創立者私
じゃがいもは夢から覚めた。いや、今までの出来事は幻ではなかった。この眠りが浅かったのか、深かったのかも彼には分からなかった。皮膚は血色を取り戻し、瞳も澄んだセルリアンブルーに戻った。彼の瞳の色を村人たちは羨ましがったが、彼自身はあまり気に入っていなかった。なぜなら唯一母から遺伝しなかった部位だからだ。きっと父親譲りの瞳なのだろう。実はじゃがいもは父親に会ったことがない。母に何度か父親のことを教えてもらおうかと試みたが、なぜかそれはじゃがいもにとってそれは、タブーのように思えたので、彼は父親の名さえも知らないのだ。さて、唯一回復していないのは頬から首元にかけての傷跡だけだった。
少年はしばらくうつ伏せになっていたことに気がつき、体をゆっくりと起こした。少し考え事をしていたので、彼には周りを見渡すという選択肢すら浮かんでこなかった。そもそも自分が何を考えていたのかも分からない。なにもない。ただ白い。身に覚えのない、しかしなぜか懐かしい匂いに包まれていた。シャボン玉のような、微睡のような、清潔感のある心地の良い香りだった。少年は自分が涙を流していることに気がついていない。生まれたばかりの子鹿のように震えている。しかしここは黄金の世界ではない。じゃがいもは自分自身が今どこにいるのかを理解したつもりでいた。少年は驚いた。表情は微動だにしなかったが、心と体の間に五センチメートルほどの空間が生まれ、そこに息を吹き込まれたように感じた。なぜなら、息を呑むほどに美しい男性に拝謁していると気がづいたからだ。少年は生まれて初めて、母よりも美しい人を見つけたのだ。ブロンドの華麗に光る長い髪の毛はどこか懐かしさがある。言葉は無くとも、首元にナイフを突きつけられているかのような重圧感がある。少年がその男性の視線から逃れることはほとんど不可能だ。この男性は天使なのかもしれないと少年は思った。が、男の顔に刻まれた透明の残酷さや瞳の奥の闇を加味して考えると、その可能性は一気に消えた。むしろ男は悪魔のようにも思えた。だがしかし、男は天使でも悪魔でもなかった。そしてようやく、少年は口を開いた。
「貴方は神様ですか?」
男は片方の口角を少し上げ、不気味な表情を見せた。そして、エッジの効いた声で応えた。
「いかにも。」
簡潔な応答だったが、その男は確実に少年の心を一瞬にして奪ったのだ。少年はその男に聞きたいことがたくさんあった。
「じゃあ俺を還してください。俺はこれからも村の平和を守らなくてはいけない。でも貴方とお話ししたいことがたくさんあります。貴方の瞳の色もセルリアンブルーですね。貴方のおかげで心の鎖が解けたような気がします。みんなが待っている。」
男は一切表情を変えず、少年の傷ついた頬に手を当てて問いかけた。
「なぜお前は偽りの正義感に支配されているのだ。善も悪も満場一致で成り立たないこの世界で、お前は自らを破滅へと導いている。」
じゃがいもは大変遺憾だった。生き様を一瞬にして罵倒されたからだ。たった今、試合開始のゴングが鳴り響いた。
「俺は死んだ母さんに託されたんだ。俺だけがあの村を。いや、この世界を守ることができる。だからこんなところでお前に構っている暇などない。」
「まだ五歳の子供に世界は背負えぬ。真実を語って差し上げよう。お前の母親は阿婆擦れ、死因は梅毒だったのだ。あの女にはお前にそのような捻じ曲がった思想を押し付ける権利などない。目を覚ませ少年。お前が信仰している母親は自らの過ちへの裁きを恐れ、身代わりに真の息子を腐り果てた闇の牢獄へと突き落とした最後まで愚かな淫乱女にすぎ…」
「黙れ!お前の語る『真実』とやらには語弊があるようだな。過ちを犯さない生物などこの世にいない。だから母さんは最後にできることをやりきったんだ。誇り高い女性だ。」
「お前は真実を知らない。他人を殺すことで矛盾を無視し、ただ自惚れているだけだ。いいか、お前が過信しているそれはもうこの世界が繰り返…」
「やめろ。」
少年はヘドロから湧き出てきた魔物のように低い声で男の話を遮った。そして、なにかが破壊された音がした。いや、その場は静寂に包まれたままであったが、小さな芋は自分自身を辛うじて成り立たせようとしている「それ」が死滅した衝撃を感じた。少年は全世界の闇に打ちひしがれたように感じた。少年は心を酷く痛めた。なにも分からない。でも聞きたくなかった。涙が溢れ出た。たった五歳の子供に負わせてはいけない責任感に押しつぶされていた。男は今回もまた表情を微動だにせず、じゃがいもを抱きしめた。男は、小さな芋の魂が凍死しそうなほどに冷たかった。そして少年の耳元に囁いた。
「もう大丈夫だ。今なら全てを終わらせることができる。自ら選択するのだ、じゃがいも。解ってくれ。」
そして少年は一時間の仮眠をとってから、じゃがいもはその男の台詞を無視して演じ続けた。
「俺は母さんのことが好きだ。なぜかって?そんなの誰でも分かるだろう、美人で巨乳だったからだ。生まれて初めてにして最高のビッチだった。俺は優越感に浸っていたんだ。合法的に人の命を弄ぶのさ。俺は死にたかったんだ。人生には意味がない。生きることに理由なんてない。意味のないことは最初のうちは面白い。でも長く続けると必ず飽きる。俺は精神が白骨化した死体のようになる瞬間が大嫌いだ。空虚なんて殺してやる。俺はお前が今まで操ってきた馬鹿共とは違う。俺は生まれながらの鬼才だ。黄泉の国までも支配する。」
男は困惑した。一時間待った結果出された応えがこれだったからた。神困惑。たかが人間が、いや、ちっぽけなじゃがいもが神をも越す存在を圧倒できるとは。そして少年は哀愁の視線を男に向け、こう言った。
「俺はお前を殺す。」
じゃがいもは男の鳩尾を殴った。男の手はじゃがいもの胴体から、平和の象徴の白い鳩の羽が舞い降りるかのように、ふわっと離れた。ここは黄泉の世界ではない。だがしかし、断じて現実世界ではない。つまりここはじゃがいもによって造り出されたparallel worldである。




