か撲ち込まれる。
「…か…! は…ッ!!」
鳩尾に、もろに喰らった。衝撃で瞳孔が拡張する。流香は奥歯を食い縛り、胃から迫り上がってくる苦酸いものを辛うじて呑み込んだ。
大丈夫だ、流香は自身にそう言い聞かせる。師の久生の突きや蹴りはこんなものではなかった。練習の時に、まともに喰らって、息もできず、食べていたものどころか胃液まで全部吐き戻して、起き上がることもできなかったことだってある。
あれよりは、マシだ。全然、マシだ。この痛みは『夢』だ。
頽れそうになる身を縮めて、流香は横に受身を取る。勢いで立ち上がろうとするが、それを読んだ法水の強烈な蹴りが腹部に入り、追い打ちを掛ける。痛みと疲労に霞みかける意識を流香は自ら叱咤した。
すべて…すべて、『夢』だ───!
「引き裂けッ!」
一時の感情に流されて判断を誤った。アガサは自身の未熟さに臍を噛んだ。倒れ臥す流香に尚も蹴撃を加え、その後頭部に銃口を突き付ける法水に向けて迷うことなく攻撃を仕掛ける法術の詞を織ったアガサであったが───何故か刀印は虚しく空を斬るだけで、風の刃は生み出されない。
「…え…!?」
狼狽するアガサであったが、すぐに気を取り直す。あることに気付いた所為だ。
……風が、止んだ……!?
しかも、あれほどまでに強く吹き付けていた風の力はというと、一処に滞留しているのである。雙月眼を持つ、降柳の元に。
この雙月境を為す神竜の神力が顕現しつつあった。色の異なる眼差しを茫洋と虚空に向ける降柳の、何物をも寄せ付けぬ様は、孤高と高潔の騎士という常からの彼女の有り様も相俟って、まるで巫女だ。法水はそれに気付いているのだろう。流香を足蹴に踏みつけ、マスケット銃の引き金に手を掛けたまま眉を顰めた。舌打ち混じり、「面倒臭え」という形に唇を動かして。
これまでアガサが放っていた法術とは、巫女や巫師のように神力や霊力と呼ばれる類の事象を産み出す能力を備えていない者が、事象の力を借りて、その『力』を詞によって表現した擬物に過ぎない。詞に依って事象に働きかけ、その力を利用してひとつの技を為すのである。それゆえに法術は、元来の力の源である事象が弱まれば、その威力は格段に落ちることとなる。
溜となった風の力は降柳の周囲の気を歪ませるほどに膨れ上がり、ゆらゆらと陽炎のように揺らめいていた。あれが暴発すれば、甚大な被害がでることは明白だ。近場にある流香の身も危うい。
だけど、今の私では法術を頼れない…どうすれば───!
「……詳しくは解りませんが……」
もはや打つ手なしと、歯噛みするアガサの背後で、不意に独白するような声が上がる。
「近衛騎士団長殿の、恐らくは仮面によって制御されていた雙月眼の神力によるものでしょう。このままでは軍将も、あの少女も……それどころかこの城塞一帯が危うい」
意外なことに、それはこれまで静かに控えていた十沙のものであった。その言い様から法術の心得があるのかと驚く反面、身を置いていた甕星竜の神殿を灼いた銃騎兵の一員が言うことなどと、苦々しくアガサは答えた。
「しかし、事象が…風が止んでいます。第一に、あれだけ場が歪むほどの風と大気の力に対して、同じ事象で法術の詞で働きかけるのは危険過ぎます」
「それでは別の事象を作り、応じればいいだけのこと」
「どうやってそのようなことを!」
苛立つアガサを余所に、十沙は片眼鏡の下の表情を変えることなく、腰に下げていたホルスターから徐に銃を引き抜いた。軍将・法水を始めとする銃騎兵達の持つマスケット銃よりも砲身の短いソウンオフ銃である。
「私の銃は人を殺すための道具ではありません。文官上がりの腰抜けと罵られようとも、事象を産み出すためのみに使うのです───まぁ、神力に対して、私の法術がどこまで通用するかは解りませんがね」
銃騎兵の黒い軍服の胸元に仕込んでいた薬莢を引き抜き、ガシャリ! と音を立てて装填すると、十沙は左の手で刀印を切りながら、短いが力強い法術の詞と共に右の手で引き金を引く。
「禦!」
銃の火薬に依って生み出された火の事象、放たれたそれは法術の詞によって意志を与えられ、蟒蛇を象った炎は大口を開け、降柳の周辺で溜となって歪む風の力を一息に呑み込んだ。その身に余る力を消化しようと、一層身を燃え上がらせる。
十沙の刀印を切った左手は継いで腰に下がったホルスターから銃を引き抜いた。素早く薬莢を装填し、二丁の銃で十字に印を斬る。立て続けに法術の詞を放ちながら両の手は引き金を引いた。
「斂!」
僅かではあるが更に生み出された火の事象に増幅されて、炎の蟒蛇がもう一匹、先に出た蟒蛇の中から産み出でる。螺旋を描いてうねりながら、それは大口を開けて先の蟒蛇に絡みつく。降柳の風の力に膨れ、燃え上がる一匹目の身体を二匹目が尾から呑んで行き、更に一匹目は燃え盛る身体を捩らせながら、二匹目の尾を捕らえ、互いを相食みながら更に力を抑え込もうとしていた。
火の法術が放つ肌の灼けるような熱さ、そして鋭い光に目が眩む。思わず手を翳しながらアガサは、ウロボロスの生み出す熱と光の只中、二丁のソウンオフ銃を手に佇む銃騎兵の男の影を見遣った。ここまで立て続けに強力な法術を放つには、かなりの精神力と技倆を要する。だが、この十沙は顔色ひとつ変えず、僅かな火薬に依って産みだした不安定な火の事象を法術でここまで拡大させているのである。アガサには出来ない芸当であった。しかも効果は確実なもので───流れる空気が、ふわりと頬を撫で、アガサは思わず空を仰いだ。
風が、戻ってきた……!
「障壁を張れますか」
「………」
空になった薬莢を落としながら静かに呼び掛けてくる十沙に対して、アガサはすぐには返事をしなかった。
「私は今から弱まった神力を封じます。できますなら風の事象を使って周辺に被害が及ばないように、近場に居る方達も護ってはいただけませんか」
「………」
「あのリューカ妃に似た少女を護るついで、障壁の範囲をほんの少し上に向かって広げて頂けるだけで結構です。さすがに私もそこまで手が回りませんので」
暈かした言い方ではあったが、それは彼の上官のことを指していた。銃騎兵司令官の副官である男のことなど俄には信用できないものではあったし、流香はともかく、あの法水を───甕星竜の神殿を焼き払い、巫女姫を掠奪し、侮辱するあの魔王のような男を自身の法術で守ることには抵抗があった。複雑な想いが胸裡を駆け巡るが、十沙の法術で少し弱められたとは言え、降柳の雙月眼の神力が暴発する瀬戸際である現状と、その近くで法水に足蹴にされる流香の身を考えると躊躇している暇もない。
アガサは唇を引き結んだまま「やります」とだけ応える。止まっていた風と大気の事象は戻ってはきたものの、状態は不安定で、実の所、完璧に法術を為せる自信はなかったのだが、それでも法術家としての意地がアガサにそう答えさせたのである。
「でも、お忘れにならないで。私が完全な障壁を張って護るのは流香様だけです」
「御随意に」
片眼鏡の下、苦笑とともに得心したように頷き、新たな薬莢を二丁のソウンオフ銃に装填する十沙。その傍らでアガサは気を漲らせ、鋭く刀印を斬る。流香をすべてのものから護るための法術の詞を乗せて。
「弾けェッ!」
「封!」
異なる声、異なる質の、ふたつの法術の詞が同時に発せられる。
共喰いながら、既に風の力を呑んで膨張していた二匹の蟒蛇の周りを、十沙によって新たに生み出された炎の大蛇が高速で回り、やがては蜷局を巻き始める。降柳の神力に依って溜められた風の力は火の大蛇に押し潰され、鎮められつつあった。更にアガサの作り出した風の壁が僅かに戻ってきた風の事象と降柳の力を吸収しながら、十沙の放った火の法術の影響が及ばないように流香と、そして法水を護衛していた。
「余計なことしやがって」
その様に三日月竜の軍将は唾吐いた。神殿を忌み嫌い、常から法術を胡散臭いものと、端から信用していない男である。銃騎兵の一員でありながら銃を戦闘で使わず、常識を唱えるばかりの陰気な副官と、そして敵対する甕星竜の神殿補佐官の小娘の差し出た行為に対して、くだらんと言いたげに、ふんと鼻を鳴らす。
だが、降柳を中心として歪んでいた力が収縮し、不安定ながらも、止まっていた風が動きつつあるのを法水は肌で感じ取っていた。頃合いと見て取った法水は片手でマスケット銃を構え直し、銃口を降柳に向けると、数回引金を引く。銃弾は当たるか当たらないかのギリギリの処───風に靡く降柳の亜麻色の髪を掠め、足下の石畳を弾いた。
「久々に娑婆の空気にツラぁ晒して呆けたか、降柳! 哉生の所にこのお嬢ちゃんを連れて行くんだろうがよ!」
兄の放った銃弾と、轟々とした叱咤によって降柳は漸く我に返った。
流香の蹴りによって仮面を剥落されてから後の降柳の意識は、半ば自身のものではなく───この世界を支配する双つの月と同じ光彩をした自身の眼を通して『何か』が溢れ出、降柳の見るものすべてに……否、世界のすべてに干渉しようとしていた。
(お前は自由で在れ。その瞳の宿命からも、三日月の神竜からも……そして、私からも)
その言葉は雷鳴にも似た響きを以て降柳の脳裏に甦る。かつて降柳に白金のドミノマスクを与えた男、それは法水と降柳の異母兄弟にして、哉生の父たる男───先代の三日月の竜公のものであった。
降柳は掌を額にきつく押し当て、深く息を吐いた。その双眸を静かに封ざし、掌で瞼を覆い隠すことで、眼窩に宿る『貴婦人』と『死神』が鳴りを潜める。降柳の介しての神竜の力の放出を抑え、やがて事象は在るべき流れの元に静かに戻ってゆく。
閉ざした眼が熱いのは、果たして雙月眼の神力の所為だけであろうか。密めく降柳の声音は漣のように揺らめく。
「……胡藤の…兄上……!」
法術で生み出された炎のウロボロスも、風の障壁も、すべてが消失する。訪れるものは一瞬の静寂───そして、雙月眼の神力が留めていた風の溜が堰を切るようにして一時に流れ始める。
ごぉっ! 烈しい音をたてて、一陣の風が吹き抜けて行く。『風の平原』という名前の示す通りの風が、この地に再び戻ってきたのだ。
やれやれと言うように解れた髪を掻き上げる法水、だが、不意にその足許を引っ張られる小さな力に気付いて視線を落とした。
「おいおい、このお嬢ちゃん、まだ殺るつもりかよ」
三日月竜の軍将は呆れたように片眉を吊り上げた。流香の手が法水の軍服の裾を掴んでいたのである。
これが敵兵でもあれば、その武勇を賞賛することもなく、手ごと斬り落とすくらいのことは平然とやってのけるような男である。だが、この時ばかりは法水も膝を屈め、流香の手を取った。
所々、指節にテーピングを巻いた、妙齢の少女にしては随分と色気のない武骨な手である。だがこの拳こそがリューカ妃の『影』たる少女の……否、黒岩流香の武器なのだ。
「……このお嬢ちゃん見てると、ガキの頃を思い出す」
銃騎兵の黒い軍服をきつく握り締める流香の指を一本、また一本と外していく中で、誰に聞かせるともなく法水が呟いたのは自身のことではない。甥の哉生のことだ。三日月の竜公の地位をまだ継ぐ前、子供であった彼は刀術の師である降柳や、銃術や戦術を叩き込んでくる法水に何としてでも勝とうと立ち向かってきた。何度倒されても立ち上がり、地べたを這いずり、刃向かってくる───ちょうど今、法水の足許を掴む少女のように。
裾に絡まる流香の指を全て外し終えると、法水は徐にその腕を引いた。立ち上がり様、荷物のように流香の身体を肩に担いだところで背後から声が掛かる。
「法水の兄上、少しお待ちを───」
言いながら、近付いてきた降柳は三日月竜の軍将の肩に担ぎ上げられた流香の脇腹に手を添えた。先程対峙した時に斬った左脇は深傷ではないものの、セーラー服の白い生地は自身の流した血で赤く染まっている。降柳がそれを一撫ですると血は止まり、真新しい瘡蓋を作った。雙月眼の神力であった。
降柳の取った行動に法水は驚いたように紫闇の瞳を瞠る。生まれながらのものではない、まるで三日月の神竜の悪戯か気まぐれのように、後天的に備わった神力に苦悩する妹の姿しか知らない兄にとって、その忌々しい力を自ら他人のために使うところなど初めて見たからだ。
「この少女の戦いぶりは見事でした」
何か言いたげな法水に短く応えながら、降柳は拾い上げた白金のドミノマスクを被った。無機質の仮面は再びその美貌を覆い隠し、この世界を照らす双つの月にも准える色の異なる瞳を翳りの下に潜めさせた。
「哉生に…我が主に報告に参ります」
白いトーガの裾を翻し、靴音も高くその場を立ち去る降柳。その背を見送りながら法水は肩を竦め、独りごちた。
「……『あいつ』以外には、その力を使わないとか言ってなかったかねェ」
それに続いて降柳とは別の方向に踵を返した法水であったが、その先に待ち構えていたのは、射殺さんばかりの視線を向けてくるアガサであった。一体流香をどうするつもりか、と。女主人の錫杖を両手にしっかりと握り締めて睨め付けてくる忠実な侍女の、声なき言葉を読み取って法水は苦笑混じりに応じた。
「心配すんな、こいつの亭主ンとこに連れてくだけだ」
「信用なりません」
軽く顎を反らし、アクアマリンの瞳を眇め、露骨に蔑んだような態度を取る甕星竜の神殿補佐官であった小娘に、ふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らして法水は歩を踏み出した。
「礼は言わん。だが、借りたモンはそのうち返す」
アガサと十沙、ふたりの脇を通り抜ける際にも一顧だにしない。妹である降柳の神力を止め、そして彼自身を護ったふたりに対して、『貴婦人』の銀光の下、不貞不貞しく言い放つ男の背にアガサは険しい眼差しを向け───そして、今一人の十沙は陰気と評される貌の筋肉ひとつ動かすでなく、鄭重に頭を下げる。
「兵を下がらせます」
副官の言に対して、任せたという意味合い、法水は軽く挙げた手を、ひらひらと振って応える。流香を運ぶ法水に続いたアガサであったが、ふと、その歩調を鈍らせる。十沙の言葉が流れてきたためだ。
「……我々は監視されていたようです」
驚いたように振り返ったアガサに十沙は表情を変えることなく、静かに続けた。
「先程、近衛騎士団長殿の神力を抑えられたのは私どもの法術だけではありません。別の力の介在がありました」
「一体誰が、そのような───」
そう言いかけたアガサであったが、ある人物の存在に思い至り、はっと口を噤む。その肩越し、遙か遠く望む城壁の上には佇む女の影が在った。
「生まれながらに巫師としての力を持っていたと言われている彼女からしてみれば、私や貴女の法術など児戯に過ぎないのでしょうな」
法術家のふたりの遣り取りを背後に聞きながら、法水は空いた掌の上、弄ぶようにくるりと翻したマスケット銃の砲身で流香を担いでいない左肩をわざとらしく叩いている。いつ頃からか、女の影が城壁からこちらを伺っていたことは彼も認めていたことだ。
哉生の命令であるのか、それとも別の目的があるのか───全身に豪奢な毛皮を纏うかのような長い黒髪を強く吹き付ける風の下に晒しながら下界を眺める、シャムロックという名の妖艶な法術師は小さく独白する。
「少しおやすみ、僕の流香。月が影に、影が月になるために」
血を啜ったかのように赤い、その唇から零れる言葉は彼女のものでありながら、もはや彼女のものではない───男の声であった。
それは流香には届くべくもない。法水の肩に荷物のように担がれて行きながら流香は、夢という水底と現という水面を繋ぐ狭間にて、ゆらりゆらりと波間を漂うかのような感覚に、その意識を委ねている。
(流香、その痛みは『夢』だ───)
裡に甦る、師である久生雨蘭のいつもの教え。だが、此の度ばかりは流香も久生に何故を問いたかった。答えのでない『何故』を。
あたしたちが五感で感じている世界は、『夢』。あたしの感じているこの痛みは『夢の痛み』。でも、久生師範。この痛みが夢だと言うなら……あたしがここにいるのも夢じゃないの。なのにどうして。どうして、この夢は醒めてくれないんだろう───。
**********
「開門!」
その頃、城塞の門扉の前で声を張り上げるひとりの男の姿が在った。
昼夜を通しての行程に荒ぶり、嘶く栗毛の馬から降り立った男は、反応の鈍い門兵に向けて、今一度声を上げる。
「開門せよ!!」
この城塞都市を取り囲む、礫砂地帯を通るためには必要な装備である砂避けフードの付いた分厚いマントが一迅の風に煽られて翻る。バサバサと音をたてて、はためくマントの下、男の背腰にサルタイア型に装着された二刀一対の『胡蝶』と呼ばれる刀が砂塵混じりの烈しい風に晒された。
風が、また動き始めた───目深に被ったフードの下で男は頸を巡らせ、眼前に高く聳える城壁を凝視しながら独白した。今日は何やらおかしい。『風の平原』の名の通りに年中止むことなく吹き荒れるこの地の風が、この城塞に来るまでの途次、如何様な理由からか、ほんの束の間止んだのである。それは有り得べかざること、或いは波乱……彼がここを訪れた目的、そして未来を暗示しているかのようであった。
「誰か!」
ようやく城壁の上からかけられる門兵の誰何に男は朗と応えた。吹き付ける風の手がばさりと音たてて、砂避けフードを外す。
「私は甕星の竜公ウラヌスが家臣、シグマ! 我が主の名代にて参上した。三日月の竜公、哉生殿にお目通りを願いたい!!」
流香がこの場にいれば驚いたことであろう。厚手のフードの下から顕れたその貌───シグマと名乗った、その男は流香の弟弟子である牧静眞と同じ顔貌をした……否、その牧静眞の『月』である男であったからだ。
その報は速やかに執務室に在る城塞の主人の元に届けられた。城塞の庭のひとつ、『豊饒の海』にて繰り広げられる彼の『妃』の騒乱に思いを馳せていたものか、その胸裡は窺い知れない。だが窓際に立ち、強風の吹き荒れる外を眺めたまま、哉生は端麗な顔貌を僅かたりとも揺るがせることなく、伝令の者には厄介な客人を謁見の広間に通すように伝えた上で、こう付け加えた。
「我が妃、リューカとともに謁見をする」