夜明け前
「いかかでしたか?」
は言った。
コートを脱ぐの動きを追っている。見ないが、敬道には万吉の視線がわかる。それが少し煩わしい気もする。コーヒーを運んできた事務の堺の言葉によると、万吉は敬道が公民館に年始のあいさつに出向いた時刻から校長室で茶ばかり飲んでいたらしい。
教頭に昇進する内示を受けるために敬道は今日朝一番で市役所庁舎にある教育長室に出向き、そこで教育長の竹中悟子から来年度校長になることを言い渡されている。そこには、竹内と懇意にしている万吉も何かしらの打ち合わせで教育長室を訪れており、万吉と顔を合わせている。万吉はその後すぐに学校にもとり応接室にいりびたっていたということになる。
「・・・・・・」
敬道は何となく溜息のような声をもらした。万吉が何を聞きたがっているかはわかっていはいるが、うかつにはこたえられない。それは慎重さよりもある種の戸惑いから来ている。今会ってきたばかりの一人の男の姿が目の奥に残っている。怜悧な目と骨細な感じの体をしていたと思う。力の抜けた自然な立ち姿だったが、体の芯には強い何かを隠している雰囲気を醸し、スーツの上からは細身ながらも筋肉質な印象を受けた。細いがはっきりとした声で、こちらこそよろしくお願いいたします、と言った。それだけでの材料から、どう判断しようもない。それが敬道の素直な気持ちだった。
「どうでした? 例の方の印象は?」
万吉は敬道がソファにすわるのを待ちかねていたようにまた言った。夏休みの八月から校長の高田が体調を壊し休暇をとり、十月からは教頭の園部も追うように休暇に入った。敬道にはその頃から座りなれたソファだった。万吉の目は笑いを含んでいて、敬道の顔をじっとのぞき込んでいる。ひょうたんの様な面長な色白の顔はにわかに赤みが差して薄桃色なった。こらえきれない笑みが全体に滲んでいくように皴が顔全体に拡がる。当然良い返事を聞けると期待しているのだ。そういう類の明るい返事を聞きたくて万吉は一時間もの長い間黙って茶をすすりながら、敬道の戻りを待っていたのだろう。
万吉は定年退職の歳を迎えた五年前から小俣小の教員であった。採用の形としては他の六十歳以上の教員と同様再任用教員としての採用だった。しかし研究者としても傑出した評価を得ていた万吉は教師相手に講演をしたり研修をしたり、若手の指導をする役割を与えられた特任教諭として別途役割を得ていた。
その立場から小俣小の校長や教頭の管理職付きの助言役もする。市の教育行政のトップである竹中悟子とは三十代の頃に派遣された教職大学院で二年間同じ研究室に所属しており、公私共に親しくする仲でもあった。敬道も万吉の主宰する算数教授法サークルに長年出入りしていたともあり、万吉とはその意味で師弟関係にあった。その師が、いまそわそわして、どことなく落ち着かないのを敬道は少し不憫に思いながらもどうすることもできないでいた。
「なかなかできそうな方じゃないですか」
と敬道は言った。
つづく