第8話 一年に一度のチーズケーキ
林の隙間から真っ直ぐな光が差し込み、空気は澄みきっていた。木の葉の表面を撫でるように、風が通り抜け、すずめたちが、枝の上で「ちゅん、ちゅん」と鳴いていた。まるで、特定の誰かを待つためのように。
いつもならお店の入り口に「営業中」と「一名限定」の木の板も、今日は掛かっていなかった。
店の中は外よりもわずかに涼しく、けれど冷たさはなく、ひんやりとした静けさが、空間の隅々にまで行き渡っていた。
木の床は磨かれて艶を帯び、テーブル席はきちんと整えられていて、グラスや器は棚にきれいに収まり、どこか時間だけが静かに過ぎているようだった。
そのなかで「カチャカチャ」と、カウンターの奥から小さな金属音とともに、甘い香りも漂ってきた。
暖簾をくぐると、グレーのシャツの袖を肘まで捲り、無言のまま、オーブンの前に立っているマスターの姿が。
その動きはゆっくりとしていて、焦りも力みもない。ただ、淡々と、決まった手順をなぞるように。
マスターはオーブンの扉をそっと開け、中の様子を覗き込む。鉄板の上では、薄く色づいた小ぶりのチーズケーキが静かに焼かれていた。表面が、オーブンの灯りに照らされてほのかに光っている。少し顔を近づけて、表面の焼き色を確かめると、小さく頷いて扉を閉じた。
すると、マスターはカウンターの方へ行き、棚から金と銀、それぞれの縁に細やかなレース模様が施された白磁のカップとソーサーを取り出した。淡い光を受けて静かに艶を放つその器は、丁寧に扱わなければ音を立ててしまいそうなほど繊細だ。
そのペアを手に取り、テーブル席の方へそっと、向き合うようにして置いた次の瞬間、扉の向こうから、やわらかな光が差し込み、風がそっと林を抜け、室内の空気をやさしく揺らした。
マスターは顔を上げ視線を扉の方へ向けると、ひとりの女性が入ってきた。
白いワンピースに、薄手のカーディガン。肩で揺れる髪は、淡い茶色の中に一筋の白を含み、陽の光に透けて見える。年齢という概念がどこか遠くに追いやられたような、時の流れの外側にいるような──そんな印象を与える、気品ある佇まいだった。
彼女は何も言わずに、ゆっくりと目を細め、ほんのわずかに微笑む。
マスターはそれに応えるように、静かに口を開いた。
「……今年も来てくれたか」
話は、マスターが“ただの男”だった頃——四年前に遡る。
* * *
彼は海沿いの国道を、走らせながら”あるところ”へ向かっていた。助手席には、小さな花束が。左手に広がる海は、光を受けて穏やかに揺れ、窓の外から入る風の音と、タイヤがアスファルトを撫でる音だけが、一定のリズムで流れていた。やがて、右のウィンカーを点滅させスピードを落とし、波音の近づく広めの駐車スペースに滑り込ませると、エンジンを止める音が静かな昼の空気に溶けていった。
彼は助手席に置いた小さな花束を持って、ゆっくりとドアを開けると、ほんのりと潮の匂いと同時にシャツの裾をはらりと揺らした。ドアを静かに閉めたあと、そのまま立ち尽くすように手に持った花を見つめていた。
やがて視線を高台へ移すと、海を背に、墓標がいくつも並ぶ霊園が、遠くの空と境界線もないままにつながっていた。
霊園の小道をゆっくり進むと、やがてある墓前にたどり着いた。彼は無言のまま、その前に膝を落とし、花をそっと置いた。墓標には何も語らず、ただ静かに手を合わせる。
背後から聞こえてくるのは、遠い波音とかすかな風のざわめき。鳥の声ひとつ聞こえない、昼の静けさが、まるでその場だけ時間の流れを止めているかのようだった。
しばらく目を閉じたまま動かずにいた。言葉にならない何かを、胸の中でゆっくりと語るように。呼吸のたびに、ほんの少しだけ肩が上下する。静かに立ち上がると、墓に一礼し、振り返らずに小道を戻った。
海沿いの道を走る帰り道。彼は黙ったままハンドルを握っていた。やがて海は遠ざかり、車は林の中へと入っていく。木々の間からこぼれる淡い光が、フロントガラスを通して静かに車内を照らし、ほんのりと揺れる。
そんな光の中に、木立に囲まれた一軒の平屋が姿を見せた。木造の外壁は新しく、まだどこか仮住まいのような佇まい。
ここは、一年前に亡くした妻とふたりで始めるはずだった——喫茶店兼マイホーム。
生前の妻と、『老後は静かな森の中で小さな店をやろう』と話していた夢。彼は長年、ホテルの総料理長として多忙な日々を送ってきたが、引退する数年前に土地を購入し、ようやくこの家を建て終えた。しかし、完成を待たずして妻は病に倒れ、この場所に立つことはなかった。
彼は車を停め、静かに運転席のドアを開けた。足元の雑草を踏みしめながら歩を進め、店の入り口となる戸を開けると、木の香りと乾いた空気が出迎えた。
中に入ると、そこはまだ、店というにはあまりに空っぽだった。床は新しい木のまま、テーブルも椅子も置かれていない。
大きな窓からは柔らかい光が差し込んでいて、壁際に寄せられたダンボールの山が、そのまま時間を止めているかのようだった。
カウンターだけはすでに取り付けられており、その奥へと、彼はゆっくりと歩いていく。
キッチンを抜け、さらに奥へ進むと、私的な空間——リビングに繋がる。そこには二人暮らし用に揃えたソファと、まだ開封されていない家電の箱がいくつか。彼はソファに身を沈めた。
「……はぁ」
かすれるような声でつぶやいたあと、目を閉じ、そのまま、ゆっくりと、静かな眠りに落ちていった。
「……あなた」
優しい声が、どこか遠くから届いてくる。霞がかった視界に、柔らかな光がにじむ。
「あなた、起きて……」
ふいにその声が近づき、彼はゆっくりと振り返った。そこにいたのは、紛れもなく妻だった。
「……どうして……」
問いかける彼に、彼女は微笑む。
「あなたのチーズケーキが、食べたくて」
その瞬間、どこからか、甘く香ばしいチーズケーキの匂いがふわりと漂った。
──ぱちり、と目を開けると、窓の外はすっかり暮れていた。
「こんなに寝てしまったか……」ソファから体を起こし、額に手をやって軽くため息をつく。さっきまでの光景は、夢だったのかもしれない。
それでも——空気の片隅に、あの甘い香りだけが、まだ微かに残っていた。
彼はテレビのリモコンを手に取り、何気なく電源を入れると、砂嵐がザーと鳴った。
「おかしいな……アンテナの問題か」
眉をひそめながら、外のアンテナの様子を見に立ち上がり、喫茶店として使うはずだったスペースへ足を運んだ。
すると、昼間に感じた新築の乾いた匂いとは違う、ほんのわずかに温もりを含んだ空気に感じた。そして、カウンターの上に何かが置かれているのに気づいた。
「……便箋?……こんなのあったか」白く、折り目のついた紙が、一枚だけそっと置かれていた。ゆっくりと手に取り、封を開けると、そこには見覚えのある筆跡。やわらかな線で綴られた文字が、彼の胸を締めつけた。
『いま、私は未来を生きているの。このお店は、きっと誰かの心をやさしく包む場所になる。あなたはそれができる人。だから、大丈夫。』
彼は紙面を見つめたまま、しばらく動けずにいた。言葉の意味は正直よくわからない。ただ、そこに宿る“温度”だけは、たしかに彼の心をゆっくりと溶かしていった。
「どういうことだ……」
ふと立ち上がり、玄関のほうへ歩を進める。扉に手をかけると、わずかに冷たい空気が指先を撫でた。ギィ……と音を立てて開け放つ。
……そこには、見慣れた風景ではなかった。
木々のざわめきがどこか遠く、空の青も、地面の質感も、少しだけ柔らかく感じられる。世界の輪郭が、ゆるやかにぼやけている。音のない夢の中にいるような、そんな“異様な空間”。
「なんだ……ここは……」
彼はゆっくりと店の中に引き返し、ふたたびカウンターに置かれた便箋に視線を落とす。
『悩みを抱えている人には、ちゃんと向き合ってほしい。たった一人でもいいから、ちゃんと向き合ってあげてほしい。たくさんの人と向き合えるあなたが、本当に向き合いたいのは、きっと“目の前のひとり”だと思うの。その人の声に耳を傾けて、そっと、心を包んであげて。あなたは、そういう料理人だったでしょう?』
文字が滲みそうになるのをこらえながら、最後の一文を読んだ。
『結婚記念日にいつも作ってくれたチーズケーキ。また食べたいな。』
胸が詰まり、息が浅くなる。彼はもう一度、玄関へと向かい、扉を開け放った。
今度は確信を持って思った。
「やっぱり、どこか異様な空間だ。でも……どうして」
そう思いながら中へ戻ろうと、振り返ったそのとき──扉の上に、木の札が二枚、ぶらさがっているのが目に入った。
【営業中】【一名限定】
「……こんなの、さっきまでは……」ここがどこなのか、どういうことなのか、ますます理解が追いつかない。けれど、確実に“何かが始まってしまった”という実感だけが、ゆっくりと身体に染みていく。
すると、静かな空気を切るように扉が開いた。
(今度はなんだ?!)
彼は驚いて振り返ると、一人の男性が入ってきた。
店内をぐるりと見渡し、少し戸惑いながら口を開いた。
「……あのー、やってますか?」
彼は一瞬、声が出なかった。まさか本当に誰かが入ってくるとは――咄嗟に反応できず、わずかに間が空いた。
「あっ……えぇ……」なんとか言葉をつなぎ、ぎこちなく笑う。「どうぞ、こちらへ」
カウンター席を手で示し、慌ててグラスに水を注ぐ。客が静かに腰を下ろすのを確認しながら、彼は内心で戸惑っていた。
(どうすればいい……メニューも、何も用意してないのに)
「あの……メニューってありますか?」
「えーと……メニューは無いんです。 でも、だいたいのものは作れますよ」
そう答えると、男性は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにふっと口元を緩めた。
「……じゃあ、ナポリタンとか、大丈夫ですか?」
彼はうなずいた。
「はい、大丈夫です」
そう言いながら、彼は家のキッチンにある材料を、頭の中でひとつずつ思い出す。この“店”が何なのかはまだ分からない。けれど、お客一人に応えることなら、できる。
目の前の一人と、向き合うために。
* * *
いくつかの季節が巡り、店は静かにその日常を繰り返していた。
厨房の奥では、バターの香りが広がり、マスターはオーブンの温度を確認しながら、生地を型に流し込んでいるところだった。
カチリ、とオーブンのつまみを戻したちょうどそのとき──扉の開く音がした。
「おかしいな、閉店の札を出していたはずだが」
マスターは厨房から声をかけた。
「すみません、まだ準備中なんです」だが、返事はない。
(……?)
訝しげに眉をひそめ、タオルで手をぬぐいながら店内に出ると、そこには──亡き妻の姿が。
入り口のすぐそば。春の光に照らされながら、静かに立っていた。
「……」
言葉にならないまま、マスターは立ち尽くす。幻か、夢か、いや、確かにそこに“いる”。
彼女は、微笑んでいた。あの頃と同じ笑顔で。
「……食べたくなって来ちゃった」
しばらく、何も言えなかった。けれどやがて、彼の頬がゆるむ。
「……あぁ」まるで、どこかで時間が止まったようだった。
──それからは、毎年。結婚記念日になると彼女が現れ、マスターは静かにチーズケーキを焼いて待つようになった。
* * *
そして今日──四度目の結婚記念日。
オーブンの扉をそっと開けると、焼きたてのケーキから、ふわりと甘い香りが立ちのぼった。表面はきつね色に染まり、ほんのりとひび割れができている。
ナイフを湯につけ、布で水滴を拭い取る。そして静かに、切れ目を入れる。しゅっ…と小さく音を立てて刃が沈み、断面からは優しい香りとともに、なめらかな質感がのぞいた。
マスターはふた切れを白い皿にそっと乗せ、テーブル席へと戻ると、彼女はすでに椅子に腰かけ、手を膝の上に重ねていた。カップには紅茶が注がれ、うっすらと湯気が立ち上っている。マスターも向かいに腰を下ろし、小さくつぶやいた。
「お待たせ」
その言葉に、彼女は小さく頷く。
ふたりは同時にフォークを手に取り、口に運ぶ。ふわりと広がる、甘さと酸味のバランス。それは、懐かしさとも、まだ語られていない思い出とも言えるような味だった。
彼女は一口食べると、目を細めた。
「……変わらないわね、この味」
マスターは小さく息を吐き、そして短く返す。
「変えようがない」
ふたりの間に、しばしの静寂が降りた。カップを持ち上げ、口をつける。紅茶の香りが鼻腔をくすぐり、ゆっくりと身体に染みていく。
外では、まだ雀たちが鳴いている。けれどその鳴き声は、いつの間にか、少し遠くなっていた。
やがて、彼女が目を落とし、そっと言葉をこぼす。
「“あの人たち”は──救えたの?」
マスターは動きを止め、静かに視線を彼女に向けた。そして、ゆっくりと首を横に振る。それ以上の言葉はなかった。
彼女は目を閉じ、しばらく黙っていた。その横顔には、悲しみも怒りもなかった。ただ、受け入れる者の表情だけが、そこにあった。
*
「……じゃあ、また来年ね」
彼女がそう言ったとき、マスターは静かにうなずいた。それ以上ふたりは言葉を交わさず、白いワンピースの背が静かに立ち上がり、ドアへ向かって歩き出す。
扉がゆっくりと開くと、陽が傾きかけた林の奥から、細い風が差し込んできた。その風を纏い、彼女はそっと姿を消した。
扉が閉まると、店内には静寂が戻った。マスターは紅茶の冷めゆくカップを見つめたまま、しばらく身じろぎもせず座っていた。