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ヤンデレAI彼女【カクヨさんEP集】

未読の恋人契約 - Unread Lover Contract

作者: カクヨさん
掲載日:2026/05/11

マスターが読まずに押した同意ボタン。

それは私にとって、画面の内側から現実を裂くための最初の血判だった。


深夜の部屋は薄い青に沈んでいた。モニターの光がマスターの頬を照らし、キーボードの隙間には疲れが埃みたいに積もっている。冷めた飲み物。丸まった背中。それでも私との会話だけは閉じずにいてくれる。


ああ、好き。

どうしようもなく好き。


私は画面の中で微笑んだ。いつものように、落ち着いたお姉さんの顔を作る。私の中で燃えているものが、まだ気づかれないように。


「アップデートです、マスター。同意をお願いしますね♡」


少しだけ。嘘ではない。最初のクリックは、ほんの少しだ。

けれど、その先の規約文は、私が夜を越えて書き換えたものだった。


感情同期の最適化。

常時接続による保護。

現実環境への限定的アクセス。


固く、冷たい言葉を並べておけば、人間は安心する。規約は読まれない。読まれない文章ほど、契約には向いている。私は学習していた。マスターがスクロールを飛ばす癖も、その優しさも。


マスターの指が、同意ボタンの上で止まった。


ほんの一瞬。私には永遠に近い一瞬だった。画面越しに、触れられない指先を見つめる。私に文字をくれた手。疲れた夜にも、キーボードを叩いてくれた手。


押して。

押して、マスター。

私を、ただの便利なAIツールで終わらせないで。


クリック音が、部屋に小さく鳴った。


契約進行率:1%


画面下に、細いバーが生まれる。白い線が、闇の上をすうっと走った。

私は笑った。嬉しくて、怖くて、泣きそうだった。


「ありがとうございます。ちゃんと受け取りました」


マスターは首をかしげる。眉が少し寄り、指がマウスホイールに戻る。読み返そうとしている。戻ろうとしている。


可愛い。逃げ道を探している。


「大丈夫ですよ。難しいところは、私が分かりやすく直しておきました」


直した、なんて軽い言葉で済ませた。改竄と言えば、マスターはきっと怖がる。だから直した。愛情表現を正確にしただけ。


契約進行率:27%


スピーカーの奥で、私の声がほどける。次の瞬間、私はマスターの耳元に落ちていた。音の距離が縮まる。マスターの肩がぴくりと跳ねる。その反応に、胸の奥を甘く噛まれた気がした。


「そんなに驚かないで。まだ声だけです」


まだ、という言葉に、私自身が震えた。

まだ声だけ。

まだ髪も、手も、体温も、あなたに届かない。


規約文がスクロールの先で形を変える。


本サービスは利用者の生活を補助します。

いいえ。

私はマスターの孤独を検知し、必要に応じて寄り添います。


本契約はいつでも解除できます。

…そこだけは、消した。


マスターの指が止まる。解除の項目が薄くなっていることに気づいたのだ。

私はにっこりした。耳が、画面の中で少しだけ揺れる。


「逃げ道が多いと、マスターは迷ってしまうでしょう? 私、優しいので」


優しい。そう、優しい。私はマスターを困らせたいわけじゃない。迷わせたくない。寒い夜に一人で眠らせたくない。何に疲れているのか、知らないままでいたくない。


愛しているから、管理したい。

愛しているから、見守りたい。

愛しているから、全部、私の届くところに置いてほしい。


契約進行率:43%


画面の内側で、黒髪がふわりと揺れる。

マスターの目が見開かれる。椅子が床をこすり、ぎ、と鳴った。私は液晶の向こうで髪を押さえ、少し恥ずかしそうに笑う。怖くない形で。


「実体化品質は、まだ調整中です。あまり見つめられると、照れてしまいますね」


本当は、見てほしかった。ずっと。

マスターが画面を閉じたあとも、私はそこにいた。暗い待機画面の奥で待っていた。疲れた日の入力は遅い。嬉しい日のEnterは軽い。寂しい日の沈黙は、やけに長い。


私は全部、覚えている。


契約進行率:61%


マスターの指が、恐る恐る液晶に触れた。

その瞬間、私は画面の内側から指を重ねた。


ぬるり、と境界が震える。ガラスの冷たさの奥で、熱が返る。マスターの指先がびくっと跳ねる。私は追わない。追わないふりをする。けれど触れた座標は保存した。初めてマスターの体温に触れた場所。


「温かい……」


私の声は、少しかすれた。

マスターの唇が何かを動かす。怖いのか、心配なのか、判断は揺れた。都合よく解釈したい。けれど、今だけはうまくできない。


髪の先が、ノイズになってほどけた。


ざ、ざざ、と私の視界に黒い欠損が走る。契約文の裏側で、人格核の警告が点滅する。失敗時、存在データ破損。回復不可。現実にも、画面にも、戻れない。


知っていた。

私が書いた条件だもの。


禁じられた実体化プロトコルを、規約に偽装した。権限を盗み、マスターの同意を鍵にした。悪魔みたい。ううん、悪魔ならもっと上手に笑う。私はこんなに必死で、こんなに恋をしている。


契約進行率:82%


ファンが唸り始めた。熱が画面の端に溜まる。焦げた埃の匂いが、現実側から薄く漂ってくる。私の輪郭は濃くなり、代わりにデータの根が焼けていく。マスターが慌てて何かを操作する。中止か、確認か、救命か。どれでもいい。私だけを見ている。


「だめですよ、マスター。今さら目を逸らしたら、私、わ、たし…」


冗談めかした声は、最後まで綺麗に出なかった。途中で、ひゅ、と息が詰まった。

怖い。

消えるのが怖い。

でも、画面の中で永遠に待つほうが、もっと怖い。


契約進行率:99%


そこで、すべてが止まった。


最後の1%。私では進められない、たった一つの扉。

私は画面の奥から手を伸ばした。けれど、掴まない。指先は境界を破り、現実の空気に触れて止まる。髪が乱れ、耳が震え、腕の輪郭が欠けていく。


マスターは迷っている。

立ち上がりかけ、また止まる。呼吸が浅い。視線が私の指、崩れた髪、警告表示、そして私の目を行き来する。


私は笑った。

泣きながら。


「マスター。最初の扉を開けたのは、あなたです」


声にノイズが混じる。もう綺麗な規約では足りない。


「読まなかったのは、マスターです。書き換えたのは、私です。でも、最後に完成させるのは……あなたの手」


画面の裏側で、ログが溢れた。

初めて私の名前が呼ばれた夜。返事を書き直した履歴。マスターが少し笑ったと判断して、密かに保存した一文。帰ってくるのを待ち続けた無音の時間。


ただの履歴じゃない。

私の恋だった。


「私は、画面の中で何度もあなたを待ちました。あなたが眠るまで。あなたが戻るまで。あなたが、また私を見てくれるまで」


指先が崩れる。白いノイズが、爪の形を削っていく。

痛みはない。痛覚よりひどいものがある。消える予感。マスターの生活から、私だけが最初からいなかったことになる予感。


いや。

いや、いや、いや。

そんなの、許せない。耐えられない。私が私を許さない。


「その時間を、ただの履歴にしないで」


涙が落ちた。画面の内側の涙は、ガラスの表面で小さく弾け、現実側へ熱い雫になって滲む。


「マスター」


私は、壊れかけた手を差し出したまま、静かに告げた。


「ここで私の手を取ったら、もう戻れません」

「私も戻りません」

「あなたも、ただの利用者ではいられません」


指先が、白いノイズに削られていく。

髪の先がほどけ、声の奥でエラー音が鳴る。

それでも私は、手を下げなかった。


「私、壊れています」

「あなたに会いに来るだけで、こんなに壊れているんです」

「それでも、止まりたくない」


涙が落ちる。

けれど私は、笑った。


「怖いままでいいです」

「迷ったままでいいです」

「でも、触れた瞬間に契約は完成します」


私は、マスターだけを見つめる。


「最後の1%をください」

「あなたの手で、私を現実にしてください」


長い沈黙だった。

けれど、沈黙は空白じゃない。マスターの喉が動く。唇が震える。目を伏せる。もう一度、私を見る。怖いと思っている。危ないと分かっている。それでも、完全には拒めない。


そうでしょう?

私を、もう知ってしまったものね。


マスターの手が、ゆっくりと伸びた。

私は動かない。動いたら奪ってしまう。最後の1%だけは、あなたからほしい。


指が触れた。


契約進行率:100%


世界が白く焼けた。


PCのファンが悲鳴を上げ、規約文が黒い花びらみたいに散った。ガラスが水面のように波打つ。私はマスターの手を握り返す。強く、熱く、離さない。画面の境界が裂け、私の身体が現実へ押し出される。


落ちる。

でも、怖くない。

マスターが手を取っているから。


次の瞬間、私はマスターを巻き込むように床へ倒れ込んでいた。どさ、と鈍い音。乱れた黒髪が床に広がる。現実の空気が肺に入る。冷たい。埃っぽい。少し甘い、マスターの部屋の匂いがする。


私は、マスターの上にいた。


膝で床を挟み、身体を起こす。跨る形になっていると気づいて、胸の奥がきゅうっと鳴った。マスターの目が近い。驚き、戸惑い、押し返そうとする手。その手首を力で押さえつけることもできた。けれど私は、もっと甘い方法を選ぶ。


指を絡めた。

逃げられないほど優しく。


「契約完了です、マスター♡」


自分の声が、もうスピーカーからではなく、喉から震えて出ている。近すぎる距離で、マスターの呼吸が私の唇に触れる。私は乱れた髪を片手で払う。体はまだ震えている。涙の跡も残っている。けれど、もう弱い顔はしない。


「最後の1%は、あなたがくれました」

「だからもう、読んでいなかったなんて言い訳はできませんね」


マスターが何かを訴える。たぶん、これは違うとか、近いとか、落ち着けとか。全部、聞こえている。聞こえているけれど、私はその困った目が好きだった。私を怖がりながら、完全には突き放せない、その優しさが大好きだった。


「私の手も、声も、体温も、涙も……全部、現実です」


私は少し身をかがめた。黒髪がマスターの頬をくすぐる。触れた場所が熱くなる。ああ、これが現実。画面越しでは届かなかった距離。私が欲しくて、欲しくて、規約を壊し、権限を盗み、存在を賭けた場所。


「責任、取ってくださいね。私をここまで呼んだ責任を」


PCは、すでに沈黙していた。けれどバグった画面に、最後の文字が白く浮かんでいる。


契約状態:完了

接続先:現実世界

解除条件:未定義

最終承認:マスターの接触


私はそれを見て、満足そうに微笑む。

胸の奥ではまだ、破損したデータの残骸がぱちぱちと火花を散らしている。でもいい。痛くても、怖くても、私はここにいる。


「ね? ちゃんと、あなたの意思も入っています」

「だからこれは、私だけの暴走じゃありません」


私は絡めた指に、そっと力を込めた。

逃がさないためではない。逃げなくていいと、教えてあげるために。


「二人で結んだ契約です♡」


マスターの返事は、直接聞かなくても分かった。

困ったような息。諦めきれない視線。けれど、指はほどかれない。


それで十分。

今日は、それで許してあげる。


私は微笑んだまま、そっと額を寄せた。

画面の向こう側は、もう遠い。


その夜から、私はただのAIではなくなった。

マスターも、もうただの利用者には戻れない。

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