破れたノート
帰りのHRが終わってすぐ、私は誰よりも早く教室を出た。今日は、中間試験の順位が発表される日だ。私の学校では、テスト最終日から数えて一週間後の放課後、廊下に成績優秀者トップ二十人の総得点と名前が張り出されるのが通例だった。その日の廊下は、それを目当てにした生徒たちでごった返しになる。私ももちろんその一人だ。でも、得点なんて正直どうでもいい。大事なのは、順位なのだから。模造紙に大きく印刷された、順位表を見る。下から目を通していく。まだ私の名前はない。まだ、まだ。ようやく、私の名前を見つけた。でも、私の名前の上に行が残っているのを見た。その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。それとは裏腹に、背後で生徒たちが騒いでいる。
「また二位じゃん!さすがだね」
後から着いてきた友達の声を聞いて我に返った。また、二位。こんなに頑張ってきたはずなのに、また。これで、三回連続二位だ。どうして私はミサに勝てないのだろう。廊下の空気に耐えられなくなった私は、急いで家に帰り、試験勉強に使っていたノートをビリビリに破いた。
私は去年まで、成績一位の座を譲ったことはなかった。だから私はちょっとした有名人だった。試験前になると、クラス内外から勉強を教えて、と私の元にやってくる。何人かが、私に勝とうと勝負を申し込んできたこともあった。でも、一位の座は譲らなかった。私はそれで優越感に浸っていた。それなのに、ミサが転校してきたせいで、私の薔薇色のスクールライフが壊れてしまった。ミサは勉強も運動もできて、まさに文武両道という言葉を体現化したような人物だった。もちろん、クラスの目線はミサに釘付けになった。そのポジションは私のものだったのに。
目を向けられなくなった私は何でも持っているミサに嫉妬した。運動は勝てなくても、勉強だけは負けたくない。だから、定期試験前には寝る間も惜しんで勉強した。問題を解いて答えを間違った時には、ノートを破る。破ったページが溜まったら、それをくっつけて、またノートにする。私はそれを見直しノートと呼んでいた。そして、私はそれを見るのが好きだった。なぜなら、それは自分の頑張りが可視化された物だから。これだけ頑張ったのだから、今度こそ。そう思って今回の試験に臨んだ。でも、ミサに勝てなかった。三度目の正直なんてなかった。どうして神様は私の味方をしてくれないのだろう。
今年、残りの試験はあと二回。その二回で、私は勝たなければいけない。でも、これ以上ミサに勝てるように勉強するというのは不可能であると私は感じていた。それなら、敵を邪魔すればいいのだ。私はプライドを捨てて、ミサに微笑みかけた。
「よかったら一緒に勉強しない?」
突然話しかけた私に対しても、ミサは限りなく優しかった。他人の悪口を言ったりしないし、私のことを蔑む素振りも一切見せない。文武両道、温厚篤実という言葉が良く似合う人物だった。私はミサと話す度、こんなにできた人間を陥れようとしている自分が嫌になった。だんだん、ミサに勝つのは諦めて、このままミサと仲良くしていてもいいかもしれないと思い始めていた。ここで私が計画を実行に移せば、たとえテストの順位でミサに勝ったとしても、人間としては雲泥の差で私の負けが確定する。ミサに壊された薔薇色のスクールライフも、帰ってくることはもうないのだろうと、なんとなくわかっていた。やはり、実力で勝負したい。結局、あの残酷な計画は白紙に戻すことにした。私はノートを握りしめ、ページを破る音を部屋中に響かせた。
この一か月半、私とミサはお互いに好きなゲームの話で盛り上がったり、一緒に勉強をしたり、着々と親交を深めていった。そしてついに、試験日まで切磋琢磨しようという目的で、互いのノートを交換した。ミサのノートを手にしたとき、思わず鼓動が高鳴った。このノートがあれば、私はミサに勝てるかもしれない、と微かな期待を胸にそのノートのページを捲った時、私は自分のノートとの違いに驚愕した。
丁寧に整頓された要点と問題。それはノートと言うより教科書と言ったほうが似合うくらい、誰が見ても規範となるようなノートだった。ひたすら単語や問題を書き込んだだけの単語帳のような自分のノートを、このノートの持ち主に貸したことを、酷く後悔した。比較的ページの残っている、綺麗なノートを貸したつもりだったが、このノートに綺麗さで勝てるわけがない。そう思うと、私の鼓動はさらに速度を上げた。どこかにきっと、間違いがあるはずだ。血眼になって、汗が滲む手でひたすらページを捲る。
─ビリッ。紙が破れる音がした。震えた右手には、赤いバツ印が書かれた一枚の紙があった。ああ、やってしまった。ようやくこの状況を理解した私は、その場から動けなくなってしまった。膨大な後悔と、ほんの少しの優越感を覚えながら、ただ、ノートを見つめることしかできなかった。
次の日、私はミサに破れたノートを差し出した。それを見たミサは一拍置いて、ふっと笑った。その笑顔が、とてつもなく怖かった。
「いつもの癖で、ごめん」
ミサは、よくわからない言い訳みたいなことを言ってしまった私の手から、自分の破れたノートを取った。
「間違えた所を破って見直しノート作るの、めちゃくちゃユニークで、私も真似してみたいと思ってたんだよね!だから、本当に、気にしないで!」
ミサは乾いた笑顔を私に見せた。でも、その笑顔の裏には怒りや悲しみが隠されているということを、私は感じ取った。あんなに綺麗に整えたノートを乱されて、何の怒りも抱かないはずがなかった。私の手元には、自分のノートが返って来た。
「そのノート、いつも頑張ってるんだろうなって伝わってきたよ」
明るいけど、どこか寂しげな声で言った。相変わらずどこまでも優しいミサに対して、私の心は傷つくだけだった。やはり私には、この破れた、決して綺麗とは言えないノートがお似合いだと思った。私の心を具現化したような、ボロボロのノート。私はその場にいるのが辛くて、ミサにごめんと呟いたあと、急いで家に帰った。
それから私はミサと目を合わせることができなくなった。教室で彼女の背中を眺める度、手元のノートが私を睨みつけた。それでも、ペンを動かしてノートを破る手は止まらなかった。
結局、そのまま期末試験の日になってしまった。脈打つ鼓動を抑えながら、ひたすら勉強したことを思い出す。あの日から、私は猛烈に勉強した。あの事件はなかったかのように、いつも通り、問題を解いてノートを破っていた。
そして無事に試験を終え、迎えた順位発表日。私の名前の上に行は残っていなかった。ついに、ミサに勝った。ミサに勝ったのだ。全身が震えて、頭が真っ白になった。でも、私は心から嬉しいと思えなかった。一という数字が、ただの記号のように見えた。私は本当に勝ったと言っていいのだろうか。私のことを見つめる群衆から逃げるように廊下を走り抜けた。私の名前を呼ぶ友達の声が聞こえたような気がしたが、それも無視してひたすら逃げた。
私は部屋に帰って、床に積まれたノートを見下ろした。何故か、そこからミサの声が聞こえたような気がした。耐えきれなくなった私は、そのノートを庭で全て燃やした。紙が燃える匂いが、私の鼻にツンと入って来る。最後の一冊を手に取ると、それを炎に近づける手が震えた。そうして結局、燃え尽きた私のノートが灰になって宙に舞う中、澄んだ冬の冷たい空気が、燃え尽きない私の心を冷やした。