蝶の怪盗現る③
「お前のせいでマリーヌの婚約は破談になったのだクラリス!すぐにこの屋敷を出ていけ!!!」
八年前のガロワ共和国の首都パリス。その一角のある屋敷では主人の男がメイドの姿をした金髪紫目の少女を叩き激しく罵倒していた。
「相手は由緒ある公爵家の令息なのだぞ!せっかく我が商会が貴族達と繋がりを持てる機会だったのに!」
「だから言ったのよあなた。こんな薄汚い子は捨ててお義兄様夫婦の商会と遺産だけをもらい受けましょうって」
憤る主人に横にいた夫人が口元を扇子で覆いながらそう言ってクラリスと呼ばれたメイドに冷ややかな視線を向けた。横ではその娘らしき少女が歪んだ笑みを浮かべてクラリスを見ている。
(私はその公爵令息様に襲われそうになったのに皆私を悪者にするのね……お父様、お母様、どうして先に死んでしまったの……)
クラリスは腫れた頬に手を当てながらポロポロと涙を零した。クラリスはメイドの姿をしているが元は屋敷の主人の兄の子供であった。兄夫婦は大きな商会を営んでいたがその両親はクラリスが八歳の時に事故で亡くなった。その後クラリスは叔父にあたる弟夫婦に引き取られたが遺産と商会の運営権目当ての弟夫婦は愛情を向ける事はなく使用人扱いし更に実の娘と共に今日まで虐げてきたのだ。
「クラリスが両性具有者なのがいけないのですわ!だからエドガー様が気持ち悪がってお怒りになったのです!こんな家畜以下の女は早く追い出すべきですわ!」
弟夫婦の娘はクラリスを追い出すように父親である屋敷の主人に強く訴える。実はクラリスが弟夫婦に受け入れられなかったのは男女両方の特性を持つ両性具有者であった事も関係していた。クラリスは生まれつき下半身が男性で上半身が女性という特異な体質であり成長するに従い乳房と男性器を同時に持ち体つきは中性的になった。古代では原初の人間の姿として崇拝の対象にもなった体質だが近代ユーロッパにおいては差別の対象になっていた。クラリスはこの体質によって弟夫婦から差別されていたのだ。それでもメイドとして屋敷に置かれていたがある日屋敷で開かれたパーティーで娘の婚約者である公爵令息エドガーに襲われ部屋に連れ込まれた。その際咄嗟に自身が両性具有である事を打ち明けるとエドガーは怒りあのメイドがいる限り娘と婚約しないと宣言したのである。
(私が両性具有者でも実の両親は愛してくれたのに……どうしてこの家では私の居場所がないの)
「何をぼさっとしている!早く家を出ていけと言っているんだ!使用人として置いてやったのに恩を仇で返しやがって!」
屋敷の主人は床にへたり込み動かないままのクラリスに怒り早く出ていくように改めて要求する。そうしてクラリスは義理の家族から最後まで愛される事なく屋敷を後にした。しかしただで屋敷を出ていった訳ではなかった。
「お父様!私のイヤリングとネックレスがなくなっていますわ!」
「あなた!私の指輪と宝石も!」
「おのれクラリスの仕業だな!警察に被害届を出してガロワ中に指名手配してもらおう!」
クラリスは出ていく時娘と義母から秘かに金品を奪い逃げたのだ。屋敷の主人は怒り狂い被害届を出した。一方クラリスも自分が追われる身になった事を自覚し少年の姿に変装して警察から逃れつつ奪った金品を少しずつ売って国中を移動していた。しかし金品もやがて底をつき水も食料も確保できなくなったクラリスはやがて南ガロワのプロヴァンヌ地方の田舎に流れ着き畑近くに生える木に力なくもたれていた。
「あぁ私はここで尽き果てるのね……お母様、お父様、今そちらに行きます……」
クラリスは自身の死期を覚り少しずつ目を瞑った。するとふいに近くの藪がガサガサと動き一人の栗色の短髪と琥珀色の瞳の少年が姿を現した。
「!?ねぇ君!大丈夫!?」
「……?あなたは?」
「うわっすごい熱!父上とお祖父様に伝えてお屋敷に運ばなくちゃ!」
「あっ!ちょっと……」
少年はそう言うと再び藪の中に消えた。しばらくして屋敷の使用人が数名現れてクラリスを屋敷まで運んだ。クラリスは侍医から診察を受けたがこの時はまだ両性具有者とはバレなかった。
「栄養失調と疲労が深刻なようですな。しばらくお屋敷で療養させた方が良いでしょう」
侍医はクラリスの診断を少年とその家族に伝えた。すると家族の内の小太りの男が少年に対して怒りを露わにした。
「アルベルト!全くお前という奴は小汚い野ネズミを家に持ち込みおって!」
「父上、なんて事を言うんですか!」
「うるさい!こんな素性も知らん貧乏人を屋敷に置いておけるか!」
少年をアルベルトと呼んだ男はそう激しく叱責する。。すると横にいた白髪で細身の老紳士が小太りの男を大声で怒鳴った。
「フランク!!!お前にはこの子を助けてやろうとした孫の優しさが分からんのかこの大馬鹿息子が!」
「うっ、お父上……!」
「何て冷たいのフランク!私はそんな子に育てた覚えはないわよ!ごめんなさいねぇ、フランクがあなたに失礼な事を言ってねぇ」
老紳士に続いてやや小太りで銀髪のマダムがそう男を叱ると目の前のベッドにいるクラリスに謝罪した。
「いえ……あの失礼ですけれどあなた達は?」
「おぉ紹介を忘れておった。ワシらはベルンシュタイン公爵家の者だ。ボナヴィアという国の貴族なのだがこのプロヴァンヌの別荘に遊びに来ていてな。君を見つけたのが孫のアルベルトだ。この国ではアルベールだな」
「アルベール……」
「そしてこいつがその父親でワシの愚息フランク、ワシはエメリッヒで妻のフランツィスカだ。今この場にはおらんがもう一人孫にエルンストがおる。アルベルトの兄だ」
老紳士はクラリスに自分達の身分と家族を丁寧に紹介した。
「それで君の名前は?どうして行き倒れていたのかね?」
「そっ、それは……」
名前と農地の木の下にいた理由を尋ねられたクラリスは追われている身である事を知られたくなくて口ごもった。それを見て何か言えない事情があるのではと察したフランツィスカはクラリスを気遣った。
「行き倒れた理由は無理に言わなくていいわ。でもお名前だけは教えてくれないかしら?」
「クラリス……です」
「クラリスというのね。見たところアルベルトやエルンストと同じお年頃みたいだから元気になったら二人と遊んであげてくれないかしら?」
「えっ、はっはい……」
クラリスはフランツィスカに返事をするとアルベルトに視線を向ける。アルベルトはクラリスに対して柔和な笑みを浮かべた。この少年こそ当時まだ十代の主人公アルベルトでありそして保護されたクラリスは後に快盗パピヨンとなる人物であった。
★★★
二日後、元気になったクラリスは夫人に言われた通りアルベルトやエルンストの遊び相手をした。初夏の暖かい日差しの下別荘の庭でかくれんぼをしたり花壇に来る蝶を採集したりしてこれまで義理の家族に冷遇されてきたクラリスには考えられないほどの充実した時を過ごした。クラリスと仲良くなったアルベルトは自分の部屋に呼んで蝶や蛾の標本コレクションを見せた。
「すごい……これ全部あなたが採集した蝶なの?」
「うん!皆僕が捕まえて標本にしたんだ。好きに見てくれていいよ」
「ありがとうアルベール、どれも綺麗ね。この蝶は何ていうの?」
「ユーロッパタイマイだよ。ガロワでも見られるアゲハ蝶の仲間さ」
「こっちは?」
「ヒノコシジミだよ。火の魔力をもった蝶でこれもガロワで見られるよ」
「すごい詳しいねアルベール!将来昆虫学者になれるね!」
「あはは、だといいなぁ」
標本を自慢出来て満足げなアルベルトと共にクラリスは標本を眺めていた。するとその中に一つ気になる蝶の標本を見つけた。
「あら?この蝶々おかしくない?」
「えっ?どうしたの?」
「だって片方の翅が青くてもう片方は茶色いのよ。不思議な蝶ね」
クラリスがそう指摘して指を指したのはシジミチョウの一種の標本であった。右翅が水色の美しい翅であるのに対し左側は茶色く質素な色合いをしていた。
「それはボナヴィアツバメシジミの雌雄モザイクだよ。体半分が雄でもう半分が雌っていう珍しい個体なんだ」
「えっ!?」
「蝶や蛾みたいな昆虫の世界には稀にあるみたいだよ。甲殻類や鳥にもあるそうだけれど人間はどうなんだろうね。聞いた事ないなぁ」
アルベルトは標本が雌雄モザイクの蝶である事を教えるとクラリスは驚いた表情をして改めて標本を見つめ自らの体質と心の中で重ねた。
(まさか蝶にも私みたいに違う性別が一緒になっているのがいるなんて……)
「どうしたのクラリス?まだ気になる事があるの?」
「えっ?ううん何でもないの」
雌雄モザイクの標本を食い入るように眺めていたクラリスはアルベルトの声かけにハッと我に返る。しばらく複雑な表情で黙った後アルベルトに恐る恐る質問を投げかけた。
「……アルベール。もし人間に雌雄モザイクみたいのがいたらアルベールは気持ち悪い?」
「えっ?」
「性別がはっきりしない人間がいたらアルベールは嫌かな……」
クラリスは次に来るアルベルトの返事が怖く俯いたまま肩を震わせる。しかしアルベルトの口からは差別の言葉が出る事はなかった。
「何で気持ち悪いの?性別が曖昧でも同じ人間じゃないか」
「……!」
「その人が嫌かどうかはその人の振る舞い次第だと僕は思うよ。性別なんか関係ないよ」
アルベルトの放った言葉にクラリスは目を見開いた。義理の家族から人として扱われず虐げられてきたクラリスには同じ人間として扱ってくれるアルベルトの言葉が深く心に刺さったのだ。そして感極まる気持ちを抑えきれず大粒の涙を流し始めた。
「!?どうしたのクラリス!僕何か悪い事言っちゃった?」
「ぐすっ……ひぐっ……違うのアルベール……私嬉しいの……」
「嬉しい?どういう事?」
「私ね……その蝶々みたいに男と女両方入った体をしているの……でもそれでずっといじめられてきて……でもアルベールは私を人間として見てくれたから……」
「そうなんだね……落ち着いて話して大丈夫だよクラリス」
アルベルトはクラリスの手を取って気持ちを落ち着かせた。クラリスはそのまま自分の生い立ちや家から逃げて来た訳を全て話した。
「黙っていてごめんなさい……あなたや家族に知られるのが怖くて私……!?」
クラリスはこれまで自分の事情を黙っていた事をアルベルトに詫びた。するとアルベルトはそんなクラリスを優しく抱擁して気持ちに寄り添った。
「辛かったね、怖かったね、話してくれてありがとうクラリス」
「アルベール……!」
「僕も母上を亡くしたから親のいない寂しさが分かるよ。その上義理の家族にいじめられるなんて……もう大丈夫だよ。僕は君の味方だからね」
アルベルトから優しい慰めの言葉を掛けられたクラリスは感情が抑えられなくなり目から堰を切ったように沢山の涙が溢れ出した。そうしてしばらく泣いていたクラリスだったがアルベルトはふと思い立ったようにクラリスを外に誘った。
「クラリス、外に出ない?君に見せたいものがあるんだ」
「ぐずっ……でも……」
「大丈夫、田舎だからクラリスが指名手配されているなんて誰も分からないさ」
アルベルトはそう言うとクラリスの手を引っ張り屋敷の外へ連れ出した。田舎道を歩き放牧場を抜け森を越えた先には南方大陸とユーロッパを隔てる紺碧の内陸海を臨むラベンダーの花が咲く丘であった。
「ここは……」
「僕がラベンダーの丘って呼んでいる場所さ。地元の方がラベンダーの種を蒔いて育てているんだ。よくここに蝶や蛾を取りに来ているんだよ」
「そうなのね……でも何で私をここに?」
クラリスは美しい紫のラベンダーに見とれつつアルベルトに連れて来た訳を尋ねる。
「君を慰めてあげたかったんだ。お気に入りの場所だからあまり人に教えたくないけれど君が笑顔に戻るのなら何回でも連れてくるよ」
アルベルトはクラリスにそう語って微笑んだ。すると花畑で舞っていた蝶達がアルベルト達の周りに集まり一部はクラリスの肩や手に止まった。
「あはは、蝶達もクラリスを歓迎してくれているみたい。今君に止まっているのはユーロッパヤマキチョウとヒノコシジミだよ」
「翅の色がとっても綺麗ね……フフ……」
「あっ、笑顔が戻ったね!良かったぁ」
「フフフ……ありがとうアルベルト。ここに連れてきてくれて」
アルベルトは美しい蝶に表情を綻ばせたクラリスを見て安堵した。そして蝶が体中にとまったお互いの様子を見て笑いあった。そんな二人を内陸海の暖かい潮風と夕日が優しく包み込んでいた。
「そうなのね。あの子にはそんな事情が」
「かわいそうなクラリス……」
「全く厄介な小僧を別荘に連れてきおって!」
「お前は黙っとれフランク!どうにかしてあの子は迫害から守ってやらんとな。しかしどうすれば良いものか……」
その夜アルベルトはクラリスの事情を家族に話した。フランク以外の家族は皆理解を示しその上で今後どう守ってあげるかを協議した。しかし翌朝、アルベルトはクラリスが屋敷にいない事に気づく。
「クラリス!どこ行ったのクラリス!……これは……置手紙?」
アルベルトはクラリスが寝ていた一階の部屋の開いた窓の近くに羽ペンと手紙が残されている事に気づく。そこには泊めてもらった一家への感謝やこれ以上迷惑はかけられないという趣旨の内容が書き記されていた。そして手紙の最後にはこのように結ばれていた。
「君に貰った愛を生涯忘れない。いつか必ず恩返しに行くから。大好きだよアルベール」
(お知らせ)
次回更新予定:25日




