08.もうひとりの私の方が
机の上には開きっぱなしの問題集。
英単語が整然と並んでいるはずなのに、視界の端で揺れるようにぼやけていた。
書き込もうとした鉛筆の先は、白いページの上で宙ぶらりんのまま動かない。
「……無理。」
小さく吐き出した声は、自分の耳にすら頼りなげだった。
諦めたように鉛筆を置くと、自然に手はスマホへと伸びていく。
心のどこかで「勉強しなきゃ」と分かっている。
でも、それ以上に今は逃げ場が欲しかった。
画面をタップすると、レンのアカウントが開かれる。
ほんの数週間前まで、誰とも繋がらなかったその場所に、今は一人の存在がある。
「宿題やってる。俺もう心折れそう」
一文だけ。でも、それで十分だった。
笑ってしまうくらい、今の自分の気持ちと重なっている。
すぐに指が動いた。
「私も宿題やってるけど全然進まない。英語とか地獄」
待つ間もなく返事が返ってくる。
「わかる! 単語覚えてもすぐ飛ぶし」
「ほんとそれ。テストのたびに記憶リセットされる感じ」
「あるある(笑) 俺なんか昨日覚えたやつ今日忘れた」
「それ普通に才能だよね」
短いやり取り。でも、文字の向こうにちゃんと誰かがいる。
言葉を投げれば、同じ速さで返してくれる人がいる。
それだけの事なのに、心が満たされていく。
スマホの光を見つめながら、頬が自然とゆるんでいくのを止められなかった。
(陽咲としては言えなかったことが、レンとしてはこんなに簡単に口にできる。)
次に送った言葉は、自分でも意外なものだった。
「本当は、私ってあんまり明るくないんだよね」
……しまった。送ってから後悔する。
どうしてこんなこと言ったんだろう。
取り繕う言葉も思いつかないまま、息を詰めて画面を見つめた。
数秒後、返事が返ってくる。
「え、意外。でもそういうの隠してそう」
意外──その一言で、何かが少しほどけた気がした。
驚きはされても、拒絶はされなかった。
「うん、いつも笑ってないといけない気がして」
「無理して笑うのってしんどいよな」
その一行を見た瞬間、視界が滲んだ。
涙が出るほど辛いわけじゃない。
でも、心の奥の柔らかい所に、そっと手を置かれたような感覚だった。
「……しんどいよね。」
誰にも言えなかった言葉を、初めて口にできた。
しかも、それを「わかる」と受け止めてくれる人がいる。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
スマホを抱えたまま、ベッドに横たわる。
天井の白い模様を眺めながら、考える。
──陽咲より、レンの方が“私”なのかもしれない。
昼間、友達と笑い合う自分は、明るく、元気で、名前にふさわしい存在でいようと努めている。
でもそれは“そうあるべき”という役割にすぎない。
ざらついた違和感を抱えながら、無理に笑顔を貼りつけている。
一方でレンは違う。
弱さも愚痴も、飾らない言葉も、そのまま吐き出せる。
しかも、それを誰かがちゃんと聞いてくれる。
「陽咲」と「レン」
二つの私がいるなら、どちらが本当なんだろう。
――名前に縛られた陽咲
――名前の向こうに生きるレン
その境界が、少しずつ曖昧になっていくのを、彼女は確かに感じていた。




