蝶好き令息の婚約騒動②
「そっ、そんなに驚かれなくても……」
大声を出したヴェンツェルにアルベルトが引き気味に言うとヴェンツェルは驚きのあまり騒いでしまった事を謝罪する
「いっ、いやすまんアルベルト君!まさか君に婚約者などというものが出来るとは思わなくてのぅ」
「その言い方も何だか心外ですね」
ヴェンツェルの言葉にアルベルトがムッとした表情になる一方傍にいた婚約者のハイデマリーとヘルマンは急に現れアルベルトと親しくするヴェンツェルの存在に困惑していた。
「アルベルト様、そのお爺様は一体?」
「ん?あぁごめんなさい!この人はヨゼフさんと言って僕が雇っている庭師です!」
「おぉ自己紹介が遅れたわい!ワシはヨゼフ。元貴族で今は隠居して彼の庭師をしておる。彼とは雇用関係でもあり友人でもある」
「なるほどですわ……改めまして婚約者のハイデマリーと申します。傍にいるのは執事のヘルマンですわ」
「よろしくお願いします」
ハイデマリーに尋ねられてアルベルトは改めてヴェンツェルを庭師ヨゼフとして紹介する。その後ハイデマリー達も自己紹介をした。
「あのヨゼフさん、以前は農民と名乗っておられたのになぜ元貴族と?」
「あまりに疑われるから設定を変えたんじゃ。まぁそれはどうでも良かろう。それで一体なぜハイデマリー殿をこの研究室に?」
ヴェンツェルは農民と名乗る事をやめたのを伝えたと同時に気になった事を聞いた。
「実は彼女も僕と同じ蝶や蛾が好きな方なんですよ。正確には好きだった、ですが。それで僕の標本コレクションの話をしたら見てみたいと言われまして」
「何と。女性としては珍しいのぅ」
「そうですよね!まぁここで立ち話も何ですから早速標本コレクションをお見せしますねハイデマリーさん!」
「その前に気になったのですけれどこの畑や花壇は一体……?」
ハイデマリーは標本が収蔵されている研究室に入る前に近くにある小さな畑と花壇が気になりアルベルトに聞いた。
「あぁこれは蝶や蛾を呼ぶ為の畑と花壇だよ。畑には食草になる野菜やハーブ、花壇には蜜を吸いに来る花を植えているんだ」
「この畑や花壇も蝶や蛾を呼ぶ為ですの!……本当に蝶や蛾がお好きですのね」
「あはは、それじゃあ研究室の中へご案内しますね!」
研究室前の畑も蝶や蛾の為だと知りハイデマリーは驚く。その反応を見て上機嫌になったアルベルトは研究室の扉を開けて一同を案内した。
「思っていたよりも本格的ですわ……大きな標本棚がずらりと並んでますわね。あら?この金網を被せてある鉢や大きなビンは何ですの?」
「それらは食草を入れて幼虫を育てながら観察する為のものです。今いるのはカミナリスズメとヒバナヒョウモンの幼虫ですよ」
アルベルトの研究室に入ったハイデマリーは本格的な標本棚と幼虫の育成装置を見て想像を超えていたと驚きを露わにする。
「まぁ。まるで大学の研究室みたい。顕微鏡もありますし図鑑や論文も置き方は雑ですけれど本棚に沢山置いてありますわね」
「僕自身領主になる立場でなければ隣国に留学して蝶や蛾の研究をしたかったんですよ。だからここも大学の研究室をイメージして物を配置しているんです。では早速お気に入りの標本コレクションをお見せしますね!」
アルベルトはそう言うと標本棚からいくつか蝶や蛾の標本箱を引っ張り出してハイデマリーの前の机に置いた。
「凄い数ですわね。外国の蝶や蛾もあればユーロッパで採集できる蝶や蛾もありますわ」
「外国産の蝶や蛾は兄上や祖父が買い与えてくれたものでして殆どの大陸の種を揃えています。まぁ流石に現状発見されている種全て持っている訳じゃないですが。でもボナヴィア産の蝶や蛾については有名な種を全て採集して標本にしてありますよ!特にこのカミナリキシタバを始めとするカトカラ類の標本は自信作です!」
「本当ですわね……ボナヴィアのいつどこで採集されたかきちんとラベルに記録されていますわ。それに足も触覚も欠損がなく翅も左右共に整えられていて展翅技術の高さが伺えますわ……」
「あはは、展翅技術には自信があるんで嬉しいです!」
「本当に私より展翅がお上手ですわ……あら?この空の標本箱は何ですの?」
ハイデマリーはアルベルトの展翅技術を賞賛した後ふと机にあった中身が空の標本箱を見つけて尋ねた。
「それはナナイロマダラの標本箱です。僕ナナイロマダラを捕まえて標本にして研究する事が人生の目標なんです!」
「まぁそうなのですね!ナナイロマダラと言えば蝶の宝石と言われている虹色の蝶ですわね。確かユーロッパに5頭しか標本が無いとか」
「えぇ!だからこそ僕は何としても自分の手で捕まえたいと思っています!なのでボナヴィアだけで無く周辺国の新聞などで目撃情報の記事が載っていないか調べているのですがまだ今のところそうした記事は見つけていないのですがね」
アルベルトは何としてもナナイロマダラを捕まえたいのだと目を輝かせ話した。その趣味に対する熱意にハイデマリーは感心した。
「この建物とアルベルト様のコレクションを拝見して本当に蝶や蛾がお好きな方だというのが分かりましたわ。それに標本を紹介するアルベルト様がとても楽しそうですから標本を見ていても嫌な気分にならずに済みますわ」
「あはは、そう言ってもらえて嬉しいです」
(うーむアルベルト君に婚約者が出来たというだけでも驚きじゃがまさか相手も蝶や蛾に興味があるご令嬢とは予想外じゃったわい。ワシとしては友人が気の合うご令嬢と婚約出来た事は祝福すべきじゃろうが陛下の事を考えると……ん?)
良いムードの二人をヴェンツェルは傍で見ながら内心で驚きと懸念を呟いているとふと作業用の机に視線を向けるとそこには展翅板で乾燥中のヒメミコクジャクヤママユの姿があった。
「アルベルト君、この展翅板に固定してある蛾はヒメミコクジャクヤママユかね?」
「ん?そうですよヨゼフさん。よく分かりましたね!昨日この研究室のある森で捕まえたんです!」
「クジャクヤママユ類はコレクター人気が高い蛾じゃからのう。ワシも全種類持っておるぞい」
「えっ、クジャクヤママユ……」
ヴェンツェルとアルベルトがクジャクヤママユの事で盛り上がる一方でハイデマリーは何故か再び表情が曇った。
「どうしましたハイデマリーさん?」
「いえ……何でもありませんわ」
「そうですか?なら良いですけど。そうだヨゼフさん!ハイデマリーさん!せっかくですから前に僕が採集したテイオウクジャクヤママユの標本をご覧になりますか?」
「おお良いのかね。ボナヴィアでは珍しい蛾じゃから運良く見つけると嬉しくなるんじゃよ」
「分かりますよその気持ち!僕も毎年出会えるのを楽しみにしているんですよね。えーと確かここに標本があったはず……あぁ!?」
標本棚からテイオウクジャクヤママユの標本を探していたアルベルトだったが急に大きな声で悲鳴を上げた。
「どうしたのかねアルベルト君!?」
「標本が……テイオウクジャクヤママユが虫に食べられてボロボロに……」
「何と!それは……」
標本が虫に食べられていたと聞いてヴェンツェルは絶句した。アルベルトも虫に食われ翅も胴体もボロボロになってしまったテイオウクジャクヤママユを見つめ悲観に暮れる。
「保存をしっかりしていた筈なのにどこから入ったんだろう……ぐすん」
「アルベルト様。どうか元気をお出しになって……!?」
落ち込み涙目になるアルベルトにハイデマリーが寄り添い励まそうとする。ところがその時ボロボロになった蛾の標本を見てしまい途端にある記憶がフラッシュバックした。
(そうかそうか!つまりお前はそういう女だったんだな!)
(婚約破棄なぞされおって役立たずが!)
(今日からエミール様は私の婚約者。残念でしたわねお姉様?クスクス……)
「うっ!ううぅ……」
「ハイデマリーさん!?大丈夫ですか!」
「何じゃ!?一体どうしたのかね!」
「お嬢様!!!」
「ハイデマリー様!!!」
ハイデマリーは嫌な記憶が脳内に蘇りその精神的ショックから胸を押さえ過呼吸発作を起こした。アルベルトを始め周囲の者達が一斉に駆け寄りその場にしゃがみ込んでしまったハイデマリーの体を支える。
「お嬢様!!!どうか呼吸をゆっくりなさいませ!私達が支えておりますから!」
ヘルマンは苦しそうなハイデマリーの傍でそう言葉を掛けた。ハイデマリーもそれに応えて一生懸命息をコントロールしようとする。アルベルトを始め周りの者達も辛そうなハイデマリーを支え励ましたが過呼吸が収まるまでは十分を要した。
★★★
「どうにか落ち着いて良かったです。一時はどうなるかと思いましたよ」
「ハァ……ハァ……ご迷惑をお掛けしましたわ」
アルベルトは過呼吸状態から落ち着いたハイデマリーをソファーに座らせ自身もその隣に座った。
「しかし尋常ではない状態じゃったぞい。一体何が原因なのかね」
「そっ、それは……」
「もしかして蝶や蛾の標本集めをやめた事と何か関係があるの?」
アルベルトは症状が趣味をやめたのと関係あるのか尋ねるとハイデマリーは図星だったか静かに頷いた。
「そっか……ごめんねハイデマリーさん。ここに連れて来たばっかりに」
「良いのですわ。私が見に行きたいと言ったのですから……それにまさかバラバラになったクジャクヤママユを見る事になるとは思わなくて……」
「実はお嬢様はクジャクヤママユに対して特にトラウマがあるのです。流石に過呼吸になったのは今回が初めてですが」
「そうだったのですね……」
クジャクヤママユにトラウマがあった事を知りアルベルトは益々申し訳ない気持ちになった。
「ねぇヘルマン……私アルベルト様にお話しするわ。趣味をやめた理由を」
「えっ!?よろしいのですかお嬢様!」
「えぇ。こんなご迷惑までかけたのに頑なに隠し続けるのは何だか忍びないから」
「はっ、はぁ……」
ハイデマリーは過呼吸になった事で周囲に迷惑をかけた事を悪く思い自身が蝶や蛾の趣味をやめた理由をアルベルトに話す事に決めた。
「大丈夫ですかハイデマリーさん。また気分が悪くなったら無理しなくて良いですからね」
「お気遣い感謝致しますわ……私がそもそも蝶や蛾が好きになったのはお祖父様の影響なのですわ」
「お祖父様のですか?」
気遣うアルベルトに感謝したハイデマリーはまず自身が蝶や蛾の趣味を好きになった経緯から話し始めた。
「お祖父様はモーア伯爵家の前当主で筋金入りの蝶や蛾の収集家でしたの。ですから隠居後に住んでおられた離れにはこの研究室と同じくらい沢山の標本が収められていましたわ。実は私のお母様は結婚当初から浮気性のお父様と折り合いが悪くて幼い私を祖父母に預けたまま行方不明になったのですわ。けれどお祖父様はそんな私を離れで大切に育ててくださりまた沢山の蝶や蛾を見せてくださいましたわ。それで蝶や蛾が好きになりましたの」
「そうなんですね。僕も亡くなった母上の影響で蝶や蛾が好きになったのですがやっぱり家族の影響というのは大きいものですね」
アルベルトはハイデマリーが蝶好きになった理由に自身の過去を照らし合わせて頷いた。
「アルベルト様もご家族がきっかけですのね。私はそのお祖父様を通じて以前の婚約者であるエミール様と出会いましたの。エミール様はバーデンベルクの宰相家のご子息で容姿端麗で頭脳明晰と模範的なご令息でしたわ。そして何より私と同じく蝶や蛾がお好きで顔合わせの時はお互いに好きな蝶や蛾の事で盛り上がりましたわ。とても楽しい時間でした……」
「へぇ。以前の婚約者さんも同じ趣味だったのですか」
ハイデマリーは自身の前の婚約者も自身と同じ蝶や蛾が好きな人物であった事を遠い目をしながら語った。するとアルベルトはふと気になった事を聞いた。
「あの、僕ハイデマリーさんが婚約破棄されたと聞いたのですが今のお話だと以前の婚約者さんとは趣味も同じで気が合っていたのですよね?何故破棄なんて事になったのですか?」
「確かにエミール様とは最初の頃は仲良しでしたわ。祖父母が亡くなってお父様が再婚する事になるまでは……」
「えっ!お祖父様はお亡くなりになったのですか!?」
「えぇ。私が七歳の時にお祖父様はお祖母様とモルフォチョウを探す為にフォルディア大陸中部のバルボアナという国へ旅行に行きましたの。でもそこで熱帯病に罹ってしまい亡くなりましたわ……」
「……」
ハイデマリーから聞かされた悲しい事実にアルベルトは言葉を失う。
「……祖父母が亡くなった後私は離れから母屋に移りそれから半年程してからお父様はある男爵家出身だと言う愛人と再婚しましたの。義母となったその方にはメラニーという腹違いの妹だという娘がいて一緒に暮らす事になりましたわ。そこからが……私の辛い日々の始まりでしたわ。そしてその辛い日々が蝶や蛾の趣味をやめた理由と深く関係していますの……」
(お知らせ)
・前話の題名を一部変更しました。
・次回更新予定:13日(7日変更)