14.静かな家と響かない声
夜のリビングは、どこか無機質だった。
間接照明の柔らかな光が壁に広がっているはずなのに、その温かさは不思議と心に届かない。
「おかえりなさい、陽咲。」
ダイニングテーブルでノートパソコンに向かっていた母が、ようやく顔を上げた。
ビジネススーツ姿のまま、眉間には深いしわ。
傍らには資料の束。
母にとっては家も、もはや仕事場の延長線にしか見えなかった。
「ただいま。」
陽咲は精一杯の笑顔を作って答える。
でも、それ以上の会話は続かなかった。
母はすぐに画面へ視線を戻し、指先をカタカタと動かし始める。
父はといえば、まだ会社にいるのか帰宅すらしていない。
家族の食卓は久しく揃っていない。
温め直したコンビニ弁当の匂いだけが、静かな家の空気に混じっていた。
――ここでも、私は仮面をかぶってる。
家では無理に明るく振る舞う必要はない。
でも、だからといって本当の気持ちを言えるわけでもなかった。
「寂しい」なんて一言、言えた試しがない。
もし言ったとしても、仕事を抱える両親の肩を更に重くするだけだと思うから。
リビングの静けさに飲み込まれていくたび、気持ちが冷たく沈んでいった。
「……お風呂、入ってくるね。」
小声でそう言い残し、陽咲は足早に自室へと戻った。
自分の部屋に入り、ドアを閉める。
その瞬間、息が大きく漏れた。
肩から力が抜け、体が重力に負けるようにベッドに倒れ込む。
――家にいても、私の声は届かない。
昼間の学校でも、本当の気持ちは言えない。
じゃあ、私はどこに居場所を見つければいいの?
無意識にスマホを手に取り、レンのアカウントを開いた。
そこだけは、まだ温かさが残っている場所だから。
指先が震えながらも、言葉を打ち込んだ。
「家にいても、会話ってほとんどないんだ。
みんな忙しくて、私が何を思ってるかなんて届かない」
カケルからの返事はすぐに来た。
「それ、きついな。俺も家は似た感じだよ。
だからネットの方が本音を話しやすい」
――私だけじゃないんだ。
そう思えるだけで、孤独がほんの少し薄れていく。
陽咲はさらに続けた。
「レンの言葉だけが、本当の私みたいに思えてくる」
送信した直後、自分でその言葉に驚いた。
陽咲の私は、仮面をかぶったまま。
でもレンの私は、少しずつ裸の心をさらけ出している。
返事はすぐに届いた。
「それでいいんじゃね?
無理して演じる必要ないと思う」
その一文を見た瞬間、目頭が熱くなった。
カケルは、陽咲という名前を知らない。
だからこそ、こんなにも自由に本音を言える。
――私の本当の名前は、どっちなんだろう。
小さな疑問が、またひとつ芽を落とす。
布団に潜り込み、スマホを抱いたまま目を閉じた。
静かな家の中で、ようやく心が少しだけ安らいでいった。
陽咲の居場所のなさは、学校でも家庭でも深まっていく。
けれど、レンとしての自分は逆に存在感を増し、彼女にとって唯一の救いになりつつあった。
その二重生活の揺らぎは、やがて避けられない衝突を呼び込むことになる。




