15.二つの名前、二つの私
昼休みの教室は、今日もにぎやかだった。
笑い声が重なり合う輪の中に、陽咲も自然に加わっていた。
頬をゆるめ、声を合わせ、まるで何の不安もないかのように。
けれど――内側では、どこかふわりと浮いている感覚があった。
笑い声を上げているのに、自分だけ違う世界にいるような。
その笑顔が、自分の肌から少し浮いて貼りついている仮面のように感じる。
――私、本当に楽しいのかな。
放課後、友達と別れて帰路につくと、家の玄関は相変わらず静まり返っていた。
リビングのテーブルには、母のメモが一枚置かれている。
「夕飯は冷蔵庫。温めて食べてね」
そこには声もぬくもりもなく、ただ用件だけが残されている。
「……うん。」
思わず口にした返事は、空気に吸い込まれて消えた。
心がすり減るような静けさに、陽咲は逃げるように自室へ駆け込む。
ベッドに身を投げ出し、スマホを手に取る。
画面を開けば、レンのアイコンがそこにある。
息をつくように指が動いた。
「友達と笑ってるのに、時々、自分だけ置いていかれてるみたいになる。
楽しいはずなのに、心の奥が冷たいんだ」
数秒もしないうちに、カケルから返事が届いた。
「それ、分かる。俺もそう。
周りに合わせて笑ってても、実際は全然楽しくなかったりする」
画面を見つめる目に、じわりと熱いものがにじんだ。
――やっぱり、ここでは言える。
陽咲としては飲み込んできた言葉を、レンとしてなら素直に吐き出せる。
陽咲では見せられない。
でも、レンなら言える。
――どっちが本当の私なんだろう。
そう打ち込もうとして、陽咲は指を止めた。
本名を口に出すわけにはいかない。
それでも心の奥では、二つの名前がせめぎ合っていた。
深夜、家の静けさが耳に染み込む。
時計の針の音が、やけに大きく響く。
「レンとしての私が、本当の私……なのかも。」
小さくつぶやいた言葉は、布団の中で自分だけに届いた。
それは少し怖い実感だった。
陽咲という仮面の方が嘘で、レンの方が素直。
そう思うたびに、現実の自分がますます色あせていく。
スマホの光がまぶたにちらつく。
その中でだけ、自分は呼吸できる。
――もし、陽咲という名前が消えても、レンでいられるなら。
そんな危うい願望が、心の奥で小さく芽吹いていた。
「二つの名前、二つの私」
その境界線は、すでにあやふやになり始めていた。
やがてその揺らぎは、陽咲の心に大きな亀裂を生んでいく。




