第1話 オムライスと、言えなかった言葉
ちょっと疲れた心に、ひと皿の物語を。
「ランチ2人飯」は、仕事や人間関係にモヤモヤを抱えた人たちが、昼休みにふと迷い込む不思議なお店で繰り広げられる物語。
客は1人だけ。
メニューはなし。
そしてマスターも、同じ料理を一緒に食べる――。
心をほぐす料理と、言葉少なめなマスターとの対話。
食後、振り返るとそのお店は跡形もなく消えている。
「誰にでも、そんな昼休みが一度くらいあってもいい」
小さな気づきと、静かな余韻が残るランチタイム物語
──午前10時。
損害保険会社のコールセンターは、週明けの雨模様に比例するように、朝から鳴り止まない電話に追われていた。
「はい、レッカーの手配は完了しております。現在、搬送先との連絡を……はい、ええ、大丈夫です。お怪我がなくて本当に良かったです……」
矢沢瑞希、42歳。
派遣社員としてこの仕事に就いて、まだ半年だ。
いつの間にか新人の指導を任されるようになったけれど、時給が上がるわけでも、感謝されるわけでもない。
受話器を肩に挟みながら、視界の端に映るモニターに目をやる。
表示された対応件数――自分の名前の横には「対応中:4件」
同じデスクの年下の先輩は「対応中:1件」だった。
「またか……」
ため息は飲み込んだ。
飲み込むことにだけは、慣れている。
電話を切ると、すぐ背後から声が飛んできた。
「矢沢さん? さっきの件さ〜、最初に保険証券番号聞いといた方が早いよ? ね? テンプレに沿ってね?」
(それ、いま言うか?しかも、さっきちゃんと確認したんだけど。)
「はい、気をつけます」
とりあえず返す。そういう訓練はされている。
でも、こっちはクレームと謝罪の連続。
その間、あの使えない上司は、ただ後ろでフラフラ歩き回ってるだけ。
――誰がこいつの “メンタルケア” してくれるんだろう。
頭が重たい。肩も凝る。
それでも表情はなるべく柔らかく、声は明るく。
「はい、矢沢でございます」
電話を取りながら、左手でスマホをちらりと確認する。
ストラップには、薄くなった金色の刺繍が見えた。
母がむかし、交通安全のお守りとして持たせてくれたものだった。
小学生の頃、ランドセルにつけていた。
そのときの自分は、いつかもっと自由な大人になれると思っていた。
今は、大人になって──
思い描いていたのとは、ぜんぜん違う “これ” だった。
「……あーなんか… 、オムライスが食べたい」
ふと、つぶやいていた。
仕事の手を止めるわけにはいかないけれど、頭の片隅には湯気の立つオムライスのイメージが浮かんでいた。
ふわふわの卵に、こっくりしたデミグラスソース。
添えてあるのは、ブロッコリーと、じゃがいも。
それは子どもの頃、母が誕生日にだけ作ってくれた特別な一皿だった。
今日のお昼はいつものファミマの卵サンドやローソンのホイップメロンパンでもない。
「今日くらい、ちゃんとしたごはん、食べようかな」
午後に潰れそうな自分をつなぎ止めるために、せめて昼くらい好きなものを食べたいと思った。
昼休憩のチャイムが鳴ると、瑞希は迷わず席を立った。
行き先は決めていない。ただ、足だけが自然に別の方向へ向かっていた。
歩道橋を渡り、普段は通らない裏道に入る。
古いアパートの間を縫うような細い道。
雑草が足元をかすめるように伸びていて、
陽の光もどこか柔らかくなっていた。
「こんなとこに……店なんて、あるのかな」
自分で歩いておきながら、口に出すと少し不安になる。
と、そのとき。
ふと、右手の先に、古い建物が見えた。
木造の一軒家のような造りで、白い木枠の窓と、錆びた鉄の看板。
どこか懐かしい匂いが、風とともに鼻をくすぐる。
玄関の横には、小さな手書きの札がぶら下がっていた。
【営業中】
その下に、さらに小さな文字で――
【1名限定】
「……え?」
思わず立ち止まった。
その建物だけ、時間の流れが止まっているようだった。
看板には店名らしきものは見当たらない。
かすれていて、読むこともできない。
それでも、吸い寄せられるように、瑞希は一歩、また一歩と近づいていく。
ドアに手をかけた瞬間、ふと、懐かしい空気がふわりと漂った。
記憶のどこかをくすぐるような――そんな気配。
迷いながらも、手にしたドアノブをそっと回す。
──ギィ……
木の扉がきしむ音とともに、チリン、と小さな鈴が鳴った。
中は、外観からは想像できないほど静かで落ち着いた空間だった。
木の床、低めの天井、大きな柱時計が、コッ、コッ、と規則的に音を刻んでいる。
カウンター席が5つ、テーブル席が2つ。
どの席も使い込まれていて、どこか “人の気配” を残していた。
カウンターの奥には、新聞を広げている白髪混じりの男性が一人。
年の頃は60代後半だろうか。
瑞希が戸口で立ちすくんでいると、その男性がゆっくり顔を上げた。
「いらっしゃい」
穏やかな声だった。
男は静かに立ち上がり、入口に向かうと、【営業中】の札を【閉店】に、くるりと裏返した。
そして、わずかな間をおいて、再び口を開く。
「何になさいます?」
落ち着いた声に、瑞希は一瞬戸惑った。
メニューは……と辺りを見回しても、それらしいものは見当たらない。
「えっと……メニューは……?」
「あー、メニューはないんです。けど、だいたいのものは作れますよ」
マスターはそう言った。
それが “特別” なことではないように、当たり前のような口ぶりだった。
瑞希は一瞬、笑いそうになった。こんな形式のお店、初めてだ。
けれど、そのゆるやかで柔らかい空気に、緊張が少しずつほどけていくのを感じた。
「じゃあ……オムライスって、いけますか?」
そう尋ねながら、なぜか胸が少しだけ高鳴っていた。
食べたい料理を、自分の言葉でリクエストするのが、こんなにドキドキするなんて。
マスターはうなずいた。
瑞希は、少しだけ迷ってから、声を重ねた。
「できれば、卵はふわとろで。ソースはデミグラスがいいです。
それと……ブロッコリーと、じゃがいもを添えてもらえると嬉しいんですけど……」
言いながら、自分でもちょっと注文が細かすぎたかと不安になる。
でも、それが“思い出の味”だった。
誕生日にだけ、母が作ってくれた一皿。
疲れた日やつらい日の帰り道に、いつも脳裏に浮かんでいたのは、そのオムライスだった。
マスターは表情を変えずに、静かにうなずいた。
「かしこまりました」
それだけ言って、厨房の奥へとすっと姿を消した。
瑞希は、カウンターの椅子に腰を下ろす。
椅子の座り心地はふかふかで、背もたれの角度もやさしい。
まるで、自分の体にぴったり合うように用意されていたみたいだ。
不思議な店だな、と思う。
でも、嫌な感じはまったくしなかった。
むしろ、こういう場所を、ずっと求めていたのかもしれない――
そんな気さえしていた。
厨房の奥から、カタカタと控えめな音が聞こえてくる。
フライパンを揺らす音。食器の擦れる音。
けれどそのどれもが、驚くほど静かで落ち着いていた。
瑞希はカウンターの上に両肘を乗せて、店内をゆっくりと見渡した。
低い天井に、味のある木の梁。
棚には古い文庫本や料理の本、ラジオと並んで、手のひらほどの額縁がひとつ立てかけられていた。
何気なく目をやったその写真に、瑞希はふと息を止める。
小さな川と、丸木橋。
橋の上に立つ、小学校低学年くらいの女の子。
白黒の写真だったが、服装や髪型に昭和の空気が滲んでいた。
「……あれ?」
写真の中の女の子が背負っているランドセルに、
何か見覚えのあるストラップがついている。
濃い色の房に、金糸で刺繍された小さなお守り。
交通安全と、かすかに読める。
瑞希は思わず、自分のスマホにつけたストラップを見下ろした。
母からもらった、大切にしてきたもの。
「似てる……というか、これ……?」
そんなわけない。
でも、それくらいそっくりだった。
写真の中の少女の顔は、少し横を向いていて、表情は読み取れない。
でも、どこか懐かしい気配がそこにはあった。
「まさか、ね……」
そう呟いたところで、厨房の奥からふわりと漂ってきた匂いが、思考をふっと切った。
焦がしバター、甘く炒めた玉ねぎ、そして何か温かいソースの香り。
胸の奥が、じんわりとほどけていく。
瑞希はスマホをそっとポケットにしまい、背筋を伸ばした。
まもなく、料理が完成する。
「お待たせしました」
マスターの声とともに、白いプレートが瑞希の前に置かれた。
ふわとろの卵が、まるで柔らかな毛布のようにライスを包んでいる。
ツヤのあるデミグラスソースが丁寧にかけられ、横にはブロッコリーと、皮つきのじゃがいもが添えられていた。
「……すごい」
瑞希は思わず、声を漏らした。
“ちゃんと”作られているごはん。“ちゃんと”向き合ってくれているごはん。
そのことに、心の奥がゆっくりと反応していた。
ナイフで卵に切れ目を入れると、とろりとした中身があふれ出す。
フォークで一口すくって、口に運ぶ。
柔らかい。温かい。
バターの香りがふんわり広がって、チキンライスの甘みとソースのコクが追いかけてくる。
体の奥から、ほっとゆるむ感覚。
「……おいしい……」
そのひと言には、いろんな感情が詰まっていた。
張りつめていたものが、静かにほどけていく。
マスターは向かいに座り、同じものを静かに食べていた。
何も言わず、ただそこにいる。そのことが、かえって心地よかった。
瑞希は、ぽつりぽつりと話し始める。
「……職場、今のところに入って半年なんです。
右も左も分からないまま、気づいたら案件どんどん振られてて……」
「要領よくサボる人のほうが、うまくやってて、
ちゃんとやってるほうが損するって……何なんだろうなって思います」
「逃げたい日もあるけど、逃げる勇気もないし。かといって、踏ん張れるほど強いわけでもないし。どっちつかずのまま、ずっと同じ場所にいる感じで……」
フォークを置いて、ふうっと息を吐く。
「だから今日は、ちゃんと “自分のために” ごはんを食べたかったんです」
そう言ったあと、少し間を置いて、瑞希はふっと笑った。
「……思ったんですよ。
結局、大人になってよかったことって、“好きなごはんを自分で選べること” かもしれないなって」
マスターは、その言葉にだけ、少しだけ顔を上げた。
「子どもの頃って、メニュー選べなかったじゃないですか。
今日はカレーがよかったのに肉じゃがだったりして。
でも大人になったら、“疲れたときはオムライス” って、自分で決められる。
……それだけでも、ちょっと生きやすくなる気がするんです」
マスターは、ひと呼吸置いてから、小さくつぶやいた。
「選べるって、強いですよ」
その一言が、瑞希の胸の奥に静かに届いた。
「……ごちそうさまでした。本当に、ありがとうございました」
瑞希は深く、ゆっくりとお辞儀をした。
玄関の扉を開けると、昼の光がふわっと差し込んだ。
空は少し明るくなっていて、午前中の曇り空が嘘のようだった。
瑞希は小さく会釈して、静かに一歩を踏み出す。
草の茂った小道を抜けながら、ポケットに手を入れると、指先に紙ナプキンの感触があった。
取り出してみると、
端のほうに、小さく数字が書かれていた。
「7663」
「……え?」
思わず声に出ていた。
文字の横には、乾いたデミグラスソースの小さな染みもついている。
何かの整理番号? レシート代わり?
意味があるのかどうかも分からない。
けれど、なんとなく気になって、バッグの内ポケットにそっとしまった。
歩道橋の手前で、ふと思い立ち、来た道を振り返る。
そこには……ただの空き地が広がっていた。
建物も、看板も、「営業中」の札も――何もない。
「……あれ?」
近づいてみても、草と風の匂いしか感じられなかった。
たしかに、さっきまでそこに“あったはず”の場所なのに。
けれど瑞希は、驚きよりも、なぜか穏やかな気持ちでそれを見ていた。
ポケットの中には、あたたかさがまだ少しだけ残っている。
そう思うと、不思議と納得できるような気がした。
彼女はもう一度、何もない空き地に向かって軽く頭を下げると、踵を返して歩き出した。
翌日。
瑞希は、デスクに向かって電話を取っていた。
「はい、矢沢です。ええ、大丈夫です。搬送先へはすでに連絡済みですので……」
その声は、いつもと同じトーンだった。
でも、自分でも少しだけ違うのがわかっていた。
肩の力がほんの少し抜けて、焦りが少し減った気がする。
すぐに解決しない悩みばかりだけれど、
昨日、ちゃんとごはんを食べたことが、どこかで背中を支えてくれていた。
お昼休憩の時間。
瑞希はスマホをバッグにしまうと、いつもの道ではなく、あの裏道へと足を向けた。
あの店は、まだあるだろうか。
それとも、やっぱり昨日だけの幻だったのか。
歩道橋を渡り、草の茂る道へと入る。
風が吹いて、草がカサカサと揺れる音がする。
──やっぱり、そこには何もなかった。
ただの空き地。
古びたフェンスと、倒れかけた標識だけが、昨日のまま変わらずそこにあった。
「……だよね」
でも、瑞希はふっと笑った。
「なんか、ありがとうって言いたくなったんだよね」
そう言って、小さく頭を下げる。
くるりと背を向けて、来た道を戻る途中。
角を曲がった先で、ひとりの女性とすれ違った。
肩までのボブカットに、紺のパンツスーツ。
スマホを見ながら、どこか落ち着かない様子で歩いている。
瑞希はなんとなくその姿に、自分の “昨日” を重ねていた。
すれ違ったその瞬間、
ふと後ろから、微かに草を踏む音が聞こえた気がした。
振り返ることはしなかった。
ただそのまま、まっすぐに歩道橋へと向かっていく。
足取りは、昨日よりも少しだけ軽かった。
話は2話につづく