Epitaph
Epitaph
それは、名残。
僅かに残る自尊心を掲げ、彼は告げる。
自分がしてきた事が間違いだとしても、他の誰に受け入れられなくても、自分の信じたものを信じ続け生きられたことは幸せだと…。
彼は笑い、人は自然眼を逸らして歩きだす。
それでも良かった。望んだものは何もない。
望まなければ失うものもないのだと、彼はずっとそう思っていた。それが間違いだとは気付きもせずに。
望めば確かに失うものも多い。それでも、例え手にしていたモノがその掌から零れ落ちたとて、掌には載せることの出来ない思いや記憶は残る。それこそが“大切”なのだと気付かなかった。
否、気付きたくなくて目を逸らしていただけに過ぎないのかも知れない。
それはとても彼を臆病にさせた。
人を求め、人を信じ、その先に待つものが何なのか―それが彼を変えてしまう事が怖かった。そうして気が付けば、彼は独りになっていた。
挨拶を交わす人も、そっと触れてくれる人も、彼に話しかける者もいない。
ここに居るのに、ここに存在しない自分が哀しかった。
彼は墓標を残す。
自分自身の為に言葉を残す。
それはとても滑稽に見えて、それでいて虚しくもあった。
ペンを持たない彼の手には墨の代りに赤が映え、白く染まる息の色だけが彼の体温を伝えた。
白く染まる世界に人はまばら、もう何度となく見てきた世界も今日で終わるのならば名残も尽きぬというものか。
寒さに凍える針葉樹は鮮やかな衣を全て取られ今にも泣き出しそうに揺れている。空に流るる雲はいつにもまして速く往く。冷たくひび割れた大地には植物の息吹を感じる事さえ出来ない。それでも。彼はこの世界が好きだった。
誰もが自分から眼を背けても、酷く罵られ唾を吐き捨てられたとしても、彼にはこの世界を憎む道理などなかった。
泣きだした空はいつもと違う。
昨夜は冷たい雨粒を零していた灰色の空が流すのは、白く汚れなのない雪。
どうしてだろう。
もう幾分も流した覚えのないものが、目頭を熱くさせ次第に流るる。
自分の犯した数々の過ちを、罪を流すは白い雪。これが散り逝く者への餞だと言うのなら、こんな幸福なことはない。
―ありがとう―
誰に告げればいいのか分からずに彼は空に向かって微笑んだ。
その心は穏やかで、とても静かな物だった。