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月の柩  作者: 桧崎マオ
第3章 月世界の白昼夢
10/11

03

 吹き飛ばされた銃騎兵の身体が軽々と宙を舞い、そのまま石畳に肉の叩き付けられる鈍い音が辺りに響く。驚嘆とも怒りともつかない低い呻きが包囲する兵達の間で上がる中で、石畳に叩き付けられた杖先。しゃらん! 衝撃で揺れた遊環は剣呑だが、清らかな飛沫のように、どこまでも澄んだ音を辺りに振り撒く。

「次ッ!」

 『貴婦人』の、その雙月境を遍く照らす白銀の光すらも圧するように、石畳の広場に流香の朗とした声が響き渡る。背中合わせに立つアガサは静かに気を漲らせ、いつでも法術を発動させられるように刀印を構えている。ふたりの少女の足許には累累と横たわる黒衣の兵士達、その最中にて立つ流香は挑発的に声を張り上げた。

「どうした、もう終わりか! だったら、さっさと門を開けろ!」

 武の技の手練れと法術の使い手、この畏るべき小娘たちを包囲はしたものの攻め倦ね、歯噛みし、まんじりとしている銃騎兵に対してではない。流香はきっと顔を上げた。対峙する黒衣の兵士達の大将格───マスケット銃を肩に担ぎ、城壁の突端に片足を掛け、この広場の有り様を泰然と眺めている男を睨み上げる。眼下からの烈しい琥珀の眼差しを受けて、三日月の軍将・法水は無精髭に覆われた口許を愉快そうに歪めた。

「うちの兵どもはだらしがねえなァ」

「……面目次第もございません」

 ふぅっと大仰な溜息とともに吐き出された、誰に聞かせるともない法水の独白に、背後に控える副官の十沙は恐縮しきりに片眼鏡の下で瞼を淡く伏せる。

「小娘ごときに、この俺様の手間ァ取らせやがって。こりゃ再教育モンだわ」

 よっ、と小さな掛け声とともに鋸型狭間ツィンネの突端を蹴って跳躍する。人目を惹くほどに大柄で、逞しい体躯の割には身のこなしも軽やかに『豊饒の海』に着地すると法水は、凝ってもいない肩を銃身でとんとんと叩きながら大仰に頸を傾け、犬歯を剥き出しに口の端を吊り上げると、悪鬼さながらの笑みをふたりの小娘に向けた。

 挑発的な法水の態度に、静かに漲るアガサの気が、その心裡の顕れのように大きく揺らめいた。逸る心のままに一歩を踏み出しかけたアガサの前、無言のうちに遮ってきた流香の錫杖が、その行動を制する。

「止めないで下さいませ。私、この男には訊きたいことが山ほどあります」

「あのオッサン、目茶苦茶強いよ。ひとりじゃ無理だ」

「承知の上です……!」

 流香の制止を振り切り、アガサの刀印が空を斬った。短い事象への命令は法術の力となって織り成され、アガサの凛と張った声音に乗って鋭く解き放たれる。

「捕!」

 アガサの詞に応じて、法水の足下、広場を構築する石畳が俄に盛り上がり、高い音をたてて砕ける。

「…縛!」

 立て続けに放たれる法術の詞。細かい石片は瞬時に法水の周囲で渦を巻いて凝結し、その脚を捕らえた。地に固く縛り付けられ、重く動かなくなっている足許の様を片眉を吊り上げ、一瞥するに留めた法水であったが、三度、敵を伐つ短い法術の詞とともに、ブリオーの裾を翻しながら踏み込んで来たアガサの姿を認めると、億劫そうに息を吐いた。

「俺は聞き分けの悪ィ女は嫌いでな」

 弾込めていたマスケットの銃口を徐に下に向けると、法水は自身の足許に向けて立て続けに引き金を引く。数発の銃声が轟き、アガサが法術で織り成した、法水の脚を捕縛する石片は瞬時に粉砕された。

 しまった、と。アクアマリンの瞳を瞠いた時には遅い。アガサの躯を横凪ぎの衝撃と、気が遠退くほどの痛みが襲う。強か、法水の蹴りを見舞われたアガサは悲鳴を上げる暇も無く石畳に叩き付けられていた。息つく間もなく、襲ってくる二度目の痛み。硬い軍靴の先が倒れ臥すアガサを蹴り上げて仰向かせたかと思うと、銃口が膻中を抉るように押し付けられた。

「この俺に二度も言わせんじゃねえぞ、小娘が。テメーにゃ用がねえ」

「………!」

 生命を奪うことに何の躊躇もない、冷徹な光を帯びた三日月竜の軍将の紫闇の瞳に見下ろされて、アガサは、もはやこれまでと奥歯を噛み締める。刹那、金属質の鈍い音をたてて銃口が跳ね上げられ、咄嗟に法水は背後に飛び退さった。間髪で滑り込んできた錫杖が銃身を弾いたためだ。鈍く痛む胸を抑えて咳き込み、苦悶の表情を浮かべながら、アガサはその主の名を呼んだ。

「…流香、様…!」

「この子には、指一本だって触れさせない!」

 続け様に踏み込んできた流香の杖の鋒が黒衣の軍服の襟元を、ちりりと掠める。身を反らしながら退がる法水に体勢を立て直す暇を与えず、立て続けに襲い来る杖頭。その翳りより、奇妙なドレスに身を包んだ影の世界の少女が烈しい眼差しを向けてくる。リューカ妃と同じ色彩の…だが、全く真逆の性質を湛えた琥珀の瞳を。

「いーい気迫だぜ。ガキの頃を思い出すなァ」

 他人事のような言い種は、一体誰のガキの時分を指しているのか。ガチィン! 高く、鋭い金属質の音が昂揚する法水の独白を掻き消した。鋭い弧を描いて振り下ろされた錫杖の一閃を軽口とともに、法水の翳したマスケット銃の銃身が受け止める。

「黒岩流香とか言ってたな、お嬢ちゃんよ。お前さんがリューカ妃じゃねえなら俺と手を組まないか?」

「……言ってる意味が分かんないんだけど」

「俺と手を組んで、哉生をブッ殺さねえかってことさ。『リューカ妃の影』」

 ニタリと厭な笑みを浮かべながら、魔王のような男が持ち掛けてきた思いもよらない提案に流香は呆気に取られる。このオッサン、さっき哉生の伯父で後見人とか言ってなかったっけ?───だが、それも眦を吊り上げてすぐに一蹴する。錫杖を握る力は緩めないままに。

「哉生をブッ殺すってのは同意だけど、あんたと手を組むのは面倒そうだからヤダ」

「違いねェな!」

 力任せに法水の銃が押し返すと、一五〇センチ弱の流香は軽々と弾き飛ばされる。だが、空にある間も、その小柄な体躯を翻し、着地した時には猫のように身軽に体勢を立て直して、すぐに立ち向かう。素早く法水の向けたマスケット銃の狙点が真っ直ぐに心の臓に定められても、畏れも怯みもない。一瞬の逡巡すらも見えない。ただ、身体中の気を漲らせ、爆発させるかのように、直向きに敵を斃すためだけに突っ込んでくる、影の世界の少女に法水は紫闇の瞳を愉しげに細めた。

 まったく、可愛げのねえ小娘だぜ。哉生くらい可愛くねェな───!

「破ァァァァッ!」

 発勁する、流香の躯の底から湧き上がるかのような雄叫び。引き金を引く、法水の銃が火を吹き、その轟音と入り混じる。

 法水の放った銃弾が流香の心臓を貫いたか、それとも流香の渾身の一撃が法水の脳天を砕いたか───否、そのいずれでもなく。不意に跳躍してきた影が、ふたつの力のぶつかり合う寸前に滑り込み、この戦場の動きを瞬時にして止めてしまったのである。

 その、影に、法水は無精髭に覆われた唇を歪め、呼び掛ける。

「遅ェじゃねえか、降柳。もうちょっとで哉生の寵妃を殺しちまう所だったぜ」

 マスケットの銃身と交差する小太刀。その切っ先を向けてくる法水の同母妹の騎士は表情の覗えない、貌の上半分を覆い隠す白金のドミノマスクの下から兄の揶揄めいた言葉に応えた。流香の錫杖の一閃を止めた刀を持つ手を緩めないままに。

「貴方を止めに来たのではない」

「あ?」

 怪訝に眉を顰めた法水。その一方で先程の銃弾が掠めた痕も生々しく、耳朶からぽたぽたと緋い雫を滴らせながら、それでも流香は未だ闘志を喪ってはいない。振り下ろした錫杖を刀に留められたまま、この力の衝突を一瞬で止めてしまった不意の闖入者の刀捌きに覚えのあるものを感じていた。

 ……こいつ、哉生と同じ剣技だ……!

 左の手はマスケット銃、右の手は錫杖を振り払うように、それぞれを留める小太刀と刀を降柳が跳ね上げれば、それが暗黙の合図のように法水も流香も後退する。

 強い風が、一迅。獣のような咆吼をあげて『豊饒の海』を吹き抜けたかと思うと、ばさばさと激しい音をたてて白いトーガの裾が翻る。その最中で小太刀と刀を腰元の鞘に収めながら、三日月の竜公・哉生の叔母であり、近衛騎士団長たる仮面の女騎士は初めて流香と対峙した。

「ご無沙汰しております、リューカ妃。我が主の命により、貴女を止めに参りました」

「……って、何だよ。俺じゃねえのかよ」

「貴方の軽挙が今回の事の発端である。控えられよ、軍将いくさのきみ

 生真面目な妹に対し、兄は片眉だけを不貞不貞しく吊り上げてみせた。「哉生の命令、ねェ」と意味深に応え、手の内で翻したマスケット銃を肩に担ぎながら。

「家臣とは言え、自分の叔母でもある剣術の師すら試すかねェ。お綺麗な顔のくせに、ひん曲がった性根は相変わらずだなァ、あいつは」

「兄上!」

「ま、さっきの打ち合いを見てたんだったら、お前も薄々気付いてはいるんだろうけどよ」

 法水と降柳、三日月の竜公の重臣の二対の眼差しが一斉に向けられた先には耳朶から滴る血を無造作に手の甲で拭う、リューカと同じ顔貌をした少女の姿がある。

「……お前が、その哉生の命令で止めに来た『リューカ妃』が一体何者かっていうのはな」

「私には関係のないことです」

 降柳が言い終えぬうちに───風が、動く。

「リューカ妃を止めよという、主の命に私は従うまで」

 僅かな空気の流れを察知した流香が、ほんの僅か、半歩分ほど身を躱したところで、降柳が踏み込んでくる。つい先程まで流香の在った位置に、である。

 舌打ちをひとつ。すぐに身を翻して間合いを取り、錫杖を構え直そうとした流香であったが、それよりも先に鞘に収めた刀が杖の鋒を弾いて、それを阻む。勢い、体勢を崩した流香の左に、息つく間もなく回り込んできた降柳の刀の柄が、ぴたりと頸部を捉えた。

「……!」

 すべてを読んでいるかのように、降柳の動きは流香を先んじていた。だが、鯉口を切ってはいない。明らかに流香を試すための挙動であった。

「御身の丈に合わぬ武器は感心できませぬな」

 表情の読めない、白金のドミノマスクの陰から覗く硬質の唇は密めいてそう囁きかける。

「その杖は今の貴女には過ぎたるもの、貴女本来のものではないように私には思われますが……如何か?」

 さすが、一瞬で先程の打ち合いを止めただけのことはある。はっと小さな息をひとつ吐いて、流香は思わず苦笑する。気短は流香自身が自覚する所で、いつもなら激昂して更に撃ち掛かる所だが、何故か不思議に、この文字通り降って湧いたように顕れた仮面の女の言うことは心静かに受け容れることができた。挑発的で人を喰ったような法水とは違い、女の指摘が冷静で、低く紡がれる声音に嘲弄の色が感じられないせいだろうか───否、それだけでもないように流香は感じている。

 ……誰かに、似てるんだよね。このオバサン。

「アガサ!」

 事の成り行きを見守っていた侍女の名を張り上げると、俄に流香は手にしていた錫杖を「預かってて」と其方に向けて投げ渡す。慌ててそれを受け止めはしたものの、不意のことに蹌踉けるアガサを視界の端に捉えながら、身軽になった流香は改めて降柳と間合いを取った。

 元来、この錫杖は師の久生雨蘭の武具である。重さも長さも大柄な彼の体躯に合わせたものであったし、ましてや実戦で使うのは初めてで流香の手には余った。結局、この錫杖に現在の自身の技倆が及ばなかったこと、法水との打ち合いで体力が限界に近付いてきていること、そして、新たに現れたこの哉生と同じ刀捌きの女の目を誤魔化しようもないことも、流香は自覚していた。師の武器は大切なものではあるが、今はそれに執着をしてはダメだと───静かに気を吐き、手刀を右前に構える。

 剣よりも杖よりも槍よりも。あたしには生まれた時から一番使い慣れた『武器』がある───!

「いけません、流香様……!」

 それまで影の世界の少女が軽々と扱っていた錫杖の思わぬ重さに戸惑いながらも、アガサも急いて刀印を斬ろうと身構える。流香を援護するためだ。彼女の対峙する仮面の女騎士・降柳はこの雙月境でも剣聖と誉高い高潔の騎士であり、女性でありながら三日月の竜公の近衛騎士団長を務めるほどの傑物なのである。その者を向こうに回して、ましてや素手で相対するなどと、あまりに無謀が過ぎる───!

「へーェ、武器はテメエの拳ってわけか」

 だが、アガサの肩を掴んでくる者があった。笑いの成分を多分に含んだ、愉快そうな声が直ぐ背後で上がったかと思うと、振り返る間もなく、ぐいと武骨な手に荒々しく引き下げられる。蹈鞴を踏んだアガサは、眼前に巨巌のごとく立ちはだかった男の逞しい背に憤然と抗議の声を上げた。

「何をするのですか!」

「面白い見世物に水差してんじゃねえよ、神殿補佐官」

「……な…ッ……!」

 背後で目を三角にしている小娘など眼中にもないというように、法水は人を喰った態度で首を傾げ、小指で耳中を掻き始める。

「あのお嬢ちゃん、女だてらにドツキ合いするのに随分と慣れてやがる。結構な修羅場をくぐってきてはいるようだが……ま、生命の遣り取りまではやったことがなさそうだな」

「………」

 小指に張り付いた微量の耳垢を法水は、ふっ! と一息に吹き飛ばす。彼と、その不潔で、品性の欠片もない振る舞いに対しての生理的な嫌悪感から、年相応の娘らしく厭そうにアガサは眉間の皺を深く刻む。

「……あれは…真に我らが主君、哉生公の妃ですか……?」

 不意の、誰に聞かせるともない独白は、三日月竜の軍将の副官、十沙のものであった。上官である法水を追って城壁から降りてきた男は片眼鏡の下で細めた青玉の眼差しを、まっすぐに奇妙なドレスに身を包んだリューカ妃に向けている。さながら真実を探り当てようとするかのように。

「騎士団長殿と相対しているあの少女、不肖の私の目から見ましても、とてもリューカ妃には───」

「リューカ妃だ」

 にぃ、と法水は口の端を吊り上げた。マスケット銃を肩に担いでの傲然とした佇まいで、自身の職務に忠実な副官の言を遮る。

「哉生がそう言った。あれはリューカ妃だと」

「しかし…!」

「誰が意見しても良いと言った、十沙」

 十沙の反駁は思わぬ形で遮られた。矢庭に伸びてきた手が胸座を掴み、軍服の襟元を捻るように絞め上げたかと思うと、そのまま手繰り寄せられ、無精髭に覆われた悪鬼じみた軍将の貌が十沙の視界いっぱいに迫ってきたのである。

「あの小娘ニセモノがリューカ妃として居座ってくれてた方が色々やり易くなるだろうが。あぁ?」

 銀色の『貴婦人』の月光を斜に浴びながら、その一際濃い翳りの下より睥睨してくる法水の、炯々とした紫闇の瞳に射竦められて、この文官上がりの銃騎兵の士官は身体中の毛穴という毛穴から嫌な汗を吹き出すのを感じていた。思わず、ごくりと唾を飲み込み、間抜けたことを訊き返す。

「……い…『いろいろ』、と仰いますと……?」

「兵たる男を殺す。未来であるガキはもっと殺す。敵の血を絶やすために女を犯す。奴らの精神文明の痕跡である街を灼く───他に何がある、敵を根こそぎ滅ぼすために決まってるだろうがよ。十沙、貴様、何年この狂公ザナシュの副官をやってやがる」

 言い様、不意に掴んでいた胸座を解かれ、突き放された十沙は足許を蹌踉けさせると、蒼鈍色の石畳の上に頽れた。それに倣って、アガサはブリオーの裾を摘み、翻す。まるで忌むべき存在であるかのように、僅かでも『それ』が自身に接触することを避ける。銃騎兵の良識、または知性とも言われる穏健で繊細な性質の副官であるが、所詮は彼も『黒い悪魔』の───甕星竜の神殿を灼いた者たちの一員に過ぎない。

「それにな、あのお嬢ちゃんはリューカ妃ではなくとも、リューカ妃たり得る存在だ」

 違うか? と。解れて頬にかかる硬質の髪を掻き上げながら、不意に目配せしてきた仇敵の男に応じる代わり、アガサは、きっと睨み返した。彼が焼き討ち、巫女姫を掠奪した甕星竜の神殿で、かつて補佐官を務めていた小娘の敵意剥き出しの態度も意に介した風もなく───一体何が可笑しいというのか、法水は吹き荒れる風を圧し、この『豊饒の海』の空間を揺るがすほどの勢い、豪放な声をたてて哄笑する。

 この男は、流香を利用しようとしているのだ。今ここに在るのはリューカ妃ではなく、その『影』であることを知っていながら、ただ、戦のために…否、己の欲するがままに破壊し、屍山血河を築くために、流香を利用するつもりなのだ。黒衣に包まれた法水の背を見据えたまま、流香から預かった錫杖を握るアガサの手に思わず力が隠った。

 ……流香様をこの者の好きになど、させるものか……!

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