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第4話 お寿司とカセットテープ

 前方のフロントガラス越しに、緩やかな坂道とその先の緑が近づいてくる。タクシーの中は静かだった。 後部座席に座る老夫婦。男性は落ち着いた色味のジャケットに白シャツ。真っ直ぐに前を見ているが、何かを考えているというよりは、思考の深い底に沈んでいるような横顔だった。 隣には、ベージュのスカーフを首元に巻いた女性。膝の上には薄い花束が置かれている。白と黄色の小さな花が、ラッピングの透明なセロファンの中でそっと揺れていた。


窓の外を、街路樹の影がすっと通り過ぎていくと、歩道には、これから出掛けに行く感じの女性や、犬の散歩をする老人の姿が見える。


駅からタクシーに乗って10分が経ち、やがて速度を落とす。そして、フロントガラスの先に、小さな霊園の入り口が見えてきた。


「お待たせしました。その先の入り口らへんで止めますか?」


柔らかい顔の運転手の中途半端な接客言葉が、静かな空気をやんわりと揺らした。


「はい、そこで大丈夫ですよ。」二人が息を合わせて返事をする。


——恵子(けいこ)哲治(てつはる)。今日という日に並んで座っていることは、ごく自然なことのように思えた。


「ありがとうございます、お会計は1900円です。お支払い方法はいかがしますか?」


「じゃあ、PASMOで」哲治が会計をしてからドアを開けて降り、続いて恵子が足元を気にしながら外へ出た。日差しが柔らかく差し込む午後の空。地面には落ち葉がいくつか、くるりと裏返っていた。


タクシーが走り去ると、あたりには二人の足音だけが残った。言葉を交わすことなく、霊園の入口に秋の風が吹き込んだ。


 霊園の道の両脇には整然と並ぶ墓石と、ところどころに色あせたベンチ。木々の間を吹き抜ける風が、落ち葉をかすかに転がしていく。


哲治は迷う様子もなく、まっすぐにその道を進んだ。恵子は黙って後ろをついていく。白いセロファンに包まれた花束を、そっと両手で抱えるように持ちながら。角を一度だけ曲がり、少し開けた場所に出ると、二人は自然と足を止めた。


 そこにあったのは、他の墓とそう変わらない、ごく小さな一基の墓石。恵子がバッグから取り出した小さなクロスで、墓の上を静かに拭う。哲治は線香に火をつけ、風にあおられないように手で囲いながら、慎重に立てた。


 何も言わず、目を閉じる。声にはしない言葉が、それぞれの胸の中にだけ響く時間。恵子がふと目を開けたとき、線香の火はほとんど消えかかっていた。哲治もまた、すぐに手を下ろした。


「……ありがとう」恵子が誰に向けたでもない小さな声でそうつぶやき、そっと花を供える。黄色と白の小花が、石の前で静かにうつむいていた。


哲治は静かに立ち上がった。ズボンの膝を軽く払って、ふと隣に目をやる。恵子はまだその場に座ったまま、両手を膝の上にそっと重ね、墓石の前を見つめていた。


「行こうか」そう声をかけても、恵子は動かない。


「どうしたんだ…」


やがて恵子は、小さな声でつぶやいた。


「動けないの」


「えっ?」


「離れたくないんだなぁ……」


と、言いながら少し笑った。けれどその目は、ほんのり赤く潤んでいた。駄々をこねる子供のような声色だったが、その奥にある思いは、大人のそれだった。「もうちょっと、ここにいたいの。離れちゃうと、もう会えない気がして……やだなぁって」


哲治はそれ以上、何も言わなかった。


「ハァ…ダメね、母がこんなじゃ。」


「……いいさ」哲治はそう言って、恵子の背中にそっと手を当てた。その温度に押されるように、恵子は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。


二人は霊園を出て、坂道をゆっくりと下っていく。


「そういえばさっき、お花を供えるときにしゃがんだじゃない? “ポキッ” って鳴ったの気づいた?」「あぁ…うん、聞こえたよ」


哲治は少し笑いながら答える。「そうよね、さっきは大丈夫だったけど、最近立ち上がる時も頻繁に鳴るのよね。」


「それはまぁ、歳だからしょうがないけどなぁ。俺はもう当たり前すぎて自分のは気にならなくなってしまったよ」


すると、哲治がふっと思い出したように


「そういえば最近、膝をやってしまったな」「えっ、いつ?」「先週かな。朝、ベランダでいつものように体操したあと、ジャンプしたら…」「ジャンプ?」「そう、ラジオで言ってたんだがな、ジャンプをすると血流が良くなって自律神経が整うんだと。だから最後にちょっとこう、締めにやろうとしたら少し痛めてな」「ハハッ、無理するからよ。あなたも歳ね。」


「まぁ痛めたって言ってもちょっとだけだよ。……でもラジオで言ってたのはジャンプだけじゃなく逆立ちも良いらしいぞ。」


哲治は真顔で答える。


「やめてよ!」「わかってるよ、逆立ちも良いって話、それはさすがにやらんよ。」


ふたりは歩きながら、笑い声を重ねていった。


 気づけば、周囲はすっかり街のざわめきに包まれていた。レストランのランチ看板、スーパーへ行く買い物客、テイクアウト用の弁当屋。人通りも車の数も増えて、さっきまでの静けさはどこかへ消えていた。


「……なんか、お腹空いたわね」「……そうだな。そろそろ何か食うか」


そんな話をしながら歩いていると、目の前に一本の細い裏道が口を開けていた。ふと風向きが変わったような感じで、車の音や人の声が、少しだけ静まる。さっきまで肌に感じていた太陽の光が、いつのまにか柔らかい陰に変わっている。


「……いい感じの路地だな。良さげなお食事処があるんじゃないか?」


哲治を先頭に、恵子はあとに続いて歩いていった。角を曲がると、スイッチを切り替えたかのように、周りには草や低木があり、不意にぽつんと現れた一軒の建物。木造の平屋で、壁にはつたが絡み、窓ガラスはやや曇っている。入り口には、小さな木札が ——「営業中」


「なんだここは?」


哲治は足を止め、静かに建物を見上げた。


「……入ってみるか」


と、ぼそっと言い、迷いなく扉へと手をかける。


「ちょ、ちょっとあなた……!」恵子が声を上げた。


営業中の札の下、「※1名限定」の文字が書き添えられていたのだ。けれど恵子の声が届く前に、哲治はすでに扉を開けていた。


カラン——


「いらっしゃい」


低く、落ち着いた声が店内に響いた。


するとマスターはすぐに外の営業中の札をくるりと裏返す。——『営業中』から『閉店』へ。


「どうぞ、こちらへ」


哲治と恵子は、ためらいながらも並んでカウンター席の中央に座った。椅子の木が、すこしだけきしんだ音を立てた。


「何になさいます?」


マスターがゆっくりとふたりを見ながらそう尋ねる。哲治が思わず周囲を見回す。


「あぁ、……あのー、メニューは?」


「ありません」


「えっ?」


二人の声が、同時に店内に響いた。するとマスターは二人を見て、静かに言った。「だいたいのものは、できますよ」


マスターのまなざしには、不思議と迷いがなかった。


「そうですか……どうする?」哲治は恵子に問うも、すぐには思いつかない。


「えぇ?なんでもってわけにはいかないでしょう?」


哲治は冗談混じりで聞いてみた。


「じゃあ、お寿司はどうです?」


「やだもう。お寿司なんてダメでしょ」


と、恵子は恥ずかしそうにツッコむが、マスターはまっすぐ二人を見たまま、首を縦に振った。


「出来ますよ」


その言葉に、恵子と哲治は一瞬顔を見合わせた。


「えっ、出来るんですか?お寿司。」


「えぇ、まぁネタは限られますが、出来ますよ。」


思っていた以上に現実味のある返答に、二人は思わず顔を見合わせた。


「特に食べられないものとかは?」


「いえ、特に……なぁ?」


哲治は恵子に、“大丈夫だよな?”という目で軽く首をかしげた。恵子は苦笑しながらも、「うん、大丈夫」と返した。


「お願いします」哲治がそう告げると、マスターは静かに一礼した。


「かしこまりました。……少し、お時間いただきますので」


そう言って、マスターはゆっくりと奥へ引っ込み、しばらくして、湯気の立つ緑茶を二人の前にそっと置いた。


「どうぞ、熱いから気をつけて」


「あっ、どうも」


熱々の湯呑みから立ちのぼる湯気は、寿司屋のカウンターで出される、どこか懐かしくて、思わず息を深く吸い込みたくなる。続いて、白い小皿に盛られたガリ。薄桃色の生姜が静かに光を反射していた。


「どうぞ。」


それだけ言うと、マスターは再び奥へと消えていった。二人は静かに湯呑みを手に取り、ふっと息を吹きかけた。二人ははひとくち啜ると、「あぁ……」と小さく漏らす。


「不思議な空間だなぁ」


「そうね。」


二人の視線は、自然と店内の細部へと移っていく。柱時計が、コチ、コチ、とゆっくり時を刻み、天井近くに灯る裸電球が、店内をやさしく照らしていた。殺風景ではあるが、どこか居心地がよかった。


ふと、恵子の視線がカウンター奥の棚へ向いた。古びたラジカセ。その隣には、カセットテープが並んでいた。


「……カセットテープ」


「ん?」


哲治が恵子の視線のところに目をやる。


「なにかの音楽が入ってるのかな?」テープのラベルには手書きで数字が並んでいる。1989、1990、1991……1995。その中に、一つだけ隙間があった。


 ——1994。


「……1年、抜けてるのかしら」


恵子がぽつりとつぶやいた。哲治もそれに気づいたようで、眉をひそめて棚を見つめる。


「94年だけないな…」「そうなの」


二人はまた静かに湯呑みに手を伸ばした。すると奥の方から懐かしい匂いが漂ってきた。


昆布だしのやさしい香り、かすかに漂う酢の刺激。そして、切り身の生魚から立ち上る、匂い。それらが、時間を巻き戻すように、二人の記憶をゆっくりとたぐり寄せてくる。


そのまま、二人はしばらく何もせず、何も言わず、ただその空間に身をゆだねていた。


まるで水の底に沈んだまま、浮かび上がるのを忘れていたような感覚。それは数分だったのか、十数分だったのか、もうわからない。


気がつけば、二人の前に温かい香りが漂ってきた。


マスターはカウンター越しに、湯気をまとった椀を差し出した。


二人は木の椀にそっと手を添えると、じんわりとした熱が指先に伝わる。顔を近づけて、香りを吸い込む。


「……あぁ、いい匂い」


あら汁だった。白身魚のだしに、ほんのり柚子の香りと刻んだ三つ葉。油の浮かない澄んだ汁に、気持ちまでほぐされていく。


「あら汁の香りってなんだか懐かしい感じがするわぁ」


「あぁ、いいよなぁ」


二人は静かに椀を口に運んだ。


「……美味しい。お寿司屋さんに来たみたいだわ。」


そして、二人が椀を置いたちょうどそのときだった。


カウンターの上に、白木の板が静かに置かれる。淡い照明が反射し、艶やかな色がそこに現れた。


「……えっ」


恵子が、思わず声を漏らす。


たまごの握り、イカ、鯛、まぐろの赤身、ウニの軍艦、いくらの軍艦、サーモン、いなり寿司が二つ。ちゃんとした握りが整然と並んでいた。


どれも、少し小ぶりで上品なサイズ。だが、その彩りと立体感には、店の雰囲気からは想像もできなかった迫力がある。


「……すごい」


哲治が小さくつぶやく。


「こんなに……」恵子が笑いながら言う。


いなり寿司の揚げはふっくらとして、ほどよく甘く煮含められていそうだった。ウニの軍艦には、ツヤのある海苔が巻かれ、いくらは宝石のように光っている。


ふたりはしばし、箸をつけるのを忘れて見入っていた。


「どうぞ、ごゆっくり。」


「……いただこうか」


哲治がそう言って、箸を取り、まずはイカへと手を伸ばす。恵子は迷った末に、たまごをそっと持ち上げた。イカの握りを口に運んだ瞬間、哲治の表情がわずかにゆるんだ。


「……うん、旨い」


噛むたびにほんのりと甘みが広がり、しっかりとした歯ごたえが舌に心地よい。酢飯はやさしくほぐれて、イカの甘さとふわりと重なっていく。


恵子は卵焼きをひとくち。しっとりとして、ほんの少しだけ温もりが残っている。砂糖の甘みと、上品な茶碗蒸しのような出汁のやさしさがふわっと広がる手作りの卵焼きだ。


「……甘くて美味しい。」


ふたりは言葉少なに、次のひと皿へと手を伸ばした。


鯛は身が透き通っていて、つるりとした舌触りのあとに、かすかな柑橘の香りが抜ける。昆布で締められているのか、噛むごとに旨みがじわりと広がった。


続いて、まぐろの赤身。ねっとりとした舌ざわりと酢飯の温度のバランスが絶妙で、噛むたびに舌の上でふわっとほぐれていく。醤油もつけていないのに、味が完成されていた。


「……どれも丁寧ね」恵子が感心したようにつぶやく。


サーモンはとろりと脂が乗っていて、舌の上でゆっくり溶けていく。いくらもウニも鮮度が良く、特にウニは濃厚で舌にとろけ、全く生臭さがない。


「……あら汁、冷めちゃう」


そう言って、ふたりはあらためて椀を手に取った。


出汁の香りが鼻に抜け、白身魚の小骨のまわりからじゅわっと旨みが染み出す。三つ葉の香りがまた一口を誘う。


二人は会話を忘れて、ただ淡々と箸を進めていた。


静かな店内に、小さな咀嚼の音と、椀の置かれるコツ、という音だけが響いている。


「……どれも美味しくてびっくりね」


恵子がポツリとこぼす。


「こんなにしっかりとしたお寿司が出るなんてな」


二人ともご満悦のようだった。湯呑みに手を添えて、ふうっと息をつく。そのまましばらく、静かに余韻が流れたあと、哲治がふと口を開いた。


「……それにしても、すごいですね。こんな喫茶店のような雰囲気のお店で、こんな立派なお寿司を頂けるなんて」言葉にトゲはなかった。むしろ、好奇心とほんの少しの敬意が混じっていた。


「ありがとうございます。お口にあってよかったです。」


「マスターは、なにかホテルの料理長とか、銀座の寿司屋で板前やってたとか?」カウンターの向こうのマスターに、まっすぐ問いかけるような目を向ける。


マスターは、少しだけ目尻をゆるめた。


「いえ、たいしたことはないんですよ。趣味でいろいろ作るのが好きでして」静かな声で、淡々と答える。


「フレンチやイタリアンも、よく作ったりするんですよ」どこか冗談のような、けれど冗談には聞こえない。まるで、料理というものすべてに隔てがないような、そんな響きだった。


「へぇー、すごいね」そして、恵子が思わず小さく笑う。「なんだか、フレンチ、イタリアン……ますますわからなくなってきたわね」


哲治もつられて笑った。するとマスターが、ふとしたように、けれど自然な口調で訊ねた。


「今日は、お出かけの帰りですか?」


「えぇ……まぁ、法事の帰りで」哲治が答えると、恵子が静かに続けた。


「……息子と、孫がいて……」


マスターは、そのまま黙って聞いていた。


「数年前に、事故があって……突然のことでした」声は平らだったが、そこに浮かんだ記憶の輪郭は、やはりにじんでいた。


「……気づいたら、二人とも……ぽんって」


マスターはカウンター越しにゆっくりと湯呑みに手を添え、ひと言だけ、静かに返した。


「……そうだったんですね」


マスターの言葉に、哲治はうなずいた。


「もう四回忌なんですが……」ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。「毎朝目が覚めると、まるで昨日のことみたいに、全部思い出すんですよ。……時が経てば、少しは楽になるのかと思ってたんですけどね」


しばらく、誰も何も言わなかった。その静けさの中で、恵子がふと目を上げた。


「……あの」視線の先には、カウンター奥の棚にある、ラジカセといくつかのカセットテープ。


「……あのテープ、なんですか?」


マスターはゆっくりと、彼女の視線の先をたどるように振り返った。


マスターは少しだけ間を置いてから、棚の奥に手を伸ばし、ひとつのカセットテープを取り出した。ラベルには、少し色あせた文字で《1989》と書かれている。


「これはこの店を借りたとき倉庫にあったんです。何本かありますが……よろしければ、聞いてみますか?」


不思議な誘いだった。けれど、二人は好奇心で聴いてみることにした。


「……お願いします」


マスターがカセットをラジカセに入れ、カチリと再生ボタンを押すと、どこか懐かしい音の粒が、店内にそっと流れ出す。最初の数秒間はサーっと音が鳴り、しばらくしてから子供のざわめきのような声が聞こえてきた。


『……はい!みんな静かに、それでは順番に自己紹介していきましょう。いいね!……じゃあ、はい、お願いします!』


少し遠くで、机の軋む音と、かすかな笑い声。


『相澤拓哉です!しょうらいのゆめは……』


少し緊張気味に、でも一生懸命に話す声がスピーカーから流れた。店内は静まり返り、誰もがその声にじっと耳を傾けていた。


「……小学校か何かの録音ですかね」


哲治が湯呑みを飲みながら、ぽつりと呟く。


「そんな感じですね…」マスターが静かに返す。


『はい、ありがとう!続いて…お願いします!』


『飯田あゆみです!しょうらいのゆめは……』


少し高めの、張りのある声だった。ふたりとも自然と微笑み、どこか懐かしいものを見るような目でラジカセに耳を傾けていた。


だが――その直後。


『”おのでらみずき”です!……』


その名前を聞いた途端、哲治と恵子が、同時に顔を上げた。まるで何かが胸の奥に引っかかったように、ふたりの視線がラジカセに吸い寄せられる。


恵子は、息を呑んだまま動けずにいた。哲治も、言葉を失ったまま、ただじっとその声に耳を澄ませていた。


『……えーっとー、しょうらいのゆめは……アイスクリームやしゃんです!』恵子は、おそるおそる言葉を選ぶ。


「……いま、“おのでらみずき”って……」


「あぁ……でも、どういうことだ?」


哲治も混乱した表情のまま、ラジカセを見つめていた。そして恵子は、かすれた声で言った。


「今、自己紹介してた子……“おのでらみずき”ってそれ、うちの孫の名前……偶然かと思ったけど、声もそっくりで……」


「……そう思われましたか?」


「いや、でも……偶然かな……名前が同じってだけかもしれないし……」


沈黙が落ちた。そのなかで、マスターが棚のほうへ視線を向け、静かに言った。


「……他もよかったら、聞いてみますか?」


二人は顔を見合わせ、ゆっくりとうなずいた。


「……お願いします」


マスターが手に取ったのは《1990》とラベルに書かれたテープだった。カセットを入れ替え、再生ボタンを押す。


『じゃあ順番に自己紹介していきましょう』


また、男の先生の声。いくつかの子どもたちが元気に名乗ったあと、三人目の声が流れた。


『”おのでらみずき”です!しょうらいのゆめは……おとうさんとけっこんすることです!』


「……やっぱり、同じ声だ」恵子の声が、ほとんどため息のように漏れた。哲治は、目を伏せたまま、小さくうなずいた。


「あぁ、でも……どういうことだ?」


二人の間に、言葉にならない時間が流れる。恵子が、ぽつりと呟く。


「このテープ……なんでここに?」


「……」


マスターは、わずかに視線を落とし、答えなかった。


「三人目の子……“おのでらみずき”って、間違いなく孫です!」


恵子の声には、驚きと戸惑いと、わずかな確信が入り混じっていた。


「……偶然とは思えないんです。声も、はっきり覚えていて……」


「他の年のテープも、聞いてもいいですか?」


哲治が身を乗り出すようにして訊ねた。


「もちろんです」マスターはそう言って、棚から《1991》から《1992》と順々に聞いていくが、やはり3人目の子は”おのでらみずき”と名乗っていた。


「……やっぱり、間違いなかったのね……」


恵子が小さくつぶやいた。


94年のテープはなく、次に流された《1995》のテープには、瑞希の声はなかった。


カセットが止まったあと、誰も何も言わなかった。その沈黙のなかで、恵子がそっと胸元に手を当てる。哲治も無言のまま、ラジカセを見つめていた。そして――


「……1994年に、亡くなったんです」


マスターは、少しだけ視線を落とし、湯呑みに手を添える。


「……そうでしたか」


その声には、特別な感情を加えようとすることも、取り繕うような気配もなかった。ただ、静かに、共に在るような響きだった。


恵子は、湯呑みの湯気をじっと見つめながら、話しはじめた。


「……孫だけじゃなく、息子も一緒だったんです」


哲治が小さくうなずく。


「交差点の事故でした。タクシーが突然、車道を外れて猛スピードで突っ込んできて……」


恵子は湯呑みを見つめたまま、声を震わせないように言葉を並べた。


「……急すぎて、どうしていいかもわからなかった。気がつけば、ふたりとも……ぽんって消えてしまって。…何もかも、胸の奥にしまったまま、今日まで来てしまったのよ」


マスターは、カウンター越しにふたりの様子を静かに見つめていた。


「……悲しみは、しまったつもりでも、どこかでずっと生きているものですね」


その言葉に、哲治がふっと息を吐いた。


「……そうですね」


恵子は、カセットにそっと指を添えた。


「……聴かせてくれてありがとうございます。まさかこんな形で、また……」


マスターはゆっくりとうなずく。


「よければ、一緒にお持ちください」


「えっ?でもこれは?」


「正直、どうしてここにあるのかは、わたしにもわからないんです。……でも、あなた方が持っているべき気がして」


「……ありがとうございます」


カセットテープをそっと抱えるようにして、恵子はひとつ、静かに深呼吸をした。


「……そろそろ、行こうか」


哲治はどこか名残惜しさをにじませる声で席を立った。


「お会計をお願いできますか」


マスターはうなずくと、小さな木製のトレイを差し出した。


「今日はありがとうございました。」


恵子が、かすかに頭を下げる。


「……いえ、こちらこそ」


マスターは、いつものように言葉少なく、けれどどこか温度のある声で返した。


カラン……と、小さな鈴の音がして、二人は店の扉を押し開けると、さっきまで空を覆っていた灰色の雲が、舞台の幕が引かれるようにするすると後退していき、一面に、まばゆい青が広がっていった。


「……あら、さっきまで雨だったのに」


恵子が立ち止まり、空を見上げる。


哲治も目を細めて空を仰いだ。どこまでも突き抜けるような青。太陽の光が、湿った空気を洗い流すように、二人の肩に静かに降り注いでいた。


「……なんだか世界が入れ替わったみたいだな」


「……うん」


恵子は、小さくうなずいた。


そのとき。


前方から、少し着古したスーツに、緩んだネクタイ。疲れた様子で歩いてくる青年がいた。うつむきがちで、顔はよく見えないが年齢は三十半ば。二人とすれ違う瞬間、その青年はふと顔を上げた。


目が合うわけではない。ただ一瞬、何かを確かめるように、哲治が立ち止まった。


「……?」


哲治が、ほんの小さく首を傾げる。振り返った先には、ただ静かな路地があるだけだった。さっきまでの青年も、あの店の姿も、もうどこにもなかった。


「あれ?……どういうことだ……」


——まるで最初からなかったかのように——静かに消えていた。


「……フッ……まぁいいか」


哲治が鼻で笑いそうつぶやくと、恵子は微笑んだ。そしてまた静かに歩き出した。カセットテープのあたたかさを、それぞれの胸に静かに残したまま。


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