第2話 能登温泉の旅館の朝食
PCに表示された勤怠管理システムの画面を見ながら、梓は静かにため息をついた。社員番号をひとつひとつ確認しながら、有給申請と勤務時間の整合性をチェックしていく。誰が見ているわけでもないけれど、ミスがあれば真っ先に名指しで突っ込まれるのは自分だ。
小野寺 梓 、育休から復職して、もうすぐ一年半になる。
そろそろ“元の感覚”を取り戻したはずなのに、どこか浮いている感覚は変わらない。
「ねぇ梓さん、これ、来月のイベントの申請書もお願いできる?」
隣の席から投げかけられた声に、梓は目を上げた。頼んできたのは、いつも自分でやらずに “とりあえず振る” タイプの後輩だ。
「それ、もともと総務の仕事じゃないよね?」
「えっ、でも、こういうのってまとめてやってもらえると助かるし…」
「そっか。じゃあ “助かるから” って理由で仕事が降ってくるんだ?」
静かに返した梓の言葉に、後輩は苦笑いしながら「お願いします〜」と席に戻っていった。
こうして、便利屋みたいに扱われるのはもう慣れっこだ。
子供がいるからって、時短で働いてるわけじゃないし、残業だってできるときはしている。なのに、“子供がいるから” を免罪符みたいに言われると、何とも言えない気持ちになる。
“子供がいるから帰れる” “ママはいいよね”
「じゃあ、こっちは子供が熱出しても、ろくに看病もできずに『明日の朝までには治ってて』って祈るような気持ちで眠る夜を何度過ごしてると思ってるんだ。」
「ほんと、日本って子育てに冷たいよね」
声には出さない。出したところで、誰も聞いてなんていない。
“みんな同じように我慢してるんだから、空気読んで” という見えないルールの中で、自分だけが浮かないように、黙って飲み込むしかない。
画面の数字がぼやけて見えた。
気づかれないように、目元をそっと指で押さえる。
昼休みまで、あと30分。
内線が鳴る。部長が会議室のプロジェクターの使い方がわからないという。
「またか」、と思いながらも席を立った。
何度も教えた。マニュアルも作った。それでも、「梓さんがいないとダメだなぁ」と部長は軽く笑う。
「……それ、褒めてるつもりなんですか?」
呟きは、心の中だけにとどめた。
スマホが震える。保育園からの通知だった。
「本日、お昼寝後37.5℃の微熱。今は安定しています」
読み終えると、ふっと力が抜けた。
“またか……”
でも、どこかで「このまま上がらずにいてくれ」と願う自分がいる。その気持ちに、少しだけ罪悪感を覚える。
昼休みになった。
社食もあるし、下の階にはコンビニもレストランもある。でも、今日はそのどれでも気分が晴れそうにない。
「なんかもう、空気ごと変えたい」
心の中で呟きながら、梓は静かにバッグを取った。
ビルの自動ドアを抜けた瞬間、少し強めの風が頬をかすめた。
昼の光に照らされた歩道はまぶしくて、どこか非現実的にさえ感じる。
スマホを手に、地図アプリを開く。
「定食、静か、ランチ」――と検索しても、いつも行くようなチェーン店か、混みそうな人気店ばかりが並ぶ。
「別に、豪華なのが食べたいわけじゃないんだけどな…」
ぽつりとこぼして、スクロールを続ける。
今日は、社内の空気が重すぎた。
誰の顔も見たくないし、食事にまで “我慢” を持ち込みたくなかった。
だったら、いっそ知らない場所へ――そう思って、いつもとは違う道を選んだ。
歩きながらスマホを見ていたそのとき、ふいに画面がフリーズした。
「あれ?」と思ってタップを繰り返すが、反応しない。
一度画面を閉じ、再起動すると、今度はモザイクのようなノイズが表示された。
まるでテレビの砂嵐のように、地図がざらつき、読めなくなる。
「え、圏外…?」
画面の隅に表示された小さな×印。場所は、ビル街のはずれ。
こんな都会のど真ん中で、電波が入らないなんて。
不安と好奇心が入り混じる中、ふと顔を上げた。
――そこに、あった。
気づけば、周囲の音がやけに静かになっていた。車の走る音、人の話し声、どこかへ消えてしまったみたいだ。
目の前に現れたのは、雑草が生い茂る小道の先、古びた木造の建物。看板もメニュー表もない。ただ、【営業中】と、引き戸がぽつんとそこにあるだけ。そして、【営業中】の下には【一名限定】の文字が
「えっ?一名限定?」
不思議に思うが、自然と足が店の方に。
一歩、また一歩と近づくと、戸の向こうから微かに出汁の香りが漂ってきた。
懐かしい、けれど思い出せない。そんな匂い。
梓は、スマホの電源を切った。
「ここ、どこなんだろう…」
呟いたその声さえ、空気に吸い込まれていく。
吸い寄せられるように、彼女は引き戸に手をかけた。
引き戸をそっと開けた瞬間、乾いたカウベルの音が “カランコロン” と響いた。
その音だけが、この空間の空気を震わせたように思えた。
中は想像よりもずっと広くて、静かだった。
木のぬくもりが伝わる造りに対して、コーヒーや、洋食のような匂いではなく、ほのかに香る出汁が広がっていた。カウンターが五席、奥にテーブルが二つ。店内には他の客はおらず、しんとした空気が漂っている。
「いらっしゃい」
奥から、低く落ち着いた声が聞こえた。
視線を向けると、カウンターの奥に一人の男性が立っていた。白髪交じりでメガネをかけた初老といったところ。整えられた身なりに、どこか品のある所作。感情を抑えた静かな瞳が、こちらを見ていた。
ゆっくりと歩いてきたマスターは、無言で入り口の【営業中】の札を裏返した。
裏には、筆文字で【閉店】とある。
梓は少し戸惑いながらも、カウンターの一番端に腰を下ろした。
マスターは目の前に立ち、ふたたび静かに尋ねた。
「何になさいます?」
「え? いや、あのー、……メニューは?」
梓が少し戸惑いながら聞き返すと、マスターは穏やかに首を傾け、口角をわずかに上げた。
「だいたいのものは作れますよ」
その言い方が妙にしっくりきて、梓は少しだけ肩の力を抜いた。
「……和食がいいんですけど…、旅館の朝ごはんのようなものって出せますか? ほら、白いごはんと味噌汁に、鯵あじの開き。そして生卵に焼きのりとか!」
マスターは短くうなずくと、静かに返した。
「かしこまりました。
……あぁ、あと、わたしも今日はまだ何も食べてないので、同じのを召し上がりますが」
その言葉が、なぜか心地よかった。
一緒に食べる、という行為が、こんなにも安心をくれるものだとは思わなかった。
マスターはそのまま調理場へ向かい、準備を始めた。
まるで時間が少しだけ遅く流れているような、不思議な空気に包まれながら、梓はカウンターに肘をついて、静かに目を閉じた。
カウンター越しに、味噌の香りがふわりと漂ってくる。
鼻先をくすぐるこの匂いだけで、もう半分くらい癒されている気がする。
厨房の方では、マスターが音も立てずに淡々と作業を進めている。
手元の動きはゆったりしていて、無駄がない。けれど、どこか舞台の所作のように“型”が決まっているようにも見えた。
梓はふと、カウンターの端に掲げられた札に目をやった。
「一名限定」――筆で書かれたその文字が、ずっと気になっていた。
(……一名限定って、どういうことなんだろう)
カウンターは五席、奥にはテーブルも二つある。
他に客の気配はなく、マスターもそれを当然のように受け止めている様子だ。
(誰かが来たら断るのかな。というか、なんで“限定”なんだろう)
疑問は浮かんだが、なぜかそれ以上は深く考えられなかった。
この空間では、問いを重ねるより、ただ流れに身を任せるほうが自然に思える。
そんなことをぼんやり考えているうちに、料理が運ばれてきた。
木の盆に乗せられたのは、地味なメニューなのに輝いて見える一膳の "朝食" だ。
炊きたての白米に、鯵の開き、湯気を立てる味噌汁、小鉢には切り干し大根、焼き海苔、たくあんときゅうりの漬物、そして、梓が生卵と言ったが、美味しそうな、ふんわりした卵焼きを作ってくれた。どれも派手さはないけれど、どこか背筋が伸びるような丁寧さがあった。
「どうぞ、ごゆっくり」
マスターは自分の分も同じように用意し、梓の隣に静かに腰を下ろした。
「いただきます」
久しぶりに、声に出してそう言った気がする。
箸を取り、まずは味噌汁から一口。
「あ"〜、……沁みる〜」
ほどよい出汁の旨みが、喉を通るたびに肩の力を抜いていく。具は定番の絹豆腐に刻みネギ、わかめだ。
そして、また味噌汁を一口すすって、白米を食べる。
「……なんか、久しぶりです。ちゃんとしたごはん、って感じがします」
ふと、口からこぼれた言葉に、自分でも驚いた。
マスターは特に相槌を打つこともなく、黙々と白米を口に運んでいる。
でも、その沈黙が心地いい。
「昔、石川の能登に、家族で一度だけ温泉旅行に行ったことがあるんです」
梓は、鯵の身をほぐしながらゆっくりと話し出す。
「まだ中学生で、弟とケンカばっかりしてて。でも、旅館で出た朝ごはんがすごくて――
ひとつひとつのおかずが、ちゃんと “作ってくれた” って感じがして。なんかもう、それだけで機嫌が直っちゃったんですよね」
そう言って、小さく笑った。
「だから、ずっと憧れみたいになってて。
家で真似しようとしても、誰かが風邪ひいてたり、子供が泣いてたり……。気づけばずっと、こういうの食べてなかったなって」
マスターは箸を置いて、静かに言った。
「 “ちゃんと食べる” っていうのは、案外、贅沢なことかもしれませんね」
「……ほんとに」
思わずうなずいた。ああ、わかってくれるんだなって、その一言で伝わる。
「子供がいると、“適当でも仕方ない” って、自分に言い聞かせることが増えて、でも心のどこかで、こういう時間を欲しがってる自分もいて、勝手に罪悪感を抱いたりして。 ほんとは、ちゃんとしたごはん食べたいし、ゆっくり味わいたいし、できることなら一人になりたいときだってあるのに」
その言葉に、マスターはただ一言だけ返した。
「それで、いいと思いますよ」
それだけだった。でも、強く、優しく響いた。
梓は、ごはんを噛みしめるように口に運んだ。
塩気の効いた鯵が、白米と混ざってふわっと広がる。その味に、もうひとつ小さな思い出が重なった気がした。
目の前の食事は、あのときの旅館と同じじゃない。
でも、あの朝と同じように、“ちゃんと生きてる” って感じがする。
食事が進むにつれて、身体の緊張がゆっくりと解けていくのがわかった。
塩気のきいた鯵も、柔らかい卵焼きも、湯気の立つ味噌汁も、全部がちゃんと“手をかけられた味”だった。
マスターはほとんど話すことなく、淡々と自分の朝食を終えようとしていた。
その静けさが、なぜか梓の口を軽くしていく。
「……この間、同僚に言われたんです」
箸を止めて、少しだけ声を落とす。
「“子供がいるから早く帰れていいよね” って。
……たったそれだけの言葉なのに、すっごく腹が立って。
でも笑ってごまかしたんです。
ああ、もうそういう言葉にいちいち反応してたら、やってられないって」
マスターは、黙って聞いていた。
「自分で選んで産んだんでしょ、とか。
みんな大変なんだから、とか。
“お互いさま” のはずなのに、“我慢しろ” っていう空気ばっかりで。
たぶん、私……怒ってるんですよね。世の中に」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
“怒ってる” なんて、普段なら絶対に使わない言葉だった。
マスターは少し間を置いて、ぽつりと口を開いた。
「何に、そんなに怒っているんでしょうね」
問いかけというよりは、独り言のようだった。
でも、その言葉が、梓の胸の奥にストンと落ちた。
「……わからないんです。
他人?会社?社会?
たぶん、全部なんだと思います。
でも結局、自分に怒ってるのかもしれないですね。
もっとできるはずだって、自分を追い詰めてる」
言葉を吐き出すたびに、肩の力が抜けていくようだった。
何かを打ち明けているというより、自分の中から自然にこぼれてくるような、そんな感覚。
マスターは、少しだけ笑ったように見えた。
ほんのわずかに目を細めたその表情に、否定も肯定もなかった。ただ、そこにいる、という感じだけが伝わってきた。
「……こういう時間があると、また頑張れそうな気がします」
梓は、小さな声でそう言った。
「それは、よかった」
マスターの声は、相変わらず低くて落ち着いていた。
最後のひと口を口に運び、梓はゆっくりと箸を置いた。
「ごちそうさまでした」
誰にというわけでもなく、自然と出たその言葉が、自分でも驚くほど静かだった。
マスターは無言で軽く頷くと、湯呑に温かいお茶を注いでくれた。
その湯気の向こうに、まだ湯気の立つ器の数々が並んでいる。
小鉢に盛られた切り干し大根は、ほのかに甘く、出汁の味がしっかりと染みていた。
ひと晩寝かせたような、しっとりとした食感が、どこか懐かしい。
漬物は、たくあんときゅうりの浅漬け。
パリッとした歯ごたえと、やさしい塩味。
「漬物なんて普段は脇役だと思ってたけど、こういうときには主役だな……」と梓は思った。
卵焼きは、甘さ控えめで、出汁を含んだふわふわとした食感。
箸で持ち上げると崩れてしまいそうなほどやわらかく、口に入れるとじんわりと優しい味が広がる。
(……朝ごはんって、こんなに優しい食べ物だったんだ)
梓は、湯呑を両手で包みながら、ふうっと小さく息を吐いた。
背中に張りついていた緊張が、ふっと離れていった気がした。
椅子から立ち上がり、深く一礼をする。
「本当に、ありがとうございました」
マスターは静かに「お気をつけて」とだけ返した。
それが、この店での最後の言葉になった。
引き戸を開けると、昼の空気が肌に当たった。
それが少しだけ心地よく感じられたのは、食事のおかげか、それともマスターの言葉のせいか――。
数時間ぶりに吸い込んだ外の空気は、やけにまっすぐで澄んでいた。
ふとスマホを取り出してみる。
いつの間にか、電波は戻っていた。マップも問題なく表示されている。
「……よし、午後からはちょっとだけ頑張れそう」
独り言のようにそう呟いて、梓は歩き出した。
足取りは、来たときよりも少しだけ軽くなっていた。
数日後、梓はオフィスの窓際のデスクで書類をまとめていた。
以前なら少しイラッとしたかもしれない依頼も、今日は不思議と気にならない。
「小野寺さん、先週お願いしてた分、すごく助かりました」
同僚にそう言われても、特別な感情は浮かばなかった。
ただ軽く会釈し、パソコンの画面に視線を戻す。
昼休み、ビルを出てコンビニに向かう途中、スマホに通知が届いた。
保育園からのメッセージ。「本日、体調問題なし」。
「……ありがとね」
思わずスマホに向かってそう呟いて、自分でも少し驚く。
梓はふと、あの日のことを思い出す。
「あの店。旅館の朝食。マスターの声。
すべて夢のようだったけれど……、バッグの中には、まだあのレシートが入っている。」
(もう一度、あの道を歩いてみようかな)
ふらっと歩き出す。
あの日と同じ角を曲がり、同じ歩道を進む。でも、あの店はどこにも見当たらなかった。
「……やっぱり、あれは一度きりだったのかもね」
そのとき、前方からのんびり歩いてくるひとりの男性とすれ違った。
白髪混じりの髪に、メガネをかけ、ジャケットとジーンズという他所行きの格好をしてる。そして、どこか優しげな空気をまとっている。
(……あの人、どこかで会ったような……あの時のマスターとはまた違うけど…。)
立ち止まりかけた足を、ふっと戻す。
「まぁ、人違いか」
独り言のように呟き、梓はまた歩き出した。
今日の午後は、いつもより少しだけ、まっすぐに過ぎていきそうな気がした。
続く。
第3話の公開はしばらくお待ちください