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第5話 生姜焼きとミックスフライ定食

ハンドルを握る手に、じっとりと汗が滲んでいた。


メーターの隅にある時計が、14時を少し回っている。本来なら「回送」に切り替えて休憩を取る時間だが、今日は配車アプリの通知がやけに途切れない。「あぁ……休憩したいけど、今乗せないと勿体ないしなぁ……あと一回だけ」


ドライバーの佐伯(さえき) 明良(あきよし)は表示灯を「空車」から「迎車」に切り替え、アクセルを踏んだ。目的地まではそう遠くない。


走っていると前方の信号が黄色に変わり、ゆっくりとブレーキを踏む。車が止まり、ふと力を抜いたそのときだった。


右腕が、ビクリと跳ねるように痙攣した。


「……まずいな」


ぼそりと漏れた声は、自分でも気づかぬうちに口から出ていた。


ポケットを探り、薬を取り出す。銀色のシートから3粒の錠剤を押し出し、掌にのせ、乾いた喉を潤すようにゴクゴクと水を飲み干した。


「あ”ー、……ちょっと生き返ったな」


わずかに息を吐いたその瞬間、後方からクラクションが鳴った。前を見ると信号が青に。


「おっと、すんません……」


佐伯は急いでアクセルを踏み直す。表示されたお客の位置は、2つ先の交差点を左に曲がったあたり。


「……近くて良かったな。このお客を乗せたらゆっくり休もう」


言い聞かせるように小さく呟く。


だが、再び異変が来た。今度は眉のあたりがピクっと痙攣し始めた。


「またか……」


佐伯は少しの疲れを取るように片方の手のひらで顔全体をマッサージするように擦った。


しかし、顔をほぐした後も眉の辺りの痙攣は増すばかり。


頬が引きつり、次第に呼吸が浅くなって、視界がぼやけていく。


「……あ”ぁ”……」


声にならない声が喉の奥に残ったまま、視界の中心が、すっと白く抜けた。ハンドルが僅かに揺れ、世界の重心が、ゆっくりと傾いていった——


──ピピピピピ……


どこか遠くから、機械の音が聞こえてきた。乾いたアラームが、意識の奥に差し込んでくる。


佐伯は、ゆっくりと目を開けた。


天井の木目。薄暗いワンルーム。聞こえているのは、部屋の隅で鳴っている目覚まし時計の音だった。


「……はぁ、嫌な夢だな」


背中にじんわりと汗をかき、胸の奥に重たい何かが沈んでいる感覚だけが残っていた。よく眠れた気はしない。


起き上がり、遮光カーテンを開けてベランダのドアを開けると、朝の新鮮な空気が澱んだ部屋に流れ込んできた。


「あ”ー、眠む」


佐伯は背筋を伸ばしながらあくびをした。洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。鏡の中に映った自分の顔は、少し青白かった。それでも無理に笑って、手早く髭を剃る。


缶コーヒーと昨日スーパーの見切り品で買っておいた半額のサンドイッチをカバンに入れ、駅へと向かった。通勤ラッシュにはわずかに早い時間帯。電車は静かで、吊革を握る手の中で、体が微かに揺れていた。


営業所に着くと、ロッカールームにはすでに何人かの同僚がいた。佐伯は制服のシャツに腕を通しながら、背中越しに誰かが声をかけてくる。


「おはよう。最近どう?」「おぅ、おはよう……うーん、最近イマイチだな。あんまり寝れてなくてさ、仮眠ばっかだよ」


「まじか、大丈夫か?」


「うん、まぁ大丈夫だよ」


そう言って笑うが、口元は少し引きつっていた。


「無理すんなよ……そういえば、お前の相勤の坂下さん、昨日事故ったらしいぞ」


「へっ?マジか?」


「あぁ、人身じゃなく居眠りで電柱に突っ込んだらしい。怪我はないけど、右のヘッドライトがイッちまってるらしいよ、ハハッ」


「笑えねーよ……まぁでも坂下さんは無事でよかったな……てことはいつもの車じゃないのか」


「お前も無理するなよ」


「うん、気をつけるよ。またあとでな」


佐伯は着替えた後、管理者の元へ


「おはようございます」


「あー、佐伯くんおはよう……えーっと、佐伯くんは……」


「あぁ、なんか聞いたんですけど坂下さん事故ったって?」


「そうなんだよ!だから今日からしばらく違う車でね、ごめんねぇ」


「あっ、いえ大丈夫ですよ」


「車は奥にある127号車だね……車番は ”7663” 」


「了解でーす。じゃあ点検してきます」


点呼の前に、車両の点検。前照灯、ブレーキランプ、タイヤの空気圧、車内の備品。手元のチェックシートに印をつけながら、佐伯はいつもの流れを淡々とこなしていく。「異常なしです」「オッケー。じゃ、点呼ね」


接客五箇条と安全運転宣言を終え、アルコール検査の機械に息を吹きかける。それが済むと、佐伯は運転席に乗り込み、無線を確認しながらゆっくりとハンドルを握った。今日もまた、一日が始まる。



昼前のビジネス街をゆっくり流していると、交差点の少し先にスーツ姿の高齢男性が手を挙げていた。佐伯はウインカーを出して車を寄せると、スッとドアを開けた。


「すみません、ちょっと遠いんだけど、大丈夫ですか?」


「はい、大丈夫ですよ」


助手席側から顔をのぞかせたのは、70代くらいの上品な雰囲気の男性だった。


「日野市の方なんだけど、高速使って国立府中で降りてください」「かしこまりました。……あ、今の時間、中央道が渋滞ひどいですね」「あっ、そうか……昼間は混むんだったな。……じゃあ甲州街道をずーっと走ってください」「甲州街道ですね、かしこまりました」


佐伯は走り出し、信号をいくつか抜けると、車内に静けさが戻った。


高速より下道の方がすんなりいけるが、信号と信号のあいだを進むより、止まっている時間の方が長い。運転席から見える車列の向こうには、じりじりと陽が射しこみ、背中にじんわりと汗がかいてきた。


(まずいな、高速の方が速かったかな……まぁとりあえず向こうに着いたらゆっくり休もう)


ドライバー経験の浅い佐伯に限らず、ベテランにもたまにあるパターンだ。休憩のことだけを考えている佐伯は我慢しながら走り続けた。


1時間半後。ようやく目的地の住宅街に到着。


「ありがとうございました」「どうも、帰り気をつけてね」「はい、ありがとうございます」


ドアが閉まり、車内に静寂が戻る。


佐伯はすぐに表示灯を「回送」に切り替え、少し進んだところで停車させた。


「……つかれた……」


思わずひとりごちた。


喉も乾いたし、トイレにも行きたい。スマホを開いてナビを起動し、「公衆トイレ」と入力すると、すぐ近くに広場があると表示された。そこなら車も停められそうだった。


車をゆっくりと走らせ、5分ほどで小さな広場にたどり着く。背の高い木々が生い茂り、陽射しをやわらかく遮っている。砂利の駐車スペースに車を停め、窓をほんの少し開けてから車外へ出た。


奥に、公衆トイレがぽつんと。コンクリートの壁には落書き、入口の上には色褪せた案内板。中に入ると、掃除があまりされていないような少し硫黄の匂いが充満していた。


佐伯はささっとトイレを済ませ、手を洗い、ハンカチで顔を軽くぬぐうと、近くのベンチに腰を下ろした。


「はぁー、いい風が吹いてるな」涼しい風が吹く中、疲れを振り払うように両手を上げ、深呼吸した瞬間、思わず "グー" とお腹が鳴った。


「……腹、減ったな」缶コーヒーとサンドイッチだけでは、とても足りるはずもない。とはいえこのあたりは初めての場所だ。佐伯はスマホを取り出し、Googleマップで「飲食店」と入力しようとした、その瞬間──


画面が一度、チラッと揺れた。地図が一瞬だけ灰色になり、4Gから圏外の文字が表示される。


「あれ……?」


一度スマホを閉じ、再読み込みをしても、地図の画面は乱れている。「……なんだよ……しゃーない、戻るか」


スマホをポケットにしまい、車内へ戻ろうとしたが、行きの時より雰囲気が違うように見えた。周囲を見渡すが、全く人気がない。


「……向こうから来たから、あっちだよな?」すると、視界の端に一本の小道が見えた。さっき気づかなかったが、林の奥へと続いているようだ。


佐伯は無意識のうちに、そちらへ足を向けていた。草を踏みしめる音だけが静かに響く。


路地の先は、不思議なくらい静かで、住宅街の音も、車の走行音も、全く聞こえない。聞こえるのは風に揺れる木の葉だけだった。


少し歩くと、目の前の景色が開けてきた。


そこには、蔦で覆われた古い木造の建物がぽつんと。入り口にある木の札にはこう書かれている。


──営業中


佐伯は立ち止まり、眉をひそめた。


「……こんなとこに、店?」


スマホを取り出して再び地図を確認しようとしたが、やはり圏外のままだった。


佐伯はしばらく、その店の外観を眺めていた。


木の札に書かれた「営業中」の文字を改めて見つめ、小さく息を吐いた。


「……一応、営業してるんだよな……?」


そのすぐ下に、小さくもう一枚──


一名限定


「……どういうことだ?」


その文字が妙に気になった。店の中の様子は窓からではよく見えない。


気づけば、もう扉に手をかけていた。取っ手は思いのほか冷たく、ギィ……と、控えめな音を立ててドアが開いた。


内側は、外観とは違い、意外にも小ぎれいだった。木の床は磨かれており、カウンターと数脚の椅子。壁にはメニューもなく、雑多な調味料の瓶や、無造作に並んだ器が目についた。店内には誰の姿も見えない。


「……すみませーん……」


佐伯が声をかけたその瞬間──


奥から、すっと店主らしき男が現れた。


「いらっしゃい」


その声とともに、カウンターを回り込み、入口の方へ歩いていくと、ドアの外側に手を伸ばして表の札をくるりと裏返した。


──閉店


カチ、と小さな音が響いた。


佐伯はわずかに目を見開いたまま、言葉を失っていた。店主はそのまま無言で戻ってきて、カウンターの中へ。


そして手でそっと、空いている一席を示しながら「どうぞ、こちらに」


佐伯は戸惑いながらも、その席にゆっくりと腰を下ろした。他に客はいない。椅子も並んでいない。カウンターの上には、小さな給水ポットとグラスがひとつだけ。


「何になさいます?」


店主が静かに放った一言に、佐伯は少し目を泳がせた。


カウンターの上にも、壁にも、どこを見回してもメニューらしきものは見当たらない。飲食店に入ってメニューがないという状況に、頭の中が一瞬フリーズする。


「えっと……メニューってないんですか?」


店主は首を横に振った。


「ございません。でも、だいたいのものは作れますよ」


その言い方は、やわらかく、けれど不思議な自信があった。何でも……とは言わない。でも、だいたいのものなら。それだけで、どこか安心させられるような響きだった。


(だいたいのものは……)


空腹の佐伯を悩ます言葉。腹は空いているが、何が食べたいかとなるとすぐに答えが出ない。


ふと、昨日コンビニで買った味気ない弁当が頭に浮かんだ。


(あれと違って、ちゃんとした“定食”を食べたい。香ばしい匂い、熱々の湯気、ザクっとした衣の音。そして、白飯をかきこみたくなるような、あの感じ)


「……あのー、生姜焼きってできますか?」


「できますよ」


「おー、……すみません…あと、ミックスフライ。……白身魚とか、エビとか……」


「大丈夫ですよ。少々お時間いただきますが」


佐伯は思わず、ふっと笑った。


「全然、待ちます。」


マスターは静かにうなずき、奥の厨房へと姿を消した。その背中には、どこか老舗の板前のような貫禄があった。


また静けさが戻り、佐伯はカウンターに置かれた水をひと口飲み、 ”ふう” と息をついた。


店内には静かな調理の音だけが響いてきた。水が流れる音、包丁が刻むリズム、油と鍋が弾く音──どれもどこか耳に心地よく、佐伯の頭の中に溜まっていた雑音が、少しずつほどけていくようだった。


「……それにしても不思議な店だなぁ」


佐伯は店の雰囲気を感じ取りながら周囲を見渡した。するとカウンターの端の棚に目がいく。


数冊の料理本や調味料にまじって、小さな写真立てがひとつ置かれていた。写真を見ると、どこか小学校の正門で撮られたような三人の人物が写っていた。


小学生くらいの女の子と、若い母親、そしてその隣に立つ父親。穏やかな日差しの中、三人とも笑っている。記念写真のようにも、何気ないスナップのようにも見える。


「……店主の、家族かな」


佐伯はそれ以上深く考えず、水をもうひと口飲んだ。そしてカウンターにもたれかかるように、少しだけ目を閉じた。


しばらくして、厨房の奥から、生姜焼きと揚げ物が混ざり合った香ばしい匂いがふわっと立ちのぼる。鼻先をくすぐるようなその匂いに、思わず口の中に唾が溜まり、ごくんと飲み込んだ。


「お待たせしました」


マスターがカウンターに置いたのは、大きな白い皿に山盛りの千切りキャベツ。その上に、生姜焼きが数枚──肉厚で、タレが照りを帯びている。隣には衣の立ったミックスフライが並ぶ。エビフライ、白身魚、そして小ぶりなクリームコロッケ。


続いて、大盛りのライスと味噌汁。湯気を立てて出汁の香りが立っている。


マスターは無言のまま、カウンターにマヨネーズとウスターソース、中濃ソースをポン、と置いた。


「ありがとうございます」


待ち望んだ瞬間だ。佐伯は箸をそっと、握るように取る。


「……いただきます」


まずは生姜焼き。タレがよく絡んだ豚肉を、千切りキャベツごと持ち上げて、頬張る。タレの甘じょっぱさと、肉の脂の旨みが口の中に広がる。


すかさず白飯をかきこむ。喉を鳴らして飲み込む音が、自分でも聞こえるほどだった。


次はミックスフライ。エビフライに中濃ソースをサッとかけ全体を眺めながら一口。ザクッ、と衣が音を立て、中からふわりとした身が顔を出す。


白身魚、クリームコロッケにも一気に中濃ソースをかけてから頬張る。クリームコロッケは濃厚で、とろけるような舌触りに思わず目を細めた。


もう、箸が止まらなかった。キャベツと肉を交互に、フライと飯をセットで。気づけば茶碗のご飯があと数口になっていた。


最後の一口を頬張り、味噌汁で流し込む。佐伯はようやく息をついた。


「……うまかった……」


体の奥に、じんわりとした満足感が広がっていく。まるで、ずっと張りつめていた何かが、少しだけ緩んだような気がした。


佐伯は箸を置き、湯呑みの水をもうひと口だけ飲んだ。


そして、ふと口を開いた。


「……こういうの、久しぶりに食べたな」


マスターは、カウンター越しに静かにうなずいた。何も言わずに、ただ“聞く構え”だけを見せている。


その空気に背中を押されたように、佐伯は、少しずつ口を開いていく。


「俺、いま……タクシーの運転手やってて」


マスターは何も言わず、目線をそっと佐伯に向ける。


「正社員になれたのもやっとで……毎日走り回って、夜勤もあって、正直しんどいんすけど……でも、辞めたらもう後がないなって思ってて」


マスターは少しだけ眉を寄せた。


「……後がない、とは?」


佐伯は水をひと口飲んでから、ゆっくりと答えた。


「金です。借金もあるし。いま35歳なんですけど、年齢的に微妙で。やっと掴んだ正社員なんで……離したら終わりっていうか……」


「タクシーって、そんなに稼げるんですか?」


「まぁ……普通のサラリーマンよりは、ちょっといいくらいですかね。でも、そのぶん長距離の客を逃せないし、昼夜問わず走って……体にくるんです」


マスターはそっと視線を落とし、少し間を置いてから言った。


「でも、体に不安があるんですね」


「……はい」佐伯は一呼吸おいて、目を伏せた。


「持病があるんです。……医者には、“運転だけはするな”って言われました。でも、辞めるわけには……借金もあるし……」


「借金?」


「前の職場を辞めて、数ヶ月空白があったんです。そのときに家賃や生活費で……今も毎月ギリギリ。だからこの仕事は……最後の綱っていうか、もう後がない感じで」


マスターは黙って話を聞いていた。やがて、カウンターの下に手を添えたまま、目を合わせて言った。


「……お客さんを乗せる仕事でしょう。何かあってからじゃ、遅いですよ」


佐伯は、その静かな声に目を見開いた。


「はい……でも、“辞める勇気”が……不安なんです。全部失う気がして」


マスターはゆっくりと、湯呑みに手を添えるような動きで言葉を継いだ。


「辞めることは、逃げじゃありません。“守るために辞める”という選択も、立派な前進ですよ」


佐伯は黙って、水をもうひと口だけ飲み干した。ふぅと息を吐いて、遠くを見るように言った。


「……辞めたら、楽になるんですかね」


しばらく、沈黙があった。マスターは手元に視線を落としたまま、小さく口を開いた。


「……楽になるかどうかは、これからですよ。でも、“少なくとも、後悔は減る” ……大丈夫」


その言葉が、佐伯の胸に、そっと落ちた。


湯呑みに残った水をゆっくりと飲み干し、ふぅとひとつ息を吐くと、佐伯はマスターの方を見て小さく頭を下げた。


「……ごちそうさまでした。お会計お願いします」


マスターは静かに頷いた。


「なんだか愚痴のような感じで、すみません」「いえ……まぁ、気をつけてね」


「はい……料理美味しかったです。また来ます」


佐伯は、マスターに会釈し、店の扉の前で立ち止まった。


取っ手に手をかけながら、ほんの一瞬、後ろを振り返る。マスターは静かに見送っていた。


そのまま、ドアを開け、外の空気を吸い込んだ。


店を出た瞬間、空気が一変していた。佐伯は肩をすくめるように一度背筋を伸ばし、軽く首を回す。


「……よし、行くか」


自分に言い聞かせるように呟いてから、足を前に出す。そのまま広場の方へ戻る途中──


前方から一人の男性が、歩いてきた。


シャツにジャケット、ラフすぎず、かといってスーツでもない。肩には小さなトートバッグ。表情は穏やかで、どこか家族を思わせるような雰囲気をまとっている。


佐伯は何気なく、すれ違いざまにその男をちらっと見た。


(……どこかで見たような──)


そう思ったその瞬間には、もう背中越しにすれ違っていた。


佐伯は立ち止まり、振り返る。


しかし、さっきまであったはずの──あの建物が──


「……ない…」


雑草の生い茂った林と、低い木立だけが、静かに風に揺れていた。佐伯は目を細め、しばらくそこに立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと踵を返し、もう一度、深く息を吸い込んだ。



翌日。早朝の車庫は、いつものように忙しないエンジン音が鳴り響いていた。


その中で佐伯は封筒を手に、管理者がいるところへゆっくり歩いていた。


「おっ、佐伯くん! どうしたの、朝イチで“話がある”なんて」


「……すみません。少し、お時間いただけますか」


管理者は一瞬だけ表情を強張らせたが、「あぁ、わかった」と頷き、事務所の奥の空いている応接室へと案内した。


佐伯はゆっくりと席に座り、手に持っていた封筒をそっとテーブルに置いた。


「……辞めようと思います。今日で、タクシーの仕事を」


管理者は驚いた表情を浮かべた。


「どうしたの急に?」


「……病気があるんです。持病で、医者からは“運転はするな”って言われてて。でも、黙ってやってました」


管理者はしばらく言葉を失い、目の前の封筒に視線を落とした。


「……なんで、そんなこと隠してまで」


「……もう、後がないと思ってたんです。でも昨日、ある人に“守るために辞めるのも前進だ”って言われて……少し、楽になった気がして」


佐伯は、まっすぐ管理者の目を見て言った。


「ご迷惑おかけして、すみません。責任は……全部、自分で背負います」


管理者はため息をひとつつき、ゆっくりと封筒を手に取った。


「……そうか。でも、無理をして何かあってからじゃ、取り返しがつかない」


それから少しだけ、声を和らげる。


「きちんと話してくれて、ありがとう」


佐伯は小さく頭を下げ、営業所をあとにした。


 朝の喧騒に包まれていた車庫はいつも通り動いていた。誰かが乗り込むタクシーのドアが、バタンと閉まる音が響く。


佐伯はその音を背に、ゆっくりと歩き出す。小さな交差点まで来て、ふと立ち止まり、空を見上げた。


雲ひとつない、真っ青な空。どこか澄んだ風が、頬をなでていく。本当なら、不安でいっぱいになっているはずだった。


「……この先、どうしようか」ぼそりとつぶやいた言葉に、自分で苦笑する。


職を失って、借金も残っていて、これといった当てがあるわけでもない。なのに──なぜか、怖くない。


ふと、昨日のことを思い出す。最後にかけられた、あの言葉。


(……少なくとも、後悔は減る……大丈夫)


根拠なんてない。でも、今はそれで十分だった。


「……さて」


右に行くか、左に行くか。何も決めていない。けれどその足取りには、少しだけ迷いがなかった。

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