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最終話「最後の2人飯」

店内には、まだ誰の気配もなく、ポタ、ポタ……と、ドリッパーから落ちるコーヒーの雫だけが、静かに時を刻んでいた。


いつもより、少しだけ早い朝。マスターは白いカップに淹れたてのコーヒーを注ぎ、ゆっくりと腰を下ろした。手元に湯気が立つ。その香りをふわりと吸い込むと、マスターは何かを思い出すように目を細めた。そして、カウンター越しにある窓の方へ視線を移す。淡い朝の光が、ゆっくりと店内を満たしていく。


しばらく静寂の中に身を置いたあと、マスターは立ち上がり、入口へ歩み寄ると、扉に掛けられた木札を裏返した。


「営業中」


そしてもう一枚──


「一名限定」


札をそっと掛けると、マスターは扉の向こうの空気にわずかに目を細めた。その瞳には、まるで“気配”を感じ取ったような光が宿っていた。


今日もまた、誰かが“迷い込む”のだろう。それが、すべてを変える一日になると知っているかのように──。



「……何をすればいいのよ」


梓は歩きながら、ため息まじりにつぶやいた。


ファミレスで別れてから、矢沢に言われた言葉が、頭の奥にこびりついて離れない。


『毎年その日に、特別なことをすればいいんです』


──特別なことって、何?言うのは簡単だけど──何を? どうやって?思いつくどころか、ますます分からなくなっていた。


どこか、他人事みたいに聞こえた。現実味のない言葉ほど、あとからじわじわ効いてくる。


頭の中がもやもやしたまま、信号を渡る。ふと立ち止まり、辺りを見渡した。


「……あの場所に」


消えていたはずの“あの店”。もう一度、見に行ってみようか──そんな気持ちが、ゆっくりと背中を押した。


足は自然と、あの裏道へ向かっていた。


そして、路地の入り口。そのアスファルトの端に落ちている、小さなものが目に入る。


それは、淡い金色の刺繍がほどこされた、布製のお守りのようなもの。思わずしゃがみ込み、そっと拾い上げる。


「……お守り?」


見覚えはない。理由は分からないが、目を離せなかった。


それを拾い上げ、顔を上げた瞬間、街の景色が音もなく切り替わった。


「あっ……あった」


静かに、まるで最初からそこに在ったかのように──あの店が、通りの奥に姿を現していた。


扉を押すと、鈍い音とともに静かな空気が流れ出した。外の景色とは別の時間が、ここには流れている。


「いらっしゃい」


カウンターの向こうに、あの日と変わらないマスターがいた。姿勢を崩さず、静かに梓を見つめている。


一瞬、何を言えばいいのかわからなくなる。それでも立ち尽くしていると、マスターが軽く顎を動かし、カウンターの席を示した。


「どうぞ」


その一言に促され、梓はゆっくりと腰を下ろす。椅子の軋む音が、小さく響いた。


「……この前、ある人に会いました」


梓はカウンター越しに視線を落としたまま、言葉を探す。マスターは黙って聞いている。


「その人から……未来のことを聞かされました。 毎年ある日、事故が起きるって。 その日を、どうにか変えられるかもしれないって」


マスターの表情は変わらない。けれど、梓は妙な確信を覚えた──この人はきっと、もう知っている。


「……でも、どうすればいいのか、わからなくて。 何か“特別なこと”をすればいいって言われたけど、私には……」


声が途切れる。マスターはしばらく梓を見つめ、それから静かに言った。


「未来は分かるが、私はヒーローのように救うことはできない。 けれど──助言ならできる」


梓は思わず顔を上げる。マスターの視線はまっすぐだった。


「そのお守りを──娘さん、ご主人、そしてあなたの分、三つ作りなさい。 そして、必ず持たせてあげてください。どんなときも」


梓は、手の中にある金糸のお守りを見下ろした。


「……お守りが、そんな役に立つんですか?」


「何かが起きるとき、それは小さな“兆し”として現れる。 お守りは、その瞬間に思い出すための“鍵”になるんです。 鍵があれば、扉は閉じられる。 閉じられれば……道は変わる」


梓は唇を噛み、深く息を吐いた。胸の奥に、少しだけ光が差したような気がした。


梓は手の中の金糸のお守りを見下ろした。金色の糸が、灯りを受けて静かに輝いている。


そのとき、ぐぅ……と小さな音が沈黙を破った。梓は頬を赤らめる。


「何か食べた方がいい」


マスターは淡々とした口調で言った。


「食べると安心しますから」


「……別に注文は」


言いかけた梓の言葉を遮るように、マスターはもう厨房へと歩いていた。扉が静かに閉まり、すぐに、コンロの火が点く小さな音が聞こえる。


しばらくすると、バターの甘い香りが、店内の空気をやわらかく満たしていった。その奥から、ビーフシチューのような濃く深い匂いが重なってくる。香りは、ゆっくりと梓の胸の奥の硬さをほぐしていった。


カウンターの木目をぼんやりと眺めながら、ふと思う。──瑞希が大きくなったとき、あの矢沢って人が言っていた“特別なこと”を、私もこんなふうに作ってあげられるのだろうか。


スプーンや鍋が触れ合う金属音が、一定のリズムで響く。待っている時間が、”あのとき”と一緒で不思議と心地よかった。


やがて、白い大皿が静かに置かれる。ふわとろの卵に包まれたオムライス。その上には艶やかなデミグラスソースがとろりと流れ、横には彩りのブロッコリーと、ほくほくのじゃがいもが添えられている。


「これはね、あなたの娘さん……瑞希さんが注文したものです。 “母が誕生日にだけ特別に作ってくれた”と言ってね」


梓はスプーンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。


デミグラスソースの深い香りと、ふわとろの卵のやさしい口どけ。ブロッコリーのほろ苦さと、じゃがいものほくほくとした甘みが、ゆっくりと舌に広がっていく。


一口ごとに、胸の奥が静かに温まっていくようだった。その温もりが、何よりも今の梓に必要なものだった。


「……ごちそうさまでした」


席を立つと、マスターは小さくうなずいた。会計のやり取りはなかった。ただ、扉の方へ向かう梓の背に、落ち着いた声がかけられた。


「気をつけて」


その一言が、不思議と背中を押してくれる。


外に出た瞬間、ふっと街の音が戻ってきた。梓は手にしていたお守りを、しっかりと大事にバッグへしまう。歩き出しながら、さっきよりも街が少し暗くなっていることに気づく。


──そうだ!!


保育園のお迎えをすっかり忘れていたことに、ようやく気づいた。「やばっ……!」と声をもらし、慌てて足を速める。ヒールの音が、舗道に小気味よく響いた。



その夜──寝室では、瑞希がぐっすりと眠っている。ダイニングテーブルの常夜灯だけが、やわらかい光を落としていた。


梓はテーブルに糸や布を広げ、裁縫箱を開いて作業を続けている。昼間、マスターから渡されたお守りをそっと机の端に置き、それを手本に金色の糸を針に通す。


廊下から足音がして、誠が寝室に向かう途中で立ち止まった。


「なにやってるんだ、こんな時間まで?」


「うーん、ちょっとね」


梓は顔を上げずに答え、ごまかすように布を押さえたまま針を進める。


「……まぁいいや」


誠はあまり気にした様子もなく、アクビをひとつ。


「それじゃ、おやすみ」


「……おやすみ」


軽く手を振って寝室へと消えていく背中を見送り、梓はもう一度手元に視線を落とす。針先が布を貫く小さな音が、部屋に一定のリズムを刻む。娘のため。夫のため。そして、自分のために。


こうして、三つのお守りが、夜の静けさの中で少しずつ形になっていった。


* * *


6年後。


休日の朝、カーテンの隙間から差し込む光で瑞希は目を覚ました。11歳になった彼女は、寝ぼけた顔のままキッチンに向かう。


「おはよう、ママ」


ケチャップで赤く染まったチキンライス。隣のボウルには溶き卵。その光景を見て、瑞希の目が丸くなる。


「……あれ? なに作ってるの?」


「ひみつ」


「えっ?!……オムライスじゃん! どうして? 誕生日じゃないのに、いいの?」


梓は笑みを浮かべ、チキンライスを皿の形にまとめながら答えた。


「今日は特別な日だから、いいの」


そう言うと、熱したフライパンにバターを落とし、よく溶いた卵をジュワーっと流し入れ、ふわりと形を整えていく。


ダイニングテーブルには、昨日のうちに用意しておいた紙皿やグラスが並んでいた。リビングから誠の声がする。


「親父とおふくろが来るから、俺は掃除とか準備しとくね」


「ありがとう。でももうできるから、先に食べちゃおう」


誠は「そうか」と短く返し、掃除機を抱えて廊下を通り過ぎていった。


デミグラスソースの甘く深い香りと、茹でたブロッコリーの湯気が混ざり合い、家中に温かな匂いが広がっていく。


「わー、旨そう!」


瑞希が目を輝かせる。誠もその匂いに連れられてダイニングから顔を出した。「おー、朝からオムライスなんて贅沢だな」「今日だけだからね。今日は、特別な日だから」と、梓は肩越しに返した。


「じゃあ俺はビールでも飲んじゃおうかな」


「ビール?」


梓が振り返ると、誠は冷蔵庫からノンアルコールビールを取り出した。


「ノンアルね」


梓は小さく笑い、「それならいいわ」と頷いた。


そして、三人が席につき、声を揃える。


「いただきます」


窓の外では、秋の風がカーテンをふわりと揺らしていた。何事もない、静かで平和な午前。その時間を、三人は当たり前のように過ごしていた。



「うさぎさんは呑気に寝ているので──」


ページをめくるたび、子どもたちの笑い声が図書室に広がる。


絵本を読む小山二楽の声はやわらかく、目を輝かせる子どもたちの視線を引きつけて離さない。


読み終えると、「ありがとうございました!」と揃って頭を下げる子どもたちに、二楽は笑顔で手を振った。


教壇の横には、彼が持ち込んだ小さな紙袋。中には、今日読み終えた絵本と、次回用の本が数冊入っている。



ピンポーン──

マンションのインターホンが鳴った。


「あっ、来たかな」


誠が玄関へ向かい、ドアを開けると、誠の両親が笑顔で立っていた。恵子が手土産の紙袋を差し出し、哲治は「お邪魔しまーす」と軽く会釈する。廊下の奥から瑞希が駆けてきて、「おじいちゃん! おばあちゃん!」と元気に出迎えてくれた。二人の顔が一層ほころんだ。



「AセットとBセットお願いします」ホール担当の声が厨房に響く。「はいよ!」


「佐伯さん、Bは追加でクリームコロッケで!」「了解」とすぐにクリームコロッケをフライヤーに入れ、間髪入れずにフライパンに豚肉を入れ、炒めた。皿に山盛りの千切りキャベツと、揚げたてのクリームコロッケ、それに生姜とニンニクの香りが食欲掻き立てる豚の生姜焼きを素早く盛り付ける。


「はい、Bー追加でクリームコロッケね!」とカウンターに皿を置く。その手は止まらない。すぐ隣のコンロに目を移し、次の注文のフライパンを振った。佐伯明良は6年前、あの店で食べた生姜焼きとミックスフライの味が忘れられず、洋食屋で働くことを選んだ。いまでは病気もすっかり完治し、健康そのもので厨房に立っている。


それぞれの今は、静かで穏やかだった。あの日の出来事を知らない人たちの笑顔が、その証のように、街のあちこちに溢れていた。


* * *


──それから30年。秋の川沿いの遊歩道を俺たちは歩いていた。歩調はぴたりと合っていて、長く一緒に過ごしてきた年月を、そのまま刻んでいるみたいだった。


「やっぱりこの道、落ち着くな」スマホを軽く掲げ、流れる景色を切り取る。今や散歩をテーマにしたブログや動画は、たくさんの人に見てもらえるようになって、俺のライフワークになった。「声出してるけど、今撮ってるのは載せないんだ?」


隣を歩く瑞希が笑う。


「うん。今日はブログ用に写真だけ」


「ふーん、そう。……あ、金木犀のいい香り」瑞希は香りのする方へ、ふらりと足を向ける。その後ろ姿を見て、ふっと頬をゆるめた。


──やっぱり、俺は何者かになれたのかもしれない。“誰かのための何か”に。


ふと、視線を草むらに向けた。


「そういえば、この辺り……まぁ、もうないか」


風に揺れる金木犀の香りが、静かに漂っていた。俺たちがゆっくりと歩み去ったそのあと、まるで見送るように強い風が川辺を駆け抜けた。


草が大きく揺れ、古びた木の看板が一瞬だけ姿を見せる。秋の光がその文字を淡く照らしたかと思うと、次の瞬間、看板はまた草の奥へと静かに隠れていった。

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