忘れられた教室
その教室は、私の教室の真上にある。生徒数の減少によって使われなくなった、今は物置状態の教室。物置状態だからと言って、誰かがその物置を使っていることもなければ、鍵が掛かっていて入れない、ということもないらしい。でも、物置は物置だ。そこにふざけて足を踏み入れると、謎の少女に襲われるとか、成績が落ちる呪いをかけられるとか、根拠のない噂が定期的に立っている。私は幽霊や呪いなどに別段興味はないが、授業中の暇つぶしをするには持ってこいの話だ。私は時折、ノートの右端に少女を描いて、その呪いとやらを考える。少女は、どのような思いを持って呪いをかけるのだろうか。
ふと、黒板が、三角関数の数式やグラフで埋め尽くされていることに気が付いた。私は焦って黒板に書かれた内容を書き写した。放物線を綺麗に書くのは中々難しい。何度も消しゴムを擦っていたら、うっかりノートの右端の少女の右腕も消してしまった。制服を着て棒立ちをしている、黒い長髪の少女。わざわざ描き直すものでもないと思って、そのまま少女の姿ごと消した。それを見透かしていたかのように、無機質なチャイムが授業の終わりを告げた。
放課後は、図書室に寄ってから帰るのが私の日課だった。放課後すぐに校舎を出ると、バス停の行列に並ぶことになるから、少し時間を置いたほうが快適に下校できるのだ。しかし、今日は図書室ではなく、あの教室に行ってみることにした。生徒が一斉に階段を下っていく中、一人階段を上る。校舎全体が生徒で賑わう中、あの教室だけが、まるで忘れられたかのように存在している。
その、静寂に包まれた教室の前に着いた。早速、後方のドアに手を掛けたが、鍵が掛かっていて開かなかった。鍵は掛かっていないと聞いていたのだが。まあ、片方のドアが開けば十分だ、と、次は前方のドアに手を掛けた。今度は、驚く程軽やかにドアが開いた。中に誰もいないことを確認して、恐る恐る足を踏み入れた。
そこには、古い机や椅子が堆く積まれ、黒板や掲示板には、色褪せた掲示物が、錆びたマグネットで貼り付けられていた。本当に、忘れられたという比喩がよく似合う教室だった。でもその中で、不自然に整えられている場所があった。黒板の前に教卓が二つ、L字型に置かれ、その中心に椅子が一つ置かれていた。しかも、誰かが先程までここに存在していたかのような雰囲気があった。怖くなった私は、急いで教室から逃げようと思ったが、ドアの一番近くに置かれた机の中に、昔の物とは思えない程、綺麗なノートがあることに気が付いた。呪いをかけられる恐怖よりも、好奇心が勝ってしまった私は、そのノートを捲った。そこには、かくれんぼをしているような落書きがいくつか描かれていた。上手に隠れているのは、どれも同じ少女だった。それが呪文書ではなかったことに安堵と少しの失望を感じながら、そっとノートを閉じ、教室を後にした。
私は次の日もあの教室に足を向けた。その次の日も、何日通い続けても、教室の雰囲気も、ノートの落書きも何も変わらなかった。ただ、誰かの雰囲気が残っているだけだ。耐えきられなくなった私は、とうとう黒板にメッセージを書き込んでしまった。返事が来ることは期待していなかった。でも、この教室に住む誰かは、良い意味で裏切ってくれた。昼休み、という、たった三字の答えが返ってきた。私はそれを目にした瞬間、鼓動が高鳴っていくのを感じた。
昼休みそこにいたのは、制服を着て、黒い長髪を一つに結わいた少女だった。まさに、私がイメージしていた通りだ。
「二度とこの教室に入らないで」
私の姿を認識するなり、少女は私を鋭く睨んだ。
「この教室は私の心。既に不安と恐怖で埋め尽くされてる。ここに部外者が入る余地はもうないの。―今まで、誰かが入ってきたことはないけど」
と、彼女は少し震えた声で言った。私はただ、謝ることしかできなかった。彼女は私を恐れている。ほんの少しの好奇心で足を踏み入れてしまったばかりに、彼女の心を踏み躙ることになってしまった。一緒に食べようと思ってお弁当を持ってきたのに、それもできなかった。そのまま教室のドアを閉める瞬間、彼女の瞳の奥に翳りが見えた気がした。
私は次の日もあの教室に行った。今日もお弁当を持って。拒絶されるとわかっていても、彼女が私を引き付けていると感じたから。案の定、教室に着くなり、彼女は私を睨んだ。でも、それだけだった。昨日のように強い言葉を投げかけてくることもなければ、態度を荒げることもない。ただ、教卓前の椅子に腰を掛けて、膝に重ねた自分の手を見つめているだけだ。私は意を決して、重たかった口を開いた。
「お弁当、一緒に食べてもいい?」
すると彼女は驚いた顔をして、小さく頷いた。そして、積まれた椅子を一つ取って、教卓の横に置いてくれた。彼女は何も話さないし目も合わせてくれないが、昨日のように私を拒絶していないということはわかった。
「ありがとう」
やはり、彼女は何も言わなかった。でも、それでよかった。私たちは二人だけの静かな教室で、お弁当を食べた。
初めは何も口を利いてくれなかったが、毎日ここに通っていたら、彼女はだんだん話をしてくれるようになった。名前はミヨと言って、一年二組。部活もバイトもしていない。趣味は本を読むこと。夢は教師になることだと教えてくれた。いつからか、私たちは放課後もここで会い、一緒に下校するようになった。学年も違うのに、二人だけで話をするのが、ただ楽しかった。それはミヨも同じ気持ちだったようだ。でもたまに、彼女の表情が強張る時がある。それは決まって、学校の話をする時だった。クラスの様子を尋ねた時、ミヨは一瞬固まって、みんな仲は良いと思う、と俯きながら言った。なんで教師になりたいのか聞いた時は、いつか教えてあげる、と意味深な答え方をした。
今日はようやく、教える気になったらしい。ミヨは、少し真剣な面持ちで、呼吸を整えながら話し始めた。
「私、中学の頃いじめられてたんだ」
ミヨは静かにそう告白した。私は何も言えなかった。私の辞書には、こういう時に使える言葉がない。ただ、ミヨの目を見て、話を聞いてあげることくらいしかできない。
「私は教室の中にいるはずなのに、誰も私を見てくれなかった。誰も私の声を聞いてくれなかった。誰も私の存在を記憶の引き出しに入れてくれなかった。私の人生なんて、ずっと道端の雑草みたいな人生だった。でも本当は、私だって、誰かに見つけてもらいたかった」
「私は、私みたいな忘れ物を見つけられる先生になりたい」
ミヨの目には大粒の涙が浮かんでいた。でも、彼女の眼差しは力強かった。初めに睨まれた時と同じようで、全く違う表情だった。また私は何も言えなかった。適切な言葉が辞書にないからではない。私にも、心当たりがあったからだ。
去年、クラスでいじめを受けていた女の子がいた。私は何もしなかった。そう、何もしなかったのだ。そういえば、その子はミヨによく似ていたような気がした。
「ごめん」
誰に向けた、誰の言葉なのかわからない言葉が、静寂の教室に響いた。
放課を告げる、無機質なチャイムが鳴り、横殴りの重い雨が、教室の窓を打ち付けた。私はあの子の顔を思い出した。あの時、何もできなかった自分。そして、目の前にいるかくれんぼに負けた少女。でもこれから彼女は、誰かを見つけるために、強い鬼になるのだろう。ふと目をそらすと、いつの間にか整えられていた黒板に、雨の隙間から微かに漏れた光が映っていた。