蝶好き令息の婚約騒動①
「これで完成と……後は乾くのを待つだけだ」
貢ぎ物対決から数週間経ち夏も盛りを過ぎたある日の朝、アルベルトは屋敷裏にある研究室内で趣味の蝶や蛾の標本作りを一人黙々としていた。採集した後処理した蝶や蛾を展翅板と呼ばれる二枚の木の板の上で翅を広げた状態にし標本用のピンとパラフィン紙で固定し乾燥させる。繊細な蝶や蛾の体に気をつけながら翅が左右対称となるようピンセットなどを使って整え乾燥後に標本箱に入れるのだ。綺麗に見えるよう気を遣う必要があるので中々集中力がいる作業でアルベルトはそれがたった今終わりホッとした表情を浮かべる。
「いやぁ落ち着いた色合いと目玉模様が面白くて良いなぁクジャクヤママユの仲間は。特にこのヒメミコクジャクヤママユは翅に桃色が混ざっているのがおしゃれで可愛いんだよなぁ。昨日の夜ライトトラップに来た時は興奮して飛び跳ねたよ」
アルベルトは独自の感性で展翅板に固定しているヒメミコクジャクヤママユという蛾を愛おしそうに見つめる。
「近縁種のテイオウクジャクヤママユも翅が大きくて貫禄があって好きなんだよねぇ。流石ユーロッパ最大の蛾だね。ただ数が少ないから今年はまだ出会えていないんだよなぁ……ふわぁ……殆ど寝ていないから眠いなぁ」
「アルベルト様、中にいらっしゃいますか?」
「?」
アルベルトがクジャクヤママユの仲間について呟いていたその時ノックの音と共にアンナの声が聞こえて来た。何の用か気になったアルベルトはドアを開けて要件を聞く。
「どうしたのアンナ?僕に何か用?」
「何か用じゃありませんよ。朝食のお時間です」
「あっ、そうだった!夜更かしして標本作りをしていたから時間を忘れていたよ!」
「既に用意が出来ていますし旦那様もお待ちです。それとその旦那様がアルベルト様に重要なお話があると仰っておりましたよ」
「えっ?一体何の話だろう?」
アルベルトは重要な話とは何であろうかと首を傾げつつもアンナと共に屋敷へと戻り支度をしてから食堂へと向かった。食堂内では父親フランクが朝食の皿を前に腕を組みながら待っていた。
「来たかアルベルト、これから朝食だがその前に話がある」
「父上、また領主の仕事全部やれとかはやめてくださいよ」
「やかましい!!!ワシが話し始める前に勝手に予想するな!そんな事よりずっと重大な事だ!」
「はぁ……」
フランクは自分が言おうとした事を勝手に予想したアルベルトを机を叩き怒鳴りつけた後改めて本題を話し始める。
「いいかアルベルト。正午に隣国から一人のご令嬢が我が屋敷にやって来る」
「そっ、そうなんですか……」
「お前にはその娘と結婚してもらう」
「はぁ……結婚ですか……」
アルベルトはフランクから結婚しろと言われてとぼけたように返事を返す。しかしその数秒後アルベルトは目を見開き傍に控えていたアンナと共に屋敷中に響く大声を上げた。
「「けっ、結婚んんーーっっ!?!?」」
大声にフランクは耳を塞ぎしかめっ面をする。そして二人に対し怒鳴りつけた。
「うるさいわ二人共!!!ワシの鼓膜が破れるだろうが!!!」
「あっ、すっすみません旦那様!」
「すいません父上!でも何で事前に僕に伝えてくれないんですか!」
「事前に伝えたらお前が反発するに決まっているだろ!今回はワシの古い友人の頼みである手前断れんのだ!ワシだって傷物の娘なぞと結婚させたくはないのだがな!」
「えっ、傷物?どういう事ですか?」
アルベルトはフランクの言葉の意味が気になり尋ねるとフランクは今に至るまでの経緯を話し始めた。
「そのご令嬢はヴィルクセン帝国の領邦であるバーデンベルク王国の貴族モーア伯爵家の長女だ。今年の春頃まで王国の宰相令息と婚約していたんだが相手が婚約を破棄して代わりに次女を新たな婚約者に選んだらしい」
「えぇ!?そんな事があるんですか!」
「婚約破棄なんて小説でしか見た事ないのに……本当にあるのねそんな事」
アルベルトとアンナは相手が婚約破棄された令嬢であると知り手に口をあてて驚く。
「当主であるモーア伯爵はワシが外務大臣だった頃からの知り合いで骨董仲間だ。一週間前に久々に手紙が来たのだが傷物になり新たな婚約者が見つからない娘を家から出したいからこの際ワシの後妻にどうかと提案されてな」
「はぁ……」
「ワシは死んだ妻以外を愛する気はない。だが丁度我が家にはお前といういい歳こいて婚約せず蝶や蛾の趣味に耽るバカ息子がいる。この際傷物でも良いから結婚させて近い将来領主を継ぐ者としての自覚を持たせるべきだと考えて引き受けたんだ。いいか!これは重要な婚姻だ!お前に拒否権はないからな!」
フランクは経緯を話し終えた後拒否権はないとアルベルトに持っていたカトラリーのナイフの先を向け厳しい言葉をかけた。当然アルベルトは不満そうな顔をしてフランクに文句をたれる。
「そんな事言われても僕これまで趣味のせいで婚約が続かなかったんですよ。そのご令嬢も僕の趣味を知ったら嫌がるかもしれないじゃないですか」
「だから蝶や蛾の採集なんぞやめてもっと貴族らしい優雅な趣味を作れと前から言っていただろうが!陛下に言われている手前もうワシから無理にやめさせられんが……」
「?」
「とにかく嫌われようが何だろうがその娘と結婚しろ!数日後には式も挙げるからな!そして初夜も成功させて跡継ぎもしっかり作るんだ!もし娘が嫌がって逃げでもしたら次の婚約が決まるまで屋敷から一歩も外に出さんぞ!!!」
「そんなぁ!?それはあんまりです父上!」
「黙れバカ息子!!!これは決定事項だぁ!!!」
文句を垂れるアルベルトをフランクは怒りながら強引に黙らせる。こうしてアルベルトは午後に嫁いでくる伯爵令嬢と強制的に結婚させられる事になってしまった。なおその時主人アルベルトを慕うアンナの内心は相当に荒れていたのは言うまでもない……
(嘘でしょう……アルベルト様が結婚だなんて!何で今日までもっと積極的にアルベルト様にアプローチしなかったのよ!私のバカバカバカ!!!しかも相手は婚約破棄された可哀そうなご令嬢じゃない!優しいアルベルト様に惹かれない訳ないわ!どうしよう……)
★★★
朝食が終わると早速アルベルトは婚約する娘と顔合わせをする為正装に着替えたり髪を整えたりなど忙しく準備をした。そして約束の正午になり門前でフランクやアンナと共に相手の到着を待っているとまもなく一台の馬車が停まり一人の令嬢が黒髪の執事の青年と共に降りて来た。令嬢は待っていたアルベルト達にカーテシーで挨拶をする。
「お初にお目にかかります。ハイデマリー・フォン・モーアと申します。わざわざ門前までのお出迎え痛み入りますわ」
軽くウェーブのかかった長い亜麻色の髪にアイスブルーの瞳と控えめな色のドレスのハイデマリーであるがアルベルトはその優雅なカーテシーや流暢なボナヴィア語から良い教育を受けて来たのだろうと想像した。
「おいアルベルト!ぼさっとしとらんで挨拶せんか!」
「あっ、すみません!初めまして!アルベルト・カール・フォン・ベルンシュタインです!遠路はるばるようこそお越しくだしゃ、くださいましたハイデマリーさん!」
「何大事なところで噛んどるんだバカ息子!」
「すいません父上!」
アルベルトのぎこちない挨拶が済むとフランクは大きく咳払いして自身の挨拶を始める。
「ごっほん!バカ息子、いやアルベルトが失礼したな!ワシがこのベルンシュタイン伯爵家の現当主であるフランクだ!上等なお菓子を用意してあるので応接間まで案内しよう!ガッハッハ!」
フランクに案内されハイデマリーとアルベルトは既にお菓子のケーキなどが用意された応接間まで向かった。そしてフランクは三人分のコーヒーを用意させると自身も席に座った。
「いやはやハイデマリー嬢の事はお父上から聞いていますぞ!王立学園でも成績優秀で淑女らしい上品さも備えた素晴らしい娘であると!出来損ないの息子の嫁にはもったいないくらいですなぁ!容姿も整っていて若い頃の亡き妻にそっくりだ!」
「ちょっと父上!」
「……恐れ入りますわ」
フランクはハイデマリーの事を自身の息子を貶めつつ評価するとハイデマリーは実に淑女らしく穏やかに表情を崩さず返事を返した。
「ボナヴィアに来たのはおそらく初めてでしょう!そのケーキの材料も大半がボナヴィア産ですがお口に合いますかな?」
「はい、とても美味しいですわ」
「ガッハッハッハ!なら良かった!おい!ワシにばかり喋らせとらんでお前も何か話せ!お前の嫁になる娘だろうが!」
「そうは言っても初対面の女性と何を話していいか分からないですよ……」
「結婚相手と碌に会話も出来んでどうする!!!趣味は何ですかでも良いからとにかく話題を考えろ!」
フランクはさっきから会話に困り黙っている息子にハイデマリーと積極的に話をするように強く促す。アルベルトはとりあえずフランクの言った通り趣味についてを聞く事にした。
「あっ、あのハイデマリーさん。ご趣味は何ですか?」
「趣味ですか……お菓子作りや手芸など手先を使う事が好きですわ。それと前は蝶や蛾の標本を集めたり作る事も好きでしたわ」
「「えっ!?」」
ハイデマリーが蝶や蛾の趣味を持っていた事にアルベルトとフランクの親子は目を見開き驚いた。前者は自分と同じ趣味である事に、後者は貴族らしくないと思っている趣味を持っている事に驚いたのだ。
「いっ、いやぁ蝶や蛾の収集を趣味にされるご令嬢とは珍しい!いや貴族でも珍しいですな!」
「女性としては珍しいですけれど貴族としては珍しくないと思いますわ。ボナヴィアではどうか存じませんけれど神聖帝国では蝶や蛾のコレクターの貴族は少なくありませんわ」
「そっ、そうですか。ハハハ……」
「ハイデマリーさん!実は僕も蝶や蛾を採集して観察したり標本を集めたりするのが趣味なんです!」
「そっ、そうですの……」
フランクが隣国との貴族文化の違いに戸惑う一方アルベルトは話す話題に困っていた先ほどから一転して目を輝かせ自身も蝶や蛾が好きである事を告白する。ハイデマリーは同じ趣味と聞いて面食らったような顔になる
「でもボナヴィアの貴族社会ではあまり一般的な趣味ではなくて寧ろこの趣味が原因で婚約も決まらなかったんです!いやぁ嬉しいなぁ!まさか同じ趣味の女性と出会えるなんて!あっ、折角なのでこの後僕の標本コレクションをお見せしますね!それから……」
アルベルトは自分と同じ趣味の令嬢が嫁いできた事に喜びを露わにする。傍に控えるアンナはそんなアルベルトを複雑そうに見ていた。一方相手のハイデマリーとその従者は何故か浮かない表情をしている。
「どうされました?ハイデマリーさん?」
「恐れながらアルベルト様、お嬢様が先ほどおっしゃられたように蝶や蛾の趣味に熱中しておられたのは過去の事でして……現在は蝶や蛾の標本集めはやめておられるのです」
「えぇっ!?」
アルベルトはハイデマリーが蝶や蛾の趣味を既にやめている事を従者から改めて聞かされた事で再び驚いた。
「どっ、どうしてやめたのですか?」
「申し訳ありませんがその理由もお話しする訳には……今のお嬢様は蝶や蛾の標本を見るだけでもご気分を害するほどでして」
「そうなんですか……ところであなたは?」
「失礼。私ハイデマリー様の執事でヘルマンと申します」
ハイデマリーの従者ヘルマンは主人の気持ちを考え主人が蝶や蛾の趣味をやめた理由は話さなかった。話を聞いたアルベルトは趣味が共有出来ない事にショックを隠せない。
「そっかぁ……趣味が共有出来る女性で良かったと思ったんだけれど……勝手に盛り上がってバカみたい。ごめんなさいハイデマリーさん」
「いえ……」
アルベルトは謝ると残念そうな顔でシュンと俯いた。
「……アルベルト様、よろしければコレクションを見せて頂けませんか?」
「えっ?」
「お嬢様よろしいのですか?あいつら、いやあの方々を思い出すからやめると仰っておられましたよね?」
「良いのよヘルマン。アルベルト様に期待させておきながら残念な気持ちにさせてしまったのが申し訳なくなったの。それに興味が完全になくなった訳ではないからどんな蝶や蛾を集めておられるか純粋に気になるわ」
ハイデマリーは落ち込んだアルベルトを見て申し訳なくなったようで昼食後にアルベルトの標本コレクションを見せてもらう事に決めた。尚その様子をフランクやアンナがそれぞれ違う理由から微妙な表情をして見ていたのは言うまでもない。
「あれヨゼフさん?どうして畑に?」
父フランクを除いた一同を連れて屋敷裏の研究室に来たアルベルトは畑の近くで麦わら帽子に農民姿のヴェンツェルの姿を見つけた。
「おぉアルベルト君。いや今日は予定していた午前の仕事が早く終わったので約束より一時間早めに来たのじゃよ」
「そうだったのですね。約束より早く来られていたんでびっくりしましたよ」
「そういう君こそ今日一日研究室や畑におると言っておったのにおらんかったではないか。それに随分綺麗な服に着替えておるが……おや?そちらの娘さんは誰かね?」
ヴェンツェルは自身が予定より早く遊びに来た理由を話した後傍にいたハイデマリーの事が気になり尋ねる。
「あぁ。彼女はハイデマリーさんと言って僕と婚約する事になった方です。今日嫁いで来たので僕もお屋敷で挨拶をしていたんです」
「ほほぅアルベルト君の婚約者かね。それはそれは……」
アルベルトがハイデマリーを婚約者として紹介するとヴェンツェルはなるほどと頷く。しかし数秒後……
「婚約者じゃとおぉ!?」
ヴェンツェルは結婚するよう言われたアルベルトと同じように目を見開き大声を上げて驚いた。
(お知らせ)
・次回更新予定:2月4日




