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仕事を休んで、海へ行こう

作者: ミケ

「またか……」


 スマホの通知を見て、小さく舌打ちする。

 画面には 「綾瀬さん」 のチャット。


 《涼介、3月9日の予定、変更ね! ちゃちゃっとやっといて♪》


「自分でやればいいのに……」


 机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺めた。

 どんよりとした東京の空が広がっている。


 予定変更の手続きは、ただの連絡で済む話じゃない。

 VIP会員、講座の受講生、講演会の申込者――

 数十人分のリストをチェックし、テンプレートを微調整しながら個別に送信する必要がある。

 考えただけで頭が痛くなる。

 すでに申し込みも集まっているし、変更を伝えた途端、苦情の嵐になるのは目に見えていた。


「ほんと、面倒なことばっかり押し付けてくるな……」


 クライアント対応、スケジュール調整、問い合わせ処理。

 綾瀬は気軽に言うが、実際に手を動かすのは全部こっちだ。

 ふと、気晴らしにSNSを開く。

 洒落たカフェの写真や、観光地の風景が目に飛び込んできた。


「……好きにやってるな。俺だって遊びたいよ」


 ため息をつきながら、スマホを手に取る。

 結局、文句を言っても仕方がない。

 これが仕事だ。

 そんな時だった。

 スマホが再び鳴る。綾瀬からの新しいメッセージだ。


 《お疲れー! 福岡、めっちゃ最高♪ てか、涼介さ、最近マジで元気なくない?》


「……は?」


 意外な内容に、思わず目を丸くする。


 《こっちおいでよ。たまにはちゃんと息抜きしなさい! ほら、あんた最近、チャットの返信めっちゃ冷たくない? 私に興味なくなった?》


「いやいや、そういう話じゃないだろ……」


 スマホを握ったまま、灰色の空を見上げる。

 雲の切れ間から、ほんの少しだけ光が差していた。


「……まあ、行ってみるのも悪くないか」


 面倒だと思っていたはずの綾瀬の言葉が、なぜか少しだけ心を軽くした。

 気づけば、俺は福岡行きのチケットを手配し、旅の準備を始めていた。


 ◆◆◆


 新幹線の座席に深く腰を沈める。

 久しぶりの遠出だった。

 窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。


 東京を出発して数時間。

 スマホを開くと、綾瀬からメッセージが届いていた。


 《はい、お迎え行ってあげる! 博多駅着いたら連絡しなさい♪》


「迎えに……?」


 意外だった。てっきり、宿は自分で取って、現地集合くらいのノリかと思っていた。

 だが、こういう気まぐれな優しさがあるから、綾瀬は憎めない。


 博多駅に到着すると、改札の向こうで綾瀬が手を振っていた。

 グレーのカジュアルなジャケットに黒のスキニーパンツ。

 都会的な見た目だが、どこか余裕のある表情をしている。


「よく来たわね、東京の社畜くん。もう仕事のことは忘れた?」

「……いや、呼び出したのはそっちでしょ」

「はいはい、細かいことはどうでもいいの! さ、行くわよ!」


 そう言うやいなや、綾瀬はさっさと歩き出す。

 俺は苦笑しながら、その後を追った。


 向かったのは、中洲の川沿いにある屋台だった。

 目の前には湯気を立てるラーメンの丼。

 豚骨スープの香りが、食欲をそそる。


「やっぱり、福岡に来たらラーメンでしょ! ほら、食べなさい♪」

「……なんか、お母さんみたいな言い方だな」

「はぁ? それは違うでしょ。私は“できる女友達”ってやつよ」


 二人で箸を取り、ズルズルと麺をすする。

 スープが喉を通ると、じんわりと体が温まった。

 久しぶりに、肩の力が抜けた気がする。


「ねえ、涼介」

「ん?」

「正直、最近ヤバいでしょ?」


 綾瀬の言葉に、思わず手が止まる。


「……まあ、そうかもな」

「でしょ? チャットの返信のテンション、前より低すぎるし」

「お前のテンションが高すぎるんだよ……」


 綾瀬はクスッと笑い、ラーメンのスープをすすった。


「でもさ、文句言いながらでもちゃんと仕事してる涼介は、割と好きよ」

「……は?」

「ちゃんと聞きなさいよ。ほんとにダメな人は、文句も言わずに逃げるの。あんたは逃げないでしょ?」

「……まあな」


 綾瀬は軽く肩をすくめる。


「ま、だからこそ、たまには逃がしてあげるわけよ。感謝しなさい♪」


 俺はラーメンの丼を見つめながら、小さく笑った。

 福岡に来てよかったかもしれない。


 ラーメンを食べ終えた後、屋台を出て、夜の中洲を歩く。

 川沿いを吹き抜ける風が心地よかった。


「……まあ、たまにはこういうのも悪くないな」

「でしょ? だからさ、もうちょい肩の力抜きなさいよ」


 俺は小さく息を吐く。

 もう一度、ラーメンの余韻を味わいながら考えた。

 東京で食べるラーメンと、何が違うんだろう。

 味も、雰囲気も、たぶん同じはずなのに。

 なのに、なぜかこっちのほうが美味く感じる。

 仕事のストレスも、面倒なことも、ここでは少しだけ遠ざかった気がした。


 ラーメンの余韻を味わいながら、俺たちは中洲の夜を歩いた。

 川沿いの街灯が水面に反射し、ゆらゆらと揺れている。


「この辺、夜の雰囲気いいよね」


 綾瀬がポケットに手を突っ込みながら言った。


「そうだな。東京とは違う空気が流れてる気がする」


 そう答えながら、俺は川沿いの欄干に肘をつき、深く息を吸った。

 博多の風は少し湿気を帯びていて、どこか懐かしい感触がある。


「ところでさ」


 綾瀬がふと立ち止まり、スマホを弄りながら呟いた。


「ねえ、涼介。どうせまた仕事のこと考えてるでしょ?」

「……うっ」


 図星だった。東京を離れてきたはずなのに、頭の片隅にはまだ未処理のタスクや、放ってきた案件のことがこびりついている。


「俺、そんなに顔に出てるか?」

「バレバレ。さっきからスマホ触る回数、多すぎ」

「……癖みたいなもんだ」

「だから、その癖がヤバいのよ」


 綾瀬は苦笑しながら、スマホの画面を俺に見せた。

 そこには、航空券の予約画面が表示されている。


「……え?」

「沖縄、行くわよ」


 突然の提案に、思わず目を瞬かせる。


「お、お前、福岡来いって言ったのに、今度は沖縄?」

「そう。福岡はウォーミングアップ。本番はここからよ♪」

「いや、意味わかんねえよ……」

「いいから! せっかく休み取ったんだから、ちゃんと休みなさいってば。どうせ東京帰ったらまたバタバタするでしょ?」


 まるで「美味しいランチ見つけたから行こ!」とでも言うような軽い口調。

 だが、その表情にはどこか本気の色があった。

 俺は迷う。

 東京に戻れば、また慌ただしい日々が待っている。

 福岡に来たのも、ほんの気分転換のつもりだった。

 でも——。


「……いいかもな」


 気づけば、そう呟いていた。


「よし、決まり! じゃあ、今から宿探すわよ」


 綾瀬はすでにスマホを弄り始めている。


「……お前、最初から行く気だったろ」

「何を今さら♪」


 そんな彼女を見て、俺は少しだけ笑った。

 沖縄か。確かに、悪くない。


「で、いつ行くんだ?」

「うーん……」


 綾瀬はスマホを操作し、画面を俺に見せた。


 《予約完了! 福岡→那覇 明日9:30発》


「……は?」

「ふふん♪ さっき取った」

「お前、計画性って知ってる?」

「知ってるよ。でも、旅ってのは思い立ったが吉日でしょ?」

「……そんな言葉、いつ覚えたんだ? お前、それただの無計画って言うんだよ……」

「は? 何言ってんの? もう沖縄気分になってるくせに」

「……そんなわけ」

「ほら、自分の顔見てみ? ニヤついてるわよ」


 確かに、少しワクワクしている自分がいるのは否定できなかった。


 ◆◆◆


 翌朝、福岡空港。


「……マジで行くのか?」


 搭乗ゲートの前で、俺はまだ半信半疑だった。

 まさか福岡に来たばかりで、さらに沖縄へ飛ぶことになるとは。

 昨日の俺は、こんな展開を想像すらしていなかった。


「ちょっと! 悩んでる暇ないわよ。搭乗開始したから、ほら行く!」

「お前、本当に計画性ないよな……」

「何言ってんの? 計画なんて、やりながら考えればいいの♪」


 綾瀬は笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。

 俺がため息をつく間もなく、飛行機は滑走路を滑り出し、ゆっくりと加速する。

 機体がふわりと浮かび、窓の外には徐々に小さくなっていく福岡の街が広がっていた。


 二時間後——沖縄・那覇空港。


「……うわ、暑っ!」


 空港を出た瞬間、まとわりつくような湿気と熱気が全身を包む。

 冬の東京とは、まるで別世界だった。


「いや、これ完全に夏じゃん……」

「でしょ? 最高♪」


 綾瀬は満足げに微笑みながら、サングラスを取り出し、颯爽とかける。


「せっかくだから、レンタカー借りて回る?」

「お前、運転できるの?」

「まあね~。オープンカーとかどう? 気分上がるでしょ♪」

「……調子乗んな」


 そう言いながらも、どこか気持ちが高揚しているのを感じる。

 空を見上げると、雲ひとつない青がどこまでも続いていた。


「で、最初どこ行く?」

「決まってるじゃん! まずは海でしょ!」


 綾瀬はスマホを片手に、すでに目的地を探し始めている。

 俺はそんな彼女を横目に、もう一度空を仰いだ。

 昨日までは、仕事のことばかり考えていたのに。

 でも——こういうのも、悪くない。


 ◆◆◆


「うわ、すげえ……」


 目の前に広がる景色に、思わず息をのんだ。

 透き通るエメラルドグリーンの海、白く輝く砂浜、そしてどこまでも続く青い空——まるで絵に描いたような沖縄のビーチが、目の前に広がっている。


「ね、最高でしょ?」


 綾瀬が笑いながらサングラスを外し、両手を広げた。


「やっぱり、沖縄は別格よね♪ 東京にいたら、こんなの味わえないでしょ?」

「……確かに」


 沖縄に来てまだ数時間しか経っていないのに、もう東京のストレスが遠のいていくのを感じる。


「さて、と!」


 綾瀬がポケットにスマホをしまい、腕を組む。


「せっかくだし、泳ぐか!」

「お前、着替え持ってきてんのか?」

「そんなのあるわけないじゃん」

「……バカか」

「いいの、いいの! 海なんて、服のまま入ればいいんだって♪」


 そう言うなり、綾瀬はズカズカと砂浜を進み、迷うことなく波打ち際へ向かう。


「ちょっ……!」


 止める間もなく、バシャッと足を踏み入れた。


「ひゃっ! 冷たっ!」

「だから言っただろ……」


 呆れながらも、俺も靴を脱ぎ、裸足になって波打ち際へ進む。

 足元をさらう波の感触が、じんわりと心地いい。

 しばらく無言で海を眺めていた。

 沖縄の空気は、何もかもを忘れさせてくれるような、不思議な力を持っている。


「ねえ」


 不意に綾瀬が口を開いた。


「涼介さ、仕事辞めたくなったりしないの?」


 俺は少し考え、それからゆっくりと首を横に振った。


「……辞めたくなる時もある。でも、結局のところ、俺はこの仕事が嫌いじゃないんだと思う」

「へぇ? 文句ばっか言ってるくせに?」

「だからだよ。文句を言いながらでもやるってことは、なんだかんだで責任を感じてるんだろうし、やりがいもあるんだと思う」


 綾瀬はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「そういうとこ、ほんと真面目すぎるんだよね」

「うるせえ」


 沖縄の風が、俺たちの間を吹き抜ける。


「でもさ」


 綾瀬が少しだけ真剣な顔で続けた。


「たまにはこうやって、全部忘れて遊んでもいいんじゃない?」

「……まあ、それはそうかもな」


 俺は小さく笑った。

 でも、本当にこのままでいいのか?


 東京に戻れば、また同じ毎日が待っている。

 早朝からメールを開き、急な変更に振り回され、終電ギリギリまで残業。

 今こうして気分転換しても、またすぐに元に戻るんじゃないか——そんな気もする。


 波が足元を洗う感覚に、ふっと力が抜ける。

 見上げると、雲ひとつない青空がどこまでも広がっていた。

 東京の空と変わらないはずなのに、こっちのほうがずっと澄んで見える。

 潮の香りを含んだ風を深く吸い込むと、体の奥まで染み渡るようで、張り詰めていたものがゆるりとほどけていく。

 ここにいると、悩みなんて、波にさらわれるみたいに遠ざかっていく。


「……まあ、考えるのは、もうちょい後にしとくか」


 ぽつりと呟くと、綾瀬が振り向いた。


「何? 何か言った?」

「いや、なんでもない」


 ただ、今は、この時間を楽しもう。

 そう思えたことが、何よりの収穫だった。


「さて、次はどこ行く?」

「決まってるでしょ! 沖縄そば♪」

「お前、飯のことしか考えてないのか?」

「は? 旅のメインは食でしょ?」

「……それは旅行じゃなくて"食い倒れ"って言うんだよ」

「それの何が悪いの? さ、行くわよ!」


 綾瀬が笑いながら、海風になびく髪をかき上げる。

 その無邪気な横顔を見て、ふと気づく。


 東京に戻れば、また慌ただしい日々が待っている。

 それは変わらない。

 でも、こういう時間があるからこそ、頑張れるのかもしれない。


 気づけば、肩にのしかかっていた重みが、少しだけ軽くなっていた。

 足元の白い砂が、さらさらと指の間をすり抜ける。

 波の音が遠ざかると、代わりに潮風が頬を撫で、心地よく吹き抜けていく。


 綾瀬はスマホを片手に、次の店を探している。


「ここにしよっか!」

「もう決めたのかよ……」


 いつもの俺なら、「まだ食うのか」と呆れたはずだ。

 でも、今はそれすら楽しい。

 見上げると、どこまでも青い空。

 海風を背に、俺たちは歩き出した。

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