04
幸い二択を間違えることはなく無事自宅に帰ると、鍋に入ったカレーを冷蔵庫に仕舞って、そのまま着替えもせずに眠った。
彼女が帰るのは明日の朝。一日休みを取っていた私は、体の中を這い回る心を収める為に、散歩に出掛けた。
昨晩より強く降る雨。少し大きめの傘を差して土手を歩いていると、前から白くぼんやりとしたなにかが歩いてきた。
「あっ、教授さん」
昨日の黒髪を腰まで伸ばした女性だ。確か梓さんといっただろうか、今日は一人のようだ。
真っ白な着物を着ており、傘は差していない。濡れた着物と髪が、肌にピットリと張り付いていた。
「傘も差さずに、どうされたんですか?」
傘を傾けて中へと入れる。大きめの傘を差して来て正解だった。
「そんなことより、昨日あの後、なに話したんですか?」
何処か焦った様子だ。
「えっと、あの後と言うと河童の話ですか? 山の池に石を投げると、河童が現れるって聞きましたよ」
「もしかして、病院の近くにある池ですか!?」
「はい」
「投げに?」
「行きましたね」
「ってことを……」
女性は目を見開き、その場に崩れ落ちた。地面をパシャりと叩く。
「あの女……なんてことをしてくれたんですか! その話は嘘です。石を投げると、龍神様が怒って雨を降らすんです。河童の話なんてこの町にありません!」
「龍神……」
――日本において龍は、空や天気を司ることが多い。この川に、厳密にいうと山の池に龍が住んでいるという話があるのも、存外不思議な話ではないが。
「……どうしよう。もう、逃げるしか」
頭を抱えて小さく唸る。黒髪から水が滴り落ちる。
「逃げるって、所詮は迷信のたぐいでしょう」
「……ですが」
女性は生唾を飲み込んだ。なにか口にするのを躊躇っているようだ。
「どうされたんですか?」
「いえ……」
「これまで、実際に雨は降ったんですか?」
「えっと……確か何年か前の夏に一度あったそうです。子どもたちが山に入って、池に肝試しに行くことで洪水が起きたこともあるとか……」
「なるほど……ありがとうございます。少し私の方でも調べてみますね」
「えっあの!」
「それでは!」
抑えられぬ好奇心を発散させるため、別れの挨拶も程々に図書館へと向かった。
図書館内は数名の老人と女性の司書がいるのみだ。この町にも高齢化の波が如実に現れていた。それか、もう今時の子供は図書館などに来て調べることはしないのだろうか。それでも、地域に根付いた物語を紐解くのにここほど最適な場所は存在しない。
紙の擦れる音だけが小さく響く館内。郷土史の棚は最奥に位置していた。棚の近くに人はいない。隅には埃が溜まっておりほとんど利用されていないことが頷ける。郷土史や災害記録などの資料を片っ端から取り、時間が許す限り隅々まで読み耽る。
「閉館のお時間です」
棚のほとんどを読み終わるといったときに、黒縁の眼鏡をかけた女性の司書に声を掛けられた。慌てて椅子から立ち上がる。
「すみません。今出ます」
時間は午後六時。もう夕方だ。小さいながらもこの町唯一の図書館といったところだろうか。郷土史については比較的豊富だった。
あの川は龍泉川というらしく、昔は大雨の際に行方不明になる人が多かったらしい。資料には山の上で起きた局所的豪雨による、大規模かつ予測不能な鉄砲水が原因では? とあった。発生時期も七月から八月ころとぴったりだ。
しかし今はもう九月も終わり。あの川は舗装されて幾分も経つ。記録ではここ数十年、氾濫も行方不明者も起きていなかった。
――川については色々分かったが、結局あの池についての情報は見つからなかった。
「……お目当ての資料は見つかりましたか?」
慌てて片していると声を掛けられた。
「えっと」
「随分と熱心に探してたものですから」
眼鏡の奥に覗く瞳は、私をじっと見つめている。ただの世間話か、なにか理由があるのか、その真意は分からない。
「山の方にある池についての伝説を調べてまして」
「でしたら」
司書さんはコツコツと何処かへ行くと、一冊の本を持って戻って来た。
「この本をお貸しします。期限は一週間ですからね」
「ただいま」
言ってから家に誰もいないことを思い出す。手には司書さんに渡された赤い装丁の本を持っていた。背表紙にはなにも書いていない。書籍というよりノートに近いものに感じた。
雨はまだ止んでいない。氾濫は少し心配だが、そうそう起こることはないだろう。
明日は、海と赤子を迎えに行かなければならない。私は枕元に赤い本を置いて早めに眠ることにした。
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