表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

第3話 町中華の半チャーハン、半ラーメン

「……うぅ。」


 掛け布団にすっぽりくるまった小山こやま 二楽にらくは、枕に顔をうずめたまま、静かな寝息を立てていた。 寝返りを打った拍子に、まぶしそうに目を細める。


 「……ん……?」


 カーテンの隙間から差し込む光は、朝のものにしてはずいぶんと強すぎた。 まぶたの奥にじわりと光がしみ込み、じわじわと現実に引き戻されていく。


 手を布団の外へと伸ばし、枕元に置いてあった目覚まし時計を探り、もう片方の手で、寝ぼけまなこにメガネをかける。 ゆっくりと時計を顔の前に持ち上げ、じっと針を見つめた。


 短針は10を、長針は2を――つまり10時10分を――しっかりと指している。


 ……その瞬間、両手で時計をわしっと握りしめ、目を見開いた。


 「……遅刻だぁーーっ!!」


 布団を蹴飛ばして飛び起きる。


「まずいぞ、まずいぞ」 パジャマの前ボタンを慌てて外しながら、口を尖らせてぼやいた。


 「なんで、なんで起こさないんだぁ……」


 ふらつく足取りのまま、服を片手に廊下を進み、リビングへと向かう。 どこかアイロンの匂いが漂ってきて、部屋の中はすでに午前の空気に包まれていた。


 リビングでは、妻の弓子が生花の道具をバッグに詰めているところだった。


 二楽はネクタイを手に、まだ焦りの残る声で言う。


 「おい、なんで起こしてくれないんだ?」


 弓子はくるりとこちらを振り返り、少し呆れたように笑った。


 「……何言ってるの。あなた、もう退職したじゃない」


 そう言いながら、テーブルの横を指さす。 二楽がその方向に目をやると、そこには―― **「お父さん 退職おめでとう」**とカラフルな文字で描かれた色紙と、 昨夜もらったままの花束が、まだラッピングのまま飾られていた。


 二楽の動きがぴたりと止まる。 だらんと下がったネクタイを持ったまま、虚を突かれたように立ち尽くす。


 「……ああ。そうか。そうだったな」


 苦笑しながら頭をかくと、ソファの背にもたれて、大きくひとつ息を吐いた。


「それじゃ、わたしは出かけてくるからね」


 弓子がバッグを肩にかけて、にこにこと笑う。


 「じゃあねぇ〜」


 その声が玄関の扉の向こうへ消えていくのを、ソファに腰を下ろしたままの二楽はぼんやり聞いていた。 しばらくそのまま、ネクタイを握った手を見つめていたが――やがて、「……はぁ」とため息をつく。


 スーツの上着を脱ぎ、シャツを引っ張ってボタンを外す。 下着姿のまましばらく立ち尽くしたのち、寝室から気に入りの私服――チノパンとポロシャツを引っ張り出してきて着替えた。


 着替え終えたところで、スマホに弓子からのLINEが届いているのに気づく。


【ご飯は用意してないから、どこかで食べてきて。あと、庭のお花に水やっといてね。よろしくね☺️】


 「……はぁ」


 スマホを置き、一息ついたところで裏口から庭へ出る。 ホースを伸ばして花壇に水を撒くと、陽の光がきらきらと飛び散り、色とりどりの花の向こうで、蝶々が飛んでいる。


 小山二楽。六十五歳。 この春、42年間の教員生活を退いた。 途中、教頭や管理職への声もかかったが、「子どもの近くが一番」と断り続け、 教壇に立ち続けたまま、最後まで“担任”として教職を終えた。


 家では少しおっちょこちょい。だけど、生徒にはやけに人気があった。 若いころから変わらない“やわらかい笑いジワ”と、教科書を忘れたときの言い訳を一緒に考えてくれるような先生。 生徒も保護者も、いつのまにか味方になってしまう、そんな人だった。


 ……ただ、今はそれを支えていた日常が、すっぽり抜け落ちている。


 水やりを終えてリビングに戻ると、ソファに腰を下ろし、文庫本を開いた。 けれど数ページも進まないうちに、文字が頭に入ってこなくなった。


 教師だった頃の癖で、「午前中は頭を使え」とばかりに、何か読んでいないと落ち着かないのだ。 でも、もうその必要もないのだと気づくと、逆にそわそわしてきた。


 「……出かけてくるかぁ」


 そうつぶやくと、二楽は立ち上がって、財布とスマホ、家の鍵をポケットに突っ込み、玄関の扉を開けた。


 平日の昼前。 いつもより静かな駅前通りには、スーツ姿のサラリーマンたちが小走りで横切っていく。 電話片手に苦い顔をしている若者、タクシーを止めようと手を挙げる中年、信号を気にしながら小走りするOL。


 二楽は、肩をすぼめながら、なんとなく申し訳なさそうに歩き始めた。


 「……なんだかすまないねぇ」


 自分でも苦笑してしまうその言葉を、胸の中だけでつぶやきながら―― 彼はのんびりと、歩き出した。


気づけば、ずいぶん歩いた。 普段なら通らないような裏道や、階段の多い坂をのぼったり下ったり―― 目的もなく、ただ靴の裏に任せるままに、ぶらぶらと。


 昔、生徒と一緒に歩いた通学路のような道。 どこかで見たことのあるような、ないような、そんな風景が続いていた。


 そしてふと、小さな脇道に目が留まる。


 奥へと続くその細い路地は、雑草がぼうぼうに生い茂り、アスファルトも割れて苔むしている。 その先にぽつんと佇む一軒の建物。 ツタの這った外壁と木の扉。その傍らに小さな木札が二枚。


「営業中」――「1名限定」


 二楽は立ち止まり、眉をひそめた。


 「……1名限定?」


 思わず声に出す。 飲食店でそんな札、見たことがない。 店の中から物音も気配も感じられない。まるで呼吸するように静かだ。


 「……へぇ。変わった店だな」


 そうつぶやいたあと、軽く肩をすくめてから、 「……ハァ。そういやまだ朝飯食べてなかったな。」


周りを見渡すところ他に飲食店はおろか、建物が見当たらない異様な場所だ。


「でも、1名限定って、もう先着はいるだろうな」 二楽はドアノブに手をかけ、恐る恐る扉を開ける。


 カラン……と、鈴の音がひとつだけ転がった。 足元は木の床、照明はやや暗く、光と影の境界がはっきりしている。


 誰もいない静かな空間の中で、カウンターの奥に一人、男が立っていた。 白髪まじりの穏やかな顔立ち。少しも動じることなく、ただ静かに二楽の方に顔を向いた。


 二楽が戸口で一歩踏み出したとき、その男――マスターが口を開いた。


 「……いらっしゃい」


 その声は落ち着きがあり、よく通る声だった。


(いらっしゃい、てことは店主か?)


 マスターはゆっくりとカウンターから出て、 入り口に掲げられていた「営業中」の札を裏返す。 そこには、**「閉店」**の文字が現れた。


 二楽がカウンター席に腰を下ろすと、マスターが正面に戻ってきて静かに尋ねた。


「何になさいます?」


「えっ?」


 二楽はマスターの意外な一言にびっくりし、周囲を見回した。棚には食器やグラスが整然と並び、壁には絵やメニューの類は見当たらない。 「えっ…とー……メニューはありますか?」


 するとマスターは、微かに口元を緩めて答えた。


 「いえ。でも、だいたいのものは作れますよ」


 二楽は「へぇ」と驚いたように声を漏らす。 中華なんか、さすがにこの落ち着いた店では出てこないだろうと思いながら、試しに聞いてみる。


「……さすがに中華ってのは、ダメですかね?」


「中華は何を食べたいですか?」「……例えば、半チャーハン、半ラーメンとか」


 マスターは少しだけ間をおいて、静かにうなずいた。


 「出来ますよ」


「ですよね、はは。さすがに中華は……」


 その言葉が二楽にとってまさかの返答だったのか、苦笑いするも、その2秒後に表情が止まった。


 二楽は眉間にしわを寄せたまま 「いま……なんて?」


 マスターは変わらぬ静けさでうなずいた。


 「半チャーハンと半ラーメン、出来ますよ」


 言葉を飲み込んだままの二楽の表情が、ぴたりと止まる。少し目を丸くしながら


 「……ほんとに?こんな雰囲気なのに」


 マスターはくすっと笑ったようにも見えたが、それ以上は何も言わずにカウンターの内側へ戻ると、二楽の表情を見つめながら尋ねた。


 「ビールは、飲まれますか?」


 二楽は、「あ、」と声を漏らしかけて、すぐに口を閉じた。 手元に視線を落とし、ちょっと苦笑いを浮かべる。


 「いや、でも……平日の昼間からってのはねぇ……」


 ふだんなら、そう答えていた。 教師だった頃の癖で、昼に酒を飲むなんて発想自体が、どこか“いけないこと”のように思えてしまう。


 けれど。


 「……いや、でも、もう辞めたんだったな」


 そのつぶやきを受けて、マスターが静かに言葉を返す。


 「今日が、特別な日というだけです」


 言葉に力はない。押しつけもない。 でも、その一言に、二楽はふと肩の力が抜けるのを感じた。


 マスターは一拍置いて、もうひとこと付け加える。


 「わたしも、飲みますよ」


 その言葉に、二楽の口元がゆるんだ。


 「……じゃあ、いただこうかな。瓶ビールを一本」


 マスターがうなずくと、冷蔵ケースから一本の瓶ビールを取り出し、コトリとグラスを添えて置く。 グラスの底に光が差し込み、どこか落ち着いた金色の影をカウンターに落としていた。


 栓の音が、小さく響いた。


 瓶を傾けながら、二楽はふと思いつく。


 「……餃子って、いけますか?」


 ラーメンとチャーハンに加えては、さすがに頼みすぎか―― いや、昼からビールを飲むなら、あれがないとどうも締まらない。 どこか申し訳なさそうに尋ねた二楽に、マスターは一瞬だけ目を細めた。


 「餃子ね、はいよ」


 その返答に、二楽は思わず吹き出しそうになって、肩をすくめた。


 「はは……やるなぁ、マスター」


瓶ビールの栓が抜かれ、小さな音を立てた。 グラスに注がれた金色の液体は、ほんの少し泡を立てて、すぐに静かに落ち着いた。


 二楽がひと口飲むと、喉を通る炭酸が、じわりと胸を満たしていった。


 マスターは黙々と、調理場で準備を進めている。 カチャリ、トントン、ジュッ……と、音だけがやけに心地いい。


 二楽はカウンターに肘をつきながら、店内をゆっくりと見回した。


 棚の上に、古びたラジカセが置かれている。 その横に、透明のプラスチックケースに収められたカセットテープがいくつも並んでいた。


 白いラベルには、それぞれ黒の油性ペンでこう書かれている。


「1989」「1990」「1991」 ……と続き、「1994」がなく「1995」まで、5本。


 どれも同じ文字の筆跡で、きっちり並んでいる。


 「……カセットテープ?」


 思わず声に出していた。 その響きが懐かしすぎて、思わず少し笑ってしまう。


 教師になって、ちょうど元号が平成になった頃だ―― 学級活動や放課後の時間、生徒たちと誕生日メッセージや将来の夢を録音したことがあったのを思い出す。


 「まさかな……」


 首をかしげながら、もう一度ラベルを見やる。


 “これは一体、何の録音なんだろうか――”


「94年……」


 そんなことを思いながら、グラスの縁に口をつけた。


ジュウウッ……という香ばしい音とともに、最初にやってきたのは餃子だった。


 餃子のために作られたような白いお皿に、焼き目が美しくついた五つの餃子が並ぶ。 皮は端がほんのり焦げ、中心にはきつね色の焼き面が光っていた。


 「……ほぉ、うまそうだ」


マスターは調味料をいくつか二楽へ渡した。


「酢と醤油、ラー油とコショウ使うならどうぞ」


「ありがとうございます。」二楽は、小皿に酢と醤油だけを入れ、割り箸を割ると、ゆっくりと餃子を持ち上げた。肉汁が外に溢れないようにそっとつまみ、タレに軽くくぐらせて口に運ぶ。


 噛んだ瞬間、パリッという心地いい音のあと、 じゅわっと肉汁と野菜の甘みが舌の上にひろがった。


 「ぁッ……うん、うん……旨い。」


 思わず声が漏れた。 火傷しそうな熱さに、ビールをぐいっと流し込む。


 ビールの冷たさが、餃子の余韻と混ざって、喉をすうっと通っていく。 昼間にしか味わえない、背徳と自由の交差点みたいな時間。


 その頃合いを見計らったように、マスターが二皿目を運んできた。


 八角形のお皿にふんわりと盛られた半チャーハン。 そして、丼にそっと張られた澄んだスープの半ラーメン。


 飾り気はない。だが、その分だけ湯気が主張してくる。


 二楽がレンゲを手に取ったとき、マスターも自分の前に静かに皿を置いた。 それは、チャーハンと、スープ。そして、350ml缶のビールだ。


 マスターは表情を変えることなく、缶ビールをグラスに注いで、一気に飲み干した後、すぐに炒飯を一口。いつもの味といったような感じで表情は変わらない。そして、また一口食べ、ビールをグラスに注ぎ、カウンターに置いてある新聞を手に取って静かに目を通している。


その様子は、まるでいつもと変わらない、淡々とした日常の一部のようだった。


 二楽はマスターの見た目とのギャップに驚くも、その飲みっぷり食べっぷりを見て、緊張感が一気になくなり、穏やかな気持ちになった。


(よし、いただくか。まずはラーメンのスープから) 改めてレンゲを取り、スープをひと口――。


 鶏ガラと香味野菜のだし。 すっと体に染みこむような、優しい味。


 塩加減も脂も出しゃばらない、だけどしっかり支えてくれる“昔ながら”の一杯。半ラーメンとはいえ、チャーシュー一枚に、半分に切られた味玉と海苔があるのが贅沢に思える。


 二楽は思わず、スープをもうひと口。


 そして箸を取り、ラーメンをすする。


 ずるっ、という音とともに、細めのストレート麺が、静かに口の中へ入ってくる。


 すすった瞬間、スープの温度と醤油の香りが鼻に抜けた。


 「……これは……いいなぁ……」


 小さくつぶやきながら、またレンゲでスープをすする。


 今度は、炒飯へ。


 箸で一口分をすくい、ふうと冷ましてから、口へ。


 ふんわりとした米に、卵の甘みとネギの香ばしさ。 鍋肌の香りが、鼻を抜ける。


 (すごいなぁ、中華料理屋のチャーハンの味だ!)


 思わずグラスに手が伸び、またビールをひと口。 すべてが静かに噛み合っていく。


二楽が炒飯を口に運びながら、ふう、と息をついた。


 「……うまいですね。こういうの、やっぱり落ち着きますよ」


 マスターは顔を上げて静かに言った。


 「そうですか。口に合ってよかったです」


 二楽はグラスを手にしながら、小さくうなずいた。


 「私、最近まで教員をしてましてね。小学校で……四十年かぁ。ついこのあいだ、定年で退職しました」


 マスターは黙って耳を傾けていた。


 二楽はスープをひと口すする。 湯気の中で視線がゆっくりと沈んでいく。


 「退職って、もっとこう……解放感があるもんかと思ってたんですよ。  でも実際は、なんていうか、ただ急に空っぽになった感じで」


 ラーメンをひとすすりして、静かに箸を置く。


 「老後の準備って、なんとなく“いつかそのうち”って思ってたんです。  でも気づいたら、“そのうち”が目の前にあって。  しかも何もしてない自分がいたんですよ」


 グラスを持つ手が、少しだけ揺れる。 けれどその手元は、すぐに落ち着きを取り戻した。


 しばらく沈黙が流れたあと、マスターがぽつりと口を開いた。


「“そのうち”がやってくると、人は焦るんですよ。でも、“そのうち”ってのは、誰かに見せるためにあるんじゃなくて、本当に必要なときに、自分の中で形にできれば、それで間に合うもんです」


 「それに……“何もしない時間”ってのは、悪者みたいに言われがちだけど、  中身が詰まってた毎日を過ごしてきた人にとっては、  それくらいの“空白”がないと、ちゃんと次の景色が見えてこないこともありますよ」


 不思議な静けさが店内に落ちる。 どこかの隙間で、風が草木を揺らしたような音がした気がした。


 二楽は、箸を持ったまま少し目を丸くしてから、にやっと笑った。


 「……なんだ、マスター。けっこう喋るんですね」


マスターは咳払いをし、新聞を手に取り直して、何事もなかったようにあしらった。


 二楽はその背中を見ながら、ふっと笑って、炒飯をもう一口、口に運んだ。


噛みしめるごとに、どこか遠い記憶の味のようなものが、じんわりと広がっていく。 目の前の風景も音も、いまこの瞬間だけはやけに静かだった。


 「……ごちそうさまでした」


 二楽は箸を揃え、丁寧に頭を下げた。


レジカウンターで会計を済ませようと立ち上がり、マスターも静かにレジへ。


「……えーっと、いくらですか?」


「1300円です。」


「あっ、じゃあ2000円で。」


マスターがレジ操作をしていると、二楽はその背後にある棚の一角にふと視線が向いた。


そこには、一枚の写真立てが飾られていた。写っているのは、校舎のような大きな建物。どこかで見たような記憶のひだが揺れる。


「……なんだか、見覚えがあるような……」


そんな二楽のつぶやきに気づいた様子もなく、マスターは小銭を揃え、柔らかな声で言った。


「はい、700円のお釣りです」


「あ、はい、どうも」


二楽は財布に硬貨をしまい、軽く頭を下げて店を後にした。



外はすでに日が暮れており、時間がかなり経っているようだった。


二楽が店を出て石畳の通りを歩いていると、前方から老夫婦がゆっくりと近づいてきた。


どちらも控えめな黒の服に身を包み、手には小さな紙袋を一つだけ持っている。どこかの法要帰りだろうか──そんな雰囲気が漂っていた。


(……ん?)


すれ違いざまに、二楽は思わず足を止めた。老夫婦をどこかで見たような……そんな気がしたのだ。


二歩、三歩、通り過ぎてから、なんとなく気になって振り返る。


けれど、老夫婦はおろか、そこにあったはずのお店がない。建物の影も……何もなかった。


あるのは、ただ風に揺れる草むらと、陽に照らされた石畳の道だけ。


「……。」


二楽は目をこすり、もう一度あたりを見渡した。


「どういうことだ……なんで……」


何度かその場を行ったり来たりして確認するが、やはり何もない。まるで最初から、存在していなかったかのように。


「……なんで何も…なんだよこれ……夢か?」


ぽつりとつぶやいたその声だけが、やけに静かに響いた。


しかし、口の中にはまだ、チャーハンと餃子の味がしっかり残っていた。



翌日の昼下がり。


キッチンには、炒め油の香ばしい匂いと、不慣れな手つきの音が漂っていた。


その様子を、弓子はダイニングテーブルに腰掛けうれしそうに見つめていた。


「お待たせ!」


二楽が運んできたのは、焼き目が少し強めの餃子と、ややべちゃっとしたチャーハン。


見栄えは決してよくない。それでも二楽は胸を張ってテーブルに並べた。


「見た目はともかく……食べてみてくれ」


弓子は嬉しそうに一口チャーハンを口に運んだ。


二楽はその様子をじっと見つめ、「ど、どう?」とやや緊張した声で尋ねる。


弓子は少し間をおいて、にっこりと笑った。


「……おいしい」


その一言に、二楽は肩の力を抜いて「よかった……」と胸をなでおろす。


自分もチャーハンをひと口。


「……うん。まぁ、旨い。……けど、やっぱり、あの味にはいかないな」


「ん? あの味?」


弓子が不思議そうに首をかしげた。


二楽は水を飲んでから、ゆっくりと語り始める。


「昨日さ、ぶらぶらしてたら変わった店を見つけてな……最初は喫茶店かと思ったんだけど、中華もあるって言うから、半ラーメンと半チャーハン、頼んでみたんだよ」


「ええっ、その組み合わせ?」


「そう、それがさぁ……」


──二楽の声が続いていくなか、庭先では、朝にやった水を受けた花々が陽射しのなかで光り、二匹の蝶が、花の間をふわりと舞い、空へと吸い込まれるように飛び去っていく。


昼間の静けさだけが、庭に残されていた──。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ