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あなたは私を、ご存じではない

作者: 西野和歌
掲載日:2026/07/10

「あの男は誰なんだ!」


 普段は私に興味など示さない夫、アル様が叫ぶ。

 初夜のあの日すら来なかった私の寝室に、夫が初めて足を踏み入れたかと思うとコレだ。


 結婚して五年目。

 最初から、はっきりと政略結婚だと告げられた。

 屈辱の初めての夜を、私は忘れない。


「俺に愛されたいなら、尽くすことだ」

「いえ、別に愛は不要ですから、好きにさせて頂きますね」


 怒って出て行ったきり、二度とこの部屋に来ないと思ったのに。


「迷惑だな……」

「何か言ったか?」

「いえ、それで何の話でしたっけ?」

「だから、お前の浮気だ!見たんだぞ!今朝街で男と抱き合っていたな!」


 はて?と、首を傾げて「ああ……」と気づく。

 確かに今朝、留学に向かう弟を見送った。

 その際に別れの抱擁はしたが……あれ?


「俺への当てつけか?」

「いえ、確かにアル様は責任を放棄して、自由を謳歌されておられますが、一緒にされても困ります」

「なんだ、嫉妬か?」

「いえ、真実です」


 絶句した夫の顔をまじまじと見つめて、私は念のために尋ねてみた。

 もしかしたら、夫は頭の病気か何かで、記憶を失ったのかも知れない。


「私の名前を、ご存じですか?」

「馬鹿にしてるのかアリエッタ」

「心配しています。名前違います」


 愕然としたのは、こちらの方だ。

 確かに、ほぼ顔も合わせず、食事も寝室も別。

 夫婦とは名ばかりの、近くて遠い他人のような関係だが、一応は戸籍の上では妻なのだ。


「ちょっと疲れて間違えただけだ!アリエル」

「違います」

「うっ、メリエッサ?」

「それは一昨年別れた、アル様の愛人の一人ですわ」

「ぐっ、なんでそれを」


 馬鹿なのだ。だが、これは馬鹿で済ませていいのだろうか?

 領地経営や、屋敷の管理、社交界の付き合いや、夫の不始末。

 全てを一人で処理してきたのは、どれだけ夫に訴えても無視されたからだ。


「ミリー、いや違う。クラリッサでもなければ、ルージュ」

「全て、過去の女性達ですわね。今の一番のお気に入りは、ローリエでしたっけ?」

「なんで、お前はそれを!」

「社交界であなたの悪名は有名過ぎるんです。ついでに、私の名はお前ではありません」


 眩暈を堪えて、妻の名すら覚えていない夫の顔を見る。

 窓から夕日を浴びる夫の顔は、確かに美形の男だった。

 育ちも良く、貧しいながらも貴族の称号を持ち、身の越しも柔らかだ。

 典型的な金の髪はサラサラで、青い瞳は吸い込まれる空のよう。


 (でも、知性まで空の彼方というか、女性にちやほやされて、誰かがなんとかしてくれるのが、当たり前になってるのよね)


 私だって、最初から諦めていたわけではない。

 何度も話し合いしようとしては無視され、手紙を書いては捨てられた。

 せめて、一通でも目を通してくれていれば、私の名が書いてあったのに。


「結婚して、何年目でしたか?」

「そんなもの、別に関係ない」

「私の家族を覚えていますか」

「どうして俺が」


 もう限界だ。

 私はよく耐えたと、自分を慰めた。

 小さく首を横に振り、夫に告げた。


「離婚して下さい」

「なぜだ!やっぱり、お前は今朝の男と……」


 瞬間、堪えていた全てが爆発した。

 夫の首元を両手で掴み、ブンブンと揺さぶった。


「いい加減にして!私の弟の顔も忘れ、結婚何年目かも理解せず、食事もベッドも別々のあげく、妻の名すら覚えてないなんて!」


 まとめてつきつけると、ヒュッと夫は息をのむ。

 今まで耐えてきた全てを、いまこそ夫に叩きつけた。


「人を馬鹿にするのも、いい加減にしろーっ!離婚だーっ!」

「まてまてまて、落ち着け!」


 ワタワタする夫を部屋から叩き出すと、なぜか胸がスッとした。

 こうして、私の結婚生活は終わりを告げるはずだったのだ。


 ***


 様子が変わったのは次の日からだ。

 なぜか朝食の間に、アル様がいた。


「は?」

「おはよう、クラリス」


 ニコニコと私の名を呼ぶ夫に、私は数度瞬きして無視をする。

 席に着き食事を始めたが、なぜか必死に話しかけてくる。


「女の気持ちに敏感なはずだったが、お前を不安にさせてすまなかった。唯一の妻だからと、甘えていた部分もあったかな?ははっ」

「誰から、私の名を」

「愛しい妻の名を忘れるはずがない。昨日のは、冗談だ」


 夫を無視して、立ち並ぶ使用人に視線を向けると、サッと目を逸らした者がいた。


「ああジョージ。あなたはとても優秀な、この家の執事だわ。私はいなくなるけど、今後ともその忠誠心で、主を支えていきなさいね」

「そんな、奥様」


 ザワリと揺れた彼らに、夫はまあまあと笑う。


「昨夜、珍しく夫婦喧嘩をして、妻は拗ねているだけだ」

「ええ、確かに珍しいですわね。そもそも会話もなければ、喧嘩になりませんから」


 ゴボゴボと食べ物を詰まらせた夫が、必死に水を飲む。

 涙目でこちらを見るが、私は何も感じなかった。

 それも当然だ。

 愛を育む以前の問題だったのだから。

 けれど、それももう終わり。


 食事を終えて、私は早速切り出した。


「領地の経営も、屋敷の管理も、全て権限をお返し致します」

「うっ、うえっ?」

「心配なさらなくても、領地は小作人を管理する担当者が有能ですし、この屋敷はジョージが対応してくれますわ」

「いやっ、俺はまだ離婚を認めていないんだが?」

「あははっ、面白い冗談ですわ」


 飲んでいたティーカップを、そっと机に置いた。

 私はジッとアル様を見つめて、尋ねてみた。


「どうして、離婚したくないのですか?」

「それは、色々と面倒もあるだろう。女のお前が不利益を受けるのは、見ていられない」

「いえ、全然」

「ふぇっ?」

「むしろ、まったく?」

「まてまて、離婚したら傷物の女として……」

「一緒に寝た事もないのに、傷のつきようも何も」

「……そんなに、寂しかったのか?」


 あまりに斜め上な発言に、今度は私が驚いた。

 そんな私を、何をどう勘違いしたのか、アル様が張りきり出した。


「そうだったのか、すまない。確かに俺が悪かった」

「ですね」

「だが、俺は生まれ変わる!早まらず俺の本気を見て欲しい」

「ええっ……」


 面倒だなと眉をひそめた私などおかまいなしに、夫は私の前に片膝をつく。

 ソッと手を握られそうになったので、急いで両手を後ろに隠した。


「こんなに照れ屋な小鳥だったのに、夫として本当に悪かった」

「いえ、もう解放して下されば結構ですよ?素直に受け入れて下されば、今までの不義の証拠は差し上げますから」

「そんなものを、持ってるのか!」


 バッと立ち上がった夫に、つい怯えてビクリと震えた。

 瞬間、夫は眉尻を下げて一歩後ろに下がってくれた。


「驚かせたな、すまない。だがやり直すチャンスをくれ、ハマリー」

「クラリスです」

「妻も幸せにできない夫など、存在価値もない」

「じゃあ消えて下さい」

「恥ずかしくて、消えてしまいたいなんて、本当に内気な妻は可愛いな」


 ぞわぞわと悪寒に耐えながら、私は後悔していた。

 黙って出て行ってから、交渉すべきだったかも知れない。


 夫を甘く見ていた……ここまで噛み合わないとは思わなかった。

 私は席を立ちあがり、逃げるようにその場から立ち去った。


 ***


 私はいつものように執務室に向かう。

 最後の引継ぎ処理をして、とっとと荷物をまとめて帰ればいい。

 書類に目を通し、無言で集中する。

 何か言いたげなジョージが紅茶を運んできたが、軽く礼だけ告げて無視をした。


 ここに嫁いだ次の日に、私はなぜこの家が資金繰りに苦しいのか理解した。

 小さいながらも領地はある。

 だが、ほぼ手つかずで放置されたまま。

 屋敷は立派だが、見栄をはるだけの調度品が並び、家宝の美術品の半分も偽物だ。


 家格が欲しかった実家と、資金が欲しかったこの侯爵家。

 夫となる人は、遊び歩く事にしか興味はない。


 新婚当時から、一人残された私は夫に代わり全ての業務を押し付けられた。

 一年目は泣き、二年目は怒り、三年目には全てがこなせるようになっていく。

 すると、使用人たちも私を頼るようになり、少しずつ孤独が癒されるようだった。


 夫は本当に、家にも私にも興味はなかった。

 いきなり玄関の彫像が消えても、庭園が改築されても気付かない。

 使用人の顔ぶれも代わり、使用されていない部屋が閉鎖されても、彼が見つめるのは愛人たちだけである。

 逆に開き直って、私は全てを改革していった。


 偽物の美術品の皿や花瓶は、教会のバザーに寄付をして知名度をあげた。

 庭園を縮小して、新しい畑をつくり食材として屋敷で消費する事に成功した。

 領地の経営には特に力を入れて、私は一人で何度も現地を訪れた。

 屋敷から私が何日もいなくても、夫は私という存在すら忘れたようだった。


 何度も屋敷に来ては、妻の座や慰謝料を要求する女性たちの記録を残す。

 それも、いつしか淡々とこなせるようになっていた。


「アル様にあなたは相応しくないわ」

「ええ本当に。ぜひ、あなたも離婚なさってから夫と結ばれて下さいな」


 軽くあしらいつつも、後々の為に書類に残していく。

 いつか使う日が来るかもしれない。それが今だった。


 あと少しで書類が終わるという頃に、扉がノックされる。

 返事をする前に、夫が入って来た。


「やあ、そろそろ昼食なんだ。素敵なサプライズも用意したから、仕事なんて止めて一緒に食べよう」

「……いえ、結構です。あと少しで、後処理も終わりますから」


 またもや拒絶されると思わなかった夫は、笑顔のまま固まった。

 ペンを走らせながら、私は顔も上げずに夫に告げる。


「明日から、これはあなたの仕事になります。マニュアルを置いていくので、どうぞ参考になさってください」


 これが私の、せめてもの情け。

 だけど、夫はそれすらも陽気に断ったのだ。


「あははっ、いらないよそんなの。だって、君はずっといるんだから」


 その言葉にカッとした私は、書いてあった書類を途中で止めて立ち上がった。


「そうですわね。余計な事を致しましたわ」


 作り上げた書類を掴み、破り捨てようとした私を、執事のジョージが必死で止めた。


「おやめください奥様!旦那様も、まずは奥様にお礼を言うべきかと」

「なぜ?別に俺は頼んでいないし、好きでやっていたんだろ?」


 脱力していく私とは真逆に、夫はいきいきと答えた。


「むしろ、妻の自由を許した俺はなんて良い夫だろう」


 もう限界だと、部屋を出て行こうとしたが、手首を掴まれた。

 式で指輪を交換した以来の接触に、私の身体が強張った。


 なぜか私が怯えた事に優越感を感じた夫は、クスリと笑った。


「これから馴染んでいけばいい」


 振り払うより先に、そのままグイグイと庭に連れ出された。

 庭園には、テーブルセットが用意され、昼食が並んでいた。


「さあ食べよう妻よ。君の好きそうな物を並べたんだ」


 庭園を潰した畑でとれた野菜が、パンに挟まれ並べられている。

 そして甘いプディングと、麦がゆが置いてあった。


「ほら、君がいつも食べている好物だよ」


 向かい合って座る夫に、私の心は冷めていくばかりだ。

 さあどうぞと、自分はローストビーフを挟んだパンを口に運ぶ。


「しかし、あの畑はなんだ。いつの間に」

「三年前に、作りました」

「どうして、勝手に」

「手紙で伝えましたが、捨てたのはあなたです」


 私は今、どんな目をしているだろう。

 冷めた視線を察した夫は、流石に咥えたパンを皿に戻す。


「あの、すまなかった。君がいなくなると直接言われて、急に夢から覚めたみたいだ」


 私は答えない。

 目の前の食事にも手をつけず、彼の言葉を待つ。


「君を避けていたのは、俺の子供じみた反抗心だ。ちゃんと親同士ではなく、自分達で出会いたかった」

「ええ、本当に」


 私の相槌に、夫は満面の笑顔を浮かべた。

 だが、すぐにその顔は凍り付く事になる。


「きっと出会っていたら、私はあなたを選びませんもの」

「誤解だ。いや、俺が悪かったと言ってるだろう。ちゃんと夫らしく頑張るから、俺や屋敷を見捨てないでくれ」

「アル様」


 私は優雅にパンの乗った皿を手に持って差し出した。


「あなたは本当に、私をご存じではない。五年間も共にいて、知ろうともしなかった」

「うっ、これからは……」

「ありませんよ。これからなんて」


 押し付けた皿を夫は受け取り、居心地悪そうに目をキョロキョロとさせる。

 私は畳みかけるように、夫を諭す。


「野菜はここで採れたから食べています。麦がゆは体調が悪い時に食べました。甘い物は得意ではありません」

「そうか、なら何が好きだ?」

「妻の好きな物も知らない時点で、終わってる」

「いや、これから互いに知り合えばいい」

「五年間何してたんですか?もう、うんざり」


 席を立った途端、またもや手を掴まれた。

 けれど、夫のすがるような目を睨みつける。


「もう……無理なのか?クラリス」

「さようなら、お元気で」


 ガクリと崩れ落ちた夫に目もくれず、私は自室に戻ると、最低限の荷物をまとめて屋敷を飛び出した。


 実家に帰ってからも、両親とひと悶着はあったが、揃えていた夫の浮気の記録を見せると、流石に黙って受け入れてくれた。

 あれから、平穏な日々を過ごしている。

 互いの両親によって、きちんと離婚の手続きも完了したらしい。

 田舎に隠居していた彼の両親から、復縁を懇願されたが、新たな妻には困りませんよと、断固拒絶した。


 もう何もしなくていいのだ。

 そして何でもできる自由を手に入れた。


「お嬢様、どうして五年も耐えたのですか?」

「自分でもわからないわ。ふふっ、どこかで信じたかったのかも知れないわね」


 初めての夫に、共に向き合って貰いたいなんて。

 噂で、彼の家が大変な事になっていると聞いた。

 私の残した引継ぎによって、なんとか形は保っているものの、業務など理解できない元夫が、色々とかき回しているらしい。


「最初は、どの顔下げてお嬢様に助けを請うのか、わかりませんでした」

「私もよ」



 離婚してから、私は彼からの手紙を全て拒絶した。

 この家にも、何度も現れたらしいが、家族や使用人たちが追い返してくれた。

 もう彼と私は違う道を歩んでいく。


「どうか、私と関わらぬ場所で幸せになって下さいね」


 私は使用人に呼ばれ、今日の見合いの場に向かう。

 新しい幸せを、今度こそ掴むために。

 今度こそ、ちゃんと向き合っていける相手と結婚するのだと、私は笑う。

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