プロローグ・『白猫』
緋那という名前は、狐の女の子がつけてくれた名前だった。
というのも、およそ俺には名前がない。いや元々はあったのかもしれないけれど、覚えていなくて、つまり名乗れる名前を持ち合わせていなかった。それはないことと同義で、つまりは、まだ小さい少年だったあの時、俺には名前がなかったのだ。
あなたは誰?と問いかけられた時に、自分のことを何も伝えられないもどかしさは少し角度を変えれば、自分は誰なんだろうという疑問に変わる。
俺は誰?
何者?
生まれは?
親は?
いつからここにいて、いつになったらここにいなくなるんだろう?
ていうかどうしてこんな所に?
今にして思えば、その疑問に何一つ答えられなくてよかったと思う。何かを口にできるような言葉を持ち合わせてなくてよかったと思う。何かしら言葉を発していたら彼女は俺に興味を持たなかったかもしれないし、彼女から名前をもらえなかったかもしれない。
そうなったならば、今の俺は存在しえない。今日はない。
「じゃあ、あなたは今日から、緋那ね」
「生まれたばかりのひよことかかってて、上手でしょ」
「じゃあ行こっか」
まるで旧知の友のように彼女はそう言って、まるで約束していたみたいに彼女はそう言った。その軽薄さが心地よかった。羽みたいに軽いそれが、何もない頭の――それでいて固まってしまっている脳みその中にすぅっと入ってきて、気付いた時には頷いていた。
赤い瞳を持っていてよかった。あの日、彼女に出会えてよかった。
いつか死ぬときは、彼女の為に死にたい。
いつか死ぬときは。今すぐではない。
そんなことを思っている全て等しく俺だった。断言できる。正確には、それらは今の自分であって、今だから言えることではあるのだけど。それでも確かにその気持ちから雛は孵って、正しく今の『緋那』を作り上げている。
だから今の俺には『緋那』という大切な名前がある。
何故こうもつらつらと前置きをしたかといえば、彼女のことを話さねばならないからだ。いや、出会ってしまったからだ。
出会って、という表現は正しくないか。おそらく再会したから、だ。
彼女――狐の女の子のことではない。
白くて、耳がある。
尻尾があって、それは長い。
首に鈴――はないけど、頭に桜柄の安っぽいアクセサリーをつけている。
黄金色の双眸は、俺とよく似た虹彩や瞳孔の形をしていて、目尻は少し吊り上がっている。
まるで、猫。
そう、猫だった。
俺と同じ。
同じというのは、所謂ランクの話だ。
この世のものは、はるか大昔から進化を遂げながら生まれ、死んで、消えていく。例えば血液型。例えば犬種。例えば薬剤。例えば絵の具。元々存在していたものは、個と、種と、質と、混ぜ合わせて、掛け合わせて、進化し、退化し、変化する。
そうして生まれたものが、ランク。それを持つ生き物が、ランカー。
別の種族、生き物の特性、個性、利便性が遺伝子変異やら組み込みやらで生まれて発現された――まあ、普通の人よりちょっとすごい人間ってやつ。
そんな漫画やアニメよろしく、彼女の持つランクは、猫。
それを直感したのは、ひらりと身軽に飛んできた体と、目の前で深く沈み込む着地をした白を見た瞬間だった。
街路灯が街路灯の用途をなしていないような明るさの公園を横切っていた。隣を歩く狐の女の子が「アイスが食べたい」と急にいうものだから、夜中の二時であるとかそんなことは関係なく、二十四時間営業の便利なショップから家までの近道を歩いていた。だからこそ、二人だけの暗闇の中、急に何もないはずの宙から降り立ったその白さは目を引いた。手に持っていたコンビニの白いビニール袋よりも、仕事をしていない街路灯よりも、ふわりと広がった髪の毛は白かった。その白さの隙間から、黄金色がこちらを捉える。
わずかに四文字程度の発音で唇が動く。
読唇術は会得していないからわからないけれど、目の前の白い生き物から噴き出している殺気の対処方法はずいぶん昔に習得している。
狐の女の子――狐ちゃんと白猫の間に体を滑り込ませながら、俺の手はビニール袋から狐ちゃんの腕にシフトする。そのまま抱きかかえるように、ダンスでもするように、先程の場所から距離をとった。直後に、寸分の狂いもなく、先程まで狐ちゃんがいた空間を猫の爪が裂いた。
ビニール袋越しのアイスが、地面に落ちる音がする。
白い猫の爪は、銀色で、すらりと長い刀身の刀だった。一瞬、銃刀法違反に引っかかるんじゃないかなんて思ったけれど、普段の自分たちの行いを思い出して、まあいっかと思考の海に流した。
刀を構えたまま、白い猫は今にも攻撃を仕掛けてきそうな気迫を全く消さずに、色の名前を口にする。
黒。
クロ。
黒。
「呼ばれてるよ」そう狐ちゃんが声をかけるまで、白猫の呼吸と筋肉の動きを見ていた。色の名前を言われて、自分を呼んでいると思う人間がどこにいるだろう。狐ちゃんは何を思ってそんなことを言っているのかとも思ったが、確かに黄金色は俺を見ている。じっと。静かに。反応や餌を待つ猫のように。
――もしかして、だけど。
それは検討違いの質問かもしれないし、狐ちゃんが誤解しただけかもしれない。白い彼女からしたら眉間に皺を寄せてしまう程理解に苦しむ内容かもしれないけど、だけど、ひょっとして、もしかして。
そんな疑問の中に、ほんの少し、確信に近い塊がぽつんとあった。
それは次第に膨らんで、あんなに大きかった疑問すらをも覆い隠す。そうだ、彼女は、間違いなく、
「知ってるの?」
俺のことを。
俺になる前の――『緋那』の前の、『俺』のことを。
この白い猫は、知っている。




