表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月の柩  作者: 桧崎マオ
第1章 月の惛い部分
1/11

01

 八芒星の模様が織り成すシルク生地の壁面に填め込まれた木製の出窓より、煌々と射し込む白銀の月の光は辺りを柔らかく包み、室内の風景を浮かび上がらせていく。

 天蓋付きベッドにドレッサー、ライティングデスクといった乳白色を基調にしたロココ様式の調度品にはすべて黄金の三日月型を象る竜の紋章があしらわれており、趣向良く部屋に配置されたそれらは、天井から垂れる帳に合わせて、青鈍色に統一された絨毯やクッションたちと調和して優雅な雰囲気を漂わせていた。

 部屋のほぼ中央には、他の調度品達と同様に背凭れの上部に三日月竜の紋章が彫刻されたアームソファが置かれている。ゆるゆると窓の外から伸びてくる眩い月光の洪水は、やがてはそれを呑み込み、ソファに腰を下ろす者の姿を浮かび上がらせていく。

 セーラー服姿の少女がひとり―――貴婦人のプライベートルームと言った風情の漂う、高雅で優美なこの部屋の主人と言うには不釣り合いな感のある存在が、そこには座していた。

 医学に精通している者が見ればその骨格から少女と判別することは容易であるが、そうでない者にとっては着ている服がなければ、肉付きの薄い華奢な体型とベリーショートに切り込んだ栗色の髪も相俟って、どう見ても快活な少年と言った風貌の主だ。

 柔らかに自身を包む白銀の光の下で、彼女、黒岩流香くろいわ るかは形の良い唇を一文字に引き結び、狼を思わせるような強い光彩を孕んだ琥珀の眼差しは、ただ一点を見据えて沈思していた。日頃の鍛錬の賜物で年頃の娘らしからぬほどに節くれだち、テーピングを巻いた指は、ゆっくりと、だが一定のリズムを以て肘掛けの表面を苛々と弾き続けている。まるで流香の心の裡を代弁しているかのように。

「気に入らないか?」

 薄く開け放した出窓から流れ込む微風が流香の血色の良い頬を一撫でする。まるで冴え冴えとした月夜の気のように澄んだ、よく通る男の声は、風に煽られて、ふわりと舞い上がったレースのカーテンの向こう側に佇む人影の発したものだ。

「好物のチョコレートは最高のものを用意させたつもりだが」

 流香の傍らのティーテーブルの上では紅茶の注がれた白磁のティーカップとポットが湯気を立ち上らせ、繊細な花模様が絵付けされた白磁のプレートには、明らかに流香が学校帰りのコンビニでいつも買い食いしているものとは較べものにならないくらいに上質のチョコレートが嫌味なほど品良く並べられている。

 好物の話など、一言もした覚えはないのに―――レースのカーテンの向こうを透かして見据えるように、流香は琥珀の瞳を細めた。

「気に入らないのであれば、別のものを用意させよう」

「いらない」

 ピントのずれた遣り取りに苛つきながら、流香は半ば吐き捨てるように即答する。大体、何で自分はこんな誘拐犯と優雅にお茶などという状況になっているのか。理由などと陳腐なものを訊くのも馬鹿らしいし、第一自分から訊くのも癪に触る。

 空気が、流れた―――舞い上がったレースのカーテンの幕を掻き分け、その陰に隠れていた声の主が此方へと歩を進めてくる気配。流香は肘掛けを弾く手を止めて拳を握り締めた。

 蜘蛛が糸を張るように五感を研ぎ澄まし、相手の出方を窺う。

「リューカ」

 呼び掛ける、声。石畳と硬い靴裏とが擦れ合う音を造りの高い天井に響かせながら長身の影は、ゆっくりと間合いを詰めてくる。やがて出窓から射し込む月光の帯が男を捉え、ゆるゆると浮かび上がるその姿に流香は改めて息を呑んだ。

 さながら、闇夜に浮かぶ月魂―――その魅入られそうになるほどの美貌のせいばかりでもない。人に非ざる存在と。初めてこの男にまみえた時に感じた、畏れにも似たものを流香は内側に反芻している。

 『哉生さいせい』と、名乗った以外には何も知らない。しなやかな長身を包む光沢ある黒服の上から銀灰色の長衣を羽織り、肩先に掛けられた深紅のトーガと言った、どこか遠い国の民族衣装を思わせるような出で立ちの、この男は流香をここに攫って来た張本人であった。

 腰まで届きそうなまでに伸ばされた艶やかな黒髪が縁取る白皙の貌に、黒水晶モリオンを思わせるかのような澄んだ双眸。秀麗な額に目鼻は、一見女性と紛うばかりに優美な線を描いて造形されているものの、滑り落ちる翳りは力ある男の精悍さを滲ませ、ただ美しいという言葉だけでは済まされないものが潜んでいた。

 歴戦の、達人と呼ばれる武術家、まるで自分の師と相対した時の感覚にも似ている。哉生の静かに放つ、刃の如き威圧感に呑まれそうになりながら、流香は平静を装って堪えていた。

「……リューカ」

 もう一度、男は呼び掛ける。どこか切ない響きを孕んだ声で、存在を確かめるかのように―――だが、流香のものではない名前で。自身を呪縛するかのような男の威圧感を振り払うように、流香は、バンッ! と烈しい音をたててアームチェアの肘掛けを拳で叩き付けた。このままでは、彼の纏う気だけで呼吸を止められてしまいそうだ。

「ずっと言ってるでしょ、あたしを一体誰と勘違いしてんの。あたしは流香るか、黒岩流香だ!」

 不意に伸ばされてきた哉生の手。それを払い除けようと、頬に触れてくる寸でのところで流香は手刀を横薙ぎに一閃する。

「……っ!?」

 流香の琥珀の瞳が驚きに見開かれる。ひゅんっと空を斬った流香の手刀は哉生を撲ち付けるよりも先に、易々とその手首を捕らえられていたのである。

 幼い頃から御影流古流拳術の門下に入り、武藝の鍛錬を積んできた流香は腕には自信があった。どうしても勝てないのは師匠の久生雨蘭ひさお うらんだけ。武道を嗜んでいる、その辺の男には負けない自信はあったし、実際、試合でも喧嘩でも腕っ節で負けたことは一度もなかったのだ。

 ……それが、何でこんな男に……っ!

 手首を捕まれたまま、流香は座していたアームチェアから引き揚げられる。

「離、せ!」

 掴んだ手首の骨を軋ませながら、哉生はなおも抗う流香を不器用に手繰り寄せた。勢いで脚を引っ掛けてしまった傍らのティーテーブルが薙ぎ倒される。石畳の床に叩き付けられた白磁の食器たちが砕け散る音、飛び散る紅茶の飛沫と芳しい香り、そして青鈍色の絨毯の上に、ぱらぱらと散らばり落ちるチョコレート。

 肉体の痛みなど大したものではない、ただ何も出来ず、男の腕の中にいることが悔しかった。奥歯を食いしばり、男の深紅のトーガを破れよとばかりに握り締めながら、屈辱と烈しい怒りの色に染められた琥珀の瞳で睨み据える流香とは対照的に、哉生の深遠のような黒水晶の双眸には、感情の色を窺い知ることはできない。だが、その端麗な容貌とは裏腹に流香を捕らえる男の腕は力強く、鋼の檻のようにびくともしなかった。

「私の側を離れることは、赦さぬ」

 ようやく探し当てた娘に哉生はささめいた。痛みの声も上げず、烈しい色を湛えた琥珀色の瞳を真っ直ぐに向けながら、なおも抵抗する腕の中の気丈な少女を逃がさぬようにきつく抱き締めて。哉生は淡く臥せた長い睫毛の翳りに、黒水晶の眼差しを沈めた。

「お前は、シン・ドラクルの、唯一人の妃なのだ、リューカ」

「……あんた、何を言って……!」

 体中の骨を砕く気か、と言うほどに抱き締めてくる哉生の肩越し、空虚に開いた出窓から覗く天空には、ぽっかりと浮かぶ白銀の満月。琥珀の瞳に映る、煌々と照る『それ』は自分が知っている月とは、どこか何かが違うような気がする―――流香は漠然と、そう考えていた。

「……どこよ、ここは……」

 思わず唇から零れた、喘ぐような呟き。そして、哉生に『ここ』に連れてこられる直前の出来事が流香の脳裏を掠め、その光景が瞼裏に浮かんでは流れていく。

 静眞は、大丈夫だろうか。瞬きひとつの間に哉生に斬りつけられ、自身の流した血の泥濘の中で藻掻きながら、それでも必死になって流香を助けようとした弟弟子・牧静眞まき しずまに想いを馳せる。致命傷ではないが、あの出血から考えるに傷は相当な深さだった筈だ。

 それから師匠である久生雨蘭だ。この、哉生という男に初見でいきなり最大級の『禁句』を吐かれたせいで、相変わらずの笑顔のまま、だが鬼神のごとき怒気を発してブチ切れていたが、あっちも大丈夫なのだろうか。

 天空に浮かぶ銀色の月は流香の問いに答えない。手荒い抱擁にひとつに重なった男女の影を、ただ佇む貴婦人の如く静かに照らし出すだけ―――。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ