03
カッカカッと音の鳴る白色蛍光灯の光で薄ぼんやりと照らされる廊下に、私は独り座っていた。
彼女が分娩室に入ってもうどのくらい経っただろうか。感覚的にはもう何十時間も経っている気がする。
廊下に時計はない、腕時計も家だ。持ってきたのは保険証と現金、それからタオルやパジャマなどの入ったナップザック。
ドッドッとどこからか聞こえる。ドッドッドッドッ。耳を包むように響く音。薄暗い廊下に響くその音は私の胸から響いているらしい。
緊張でおかしくなってしまいそうだ。私は廊下を歩いて外に出た。
自動扉を抜けた先は何もない。完全な暗闇だ。地面を跳ねるのは雨音のみ。ひんやりと湿った空気を胸いっぱいに吸い込む。新鮮な空気は肺をツキンと軽く傷つけて脳をクリアに冴えわたらせた。
「あっ! 深谷さん! どこ行ってたんですか!」
落ち着きを取り戻して院内へ戻ると看護師が凄い剣幕で詰め寄って来た。
「ちょっと、外へ空気を吸いに――」
「産まれましたよ! 元気な男の子です!」
看護師に手を取られて分娩室まで連れて行かれた。
慌てて分娩室へ入る。ベッドで滝汗を流す彼女の腕には小さな命が抱えられていた。
「ふぅ、ふぅ。見て、かわいい。ほら、持ってみてよ」
「あぁ……そうだね」
そっと持ち上げる。触れるだけで壊れてしまいそうなほどにフニフニと柔らかい。小さな、ビー玉のような眼が、私をじっと見つめていた。
じんわりと心が暖まる。これが父性だろうか。この手に赤子を乗せても実感は湧かないが、この心の暖かさはきっとその初まりなのだろう。
「そうだ、タオル。持ってきてるよね?」
「あぁ、これかい?」
私は赤子を海に戻し、持ってきていたナップザックから、アジサイの花が細かく刺繍されたバスタオルを取り出した。アジサイの花言葉は縁起が良いらしい。
私からタオルを受け取った彼女は、白いタオルからアジサイ柄のタオルへと丁寧に赤子を包み直した。
「それじゃ、またね」
彼女に見送られながら分娩室を後にした。
「奥さんは体力の消耗が少しだけ多いようですので、体力の回復も兼ねて二、三日入院した方が良いかと。幸い他に入院患者も居ませんので」
共に部屋を出た医者が話す。名札にはカタカナでクギと書かれている。珍しい苗字だ。どういう漢字なのだろうか。釘? それとも久木とかだろうか?
「では、お願いします」
私が残ってても特にやれることはない。外はもう足元も見えないくらいに暗いが、帰れるだろうか……。
若干の不安に駆られつつも、意を決して病院を出た。
雨が折り畳み傘に弾かれぽつぽつと音を鳴らす。草木を弾く雨音は、私を囲むなにかを想像させる。
しばらく歩くと道が二股に分かれていた。記憶が正しければ右の道だ。反対は今日の池の方向につながる道の筈だ。この暗闇で行けば確実に河童に足を掬われるだろう。
私はふっと息を吐きだし、右の道へと踏み込んだ。
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