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第7話 パストラミサンドと記憶にない映像

遮光カーテンの隙間から射し込んだ細い光が、まぶたをこじ開けるように差し込んできた。


「……ん、何時だ?」


痰が絡んだ乾いた喉でぼそりとつぶやき、布団の中で寝返りを打つ。壁にかかった時計に目をやると、針は9時を回っていた。


起き上がるでもなく、しばらくは天井を見つめたまま、ゆるい時間を泳ぐ。そのまま床に投げ捨てられていたリモコンに手を伸ばし、テレビをポチッとつけた。いつもの朝の情報番組の音が、部屋に流れ出す。


俺にとってはテレビから聞こえるメインキャスターの顔を見ると朝が来たなって感じる。ちゃんと見ることはせず、雰囲気として垂れ流したまま洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨く。そのあいだも、テレビの音声はずっと耳の隅で鳴っていた。


『昨日の午後4時ごろ、都内でタクシーが歩行者3人をはねる事故がありました。……交差点で信号待ちをしていた小野寺……』


歯ブラシをくわえたまま、洗面台の鏡越しにテレビをちらっと見る。事故現場の映像。ブルーシートと規制線、警察官。


『被害者のうち2人が死亡、一人は重体……』


「……あらまぁ」


『運転をしていたタクシー運転手の佐伯明良さんも死亡が確認……』


泡だらけの口で、小さくつぶやく。特に心を動かされるわけでもない。ただの“日常”のひとつみたいな気がしていた。


口をゆすいでからキッチンへ向かう。流しの横には、スーパーで買った「10食入りレンチンご飯パック」の袋が転がっている。そのうちのひとつを取り出してレンジに放り込み、インスタント味噌汁にお湯を注ぎ、納豆のパックを開ける。フライパンで目玉焼きをひとつだけ焼いて、いつもの朝飯が完成。


ご飯、味噌汁、納豆、目玉焼き。誰に見せるわけでもない、いつも通りのセット。でもこれが好きな朝食だ。


 テレビでは、さっきの事故のニュースが終わって、天気予報に切り替わっていた。今日は晴れるらしい。でも窓の外はまだ、薄曇り。


 飯を食べ終えてから、洗濯機を回し、ついでに掃除機も軽くかける。洗濯が終わるまでにノートパソコンを立ち上げて、ブログを更新。


タイトルは「昨日の配達先で起きたこと、持ち帰った廃棄のピザについて」俺は週5でピザデリバリーのバイトをし、それだけで生計を立ててる。なんの価値もない、ただの日記のような記録。でも、なんとなく書き続けてる。自分の生活が、どこかに存在していた証を残しておきたいだけなのかもしれない。


本当は、バンドで食ってくはずだった。夢見て上京して、スタジオにこもって、ライブして、でも現実は違った。単に努力が足りないと言えばそれまでだが、何をするにも中途半端だった。


”コツコツ、毎日、数時間” このワードが嫌いだった。いや、できないから嫌いなのかもしれない。


音楽をやめてからは、仮想通貨とかアフィリエイトとか動画編集とか、いろんな副業に手を出したけど、どれも続かなかった。残ったのは100万以上の借金。


唯一、続いてるのが、散歩系のYouTubeチャンネル。スマホをジンバルに装着して、ただ歩いてるだけの映像を撮ってアップする。誰が見るんだって話だけど、たまに知らない誰かが「癒されました」とコメントくれたりすると嬉しい。


もともと、ノープランで街を歩くのが好きだったから、俺には合ってるのかもしれない。


「……よし、たまには都内、行ってみるか」


誰に言うでもなく、独り言みたいにつぶやいて、カメラの準備をする。バッテリーは満タン、ジンバルの動きも悪くない。行き先は決めてないけど、なんとなく今日は、普段と違う何かが起こる気がした。


……でもそのときは、まさか本当にそうなるとは思ってもなかった。俺のスマホからあの映像が出てくるまでは。



 40分くらいかけ、目的の駅に降り立った。中央線、都内の西側にあるところだ。降りたことはあるような、でもほとんど覚えていないような、そんな駅。


 午前中は雲が多かったけど、天気予報の通り、少しずつ晴れ間が見えてきた。日差しはまだ弱いけど、雲の切れ間から覗く青空が、なんとなく気分を軽くしてくれる。


 ジンバルにスマホをセットして、録画ボタンをタップする。駅前を歩きながら、商店街を抜け、裏道に入ったり、川沿いの遊歩道を歩いたり。特に目的地はない。撮れ高なんて期待してないし、むしろ偶然の風景に出会うほうが好きだった。


 古いアパート、誰もいない神社、落ちた銀杏、道端の猫。そのへんをなんとなく撮りながら、歩く、歩く。体を動かしてるとちょうどいいくらいの気候だった。


 撮影を始めて1時間くらい経ったころ。ふいに手に持ったジンバルが ”ガクッ" と軽く傾いた。


「おっ?」


 スマホの画面をのぞき込むと、急に映像が乱れはじめ、ノイズが走りだした。縦に何本もの白い線がバチバチと入り、色も変に反転してる。


 そして次の瞬間、画面がぷつんと真っ黒になった。


「おいおい、マジかよ」


 俺は立ち止まって、スマホのボタンをいくつか押してみたけど反応がない。電源ボタンを長押ししても画面は真っ暗のまま。


「バッテリー切れ? いや、フル充電してきたはずだ」


これじゃ撮れ高もクソもない。力が抜けて、その場でふっとため息をついたそのとき、さっきまで住宅街だったはずの景色が、妙に静まり返っている。道の両脇に雑草が伸び、舗装も少しひび割れていて、人気がまったくない。


「あれ……ここって、こんな場所だったか?」何分も歩いてると方向感覚が狂うことはあるけど、それにしても違和感が強い。視線を右にやると、ぽつんと、一軒の建物があった。


 入口には「営業中」と書かれた札。古びた外観だけど、どこか喫茶店のような、ゆるい雰囲気が漂っている。


「なんだろう……」


 見知らぬ場所で、撮影は途中で潰れ、スマホも反応しない。


「まあ……こういう日は無理しても仕方ない。ちょっと休憩がてら、スマホを冷ましてやろうか」


そんな考えが、頭の片隅に浮かんだ。


 ふと入口の横に目をやると、「一名限定」の文字が小さく掲げられていた。


「一名限定……?」


 珍しい営業スタイルだなと思いながら、店の窓から中をのぞいてみる。でも、ガラスが曇っていて、中の様子はほとんど見えない。誰かいるのか、いないのかもわからなかった。


 どうしようかと一瞬迷ったけど、気がつけば、俺の足は勝手に動いていた。古びた木の戸を開け、カランコロンとカウベルの音と共に、ほんのわずかだけ、空気の匂いが変わった気がした。


 店に入った瞬間、鼻をくすぐったのは、懐かしい年季の入った木の匂いだった。昔、軽井沢にあった叔父の経営するペンションに行くとよくこんな匂いがした。古びたジャズ喫茶にでも迷い込んだような、そんな空気。ほんのりと湿気を含んだ木材の香りに、わずかに焙煎された豆の匂いが混ざっている。


照明は控えめで、壁やカウンターの木目も少し焼けている。たぶん何年、いや何十年もかけて染み込んだ匂いと色だ。時間が、少しだけゆっくり流れている気がする。


すると、奥からマスターらしき男が出てきて、静かに一礼した。年齢は60代くらいだろうか。背筋がまっすぐ伸びていて、寡黙そうな感じ。


「いらっしゃい」


 そう言うと、入口の「営業中」の札をひっくり返して「閉店」にした。 そしてまた、カウンターの奥に戻ると、俺に視線を向けて、


「何になさいます?」


と、静かに尋ねてきた。


俺は、カウンター席に腰を下ろしながら、とりあえず声を出した。


「じゃあ……ホットコーヒーください」


 そう言いながら、目線は店内のどこかにメニューを探していたが、壁にも、テーブルの上にも、どこにもメニューらしいものが見当たらない。


 少し戸惑っていると、そのあいだに、マスターは無言でカウンター奥の棚から瓶を取り出し、中のコーヒー豆をミルに入れ始め、カリカリと手回しのミルから小さな音を立てはじめる。


「それと……何か食べ物、あります?」


 そう尋ねると、マスターは手を止めて、こちらを見た。


「はい、なにがよろしいですか? だいたいのものは作れますよ」


「そうですか……じゃあ、サンドイッチをお願いします」


「サンドイッチの具は何がいいですか?」


 まるで、常連に聞くような自然さだった。 少し考えてから、俺は肩をすくめて言った。


「……お任せで」


 我ながら、生意気な言い方だったかもしれない。けどマスターは特に気にした様子もなく、カウンターの奥にかかった暖簾を掻い潜って、奥へと入っていった。あの奥がたぶん、厨房なんだろう。


 注文を終えてから、俺はカウンターに肘をつきながら、店内を何気なく見渡した。棚には古いラジカセ、奥の壁には額に入った風景画。そしてふと、棚の上に置かれた写真立てに目が留まった。


 そこには、柔らかく笑う女性が一人、端っこに写っており、背景はどこかの学校の正門のようにも見える。でもその構図は、どう見ても“誰かの隣”にいる雰囲気だった。


 画角の右側がぽっかりと空いていて――まるで、何かが写っていたのに消えてしまったような。


 写真の女性は、なぜかとても楽しそうな顔をしていた。 その表情が逆に、何かを“思い出させる”ような気がして、視線をそらした。


しばらくして、香ばしいパンの匂いが漂ってきた。


「お待たせしました」


 マスターが持ってきたお皿の上には、焼き目のついたライ麦パンに、パストラミビーフとシャキシャキのレタスがたっぷり。粒マスタードと白っぽいソースが、パンの断面からほどよくにじんでいた。見た目だけで、確実にうまいとわかるやつだ。


 コーヒーからは湯気が立っていて、香ばしい匂いがふわりと漂う。


「どうぞ」


 斜向かいに腰を下ろしたマスターは、同じパストラミサンドとコーヒーに手をつけた。


俺はそこまでお腹が減っていたわけではないが、このボリュームたっぷりのサンドイッチを見ると一気に食欲が湧いてきた。


「それじゃ……いただきます」


 一口食べた瞬間、思わず声が漏れた。


「……ん?!」 厚みのある数枚のパストラミビーフとクリーミーなソースに仕立てたマスタードの味わいが口いっぱいに広がった。濃厚でありながらシャキシャキレタスがうまい具合にさっぱりとジューシーに変わる。


「うまい」 なのに、どこかやさしい。気取ってないのに、ちゃんとうまい。


 マスターは”いつもの味”というような感じで黙々と食べ進める。


 気づけばあっという間に食べ終えていた。 コーヒーを一口すすると、口の中がすっと落ち着く。 こんなふうにランチで満たされるの、久しぶりかもしれない。


 体が温まったせいか、急にトイレに行きたくなって、席を立った。 カウンター奥にあるドアの横に、手書きの「お手洗い」のプレートが掛かっている。


 用を足しながら、ふと思い出した。 ――これ、会計っていくらだろ。


 パストラミサンドなんて、普段食わないけど、あきらかに高いやつだ。 下手したらコーヒーと合わせて1500円とかいくかも……。


 不安になって、ズボンのポケットから財布を取り出す。 中を開けると、1000円札が1枚と、小銭が数十円。


 「……終わった……ぜってぇ足りねえじゃん。なんで今日に限ってこんなに入ってないんだ」 思わずため息が漏れる。手を洗って席に戻りながら、スマホのことを思い出した。もう一度電源ボタンを長押ししてみるが、やっぱりうんともすんとも言わない。


 せっかくうまいもん食って、気分切り替えてまた散歩するつもりだったのに。スマホは動かず、お金の心配もするわで、一気にしぼむ。とりあえず帰る準備をして、立ち上がった。


「あの……お会計、お願いします」


 マスターはタオルで手を拭き、ゆっくり立ち上がって、レジの方へ向かう。壁際の棚にある、ちいさな古いレジスターの前で、手元を少し動かす。


「1200円です」


「……あ、えっと。現金以外って……使えます?」


「あー、うちは現金だけなんです」


 やっぱり、って思った。 完全に足りてない。


「あ、じゃあ……ちょっと下ろしてきますんで」


 そう言うと、マスターはふとこちらを見て、 穏やかな声で言った。


「そしたら、次回来た時でいいですよ」


「え……でも……」


「大丈夫」


「……すみません。明日は仕事なので……来週、来週に伺います」


「都合がつく時でいいから。その代わり、よろしくね」


 その言い方は、なぜか少しだけ含みがあった気がした。 俺は言葉に詰まりながら、なんとなくうなずいた。


「……はい」


 財布を握ったまま、店を出る。外の空気が思ったよりも冷たくて、少しだけ現実に戻された気がした。



 アパートに戻ると、靴を脱ぎ捨てるようにして部屋に上がり、ソファに身を沈めた。背もたれに体を預けて、ぐーっと背伸びをひとつ。


「……はぁ、なんだか疲れたな」


いつもと違う休日を味わったせいか、俺は少しの間休もうとしたが、ふとスマホのことを思い出した。リュックをソファの上に置き、スマホを取り出す。あれだけ頑なに電源が入らなかったのに、バッテリー切れもあるだろうと思い、充電ケーブルに接続する。


 すると、画面がパッと点いて ”ピコン” と軽い音が鳴った。 表示されたホーム画面のバッテリーは……60%。


「なんだよ。じゃあ、なんであのとき付かなかったんだ?」


俺は首をひねりながらも、とりあえずジンバルでどこまで撮れてたか確認することにした。写真フォルダを開き、先頭の動画のサムネイルを見た瞬間、おかしなことに気づいた。 


再生時間は約30秒。サムネイルには、見覚えのない風景が映っており、その動画をタップしてみることにした。すると、視点が高く、街の交差点を上から見下ろすようなアングル。それはビルの屋上か、電柱に付いている定点カメラから撮ったような映像だった。


「こんな映像……なんで?」


 すると、交差点で信号待ちをしている中、カメラが3人の姿に焦点を合わせズームされた。その姿は女性と男性、その横には、小学校低学年くらいの女の子だ。


「……この人どこかで……」


 映像は途中でスッと切れ、続けて別の動画が勝手に再生され始めた。なぜだか俺はそのまま動画を見入って、その続きのようなものが知りたくなった。


 別の動画はまた違った角度で撮られていた。歩道の脇を、ひとりの男が歩いている。髪は少し乱れ、肩がやや下がっていた。その男はタクシーのそばへ立ち止まり、ゆっくりと深呼吸して後ろの方へ行き、トランクを開けた。おそらくこのタクシーの運転手なんだろう。なにやら鞄の中を弄り、薬のようなものを飲んでいる感じだった。しかし、また何も起きないままその映像は終わった。


「……これって、一体? なんで俺のスマホに収録されてるんだ……」


 最初の動画に戻して、再度見直す。 今度はじっと、画面の隅に目を凝らす。


 すると、右下に数字があった。


 日付――「10月26日」


「26日……まさか」今朝ニュースで聞いた、あの事故と同じ日付だ。


「たしか、タクシーが3人をはねた事故。あれは”昨日”って言ってたから26日」


急いでスマホのブラウザを立ち上げ、【タクシー事故 家族3人】と検索をかけてみるが、それに関する記事が出てこない。再度【10月26日 タクシー事故 家族3人】とキーワードを変えてみるがなぜか昨日の事故のニュースが出てこない。


「おかしい、テレビで取り上げたからトップにあるはずなのに……」


そこで、ふと今朝のニュースでキャスターが言っていた名前を思い出した。


「……たしか、ドライバーは佐伯……、小野寺とか言ってたな」


曖昧な記憶のまま、その名前を再度検索してみる。


【都内タクシー事故 佐伯 小野寺】


しかし、出てくるのは求めている記事とは違うものばかり。


「なんなんだよ、どうして出てこないんだよ……あの映像は一体」


何かがおかしい。 俺はスマホをポケットに突っ込み、靴を履いた。そして、あの映像で映っていた交差点――事故現場と思しき場所へ、行ってみることにした。

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