第6話 バターが入った里芋の煮っ転がし
空が高く澄んでいた。風が落ち葉をふわりと運び、どこかから金木犀の香りが漂ってくる。
「あー、やっぱ秋の匂いはいいなぁ」思わずそう呟いていた。やわらかくて、静かな時間だった。
陽だまりの広場にレジャーシートを敷いて、三人で腰を下ろす。水筒を開ける音。紙コップに注がれる麦茶。目の前で、娘がからあげをひとつ取って、口にほおばる。
「からあげおいしい」
娘のその笑顔がやけにあたたかくて、目の奥がにじみそうになる。隣では、妻が微笑みながら空を見上げていた。
遠くから、子どもたちの声が弾ける。芝の匂いと、やわらかな日差し。水筒から漂う麦茶の香りが、少しだけ胸をゆるめる。
いつの間にか、陽が傾いていた。片付けを終えて、三人で手をつなぎ、公園を後にする。落ち葉を踏む音だけが、さくさくと耳に残る。
「え、もう家の近く……?」まだそんなに歩いていないのに、目の前には見覚えのある交差点が現れていた。信号は赤。道路の向こうに、まっすぐ伸びる影。風が止み、静けさがまるでフィルムのように辺りを包んでいく。
そのときだった。
右手のほうから、まぶしい光が揺れて見えた。
「空車のタクシー……? なのに、なんであんなスピードを」いや、速すぎる。明らかに異常なスピードで突っ込んでくる。
咄嗟に娘を抱き寄せた。「危ない」と叫ぼうとしたが、声が出ない。妻が驚いた顔でこちらを振り返る。
次の瞬間、体が宙を舞った。
空が回り、地面が遠ざかっていく。まるで紙くずみたいに、ぽいっと弾き飛ばされたようだった。妻と娘の姿が――視界の向こうで止まっている。
背中から地面に叩きつけられた。骨が軋む音がして、口の中に血の味が広がる。動かない。いや、動けない。
「……た す け……」
唇が震えるだけ。声にならない。それでも、必死で叫んだ。
「た す け て……」
二人が目の前にいるのに、何も言わず、何もしない。ただ、じっとこちらを見ていた。あんなに近いのに、届かない。
「……みずき……あずさ……」
どうにか声を振り絞り、名前を呼ぶ。けれど、金縛りのように、体は床に貼りついたままだった。
起きなきゃ。起きなきゃ。でも――
がばっと跳ねるように目が覚めた。息が詰まり、胸がドクドクと脈打つ。目の奥にまだあの光が、夢だとわかっているのに全身にうっすらと汗が滲んでいた。
すると、どこか遠くでテレビの音がしていた。カチャカチャと食器のぶつかる音も聞こえる。生活音が少しずつ、現実に体が馴染んでいく。壁の時計を見上げると七時半を過ぎていた。
(……もうすぐ瑞希が出る時間だ)
誠は重い体を引きずるようにベッドを出て、寝室のドアを開けた。まぶしい朝の光がリビングから差し込んでくる。ふわりと、パンの焼ける匂いが鼻をかすめた。
「おはよー」
テレビの画面を見ながら、瑞希がトーストをかじっている。ランドセルは椅子に掛け、視線を誠に向けずに朝の情報番組を見ていた。
「瑞希、テレビ見てないで早く食べちゃいなさい!」
キッチンのほうから梓の声が飛ぶ。朝食を誠の席にサッと置くと、そのまま物干し台に向かい、昨夜の洗濯物を畳み始める。手際よく畳まれていくTシャツやタオル。そのすぐ隣では、トーストの香ばしい匂いがまだ漂っていた。
いつも通りの、忙しない朝。それでも誠は、まるで別の空気の中にいるような気がして、ふらりと洗面所へ向かった。
蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。その瞬間、ピリッとした痛みが唇の内側を走った。
「痛っ……」
口の中で、わずかに鉄のような味がする。鏡をのぞき込むと、唇の裏が薄く切れていて、赤い点がにじんでいた。
「……っえ?」
(まさか、夢の中の……)誠は無意識に口元を拭った。さっきまでの夢――宙を舞い、地面に叩きつけられたあの感覚。血の味。助けを呼ぶ声。誰も動かなかった、あの冷たい世界。思い出そうとした瞬間、リビングから瑞希の声が聞こえた。
「パパ、明日は早起きしてよねー」
「……明日?」
思わず聞き返すと、畳み終えた洗濯物を抱えたまま、梓がリビングに戻ってきた。
「何言ってんの。忘れたの? 明日よ」
「……ああ、そうか」
テーマパーク。ずっと前から約束していた――家族で出かける、久しぶりの土曜日。けれど、まだ頭のどこかに、夢の影が残っていた。血の味と、動けなかった感覚と、二人の顔。
それでも現実は進んでいく。忙しなく、当たり前のように。
家を出たころには、雲ひとつない空が広がっていた。秋らしい空気。乾いた風がスーツの袖口をすり抜けていく。駅へ向かう道は、いつもと同じはずなのに、どこか感覚がズレているような気がしていた。
足元に舞う落ち葉。電柱の影。遠くから聞こえる踏切の音。すべてが少しだけ、現実感を欠いていた。
誠は駅とは反対方向の裏道に入った。コンビニでペットボトルの水を一本買い、バッグに入れる。そのまま、しばらく回り道をして職場方面へ歩いていった。
なんとなく、考えごとをしていた。明日の予定、仕事の進捗、夢のこと、口の中の違和感。頭の中がざらざらとして、なにかに集中できないまま、足だけが前へ進んでいた。
(あの夢、なんだったんだろう……よくある夢のようでいて、やけに感覚が鮮明だった。血の味も……あの宙を舞う感覚も)考えているうちに、いつもの交差点が見えてきた。普段は何気なく渡っている道。今日も変わらず、人が数人、歩行者信号の前で立ち止まっていた。
誠もその列に並ぶように立つ。バッグの外ポケットに指を滑らせると、手のひらに触れる布の感触。梓にもらった、金色の刺繍が入った交通安全のお守りだ。誠はそれをそっと握りながら見つめ、なんとなく考えごとの続きに没頭していた。『あの子、楽しみにしてるからね』(梓に言われたが……6時起きとか出来るかな)
ぼんやりそんなことを思いながらふと、信号機が青に変わる雰囲気を感じた。歩道の一人がわずかに前に出る。誠もつられて、少しだけ体を前へ動かしたそのときだった。
左手の奥から、ギュルルッとエンジン音を響かせ、タクシーが猛スピードで、信号を黄色のうちに抜けようと突っ込んでくる。
――やばい。
動けず、体が一瞬だけ固まった。夢と同じ感覚。
けれど、タクシーはすっとハンドルを切って、誠の体から数センチの距離をすり抜けていった。風圧が頬を撫でる。サイドミラーがすぐ横を通過していくのがスローモーションのように見えた。
数歩前に出ていた足をそのままに、誠はその場に立ち止まったまま動けなかった。しかし、他の歩行者たちは何事もなかったかのように歩き出していく。
「……今の、もし……」
自分でも気づかぬうちに、小さな声が口から漏れていた。再び歩き出しながら、誠は胸ポケットの奥にあるスマートフォンをそっと確かめた。夢じゃなかった。現実は、ちゃんと進んでいる――けれど。足元を歩く影が、ほんのわずかに揺れて見えた。
午前中、現場事務所はいつもよりひどく慌ただしかった。工程の再調整、資材の搬入確認、下請け業者からの問い合わせ――小野寺誠は、建設会社で現場全体の進行を管理する中間管理職として、常に何かに対応していた。
「佐野さん、鉄骨図面の件、さっき送ったやつでOKだった?」「山岸、外壁のパネル手配、午後イチで連絡しておいて。あと根津さんに電話折り返しておくよ」
部下に指示を出しながら、PC画面に目を走らせ、書類と図面と電話の波が、絶え間なく押し寄せてくる。
目の前の仕事に集中しようとしても、どこか意識が霞んでいた。朝の夢。宙を舞った感覚。口の中の傷。それが、誠の脳のどこかにまとわりついて離れないでいた。
「小野寺さん、お昼行きますけど?」
若手のひとりが事務所に戻ってきた。
「ああ、もうそんな時間か……俺はいいや。ちょっとだけ、これ終わらせてから行く」
「了解っす。じゃ、お先に」
若手たちは数人で事務所を出ていった。
「ここまでやったら、切り上げよう」
空になった事務所で一人、エアコンの音だけがかすかに響くなかで作業を続けた。チェックしていた資料に付箋を貼り、立ち上がる。
ふと時計を見ると、もう十二時を過ぎていた。
「そろそろ休憩行かないとな」
外に出ると、強すぎない秋の日差しがスーツ越しに背中を温めた。遠くで工事の重機が唸り声を上げている。歩きながら、誠は思った。
(たまには、いつもと違う店でも探してみるか)
現場近くにはいくつかの定食屋があったが、今日はなんとなく、そのどれにも足が向かなかった。
信号を渡って、一本奥の細い通りへ。ふだん通らない裏路地。古いタイル壁。植木鉢。どこか懐かしい匂い。時計の針が午後を指す中で、誠の歩幅だけが、少しずつゆっくりになっていった。
裏通りを抜けて、さらに一本細い道へ入ると、急に街の音が遠のいた。車の音も、重機の振動も、いつの間にか背後に置いてきたらしい。代わりに、風が何かを撫でる音だけが聞こえている。
足元には細かい砂利が散っていて、舗装もところどころ剥がれている。そんな路地の先に、ふと見慣れない建物が現れた。
外観は、古い喫茶店のようにも見える。木の扉、すりガラスの窓。
「空き家かな?」
視界の片隅で何かが揺れた。入口の脇にぶら下がった札が、風に揺れて「営業中」の文字をちらつかせている。
「営業中って……やってるのか?」
誠は足を止めた。心のどこかが引っかかる。けれど、それが「嫌な感じ」ではなかった。懐かしさのような、安心感のような――
「……入ってみるか」
扉をそっと開けると、”カランコロン” と、カウベルが鳴る。
「いらっしゃい」
中から、低く落ち着いた声がした。
入ってすぐ、誠は少し戸惑った。カウンターとテーブル席があるこぢんまりとした店内。けれど、どこか現実の空間とは質感が違っているように思えた。カウンターの奥には、初老の男がひとり立っていた。
目が合った瞬間、男は静かに入り口へ行き、札を裏返し、「閉店」に変えた。そして、もう一度だけ、ゆっくりと声をかけた。
「何になさいます?」
マスターの声は静かで、けれども唐突だった。入店からまだ数秒しか経っていないというのに、いきなり注文を問われるとは思っていなかった。
誠は少しだけ戸惑って、店内をぐるりと見渡す。テーブルの上にも、壁にも、どこにもメニューは見当たらない。
「えっと……」
困ったように言葉を探すと、マスターが静かに口を開いた。
「だいたいのものは作れますよ」
「……だいたいのもの?」
思わず聞き返すと、マスターはゆっくりとひとつ頷いた。
押しつけがましくもなく、かといって距離を取るわけでもない。不思議な落ち着きと空気をまとったその姿に、誠はなぜか逆らえなかった。
何を頼むか――本気で考えることなんて、久しくなかった気がする。
定食、ラーメン、丼物……頭に浮かぶいくつかの選択肢が、どれもどこか違っていた。
(あれ、なんだっけ)
胸の奥に、ふとある料理の映像が灯る。煮汁に照りをまとった、ころんとした里芋。箸を入れると、ほろりと割れて、中まで味が染みていた。
(ああ……あれだ。母が昔よく作ってくれた、里芋の煮っ転がし。あれはたしか、みりんと砂糖と醤油で煮て……そうだ、バターも入ってたな。甘辛くて、でもどこか洋風っぽさもあって、ごはんがやたら進んだ。たしか、最後に食べたのは中学生の頃だったような……)
「……あの、里芋の煮っ転がし、って……できますか」
マスターは少しだけ目を細めて、ふっと表情を緩めた。
「できますよ」「ホントですか?!……え、じゃあお願いします……あっ、味付けが甘めの味つけで、みりんと砂糖と、醤油……それにバターも入れてください。母が昔よく作ってくれて……」
「……かしこまりました」
その言い方には、すでに味が想像できているような自信がにじんでいた。マスターは奥へ向かって歩き出すが、その背中が止まり、もう一度誠に向かって声をかけた。
「そうだ、お腹が空いているので、わたしも一緒にいただきますね」
一瞬だけぽかんとしたあと、誠は小さく笑った。
「……はい。むしろ、うれしいです」
マスターはカウンターから厨房へ行く暖簾をくぐり調理へ向かった。
椅子に腰を下ろすと、背中にすっと馴染むような感触があった。硬すぎず、柔らかすぎず、どこか昔の喫茶店を思わせる椅子。テーブルの木目はところどころ剥がれているのに、不思議と落ち着く。
店内にはBGMもテレビもない。ただ外の風がガラスをかすめる音だけがしていた。マスターは無駄のない動きで、里芋を一つひとつ丁寧に剥いていく。包丁の刃先が皮の表面をなぞるたび、くるくると回される芋が、滑らかな白肌をのぞかせる。皮を剥き終えた里芋は、湯を張った鍋に入れられ、コトコトと静かに茹でられていく。
その間に、別のフライパンにみりん、砂糖、醤油が注がれる。やがて液体が泡立ち始め、甘くて香ばしい香りが店内にゆっくりと広がった。
焦がさないように火を弱め、鍋から取り出した里芋がその中へ滑り込む。ころん、ころん、と転がる音が、小さな鍋の中に満ちる。そして仕上げに、バターがひとかけ。やわらかく溶けていき、艶やかな照りが芋の表面を包み込んだ。鼻をくすぐるその香りに、誠は自然と喉が鳴った。
ふと、目の前のテーブルに置かれていた新聞に目がいった。さっきまでマスターが読んでいたものだろう。なんとなく手に取って、ページをめくる。
社会面の片隅に、小さな記事が載っていた。
――都内交差点で3人死亡の交通事故――男性とその子ども、衝突した運転手も
(……あれ?どこかで見たような――いや、あの交差点だ。この前を通ったことがある。いや、それだけじゃない)誠は無意識にページの上部へと視線を移す。
日付が――日曜になっていた。
(え……? 今日、金曜じゃ……)
新聞はしっかりした紙質で、印刷も鮮明。冗談にしては、リアルだ。誠は訳が分からず困惑する。
そのとき、厨房からマスターの声が飛んだ。
「ぬか漬けあるけど、食べますか?」
唐突な問いかけに、誠は一瞬うまく返せなかった。
「……あ、はい。ぬか漬け好きです」
「よかった、ちょうどいい具合に浸かったのがあるから」
「……ありがとうございます」
そう答えながらも、視線はまた新聞に戻った。
先ほどのページ。あの事故の記事をもう一度確かめようと指を戻す。
けれどそこにあったのは、――都内で玉突き事故 けが人なしというまったく別の記事だった。
「……え?」
声が漏れた。急いでもう一度、紙面の上部を見る。
そこには――今日の日付が印刷されていた。さっき見た記事は、なんだったのか。
「何かの錯覚? 夢? もしくは……」
考えがまとまる前に、足元で床板がきしむ音がした。マスターが、暖簾をくぐり盆に料理を乗せるのが見えた。
誠は慌てるように新聞を閉じ、テーブルの下へ滑らせた。なぜか後ろめたさすら感じながら。
「お待たせしました」
目の前に並べられた料理は、見覚えのあるようで、どこか整っていた。
艶やかに煮絡められた里芋が盛られている。湯気を立てたご飯に、味噌汁からは細く刻まれた油揚げと、わずかな葱と豆腐が。そしてぬか漬けはきゅうりとなす。
「……すごい……それじゃあ、いただきます」箸を取り、里芋をそっとつまみ、ひと口。
その瞬間――
甘ーく、そしてバターまろやかさが、口の中でふわりと広がった。
それは、記憶の底に残っていたままの味だった。
(……うわ)
脳の奥が、やさしく揺れるような感覚。気づくと、自分がテーブルに向かって座っているような錯覚に陥っていた。
左の席に母と姉が、右の席には父。
(実家……か)
その光景に、ほんの一瞬だけ自分が入り込んでいた。
「お口に合いますかな」
ふいにかけられた声に、現実に戻される。目の前には、あの静かなマスターが立っていた。
誠は箸を止め、ふっと笑った。
「……この味……この味ですよ。母がよく作ってくれた、芋の煮っ転がしだ」
誠は懐かしむようにまた一口里芋を食べ、ご飯をガツガツ食べていく。マスターは小さく頷き、椅子に腰を下ろして、ご飯茶碗を手に取った。
「ご飯のおかわりもあるからね」
その言葉が、なぜかやけにうれしかった。
「……はい、ありがとうございます」
そう言って、またひとつ、里芋を口に運んだ。
誠は箸を休めて、湯気の立つ椀に口をつけた。油揚げと刻みねぎ、そして柔らかい豆腐が、やさしい味噌と混ざりあって舌を包む。
「……はぁ」
ほっと息がこぼれる。
「こういう定番の具がやっぱり一番落ち着くんですよね……」
ふと、思い出した
(そういえば、梓は”味噌汁の豆腐は絹じゃなきゃダメ”とか言ってたな)
そんなことを思い出し、また味噌汁を啜る。
ぬか漬けも、いい感じに浸かってて、ぬかの香りと混ざり、ご飯をまた一口運ばせる。
「おかわり、もらってもいいですか」
「もちろんです」
厨房の方へ向かうマスターの背を見送りながら、誠はあらためて「食べる」という行為の温度を感じていた。
新しい茶碗が目の前に置かれ、箸をまた取る。
「……こんなにゆっくりご飯食べたの、いつぶりかなぁ」
「仕事、忙しそうですね」
「ええ、まぁ。建設関係でして。現場と事務所の往復で、一日が終わっちゃう。帰ったら帰ったで、ぐったりですよ」
「ご家族も、ご理解されてる」
「ええ。ありがたいです。……明日は久しぶりに出かけようかって話になって。家族で、ピクニックです」
「いいですね」
マスターの声は、少しだけあたたかかった。
「広い公園にすぐ近くには湖のあるところなんです。前から娘が行きたがってて」
「家族にとって、そういう一日は、何年も残るものですよ」
「……そうだといいなぁ」
誠は苦笑して、茶碗のご飯をまた一口、口に運んだ。気がつけば、煮っ転がしの照りが、白いご飯に少し染みていた。
それをゆっくり噛みしめながら、ふと、この時間も「何年か残るもの」かもしれない、と思った。
煮っ転がしをひと口、最後の米粒とともにかきこんで、誠は箸を置いた。味噌汁の椀も空っぽになり、腹はちょうどいい重みを帯びて、体の芯がすっと静まる。
誠はあれだけ気になっていた新聞のことも、今はすっかり頭から抜けていた。むしろ、腹を満たすという行為がこんなにも“満足”をもたらすのかと、久しぶりに実感していたようだ。
「ごちそうさまでした」
「……ありがとうございます」
マスターは静かに立ち、レジへ向かった。会計を受け取ると、言葉を選ぶような感じで誠に告げた。
「……気をつけて」
その声にはどこか重みがあった。
「……はい。午後ももう一踏ん張りです」
そう答えて、扉を押した。
外は、さっきより少しだけ風が強くなっていた。太陽は真上にあり、午後の気配が街に影を伸ばし始めている。
歩き出そうとしたとき、すぐ目の前からふらりと現れた男がいた。
年の頃は三十代半ばくらい。ラフなシャツにリュック、片手にはスマホを装着したジンバルを持っている。まるで空中にレンズを泳がせるように、周囲をゆっくりと見回していた。
(……撮影?)
男は周囲をキョロキョロと見回しながら、小さく首をかしげている。誠はそのまますれ違い、振り返ることなく角を曲がっていった。
店内は、再び静けさを取り戻していた。するとマスターは新聞が椅子の下に落ちたのに気付いた。拾い上げ、開いたページを見ると、そこには、『タクシーが交差点に突っ込み親子含む3人死亡』の見出しが。
日付は、やはり二日後の日曜日。
マスターは、しばらく黙って記事を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……ダメだったか」
*
翌日。
天気は文句のつけようもなく快晴だった。小野寺一家は、自然豊かなテーマパークへ出かけ、湖畔を歩き、芝生でピクニックをし、瑞希は何度も笑っていた。
何枚も写真を撮って、何回も「たのしいね」と言われて、誠も梓も、ようやく週末らしい週末を味わっていた。
日が暮れはじめた頃、駅まで戻る電車に揺られ、最寄り駅に着く頃には瑞希は眠そうに目をこすっていた。駅を出て、住宅街を歩く。晩秋の風が、少しだけひんやりと頬をなでる。
何気ない会話を交わしながら歩いていたそのとき、誠の目の前に、ふと、見慣れた交差点が現れた。信号は赤。車道の向こうに、まっすぐ伸びる影。その景色に、心が一瞬ざわついた。
(……ここ、夢で……)
思わず、つぶやくように口が動いた。
「おい、梓……ここ……」
そして、猛スピードで突っ込んでくるタクシー。ブレーキの音、衝突音、誰かの叫び声。空気が引き裂かれ、何かが壊れる音がして――時間が、ねじれた。
視界が白く、遠くなり、音だけが残った。