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泥に塗れたそれは  作者: 天空 浮世
泥に塗れたナニカ

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「あの人は、そんなことする人じゃない」

 私はあの日、別れる前の最後の会話を思い出していた。


 「……どうするんですか? これから」

 病院からの帰り道、今度は家の前まで送ってもらった。玄関先で別れる直前に私は聞いた。

「この後、そうですね……」

 少し驚いた表情をした後、くるりと外に視線を向けた。

 外はまだ雨が振っている。軒下でも風に吹かれた雨粒が顔に吹き掛かる。

 いつの間に脱いでいたのか、深谷(ふかや)は合羽を着てなく、シャツは泥と雨でビチャビチャに汚れていた。

「警察にでも行きますよ。どんな理由であれ、人殺しには変わりないですから、(うみ)に合わせる顔がありません」

 切り刻まれるほど悲しげに、しかし包み込む陽射しのように優しい声で彼は笑った。

「それは……ですが」

 ギシりと歯軋りをする。そもそも、私を助けなければ池に突き落とすことだってなかったのに。

 

皐月(さつき)さんはどうされるんですか?」

「私は……私も出頭します。私だって無関係じゃ――」

「駄目ですよ。せっかくこちら側に来ないで済んだんですから。私のは、そう、刑務所の取材みたいなもんですよ。せっかくだし、刑務所の七不思議でも調べて本にしましょうか。そのときはぜひ読んでくださいね。外に読者が居ないと寂しいですから」

 私の言葉を覆って言い切られてしまった。外を見ている彼の顔は見えなくて、私は酷くもどかしい気持ちになった。私だけ一人、置いてけぼりにされている感覚。みんな私を置いて何処かへ行ってしまう。

 私は今にも叫んでしまいたい気持ちを抑えて話を続けた。

「……でしたら、久しぶりに実家に帰ろうと思います。有給も溜まってますし、もう、ここに居る意味はなくなってしまいましたから」

「うん。良い。それは非常に良いですね」

 私に背を向けたまま噛み締める様に頷いた。

 

「それでは、さようならですね」

 

 一息置いた彼は、傘も合羽もなしに歩き出した。私は大切な人を亡くしたその小さな背中が消えるまで、顔に当たる雨水を拭うのも忘れて玄関に立ち尽くしていた。


 別れる最後まで、苦しいくらいに優しい声で話す人が自殺なんてするわけがない。

「誰かに貶められたんだ……自分からなんて、絶対にあり得ない」

「なら、取り敢えず池を調べてみますか。皐月さんの言う通りなら、二人とも池に落ちた可能性が高いんですもんね」

「少なくとも供儀(くぎ)が池に落ちたのは、この目で見た」

「なら決まりですね。早速行って来ます。何かあったら連絡しますから」

 

「え、私も行くけど」

 既に腕はレインコートの中だ。ここでただ待っているなんて、私には到底無理な話だ。

「ほら、ボケっとしてないで行くよ」

 私が絶対に真実を見つけてみせる。それが今、私に出来る唯一の恩返しだから。

「まったく……皐月さんは一度言い出したら聞かないんですから、外に車停めてますのでそれで行きましょう」

 

 池に向かう山道の手前に車が停まる。ここから先は徒歩で向かう。

 山道は連日の雨で泥だらけになっており歩きづらい。雲と木々に覆われた道は昼だというのに薄暗く不気味で、呼吸をすると雨が口に入ってくる。レインコートを着て来て良かった。傘なら一瞬でびしょ濡れだっただろう。

 車から持って来た懐中電灯を点けた私たちは、一歩一歩慎重に進む。ところどころから飛び出す木の根に一度足を引っ掛けたら、泥だらけになるのは確実だ。

 

「ここね……」

 池に続く道は、幾重もの足跡で凸凹に隆起した泥の道が続いている。池の周辺には誰もいないが、地面はここ数日の間に踏み荒らされぐちゃぐちゃだ。

 茶色いススキも正面が綺麗に押し倒されており、広場の入口から池が一望できた。

 

「これは、証拠どころじゃ」

「待って! ねぇ、あれ」

 池の縁で何かが懐中電灯の光に反射した。

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