石の記憶外伝 トムくん奮闘記 その20
「差別……」
トムの声が低く響いた。
「んなことくらい、学校で習うよ」
トムはハーパー氏をまっすぐ見つめた。
「じいさ……いや、ハーパーさんだったっけ」
その瞳は冷たかった。言葉にも、鋭い棘があった。
「オハイオの法律では、人種差別をしてもよかったっけ?」
ハーパー氏の顔が歪んだ。
しばらく何も言えなかった老人の目に、やがて涙が浮かぶ。
そして、小さく首を横に振った。
「……ない」
掠れた声だった。
「そんな法律は、ない……」
老人は俯いた。
「完全に……私個人の偏見と過ちなんだ……」
その瞬間だった。
「トム」
静かな、しかし一切の迷いのない声が響いた。
「お黙りなさい」
ミリーだった。
トムが振り返る。
ミリーは穏やかな表情をしていた。
「私も、見ての通りアフリカ系です」
白い髪をきちんと束ねたミリーは、静かに続けた。
「小さい頃から……いえ、大人になってからも、差別は経験してきました」
一瞬、教会の空気が止まる。
「一時期は、その傷のせいで、アフリカン・コミュニティ以外の人間を信じられなくなったほどです」
ミリーは少しだけ目を伏せた。
「でも、あの子は違いました」
「あの子……アーノルドは違った」
それは、息子の名前を呼ぶ母親の声だった。
「牧師になりたいと言ったのです。自分が痛みを知っているからこそ、その痛みを分かち合いたい。苦しんでいる人を助けたい、と」
ミリーは小さく息を吐いた。
「私は反対しました」
「なぜ、わざわざ安全な道ではなく、そんな茨の道を歩むのかと」
「けれど、息子は信仰心と辛抱強さで私を説得しました」
「そして私は、最後には神学校へ行くことを許しました」
ミリーはトムを見る。
「トム、クリス、ヒロ、アドリアン、キャサリン」
一人ひとりの顔を見つめる。
「あなたたちが、どんな思いで今までの人生を歩んできたのか……私には分かりません」
「でも」
ミリーの声が少しだけ柔らかくなった。
「肌の色で悩んだことがある。それは確かなのではありませんか?」
誰も答えなかった。
答えられなかった。
ミリーは、今度はハーパー氏を見る。
「そしてハーパーさん」
「あなたは息子に、その件について許しを乞うてきた。そうですね?」
ハーパー氏は、静かに頷いた。
「怒りは怒りを生み、憎しみからは憎しみしか生まれません」
ミリーの声には、説教臭さがなかった。
ただ、自分自身が長い年月をかけて知ったことを語っているだけだった。
「トム、ヒロ、アドリアン、キャサリン」
「私は、この方を今すぐ許せとは言いません」
「あなたたちも、ここまで生きてくる中で、いろいろなことを考えてきたのですから」
「でも、人は間違いを犯します」
「そして、その償いの機会まで奪う義務は、あなたたちにはありません」
ミリーは微笑んだ。
「トム、クリス、ヒロ、キャサリン、アドリアン」
「あなたたちは、イエス様に愛されているのですよ」
そしてハーパー氏へ。
「ハーパーさんもです」
さらに、教会に集まった人々を見渡す。
「ここに参列されている皆様もね」
トムは黙っていた。
ミリーは続ける。
「過去は変えられません」
「憎しみも、そう簡単には薄れないでしょう」
「でも……罪人が、許しを乞うているのです」
「今すぐ許せとは言いません」
「そのことについて、考えてください」
そして最後に、ミリーはハーパー氏をまっすぐ見た。
「ハーパーさん」
「ここは、今結婚したばかりの二人を祝福する場です」
「もし、娘さんに会うことだけが目的であれば……今すぐお引き取りください」
キッパリとした声が、教会に響いた。
ハーパー氏は一瞬、目を見開いた。
だが、すぐに穏やかな表情を浮かべる。
「祝福します」
そして、トムを見る。
「孫の門出を祝わぬ者がいるでしょうか?」
ミリーは満面の笑みを浮かべた。
「それなら、お残りください」
その言葉に、トムはまだ混乱していた。
何が起きているのか、すぐには理解できない。
ただ、隣にいる妻――クリスティンの顔を見た。
そして二人は、静かにキスを交わした。
教会の空気が、少しだけ柔らかくなる。
その時、ハーパー氏が口を開いた。
「トム……アドリアン……ヒロ」
「私たちは、君たちを知らない」
老人は一度言葉を切った。
「だから……知る機会を、くれないか」
「そして、私には……あまり時間が残されていないかもしれない」
その声には、先ほどまでの威厳はなかった。
ただ、一人の老人の声だった。
「だが、その瞬間まで、君たちを知ろうと模索することを、私はやめない」
その言葉とともに――
教会の鐘が鳴り響いた。
ハーパー家。
ヤマモト家。
その間に横たわる溝は、深く、そして長い。
一日や二日で埋まるものではない。
それでも、この老人は言った。
「知ることをやめない」と。
自分たちは、これからどうなるのか。
トムの胸の中には、まだ答えの出ない疑問が渦巻いていた。




