あなたは私を、ご存じではない
「あの男は誰なんだ!」
普段は私に興味など示さない夫、アル様が叫ぶ。
初夜のあの日すら来なかった私の寝室に、夫が初めて足を踏み入れたかと思うとコレだ。
結婚して五年目。
最初から、はっきりと政略結婚だと告げられた。
屈辱の初めての夜を、私は忘れない。
「俺に愛されたいなら、尽くすことだ」
「いえ、別に愛は不要ですから、好きにさせて頂きますね」
怒って出て行ったきり、二度とこの部屋に来ないと思ったのに。
「迷惑だな……」
「何か言ったか?」
「いえ、それで何の話でしたっけ?」
「だから、お前の浮気だ!見たんだぞ!今朝街で男と抱き合っていたな!」
はて?と、首を傾げて「ああ……」と気づく。
確かに今朝、留学に向かう弟を見送った。
その際に別れの抱擁はしたが……あれ?
「俺への当てつけか?」
「いえ、確かにアル様は責任を放棄して、自由を謳歌されておられますが、一緒にされても困ります」
「なんだ、嫉妬か?」
「いえ、真実です」
絶句した夫の顔をまじまじと見つめて、私は念のために尋ねてみた。
もしかしたら、夫は頭の病気か何かで、記憶を失ったのかも知れない。
「私の名前を、ご存じですか?」
「馬鹿にしてるのかアリエッタ」
「心配しています。名前違います」
愕然としたのは、こちらの方だ。
確かに、ほぼ顔も合わせず、食事も寝室も別。
夫婦とは名ばかりの、近くて遠い他人のような関係だが、一応は戸籍の上では妻なのだ。
「ちょっと疲れて間違えただけだ!アリエル」
「違います」
「うっ、メリエッサ?」
「それは一昨年別れた、アル様の愛人の一人ですわ」
「ぐっ、なんでそれを」
馬鹿なのだ。だが、これは馬鹿で済ませていいのだろうか?
領地経営や、屋敷の管理、社交界の付き合いや、夫の不始末。
全てを一人で処理してきたのは、どれだけ夫に訴えても無視されたからだ。
「ミリー、いや違う。クラリッサでもなければ、ルージュ」
「全て、過去の女性達ですわね。今の一番のお気に入りは、ローリエでしたっけ?」
「なんで、お前はそれを!」
「社交界であなたの悪名は有名過ぎるんです。ついでに、私の名はお前ではありません」
眩暈を堪えて、妻の名すら覚えていない夫の顔を見る。
窓から夕日を浴びる夫の顔は、確かに美形の男だった。
育ちも良く、貧しいながらも貴族の称号を持ち、身の越しも柔らかだ。
典型的な金の髪はサラサラで、青い瞳は吸い込まれる空のよう。
(でも、知性まで空の彼方というか、女性にちやほやされて、誰かがなんとかしてくれるのが、当たり前になってるのよね)
私だって、最初から諦めていたわけではない。
何度も話し合いしようとしては無視され、手紙を書いては捨てられた。
せめて、一通でも目を通してくれていれば、私の名が書いてあったのに。
「結婚して、何年目でしたか?」
「そんなもの、別に関係ない」
「私の家族を覚えていますか」
「どうして俺が」
もう限界だ。
私はよく耐えたと、自分を慰めた。
小さく首を横に振り、夫に告げた。
「離婚して下さい」
「なぜだ!やっぱり、お前は今朝の男と……」
瞬間、堪えていた全てが爆発した。
夫の首元を両手で掴み、ブンブンと揺さぶった。
「いい加減にして!私の弟の顔も忘れ、結婚何年目かも理解せず、食事もベッドも別々のあげく、妻の名すら覚えてないなんて!」
まとめてつきつけると、ヒュッと夫は息をのむ。
今まで耐えてきた全てを、いまこそ夫に叩きつけた。
「人を馬鹿にするのも、いい加減にしろーっ!離婚だーっ!」
「まてまてまて、落ち着け!」
ワタワタする夫を部屋から叩き出すと、なぜか胸がスッとした。
こうして、私の結婚生活は終わりを告げるはずだったのだ。
***
様子が変わったのは次の日からだ。
なぜか朝食の間に、アル様がいた。
「は?」
「おはよう、クラリス」
ニコニコと私の名を呼ぶ夫に、私は数度瞬きして無視をする。
席に着き食事を始めたが、なぜか必死に話しかけてくる。
「女の気持ちに敏感なはずだったが、お前を不安にさせてすまなかった。唯一の妻だからと、甘えていた部分もあったかな?ははっ」
「誰から、私の名を」
「愛しい妻の名を忘れるはずがない。昨日のは、冗談だ」
夫を無視して、立ち並ぶ使用人に視線を向けると、サッと目を逸らした者がいた。
「ああジョージ。あなたはとても優秀な、この家の執事だわ。私はいなくなるけど、今後ともその忠誠心で、主を支えていきなさいね」
「そんな、奥様」
ザワリと揺れた彼らに、夫はまあまあと笑う。
「昨夜、珍しく夫婦喧嘩をして、妻は拗ねているだけだ」
「ええ、確かに珍しいですわね。そもそも会話もなければ、喧嘩になりませんから」
ゴボゴボと食べ物を詰まらせた夫が、必死に水を飲む。
涙目でこちらを見るが、私は何も感じなかった。
それも当然だ。
愛を育む以前の問題だったのだから。
けれど、それももう終わり。
食事を終えて、私は早速切り出した。
「領地の経営も、屋敷の管理も、全て権限をお返し致します」
「うっ、うえっ?」
「心配なさらなくても、領地は小作人を管理する担当者が有能ですし、この屋敷はジョージが対応してくれますわ」
「いやっ、俺はまだ離婚を認めていないんだが?」
「あははっ、面白い冗談ですわ」
飲んでいたティーカップを、そっと机に置いた。
私はジッとアル様を見つめて、尋ねてみた。
「どうして、離婚したくないのですか?」
「それは、色々と面倒もあるだろう。女のお前が不利益を受けるのは、見ていられない」
「いえ、全然」
「ふぇっ?」
「むしろ、まったく?」
「まてまて、離婚したら傷物の女として……」
「一緒に寝た事もないのに、傷のつきようも何も」
「……そんなに、寂しかったのか?」
あまりに斜め上な発言に、今度は私が驚いた。
そんな私を、何をどう勘違いしたのか、アル様が張りきり出した。
「そうだったのか、すまない。確かに俺が悪かった」
「ですね」
「だが、俺は生まれ変わる!早まらず俺の本気を見て欲しい」
「ええっ……」
面倒だなと眉をひそめた私などおかまいなしに、夫は私の前に片膝をつく。
ソッと手を握られそうになったので、急いで両手を後ろに隠した。
「こんなに照れ屋な小鳥だったのに、夫として本当に悪かった」
「いえ、もう解放して下されば結構ですよ?素直に受け入れて下されば、今までの不義の証拠は差し上げますから」
「そんなものを、持ってるのか!」
バッと立ち上がった夫に、つい怯えてビクリと震えた。
瞬間、夫は眉尻を下げて一歩後ろに下がってくれた。
「驚かせたな、すまない。だがやり直すチャンスをくれ、ハマリー」
「クラリスです」
「妻も幸せにできない夫など、存在価値もない」
「じゃあ消えて下さい」
「恥ずかしくて、消えてしまいたいなんて、本当に内気な妻は可愛いな」
ぞわぞわと悪寒に耐えながら、私は後悔していた。
黙って出て行ってから、交渉すべきだったかも知れない。
夫を甘く見ていた……ここまで噛み合わないとは思わなかった。
私は席を立ちあがり、逃げるようにその場から立ち去った。
***
私はいつものように執務室に向かう。
最後の引継ぎ処理をして、とっとと荷物をまとめて帰ればいい。
書類に目を通し、無言で集中する。
何か言いたげなジョージが紅茶を運んできたが、軽く礼だけ告げて無視をした。
ここに嫁いだ次の日に、私はなぜこの家が資金繰りに苦しいのか理解した。
小さいながらも領地はある。
だが、ほぼ手つかずで放置されたまま。
屋敷は立派だが、見栄をはるだけの調度品が並び、家宝の美術品の半分も偽物だ。
家格が欲しかった実家と、資金が欲しかったこの侯爵家。
夫となる人は、遊び歩く事にしか興味はない。
新婚当時から、一人残された私は夫に代わり全ての業務を押し付けられた。
一年目は泣き、二年目は怒り、三年目には全てがこなせるようになっていく。
すると、使用人たちも私を頼るようになり、少しずつ孤独が癒されるようだった。
夫は本当に、家にも私にも興味はなかった。
いきなり玄関の彫像が消えても、庭園が改築されても気付かない。
使用人の顔ぶれも代わり、使用されていない部屋が閉鎖されても、彼が見つめるのは愛人たちだけである。
逆に開き直って、私は全てを改革していった。
偽物の美術品の皿や花瓶は、教会のバザーに寄付をして知名度をあげた。
庭園を縮小して、新しい畑をつくり食材として屋敷で消費する事に成功した。
領地の経営には特に力を入れて、私は一人で何度も現地を訪れた。
屋敷から私が何日もいなくても、夫は私という存在すら忘れたようだった。
何度も屋敷に来ては、妻の座や慰謝料を要求する女性たちの記録を残す。
それも、いつしか淡々とこなせるようになっていた。
「アル様にあなたは相応しくないわ」
「ええ本当に。ぜひ、あなたも離婚なさってから夫と結ばれて下さいな」
軽くあしらいつつも、後々の為に書類に残していく。
いつか使う日が来るかもしれない。それが今だった。
あと少しで書類が終わるという頃に、扉がノックされる。
返事をする前に、夫が入って来た。
「やあ、そろそろ昼食なんだ。素敵なサプライズも用意したから、仕事なんて止めて一緒に食べよう」
「……いえ、結構です。あと少しで、後処理も終わりますから」
またもや拒絶されると思わなかった夫は、笑顔のまま固まった。
ペンを走らせながら、私は顔も上げずに夫に告げる。
「明日から、これはあなたの仕事になります。マニュアルを置いていくので、どうぞ参考になさってください」
これが私の、せめてもの情け。
だけど、夫はそれすらも陽気に断ったのだ。
「あははっ、いらないよそんなの。だって、君はずっといるんだから」
その言葉にカッとした私は、書いてあった書類を途中で止めて立ち上がった。
「そうですわね。余計な事を致しましたわ」
作り上げた書類を掴み、破り捨てようとした私を、執事のジョージが必死で止めた。
「おやめください奥様!旦那様も、まずは奥様にお礼を言うべきかと」
「なぜ?別に俺は頼んでいないし、好きでやっていたんだろ?」
脱力していく私とは真逆に、夫はいきいきと答えた。
「むしろ、妻の自由を許した俺はなんて良い夫だろう」
もう限界だと、部屋を出て行こうとしたが、手首を掴まれた。
式で指輪を交換した以来の接触に、私の身体が強張った。
なぜか私が怯えた事に優越感を感じた夫は、クスリと笑った。
「これから馴染んでいけばいい」
振り払うより先に、そのままグイグイと庭に連れ出された。
庭園には、テーブルセットが用意され、昼食が並んでいた。
「さあ食べよう妻よ。君の好きそうな物を並べたんだ」
庭園を潰した畑でとれた野菜が、パンに挟まれ並べられている。
そして甘いプディングと、麦がゆが置いてあった。
「ほら、君がいつも食べている好物だよ」
向かい合って座る夫に、私の心は冷めていくばかりだ。
さあどうぞと、自分はローストビーフを挟んだパンを口に運ぶ。
「しかし、あの畑はなんだ。いつの間に」
「三年前に、作りました」
「どうして、勝手に」
「手紙で伝えましたが、捨てたのはあなたです」
私は今、どんな目をしているだろう。
冷めた視線を察した夫は、流石に咥えたパンを皿に戻す。
「あの、すまなかった。君がいなくなると直接言われて、急に夢から覚めたみたいだ」
私は答えない。
目の前の食事にも手をつけず、彼の言葉を待つ。
「君を避けていたのは、俺の子供じみた反抗心だ。ちゃんと親同士ではなく、自分達で出会いたかった」
「ええ、本当に」
私の相槌に、夫は満面の笑顔を浮かべた。
だが、すぐにその顔は凍り付く事になる。
「きっと出会っていたら、私はあなたを選びませんもの」
「誤解だ。いや、俺が悪かったと言ってるだろう。ちゃんと夫らしく頑張るから、俺や屋敷を見捨てないでくれ」
「アル様」
私は優雅にパンの乗った皿を手に持って差し出した。
「あなたは本当に、私をご存じではない。五年間も共にいて、知ろうともしなかった」
「うっ、これからは……」
「ありませんよ。これからなんて」
押し付けた皿を夫は受け取り、居心地悪そうに目をキョロキョロとさせる。
私は畳みかけるように、夫を諭す。
「野菜はここで採れたから食べています。麦がゆは体調が悪い時に食べました。甘い物は得意ではありません」
「そうか、なら何が好きだ?」
「妻の好きな物も知らない時点で、終わってる」
「いや、これから互いに知り合えばいい」
「五年間何してたんですか?もう、うんざり」
席を立った途端、またもや手を掴まれた。
けれど、夫のすがるような目を睨みつける。
「もう……無理なのか?クラリス」
「さようなら、お元気で」
ガクリと崩れ落ちた夫に目もくれず、私は自室に戻ると、最低限の荷物をまとめて屋敷を飛び出した。
実家に帰ってからも、両親とひと悶着はあったが、揃えていた夫の浮気の記録を見せると、流石に黙って受け入れてくれた。
あれから、平穏な日々を過ごしている。
互いの両親によって、きちんと離婚の手続きも完了したらしい。
田舎に隠居していた彼の両親から、復縁を懇願されたが、新たな妻には困りませんよと、断固拒絶した。
もう何もしなくていいのだ。
そして何でもできる自由を手に入れた。
「お嬢様、どうして五年も耐えたのですか?」
「自分でもわからないわ。ふふっ、どこかで信じたかったのかも知れないわね」
初めての夫に、共に向き合って貰いたいなんて。
噂で、彼の家が大変な事になっていると聞いた。
私の残した引継ぎによって、なんとか形は保っているものの、業務など理解できない元夫が、色々とかき回しているらしい。
「最初は、どの顔下げてお嬢様に助けを請うのか、わかりませんでした」
「私もよ」
離婚してから、私は彼からの手紙を全て拒絶した。
この家にも、何度も現れたらしいが、家族や使用人たちが追い返してくれた。
もう彼と私は違う道を歩んでいく。
「どうか、私と関わらぬ場所で幸せになって下さいね」
私は使用人に呼ばれ、今日の見合いの場に向かう。
新しい幸せを、今度こそ掴むために。
今度こそ、ちゃんと向き合っていける相手と結婚するのだと、私は笑う。
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